古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


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四道将軍 彦坐王(日子坐王)の終焉の地は

四道将軍 彦坐王は、『古事記』では「日子坐王」、『日本書紀』では「彦坐王」と書く。

『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣わにのおみの遠祖の姥津命ははつのみことの妹の姥津媛命ははつひめのみこととの間に生まれた皇子とする。『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命ひこくにおけつのみことの妹の意祁都比売命おけつひめのみこととの間に生まれた第三皇子とする。

四道将軍と丹波道

『古事記』崇神天皇の条に、四道将軍(古訓:よつのみちのいくさのきみ)が各地に派遣されたとある。いずれも皇族(王族)の将軍で、大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと、丹波道主命の4人を指す。『古事記』では一括して取り扱ってはおらず、断片的のそれぞれの将軍を扱い、四道将軍の呼称も記載されていない。『日本書紀』では事績に関する記載はなく、子の丹波道主命たにわのみちぬしのみことが丹波に派遣されたとしている。この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。

また、西道(山陽道)に派遣された吉備津彦命は、『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」(紀)彦五十狭芹彦命、(記)比古伊佐勢理毘古命とする。『古事記』によると、崇神天皇10年(西暦217年)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽道)は吉備津彦命、そして丹波には、丹波道主命が派遣されたのである。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル(日本武尊)伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

 

国土交通省

四道とは北陸、東海、西道、丹波の四つの地方であり、地理的に丹波道は狭いが、図のように幹線道路としては離れざるを得ない立地にある。山陰道から別れて丹後半島今でも東海道などは使われているようにこの時期の「丹波国」は、後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国を指し、五畿七道の山陰道に含まれる。山陰道の篠山あたりから別れて円のようにまわり、但馬国府の置かれた気多郡(今の豊岡市日高町)で山陰道に合流する支線を丹波路としている。北陸、東海、西道が細長い広大なエリアなのに対し、この時代の分立するまでの3国を含めた丹波を、近年、丹波王国、大丹波、北近畿などと名付けられていたりする。日子坐王のの子が丹波道主命ということから、丹波道主は丹波道の主(首長)ということを意味する名前なのだ。当時の丹波、丹後、但馬をまとめて総称するなら「丹波道」がふさわしいと思う。

北陸、東海、西道は現在でもほぼ同じエリアであるが、日本海側を山陰道のような表記では表さず、丹波道としているのは、丹後の三大大前方後円墳や但馬の池田古墳規模の大規模な前方後円墳が鳥取・島根で少ないことも因幡以西の出雲王国までにヤマト王権による支配権が当時は及ばなかった証拠でだろう。

玖賀耳之御笠(陸耳御笠)くがみみのみかさ

日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠くがみみのみかさ(陸耳御笠とも)を討ったという。彦坐王が丹波に派遣されたとあるが、丹波道主命は彦坐王ひこいますのみこ・-おうの子で、実際に遣わされたのが丹波道主命とも読めるし、一緒に派遣されたとも読める。

『国司文書 但馬故事記』に詳細に記されている。第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 陸耳の御笠、土蜘蛛匹女ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)の土蜘蛛がこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主櫛竜命を殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)にみことのりを出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の将軍 丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

『丹後風土記残欠』にも、

(志楽郷)甲岩。甲岩ハ古老伝テいわク、御間城入彦五十瓊殖天皇ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠トフ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。ゆえに日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲあらわたちまチニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生(今の舞鶴市成生)ト号ク。

福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹に玖賀耳之御笠(陸耳の御笠)は、

ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

記紀は、土蜘蛛と蔑みながら、陸耳の笠でよいのに御を加えて尊称もしているのは、あまりに無礼であると感じていたのか。「クガミミ」とは国神の事で、クガミミノミカサとは国神クニガミノミカサという意味だとすると、笠国をつくった主とは先住の王であった。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。土雲とも表記される。史書は、勧善懲悪となるのが常で、勝者が美化され、敗者は悪党に描かれる。織田信長VS明智光秀、浅野内匠頭VS吉良上野介、、、本当のところはよく分からないのだ。

