世界最古の天皇を仰ぐ独立国家『日本』宣言

五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

『日本書紀』    720   神代~持統
続日本紀      797   文武~桓武
日本後紀      840   桓武~淳和
続日本後紀     869   仁明
日本文徳天皇実録  879   文徳
日本三代実録    901   清和~光孝

書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあ てているのも特徴です。

これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。

確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。

大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。

『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。

『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。

『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。 なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。

対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。
まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。

記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。

紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

『風土記』


『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵(見学しましたが撮影禁止なので)

『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもの。『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものとは思われないが、参考にしたふしがあるのは、「一書曰く」と諸説を併記していることだ。『風土記』は、国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。他と区別するため「古風土記」ともいう。

『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

郡郷の名(好字を用いて)
産物
土地の肥沃の状態
地名の起源
伝えられている旧聞異事
が挙げられています。

完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記が唯一ほぼ写本で残り、総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。各郡の条には現存する他の風土記にはない神社リストがある。神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられ、社格順に並べられていると推察される(島根郡を除く)。

他には「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

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『古事記』にみる天皇の日本統一への思い

日本最古の歴史書『古事記』にみる天皇の日本統一への思い


[youtube http://www.youtube.com/watch?v=N85-qJFuW2w&hl=ja_JP&fs=1&] 1/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた!』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年

捏造と反日のNHKですが、大阪放送局製作はわりとまともだと思っている。

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。

『古事記』と『日本書紀』

『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じたのが『古事記』全三巻です。

その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。

一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。

なぜわずか数年後に『日本書紀』を編纂したのだろうか?

ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。

それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。

ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

天皇は地方豪族の治める諸国を日本に統一する思いがこめられて『古事記』を編纂させました。そしてようやく日本は外交へ進んでいったのです。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=EqfNzkaOxtg&hl=ja_JP&fs=1&] 4/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年  heiankyoalienさん
[youtube http://www.youtube.com/watch?v=qz5V61iOKMk&hl=ja_JP&fs=1&] 5/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年 heiankyoalienさん

『古事記』にみる天皇の日本統一への思いを、NHKは敗戦という一点にどうしても導く道具として利用したと付け加えねばならない後味の悪い締め方をするのが決まりだ。そこで止まってしまう。
その責任転嫁から脱却できない限りNHKや朝日は、日本を明るくしない。

逆に言えばNHKや朝日が報道を正せば、日本は明るくなる。

そんな簡単なことを難しくインテリぶってその異常な思想停止をくり返してきた。日本史のはじまりを戦争へと結びつける思考とは何か。世界に誇れる長い歴史を愛する多くの普通の日本国民に、自らの使命と存在価値がいま改めて問われていることをいまだ覚醒できていないばかりかその責任を放棄して誰かが悪いと押しつけ続けている。人のせいにすれば結局自らに跳ね返ってくる。それでは日本の日本人による日本人のための公共放送であるからだ。

NHKや朝日など反日思想よりも、もっと大切な守らなければならない日本がたくさんある。稗田阿礼が二十九年間かけて誦習し太安万侶が四ヶ月かけて筆録させ、北畠親房が天皇家の南北朝分裂からこの国の道を救おうとし、本居宣長が三十五年もかけて解読し光を当てた。いまだ研究され続ける偉大なる最初の古代長大歴史ロマンである『古事記』・・・。たった45分の番組で片づけられないにせよ、その先人たちの国を思う努力に尊敬の念を抱かずにはいられない。進むべき方向がわからなくなるとき、日本人の矜持(自信と誇り)、プライド。国の原点を思い返してみることも必要な気がする。

引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之
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