日本の政治と教育の基盤を作った但馬人

東大初代総理 加藤 弘之
天保7年6月23日生まれ。ドイツ文学の先駆者。幕府政治の改革を唱え、近代政治の基盤をつくりました。
日本で最初の博士号を取得。東京大学初代綜理をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。
文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官。
初代東京大学総長 1836年~1916年

出石藩主、兵学師範の家に生まれる。弘道館に学び17歳の時父親と共に出府。「書物も自分で書き写さなければならぬ」と、貧困と戦いながら勉学に励んだ。
特にドイツ学を極め、明治三年から八年まで明治天皇の進講役を務め、欧米の政体制度やドイツ語の講議をおこなっている。福沢諭吉とも親しかったが、好対照に幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになり、「政府はまず学校を多く建て、人材を育成して議会をつくるにふさわしい文明国にしなければならない」と、日本の大学制度の基礎づくりに貢献した。
1881年(明治14)、帝国大学の初代総長に就任。また官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥として頂点を極めた。
浜尾 新(はまお あらた)
江戸詰めの豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として生まれる。
1869年: 藩費遊学制度により慶應義塾および大学南校に学ぶ。
1872年(明治5年): 文部省に出仕、大学南校の中監事となる。
1873年(明治6年) – 1874年(明治7年): ヨーロッパに留学。
1874年(明治7年): 開成学校校長心得
1877年(明治10年)4月: 東京大学創立にあたり、法理文三学部綜理補として同郷の法理文3学部綜理(のちに東京大学総理)加藤弘之を補佐。1885年(明治18年): 学術制度取調のためヨーロッパに派遣される。東京美術大学(現芸大)を創立に際し、校長を拝命。幹事は岡倉天心。
1890年(明治23年): 文部省専門学務局長として、東京農林学校(農商務省主管)の帝国大学への合併を推進。東京大学第三代総長として東京大学のために尽くした。
1897年(明治30年)11月6日:蜂須賀茂韶に代わり第2次松方内閣の文部大臣となる。
1905年(明治38年)12月:東京帝国大学の第8代総長となる。
1924年(大正13年)1月13日: 枢密院議長。
1925年(大正14年)9月25日:東京府(現在の東京都)で死去。
彼の故郷中村の地に記念館として静思堂が建てられています。伊福部神社向かい。
天気予報の創始者 桜井 勉
天保14年9月13日生まれ。博学多才の行政家。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」著者・・・但馬郷土史研究の基礎。地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも大久保利通への桜井勉の進言によるといわれています。天気予報の創始者 1843年~1931年
出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。
一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天気予報の創始者で、測候所を設立しました。
晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。

憲政の神様 斎藤隆夫

兵庫県豊岡市出石町中村生まれ
明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。
明治27年(1894)7月、早稲田専門学校(今の早稲田大学)の首席優等で卒業。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。
明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
42歳で衆議院議員となり、「憲政の神様」といわれ、2.26事件直後の粛軍演説で有名。
斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。
その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説があり、
その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。

卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。

支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、  「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。 この事変の目的はどこにあるかわからない。」の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田茂内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。

1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(のち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。

『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。

  
明治館(旧郡役所)
館内では桜井勉をはじめ、出石の偉人展を常設しています。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

新島八重と川崎尚之助

NHK歴史秘話ヒストリア
「悪妻伝説~明治のハンサムウーマン 新島八重」

 ある時は銃を構えた“女戦士”、ある時は日清・日露戦争の“従軍看護婦”、またある時は“茶道の先生”。「天下の悪妻」ともうわさされた女性の実体は、同志社の創立者・新島襄の妻・八重。勝手気ままに見える生き方だが、女は男に従うことがあたりまえとされた当時、八重は新時代・明治にふさわしい“ハンサムウーマン”だった。自分らしい生き方を求め続けた知られざるヒロインを通して描く、女性たちへのエール。-NHKより

 ここでは取り上げられていなかったですが、前夫だった川?尚之助がいます。

 川崎尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

 『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。
 兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

 安政四年(一八五七)、川?尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。
 戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

【たじまる】黒部の太陽と太田垣士郎

今晩3月21日(土)9時から、フジテレビ系列で記念ドラマ「黒部の太陽」が香取慎吾さん主演で放送されますね。
映画は小学生の時に学校で映画館鑑賞しました。

太田垣士郎

明治27年(1894年)2月、兵庫県城崎町(現・豊岡市)に生まれる。五高、京都帝国大学経済学部卒業。日本信託銀行入行後、阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移り、1946年社長。