『地形で読み解く古代史』関 裕二 氏は、
『日本書紀』に狭穂姫がなくなったあとの垂仁天皇の后妃の記述が残り、垂仁15年春2月10日の条に、「丹波の五人の女性を召し入れた」とあり、その中から日葉酢媛命がのちの皇后に立てられたとある。さらに垂仁34年春3月の条には、垂仁天皇が山背(山城)に行幸し、評判の美女を娶ったとある。
(中略)
なぜタニハの謀反のあと、垂仁天皇はタニハ系の女人ばかりを選んだのだろう。
これには伏線があったと『日本書紀』はいう。狭穂姫が天皇に別れを告げたとき、後添えのことに言及していた。
「私の後宮は、よき女性たちに授けてください。丹波国に五人の貞潔な女性がおります。彼女たちは、丹波道主命(日子坐王の子)の娘です。」
この最後の要望を、垂仁天皇は聞き入れたのである。

どうにもよくわからない。タニハ系の彦坐王の人脈が謀反を起こしたにも関わらず、その上で、次の后妃もタニハからとっている。こうしてタニハの女人で埋まっていく。ヤマト黎明期のヤマトで、いったいなにが起きていたのだろう。タニハ(+山背)が、なぜ後宮を席巻できたのか。

(中略)

やはり、地形と地政学で、この謎は解けるのではないかと思えてくる。たしかにヤマトは国の中心にふさわしい土地だったが、日本全土を視野に入れて流通を考える場合、西国に通づる河内、若狭、丹波三国、さらに東海、北陸に通づる山城、近江のラインが最も大切で、そこを支配する「タニハ連合」と手を組まなければ、政局運営はままならなかったからだろう。

ちなみに東に向かった二人の将軍は、太平洋側と日本海側から東北南部に進み、福島県南部(二人が会ったから、「相津」(会津)の地名ができたという)で落ちあったという。早い段階の前方後円墳の北限は、ほぼこのあたりで、ヤマト建国時の様子を『日本書紀』編者がよく承知していて、その上で、「各地から多くの首長がヤマトを建国したのに、『日本書紀』の文面では、ヤマトから将軍が四方に散らばり、和平したことにしてしまった」のだ。

ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備だされる。前方後円墳などにみられる円筒形埴輪が吉備がルーツとされており、吉備にも吉備津彦命が派遣され、その末裔が吉備を支配するようになったとあるが、これは全く逆で、吉備がヤマトに進出しヤマト建国の中心に立ったのだというのだ。『日本書紀』はこの事実を裏返して示している。

10代崇神天皇は、四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めてヤマト政権の国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。もしそれがタニハ連合(のち分国した但馬・丹後を含む丹波、若狭)+山城、近江、尾張が手を組み、ヤマトに進出し、あわてた吉備と出雲がヤマト建国の流れに乗ったのだ。

としている。

たしかに、ヤマト建国は、タニハなどの連合国家だったならば、ヤマト建国の主役はヤマトではなくなってしまう。これでは国家の史書として都合が悪い。『日本書紀』編者らは、その経過を知っていたので、四道将軍を創作し、朝廷が平定したのだと都合のいいように史実をひっくりかえして朝廷主導に書いたという氏の考察も、あながちそうではないと言い切れない。

しかし、地方豪族ではなかったことは、『日本書紀』に「四道将軍はいずれも皇族(王族)」と記述していることだ。そして、「彦坐王はタニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。」とはどういう根拠なのかだ。彦坐王の子・狭穂彦王と狭穂姫がヤマトにやってきたし、その後も彦坐王の子丹波道主命の娘5人が后・妃になっているが、彦坐王・丹波道主命がタニハからヤマトにやってきた形跡はないし、『日本書紀』に皇族(王族)で開化天皇の皇子としているが、地方豪族出身ということになってしまう。記紀編者らが朝廷に都合が悪い出来事は朝廷優位に改変することがあったろうとは当然思えるにしても、開花天皇の皇子などと捏造したとしたら、皇族に不敬となる話を記紀編者らが創作するはずもない。

彦坐王の墓は但馬か美濃か?

墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。

墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。。美濃を領地として、子の八瓜入日子(やついりひこ-神大根王)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられる。この地で亡くなり、この地に埋葬されたという。八瓜入日子は三野国造、本巣国造の祖とされている(本巣国は美濃国中西部)。

これと異なる記述が『但馬故事記』に詳細に記されている。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)*1の宮に居した(多遅摩粟鹿県は但馬国朝来郡)。

天皇は彦坐命に日下部足泥(宿祢)くさかべのすくねという姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。

丹波国造 倭得玉命
多遅麻国造 天日楢杵命
二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

但馬国二宮 粟鹿神社の御祭神は、彦火々出見命ひこほほでみのみこと日子坐王ひこいますのきみ、阿米美佐利命の三柱である書かれる場合が多いが、『国司文書 但馬神社系譜伝』では、
彦坐命・息長水依姫命・遠祁都毘売命(亦名は瀛津姫命・うみつひめ)。

しかし、兵庫県神社庁では次の通り、日子坐王の1柱のみとある。

当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。

人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。

粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。

-「兵庫県神社庁」-

彦坐命の墓は、美濃(岐阜県岐阜市岩田西)と但馬(兵庫朝来市山東町粟鹿)の2箇所にあることになる。但記では、彦坐王は、粟鹿宮で薨去し、粟鹿の鴨ノ端ノ丘に葬るとある。その後は何も記されていない。

ところが伊波乃西神社の由来には、

祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。

但馬にある2つの前方後円墳は誰の墓なのか

但馬(兵庫県北部)にある前方後円墳は、朝来市和田山町平野の池田古墳と朝来市物部の船宮古墳のみである。これ以外に前方後円墳は見つかっていないが、但馬は平地の少ない地形から他にも大規模な前方後円墳は築造されてはいないだろう。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみである。朝来市域では古墳時代前期の南但馬地方の王墓として若水古墳・城ノ山古墳の築造が知られるが、それらに後続する池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(朝来市教育委員会)

前方部は祭祀場で、後円部は被葬者が埋葬される。池田古墳は前方部を北東に向ける。池田古墳より南にある船宮古墳は、北北東を向いており、その方向には丹後の旧与謝、加佐がある。但馬史上で彦坐命と丹波道主命は、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主(大王)である。単なる国造以上の位であり、この二人以外にいない。丹波三国を眺めるようにかも知れない。大和政権に近いタニハの王は、日子坐王と丹波道主の二人以外にいない。先に初代多遅麻国造となった天日槍はいたが、時代がもっと古いので当てはまらない。

池田古墳も船宮古墳も、被葬者は明らかでないが、国造級の豪族の首長墓と想定され、船宮古墳は当地を治めた但遅麻国造の船穂足尼一族との関連を指摘する説がある。船宮の船が船穂足尼と重なるからだろうが、但記の朝来記には、「第13代成務天皇5年、大多牟阪命の子、(彦坐命の五世孫)船穂足尼命をもって多遅麻国造と定む。船穂足尼命は大夜父宮(今の養父神社)に還る。

(中略)

神功皇后元年、但遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜父船丘山に葬る。(中略)船穂足尼命を夜父宮下座(養父神社)に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称す。(現在の水谷神社所在地ではなく、養父神社後方の山中と考える)」とあるから、朝来郡ではなく養父郡で国造の職務を行っており、朝来市物部の船宮古墳と逆方向。大藪古墳群のいずれかだと思う。

*1 禾鹿 禾は本来イネと読むべきだが、禾鹿神を粟鹿神と同一神の如く記す記載が多いので、禾をアハと読むべき。


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但馬の神社創建年代

『国司文書 但馬故事記』(以下、但記)記載神社を創立年代順に並べてみた。

年代社名所在地祭神
第1代神武天皇御世大歳神社二方美方郡新温泉町居組主祭神 大年神、配祀神 御年神 若年神(但記 大歳神)
伊曽布いそう神社七美美方郡香美町村岡区味取保食神(但記 伊曽布魂命)
小代おじろ神社美方郡香美町小代区秋岡天照皇大神(但記 牛知御魂命・蒼稲魂命)
〃神武天皇3年8月小田井県神社 城崎 兵庫県豊岡市小田井町国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと(但記 上座 国作大己貴命、中座 天照国照彦天火明命、下座 海童神)
〃6年3月御出石みいずし神社出石兵庫県豊岡市出石町桐野日矛ひぼこ神(但記 国作大巳貴命、御出石櫛甕玉命)
 〃9年10月気立けだつ神社(現 気多けた神社)気多兵庫県豊岡市日高町上郷 国作大己貴命
 〃佐久神社兵庫県豊岡市日高町佐田 佐久津彦命(佐々前県主)
 〃御井みい神社兵庫県豊岡市日高町土居主祭神 御井神、配祀神 菅原道真(但記 御井比咩命)
〃15年8月夜父坐神社(養父やぶ神社)兵庫県養父市養父市場主祭神 倉稲魂命 配祀神 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命

