小田井県と小田井懸神社
小田井県神社の県は旧字で「懸」とは、古代の時代において施行されていた地方行政の制度で、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成される前は、国・県・
『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)は、「天火明命はこれより西して
すなわちその地、秋穂
天火明命はまた南して、
佐々前原 に至り、磐船宮 にとどまる。佐久津彦命をして、篠生原 を就 かしめ、御田を開かせ、御井を掘り、水を灌 がしむ。後世その地を名づけて、真田稲飯原と云う(今は佐田伊原)。佐久津彦命は佐久宮に坐 し、天磐船命は磐船宮に坐 すなり。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田、磐舩 神社:豊岡市日高町道場)
天火明命は、また天熊人命を夜父 (のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。天熊人命は夜父の溪間に就 き、桑を植え、蚕 を養 う。
故れ此の地を名づけて、谿間屋岡原と云う(のちの但馬八鹿)。谿間の号 これに始まる。
天火明命はこの時、浅間の西奇霊 宮に坐す。天磐船命の子、天船山命、供し奉る(式内浅間神社:養父市八鹿町浅間)。
(中略)
時に国作大己貴命 ・少名彦命 ・蒼倉魂命 は、高志 国(のち越の国・北陸・新潟)より還り、御出石 県(のち出石郡)に入りまし、その地を開き、この地に至り、天火明命を召して曰 わく、
「汝命 、この国を領 き知るべし」と。
天火明命、大いに歓びて曰く、
「あな美うるし。永世なり。青雲弥生国なり」と。故れこの地を名づけて弥生 と云う。(いま夜父)国作大己貴命は「蒼倉魂命と天熊人命とともに心を
協 にし、力を合わせ、国作りの御業を補佐 せよ」と教え給う。二神は、天火明命に勧めて、比地の原を開かせ、垂桶天物部命に命じて、比地に就かしめ、真名井を掘り、御田を開き、その水を灌がしむ。垂穂の稲の
可美 稲、秋の野面に狭し。故れこの地を比地の真名井原と云う(比地県はのちの朝来郡)。天火明命は、御子
稲年饒穂命 を小田井県主(のち黄沼前 県・城崎郡)と為し、
稲年饒穂命の子・長饒穂命 (美含 郡故事記には武饒穂命と書す)を美伊県主(のちの美含郡・美伊は美稲の義、また曰く水霊の義)と為し、
佐久津彦命(両槻天物部命 の子)に命じて、佐々前 県主(のちの気多郡・佐々前は献神の義)と為し、
佐久津彦命の子・佐伎津彦命に命じて、屋岡県主(のちの養父郡・屋岡は弥生の丘の義、のちの八鹿)、伊佐布魂命に命じて、比地 県主(のちの朝来郡)と為す。
(中略)
人皇一代神武天皇三年秋八月、天火明命の子瞻杵磯丹杵穂命 (稲年饒穂命とも記す)を以て、谿間小田井県主と為す。瞻杵磯丹杵穂命は父命の旨を奉じ、国作大己貴命 を豊岡原に斎き祀り、小田井県神社と称え祀り、帆前大前神の子・帆前斎主命を使わして、御食の大前に仕えまつらしむ。また天照国照彦櫛玉饒速日天火明命を
州上原 に斎き祀り清明 宮と申し祀る。(いま杉宮と云う。当初は円山川下流に点在していた中洲のいずれかにあったのだろうか)
*1 御田(おた、みた、おみた、おんた、おんだ、おでん)は、寺社や皇室等が所有する領田のこと
小田井県から黄沼前県へ
小田井県は、「第10代崇神天皇9年秋7月、(小田井県主)小江命の子
『但馬郷名記抄の第五巻・城崎郡郷名記抄』に、
黄沼前郷は
黄沼前島は、黄沼島・赤石島・鴨居島・
他にも現在の地名に宮島がある。『但馬郷名記抄』が記された平安後期(975)には、海抜が下がり現在の地形とほぼ同じであったと思うが、これらは地名として残っていたものであろう。
この城崎郡は、明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・
最初から豊岡だった?!