1951年、電力界の再編成が行われ、関西電力が誕生すると同時に初代関西電力社長に就任。太田垣は、戦後の電力不足事情をいち早く見抜き、大規模な水力発電所の建設に踏み切った。岐阜県の丸山水力発電所である。当時としては最大規模であった。関西電力がスタートした当時の資本金は17億円だったが、スタートしたばかりの時に、資本金の10倍もの資金を投じて大水力発電所の建設に着手したのである。

終戦後の復興が目覚しい1950年代になり、関西地域の電力事情が逼迫する状況を目の当たりにした太田垣が、その打開策として手がけたのが世紀の難工事といわれた、黒部川第四発電所(いわゆるクロヨン)建設である。クロヨン建設に当たっては太田垣は「経営者が十割の自信をもって取りかかる事業、そんなものは仕事のうちには入らない。七割成功の見通しがあったら勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるもんじゃない」と言って決断したのは有名な話である。石原裕次郎&三船敏郎主演映画黒部の太陽(監督:熊井啓)で全国に知られるようになる。関西経済連合会会長就任、なにわ賞、藍綬褒章などを受賞。故郷の城崎温泉ロープウェイの発案者でもある。駅に太田垣士郎翁資料館がある。

地元但馬の関西電力の後輩社員に、故佐々木良作さん(民社党書記長・元衆議院議員)などがおられます。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

但馬の人物 斎藤隆夫

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
伝説先史縄文弥生出雲銅鐸日槍古墳飛鳥奈良平安鎌倉室町戦国近世近代現代地方鉄道写真SITEMAP
近代憲法色(けんぽういろ)#543f32最初のページ戻る次へ

斎藤隆夫


概 要

目次

  1. 生い立ち
  2. 政治家としての軌道
  3. 粛軍演説
  4. 太平洋戦争突入

1.生い立ち

斎藤隆夫の生地・兵庫県豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。

明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。

明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚しました。

▲ページTOPへ


2.政治家としての軌道

1912年(明治45年・大正元年)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。
立憲国民党より総選挙に出馬。そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が、金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に斎藤を応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。
「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。▲ページTOPへ

3.粛軍演説

斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。

  • その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説であり、
  • その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
  • また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
  • その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
    彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。
    1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、
    「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、
    「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。
    この事変の目的はどこにあるかわからない。」
    の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
    反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(にち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。■斎藤隆夫記念館「静思堂」斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。