(但記 上座 大巳貴命、中座 蒼稲魂命・少彦名命、下座 丹波道主命・船穂足尼命)

浅間せんげん神社養父兵庫県養父市浅間木花開那姫命(但記 天道姫命)
かづら神社(不明)兵庫県養父市浅間天火明命
御井神社養父市大屋町宮本御井命(但記 御井比咩命)
第4代懿徳いとく天皇佐伎都比古阿流知命さきつひこあるちのみこと神社 養父朝来市和田山町寺内(但記 養父郡坂本花岡山)佐伎都比古命・阿流知命
〃33年6月亀谷宮(久麻神社)城崎兵庫県豊岡市福田味饒田命(小田井県主)
第5代孝昭天皇80年4月与佐伎神社豊岡市下鶴井主祭神 依羅宿禰命、配祀神 保食命(但記 小田井県主 与佐伎命)
第6代孝安天皇67年9月布久比神社豊岡市栃江岩衡別命(但記 小田井県主 布久比命)
第7代孝霊天皇40年9月伊豆志坐神社(出石いずし神社)出石兵庫県豊岡市出石町宮内伊豆志八前大神

天日槍命

〃62年7月耳井神社城崎豊岡市宮井御井神(但記 小田井県主 耳井命)
第8代孝元天皇32年10月諸杉もろすぎ神社〃 内町多遲摩母呂須玖神(但記 天諸杉命、亦の名 多遲摩母呂須玖神、但馬諸助)
 〃56年6月小江おえ神社城崎 兵庫県豊岡市江野豊玉彦命但記 大巳貴命・小田井県主 小江命)
第10代崇神天皇10年9月粟鹿あわが神社朝来朝来市山東町粟鹿日子坐王(但記 彦坐命・息長水依姫命)
赤渕神社朝来市和田山町枚田赤渕足尼命 配祀神 大海龍王神 表来大神(但記 赤渕宿祢命)
鷹貫たかぬき神社気多豊岡市日高町竹貫鷹野姫命(但記 当芸利彦命)
久流比くるい神社城崎豊岡市城崎町来日闇御津羽神(但記 来日足尼命)
〃28年4月美伊神社美含美方郡香美町香住区三川主祭神 美伊毘売命、配祀神 美伊毘彦命(但記 八千矛神、美伊比咩命、美伊県主 武饒穂命)
第11代垂仁天皇11年11月和奈美神社養父養父市八鹿町下網場主祭神 大己貴命、配祀神 天温河板誉命(但記 天湯河板挙命)
第14代仲哀天皇2年須義神社出石兵庫県豊岡市出石町荒木由良度美神(但記 須義芳男命)
気比けい神社城崎豊岡市気比 主祭神 五十狭沙別命、配祀神 神功皇后 仲哀天皇
神功皇后元年5月水谷神社養父養父市奥米地天照皇大神(但記 丹波道主命)
〃8年6月二方ふたかた神社(古社地)二方美方郡新温泉町清富但記 美尼布命
第15代応神天皇元年7月宇留波神社(宇留破神社)養父養父市口米地不詳(但記 養父県主 宇留波命)
第16代仁徳天皇2年3月葦田神社気多豊岡市中郷天麻比止都祢命(但記 天目一箇命)同神
楯縫神社豊岡市鶴岡彦狭知命
井田神社主祭神 倉稲魂命、配祀神 誉田別命 気長足姫命(但記 石凝姥命)
日置神社豊岡市日高町日置天櫛耳命(但記 櫛玉命)
陶谷神社(須谷神社豊岡市日高町藤井句々迺智命(但記 野見宿禰命・武碗根命)
〃6年4月日出神社出石兵庫県豊岡市但東町畑山多遲摩比泥神(但記 日足命)
〃15年4月多他神社七美美方郡香美町小代区忠宮主祭神 素盞鳴尊、配祀神 大田多根子命 埴安命(但記 多他毘古命)
第17代反正天皇2年3月志都美しつみ神社(黒野神社へ合祀)七美板仕野丘(美方郡香美町村岡区村岡)(但記 志津美彦命)
第18代履中天皇海神社(絹巻神社)城崎豊岡市気比字絹巻主祭神 天火明命、配祀神 海部直命 天衣織女命(但記 海部直命。のち上座 海童神、中座 住吉神、下座 海部直命・海部姫命)