城崎(郷)が豊岡になったのは、一般には次のようにいわれている。
1580年(天正8)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤の支配となった。宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。(城崎城は木崎城とも記す。)
しかし、上記の通り、『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)の冒頭から、天火明命は豊岡原と名づけて、のちに小田井と改めていたのだ。宮部継潤は、自分の発案で豊岡と改めたのではなく、おそらく寺社の有力者から昔は豊岡原と呼ばれていたことを聞いたり、こうした古文書を読んでのことではなかったろうか。
順番でいうと、豊岡原→御田井(小田井)→黄沼前→城崎→豊岡
となるので、元通りになったとも云える。
御田井と三江(御贄 )
次にこれらの地理的要因による地名以外に、城崎郡には、小田井県神社を中心にした神社に関連する地名がある。それが小田井県神社とは円山川対岸に位置する三江(郷)である。
『但馬故事記』には、
人皇40代天武天皇白凰三年(663?)夏六月、物部韓国連神津主の子・久々比命を以て、城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(豊岡市畑上 式内重浪神社)
この時
(*1 大旱 大旱魃・大干ばつ)
また、祖先累代の御廟を作り、
故れ、
(中略)
御贄神社(
下ノ宮なら上ノ宮はどこをさすのか
下宮という地名はどこに由来したのであろう。通常神社の上社・下社は同じ祭神である場合は、山中の元社は日常の参拝には不便なため、集落の近くに里宮・下宮が設けられることをいう。例えば富士山を祀る浅間神社の上社は富士山頂だが、下社としては富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。久々比神社がある場所が、現在豊岡市下宮であるから、下宮は久々比神社であることは間違いない。国道312号線で河梨峠で京都府との府県境あるので、上ノ宮は同じ谷あいにあったのだろうか。酒垂神社と御贄神社、そのどちらかが上宮と呼ばれ、同じ神社の上社(上ノ宮)・下社(下ノ宮)の関係にはないが、御贄が三江の古名であるので、三江郷のどこかに鎮座されていたのだろう。現存する式内社であれば、小田井県神社の御贄と御神酒を司った場所という意味では、御神酒を司った酒垂神社と久久比神社は、上宮・下宮の関係があったかもしれない。酒垂神社は創建以来、遷座の記録がない。式内酒垂神社がある今の法花寺の古名は神酒所と云った。三江郷の二つの式内社の高低差で考えれば上にある酒垂神社が上ノ宮、低所にある久々比神社を下ノ宮と呼んでいたのかも知れない。
現存せず所在不明であり、三江の古名は御贄で、御贄神社が今の三江には唯一梶原の八幡神社のみだ。当社を下社とすれば、三江村がのちに下ノ宮となった所以と考えられなくもない。現存する式内久々比神社が下宮と思われるわけだが、久々比神社創建は次の通り、これより後である。下ノ宮は古名の御贄田、御贄村、三江村である。久々比神社がのちの時代に別記されている。久々比神社創建以前に御贄神社があったようである。
「人皇42代文武天皇大宝元年(701)、物部韓国連久々比卒す。三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称し祀る。
物部韓国連格麿の子・三原麿を以て、城崎郡の大領と為し、正八位下を授く。
佐伯直赤石麿を以て、主政と為し、大初以上を授く。
大蔵宿祢味散鳥を以て、主帳と為し、小初位上を授く。
佐伯直赤石麿はその祖阿良都(またの名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申し祀る。(また荒都神社という)」とあるので、『但馬故事記』では他の式内社と酒垂神社、御贄神社が併記されている。
ということは下の宮も三江村内であったことになるが、下宮で他に御贄神社の古社地が見当たらない。御贄神社の境内に久々比神社が建てられ、のちに久々比神社の方が残ったとも考えられなくもない。
『但馬郷名記抄』に、
古くは御贄郷といい、小田井県大神
※()にあるのは、現存する地名で分かる範囲である。
御贄とは神饌で、神に供する供物のこと。主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれ、儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする「直会(なおらい)」とよばれる儀式が行われる。神田が鎌田と考えるのが自然であるが、御贄田が三江村であったから、御贄田はのち神田とも考えられる。とすれば今の下宮となる。
御贄郷につながる地名としてあと、