    兵庫県豊岡市出石町中村 TEL.0796-52-5643

    ▲ページTOPへ


4.太平洋戦争突入

 五・一五事件の後、後継首相に指名されたのは政友会総裁ではなく、海軍の穏健派とされていた斎藤実前朝鮮総督でした。斎藤内閣以降、総理となったのはほとんどが軍人・官僚の出身者で、政党から入閣する者はあってもその数は少なく重要ポストは与えられませんでした。軍部は事実上組閣を左右しました。
日中戦争の勃発は、国内における物資、人員の統制と動員を必要不可欠にしていきました。近衛内閣は総力戦体制確立のために、37(昭和12)年十月に企画院を創設した他、38(昭和13)年には国家総動員法と電力国家管理法を成立させました。こうした近衛の姿勢を最も強く支持していたのは社会大衆党でした。また近衛は1938(昭和13)年を通じて既成政党を排除し、無産政党や革新閣僚などこれまでは議会外であった勢力を糾合して新党を作ろうとしましたが、日中戦争解決の機を見いだし得ず、近衛内閣が解散したため、一時沈静化しました。
近衛の後任には、平沼騏一郎が首相になりました。アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、ソ連はノモンハン事件で決定的敗北を被りました。こうして日米、日ソの関係は行き詰まり、この内閣は一貫して日独伊防共協定の強化に活路を目指しました。しかし英米との関係を重視する海軍の一貫した反対のために膠着状態に陥っていました。
ところが39(昭和14)年8月、突如として独ソ不可侵条約が締結されたため、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という文句を残し、内閣は総辞職しました。
1940(しょうわ15)年春、ドイツの電撃的なヨーロッパ大陸での勝利(オランダ・フランスの敗北)のため、速やかな日独伊三国同盟締結と力の真空が生じた南方への進出をパッケージとした政策の変更を望む声が強まりました。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、言論の場としての議会はさらに機能が低下して、1940年2月に軍部批判の演説をした斎藤隆夫は同僚議員によって議会から除名されてしまいました。代わって各派の議員によって聖戦貫徹議員同盟が組織され、政党の解消を主張し始めました。彼らが期待した近衛文麿が新体制運動の乗り出すと、近衛の運動に合流すべく各政党は次々と解党していきました。
10月12日に近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足すると議員は翼賛会の議会局に属しました。
本土決戦を控えてさらに強固の国内体制を作る必要があるとして45年3月には翼賛政治会(翼政会)が解散して大日本政治会(日政)が結成されました。しかし日政に結集した議員は353名で、他に護国同志会、翼賛議員同志会、無所属などに分かれ完全な一元化はできませんでした。
第二次近衛内閣は、松岡洋右が外相となり、40(昭和15)年9月に三国同盟を締結させると、翌41(昭和16)年4月には日ソ中立条約を成立。ドイツ、ソ連との関係をもって初めて対米交渉が可能になると考えていました。
しかし40年の北部仏印進駐、次いで41年南部仏印進駐により、日米関係は決定的に悪化します。特に後者では、在米資産の凍結及び石油の輸出禁止処置がとられ、日本は逆に窮地に追い込まれてしまいました。
41(昭和16)年9月、戦争を主とし外交を従とする「帝国国策遂行要領」に異論を唱えたのは、他ならぬ昭和天皇でした。御前会議の前日、天皇は杉山元参謀総長らに厳しい質問をあびせ叱責しました。また9月6日の御前会議でも自ら質問の立とうとされました。しかし近衛首相と木戸幸一内大臣が、天皇と軍部との直接対立を懸念した結果、原嘉道枢密院議長が天皇の質問を代行しました。それでもなお昭和天皇は、明治天皇が日露戦争を前に平和を願って詠んだ歌を詠み上げ、自ら平和への意志を明確にされました。
にもかかわらず会議の結論は変わりませんでした。日米開戦をめぐる最終段階の十月、近衛内閣は総辞職します。開戦への自信はなく和平の見込みもなければ、例によって内閣を投げ出す以外の術はありませんでした。後任は東条英機陸相に決まりました。東条は陸軍官僚制をエリート軍人として上りつめ、政治性に富んだ人間ではありませんが、与えられた課題をきちんとこなすタイプでした。官僚としては誠に優秀だっったのです。東条にとっては一たび内閣と軍部との交渉により開戦への一致が見られれば、あとはひたすら開戦へむけて事務処理を勧めていくだけでした。そこに抜かりがない限り、「立憲君主」たる昭和天皇が異論を挟む余地はありませんでした。
東条は、優秀な官僚はかくもあらんとばかり、天皇にきめ細かく長い時間をかけて戦争と政治の情報を上奏したのです。さらに戦争事務の遂行上、東条は首相の他、陸相、内相、軍需相はおろか、挙げ句の果てに参謀総長まで兼務するに至りました。また議会も42(昭和17)年の翼賛選挙により一応押さえ込むのに成功します。
東条のリーダーシップは、戦局が有利な限り発揮され続けますが、敗北が重なり、43(昭和18)年夏からの戦況の悪化を受けて、皇族や重臣の間で東条内閣打倒工作が開始されます。44(昭和19)年になると議会にも東条批判が見られるようになり、サイパンにおける敗北を契機に東条内閣は総辞職します。
それでも三年余りの間、東条内閣はよく持ったといえるでしょう。続く小磯国昭は和戦の好機をつかめず、45(昭和20)年4月、鈴木貫太郎内閣と交替します。木戸内大臣は終戦へ向けて個別拝謁を始めます。有名なのは二月の近衛上奏文で、近衛は満州事変以来の戦争戦略はすべて革新的軍人と共産主義の共謀によるもので、革命とならぬよう注意すべしと述べています。一種の陰謀史観です。開戦直前まで革新派の計画に乗ぜられた自分は、今こそ革命を防止するために立ち上がるというのがその主張でした。これには吉田茂らが深く関与していました。
鈴木内閣が終戦を決定するまでには、なお四ヵ月を要しました。空襲ただならぬ状況の中で、重臣始め宮中グループ、帝国議会、そして内閣と軍部もまた、いかなる形での戦争終結をはかるか、決め手を欠いていたからでした。広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦という最終段階においてなお、8月10日のポツダム宣言の受諾をめぐって二分されました。国の存亡をかけた危機状況において、天皇の判断が求められた結果、終戦の決定がなされました。8月14日の御前会議において決定に変わりないことを確認します。ここに戦争は終わりました。
さて敗戦からの復興に当たって、実は日本は首相への人材を見事に育んでいたことがわかります。戦争中は東条の後に適格者なしと言われ、また二・二六事件以降、近衛以外はアドホックな人材の起用が続きました。これに対して、戦後は戦時中に避けられていた人々が次から次へと政権の座に就きました。幣原喜重郎、吉田茂、芦田均、鳩山一郎など、彼らがいたからこそ、間接占領が可能となったのです。彼らはいずれも十五年戦争期の大半を、権力から遠く離れて、抑圧されて生活を送っていました。もはや軍人の時代でも華族の時代でもありませんでした。▲ページTOPへ参考:『但馬の百科事典』フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近代憲法色(けんぽういろ)#543f32最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reserved.