第20代安康天皇2年6月志都美神社(黒野神社へ合祀)七美萩山丘(美方郡香美町村岡区村岡)但記 志都美若彦命
第21代雄略天皇2年8月石部いそべ神社出石兵庫県豊岡市出石町下谷奇日方命(但記 石部臣命)
西刀せと神社城崎豊岡市瀬戸西刀宿祢、配祀神 稲背脛命
〃4年9月三野みの神社気多豊岡市日高町野々庄師木津日子命(但記 天湯河板拳命)
神門かんと神社気多豊岡市日高町荒川主祭神 大国主命、配祀神 武夷鳥命 大山咋命(但記 鵜濡渟命)
第22代清寧天皇5年6月桑原神社美含豊岡市竹野町桑野本保食神仁布命(但記 久邇布命)
第25代武烈天皇3年5月多麻良木神社(玉良木たまらぎ神社)気多豊岡市日高町猪爪彦火々出見尊(但記 大荒木命、亦名 玉荒木命、建荒木命)
〃7年5月桃嶋神社(桃島神社)城崎豊岡市城崎町桃島主祭神 大加牟豆美命、配祀神 桃島宿祢命 雨槻天物部命(但記 桃嶋宿祢命・両槻天物部命)
第26代継体天皇11年3月桐野神社出石豊岡市出石町桐野倉稲魂命(但記 鴨県主命)
第29代欽明天皇25年10月物部神社(韓國神社)城崎豊岡市城崎町飯谷物部韓国連命
〃33年3月佐受さうけ神社美含美方郡香美町香住区米地主祭神 佐受主命、配祀神 佐受姫命(但記 佐自努命)
第30代敏達天皇3年7月高阪神社(高坂神社)七美美方郡香美町村岡区高坂高皇産霊尊(但記 彦狭島命)
〃14年5月名草神社養父養父市八鹿町石原主祭神 名草彦命、配祀神 日本武尊 天御中主神 御祖神 高皇産靈神 比売神 神皇産霊神
第31代用明天皇2年4月朝来石部神社(石部いそべ神社)朝来朝来市山東町滝田大己貴命(但記 櫛日方命)
第33代推古天皇15年10月大与比神社養父養父市三宅主祭神 葺不合尊、配祀神 彦火々出見尊 玉依姫命 木花開耶姫命(但記 大与比命)
〃34年10月中嶋神社出石兵庫県豊岡市三宅田道間守命
第34代舒明天皇3年8月山ノ神社(山神社)豊岡市日高町山宮主祭神 句々廼馳命、配祀神 大山祇神 埴山姫神 倉稲魂命 保食神 奥津彦神 奥津姫神 櫛稲田姫神 品陀和気命 速素盞鳴命(但記 五十日帯彦命)
第36代孝徳天皇大化3年3月兵主ひょうず神社朝来朝来市山東町柿坪大己貴神(但記 素盞嗚命・天砺目命)
佐嚢さの神社朝来市佐嚢須佐之男命(但記 道臣命・大伴宿祢)
伊由神社朝来市伊由市場少彦名命(但記 伊由富彦命、亦名 伊福部宿祢命)
足鹿あしか神社朝来市八代道中貴命(但記 伊香色男命)
〃7月黒野神社七美美方郡香美町村岡区村岡主祭神 天御中主命、配祀神 天津彦々瓊々杵尊 志津美下大神(但記 天帯彦国押人命)
大家神社二方美方郡新温泉町二日市大己貴命(但記 彦真倭命)
第40代天武天皇白鳳2年8月椋橋むくばし神社七美美方郡香美町香住区小原伊香色手命(但記 伊香色男命)
〃白鳳3年3月深坂神社城崎 兵庫県豊岡市三坂武身主命(またの名、水先主命・建日方命)
〃白鳳3年5月酒垂さかだれ神社兵庫県豊岡市法花寺酒解子神・大解子神・小解子神
   〃御贄みにえ神社(御食津神社)兵庫県豊岡市三江豊受姫命(但記 保食神)
 〃白鳳3年6月久々比神社城崎 兵庫県豊岡市下宮久々比命(城崎郡司)
重浪しぎなみ神社豊岡市畑上物部韓国連神津主命(但記 城崎郡司 物部韓国連神津主)
佐野神社 兵庫県豊岡市佐野狭野命(小田井県主)
女代めじろ神社 〃豊岡市九日市上町主祭神 天御中主神、配祀神 神産巣日神 高皇産霊神(但記 大売布命)