神酒所は酒垂神社のある今の法花寺であることは間違いないが、神服部はどこだろう。ここでさす神服部の神は当然、小田井県神社だ。その小田井県神社の服部であり、服部は機織部(はたおりべ・はとりべ)で衣食住の衣を司る部である。古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人、およびその活動地域をいう。「部」(ベ)が黙字化し「服部」になったという。神服部と呼ばれていた別の集落が三江郷のどこかにあったことになる。また、神服部の部は、のちに省略され、
『但馬郷名記抄』の順はほぼ南から列記している。とすれば、現存する殻原村(今の梶原)から磐船島(今の船町か?)まではだんだん北になる。神田が鎌田、神酒所が法花寺、白雲山は愛宕山(今の山本)ではないかと考えたが、『但馬故事記』に「天平18年冬12月、本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎。美含二郡の壮丁を招集し、兵士に充て、武事を調練す。」とあるから、すでに山本は存在していたことになる。物部村・白鳥村が赤石・下鶴井だろう。残るは馬地村と神服部だ。現存地名では祥雲寺と庄境が残る。馬地村は馬路村とも書く。その名のとおり、交通の要所とすれば庄境しかない。
神社と田結
豊岡市の日本海に面した場所に
それはさておき、田結郷はすでに平安後期に編纂された『但馬郷名記抄』にある。
田結郷は古くは伎多由郷といい、[
上記の御贄(三江)が神社にお供えする神饌の米や穀物・酒を、田結は神饌の海産物を納めていた重要な村であった。だからこそ郷名として三江郷・田結郷と名づいたのだろう。
日本の国のおこりから、人々は山や海、風、雨、雷などの自然には神が宿ると信じ、祟りを畏れ敬う。政り、祀り、祭りと漢字がいろいろあるが、すべてまつりごとは神事とつながるものなのである。城崎郡のまつりごとの頂点は、名の通り小田井県神社であり、その御神田が三江の古名御贄田の御贄神社、神酒所の酒垂神社、海の守護神、海神社(今の絹巻神社)という関係になる。
『但馬郷名記抄』の伎多由郷(田結郷)に、大浜・与佐伎村・赤石島・結浦・鳥島・三島・干磯浜打水浦、久流比・気比浦・白神山・[
余部郷として墾谷(今の飯谷)・機紙村(今の畑上)・御原村(今の三原)
鳥島(戸島)・打水(二見)の間、磐水を支え、
城崎の古語である黄沼前を、この黄沼海の前(手前)をいうとすれば、小田井県神社あたりをさす。
最後に、黄沼前郷に記されている内容をまとめてみたい。
黄沼前郷は古の黄沼海なり。昔は
天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島湧き出て、草木青々の兆しを含む。天火明命 黄沼前を開き、墾田となす。
故に天火明命黄沼前に鎮座す。小田井県神これなり。
降りて、稲年饒穂命・味饒田命・佐努命あいついで西岸を開く。与佐伎命は、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き墾田となす。(中略)黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。
黄沼前郷と田結郷の混同が見られるが、この黄沼崎島とは円山川西岸の北は奈佐川・大浜川から南は佐野までの川に囲まれた平地を島になぞらえているものだろう。
ちなみに絹巻神社の山は絹巻山といい、山の斜面一帯に上坐・中坐・下坐と分かれており、今の境内は下坐であろう。絹巻山の社が絹巻社、絹巻神社という通称で、古語は名神大海神社である。『但馬故事記』の人皇13代仲哀天皇・神功皇后の記述に、
皇后ついに穴門国(長門)に達し給う。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神と為す。水先主名の子を以て、海部直となすは、これに依るなり。
絹巻山とは黄沼前山のことであり、黄沼は黄色い泥の意味なので、黄沼前を絹巻の二字の好字に替えたものだ。城崎も絹巻も、黄沼前から転訛した同じ語源である。
神社の由来や地名を調べれば、郷土の成り立ち。歴史が分かる。その点で『国司文書 但馬故事記』『但馬神社系譜伝』『但馬郷名記抄』など関連史料のように、神社や古墳時代の風習等を克明に記したは、全国的にも珍しく貴重な史料である。
この中から、字の変更を拾うと、次のようなものがある。律令制導入により、郷村名や地名を二字の好字(縁起の良い)にすることを奨励しているが、同様に伎多由は田結に、機紙は波多(今の畑上)、墾谷は飯谷、久流比は来日、百島(茂々島)は桃島、西刀は瀬戸、鳥島は戸島、与佐伎は都留井・鶴井、楯野は赤石、(立野も楯野だと思う)、耳井は宮井、島陰は下陰、野田丘は福田、深坂は三坂、鳥迷羅は戸牧、火撫は日撫、穀原は梶原、狭沼は佐努・佐野に、黄沼前郷は城崎郷、渚郷は奈佐郷、新墾田郷は新田郷、御贄郷は三江郷。