穴目杵あなめき神社豊岡市大篠岡船帆足尼命(但記 黄沼前県主 穴目杵命)
〃7月刀我石部とがいそべ神社(石部神社)朝来朝来市和田山町宮主祭神 姫蹈咩五十鈴姫命、配祀神 天日方奇日方命 五十鈴姫命(但記 誉屋別命)
〃白鳳12年4月兵主神社城崎豊岡市赤石速須佐之男命
大生部大兵主おおいくべだいひょうず神社(大生部兵主神社)出石豊岡市但東町薬王寺主祭神 武速素盞鳴命、配祀神 武雷命(但記 素盞鳴命、武雷命、斎主命、甘美真手命、天忍日命)
〃10月屋岡神社養父養父市八鹿町八鹿主祭神 天照大日留女命、配祀神 誉田別命(但記 武内宿禰命)
保奈麻神社(春日神社?)養父市八鹿町大江主祭神 彦火瓊々杵命、配祀神 天津児屋根命(但記 紀臣命)
〃白鳳14年8月[木蜀]椒はじかみ神社気多豊岡市竹野町椒咩椒大神(但記 大山守命)
〃9月鷹野神社美含豊岡市竹野町竹野主祭神 武甕槌命、配祀神 天穂日命 天満大自在天神 須佐之男命 建御雷命 伊波比主命 五男三女神(但記 当芸志毘古命・竹野別命)
第41代持統天皇3年7月久刀寸兵主くとすひょうず神社気多豊岡市日高町久斗大国主尊 配祀神 素盞鳴尊(但記 素盞鳴尊
高負たこう神社豊岡市日高町夏栗白山比売命 配祀神 菊々理比売命(但記 大毅矢集連高負命)
ノ神社(戸神社)豊岡市日高町十戸主祭神 大戸比売命 配祀神 奥津彦命 品陀和気命 火結命(但記 田道公)
売布めふ神社豊岡市日高町国分寺大売布命
〃8月桐原神社養父朝来市和田山町室尾主祭神 応神天皇、配祀神 経津主命(但記 経津主命)
更杵さらきね村大兵主神社(更杵神社)朝来市和田山町寺内但記 武速素盞嗚神 武甕槌神 経津主神
第42代文武天皇庚子4年3月伊智神社気多豊岡市日高町府市場神大市姫命(但記 大使主命 商長首宗麿命)
〃10月手谷神社出石豊岡市但東町河本主祭神 埴安神、配祀神 倉稲魂命 大彦命(但記 大彦命)
〃大宝元年9月春木神社(春来神社)七美美方郡新温泉町春来主祭神 天照皇大神、配祀神 少彦名神 伊弉諾命 大己貴神 伊弉冊命(但記 大山守命)
〃慶雲3年7月伊伎佐神社美方郡香美町香住区余部伊弉諾尊(但記 彦坐命 五十狭沙別命 出雲色男命)
いかづち神社気多豊岡市佐野主祭神 大雷神、配祀神 須佐之男命 菅原道真(但記 火雷神、亦名 別雷神)
〃慶雲4年6月法庭のりば神社七美美方郡香美町香住区下浜武甕槌命(但記 大新川命)
第43代元明天皇和銅5年7月倭文しどり・しずり神社朝来市生野町円山天羽槌命(但記 天羽槌雄命)
第44代元正天皇養老3年10月伊久刀神社養父豊岡市日高町赤崎主祭神 瀬織津姫神、配祀神 大直毘神(但記 雷大臣命)
兵主神社豊岡市日高町浅倉大己貴命(但記 
〃養老7年3月盈岡みつおか神社養父朝来市和田山町宮内主祭神 誉田別命、配祀神 息長足姫命 武内宿禰(但記 波多八代宿祢命)
第45代聖武天皇天平2年3月夜伎坐山神社(山神神社)養父市八鹿町八木主祭神 伊弉冊尊、配祀神 忍穂耳尊 瓊々杵之尊 速玉男命 事解男命(但記 五十日足彦命)
杜内もりうち神社養父市森杜内大明神(但記 大確命)
井上神社養父市吉井主祭神 素盞鳴命、配祀神 稲田姫命(但記 麻弖臣命・吉井宿祢命)
〃天平18年12月兵主神社城崎豊岡市山本主祭神 速須佐男命、配祀神 高於加美神(但記 素盞嗚神 武甕槌神)(赤石から遷す)
〃天平19年4月小坂神社出石豊岡市出石町三木

豊岡市出石町森井

小坂神(但記 天火明命)
〃天平59年3月須流神社出石豊岡市但東町赤花主祭神 伊弉諾命、配祀神 伊弉冊尊(但記 慎近王)
第46代孝謙天皇天平勝宝元年6月大炊山代神社(思往おもいやり神社)気多豊岡市日高町中思兼命(但記 天砺目命)
坂蓋神社(坂益さかます神社)養父市大屋町上山正勝山祇命(但記 大彦命)
〃天平宝字2年3月色来いろく神社美含豊岡市竹野町林国狹槌命(但記 大入杵命 亦名 大色来命)
第47代淳仁天皇天平宝字5年8月男坂おさか神社養父養父市大屋町宮垣男坂大神(但記 天火明命)
第49代柏原天皇延暦3年6月比遅ひじ神社出石豊岡市但東町口藤多遲摩比泥神(但記 味散君)
佐々伎神社豊岡市但東町佐々木少彦名命(但記 佐々貴山公)
第52代淳和天皇天長5年4月等餘とよ神社(等余神社)七美美方郡香美町村岡区市原主祭神 豊玉姫命、配祀神 天太玉命 月讀命(但記 等餘日命)
第53代深草天皇承和12年8月小野神社出石豊岡市出石町口小野天押帯日手命(但記 天帯彦国押人命)同神
〃承和16年8月安牟加あむか神社出石豊岡市但東町虫生天穂日神(但記 物部大連十千根命)
第55代文徳天皇仁寿2年7月阿古谷あこや神社(森神社)美含豊岡市竹野町轟主祭神 大山祇命 配祀神 八幡大神(但記 彦湯支命)
第56代陽成天皇3年4月丹生にゅう神社美方郡香美町香住区浦上主祭神 丹生津彦命、配祀神 丹生津姫命 吉備津彦命(但記 建額明命 吉備津彦命 高野姫命)
   

但馬西部の神社と歴史を調べ中

但馬たじまの大川である円山まるやま川流域にある朝来市・養父市・豊岡市に比べて、但馬の西部は、郷土に半世紀生きてきて、知らないことがまだまだ多い。円山川流域以外の地域は、それぞれの川と地形による個々のはじまりと文化がある。なかでも新温泉町と美方郡香美町村岡区・小代区(養父市の鉢伏高原もかつては七美郡)は、山陰と山陽を分ける中国山地の東端にあたる。

現在の新温泉町は、市町村合併で海岸部の浜坂町と山間部の温泉町が合併し新温泉町となった。それは、かつて縄文時代よりももっともっと何万年も前に、朝鮮半島やシナ大陸と比べてももっと古い時代から人は暮らしていたことが分かり始めている。もっと温暖だった。

やがて、日本列島にクニが誕生する過程で、二方国として、但馬国に加えられるまで独立した国だったエリアであり、のち但馬国二方郡となる。とくに冬は豪雪に見舞われる山間地域の旧温泉町と、旧浜坂町の海岸部は日本海のリアス式海岸による漁村で、狭い平地を峠道が結ぶ。東隣の香美町村岡区とともに、雪に閉ざされ、冬は灘や全国に出稼ぎとして酒造りに従事する但馬杜氏のメッカで、年々高齢化や酒造業界の変化により減少しているが、その人数は全国四大杜氏といわれるほど多い。また神戸牛、松阪牛などの高級和牛の素牛、但馬牛の産地である。つまり但馬が誇る二大産業を中心的に担ってきたのが但馬西部の山間地なのである。

さて、クニが誕生し、しばらくの間、因幡・但馬とは別になぜ小さな二方国が存在したのだろうか。ここが知りたいから新温泉町に惹かれるのだ。

二方国(のち二方郡、今の新温泉町)は、但馬の他の旧7郡とは異なる成り立ちの歴史を持っている。全国を統一し地方行政区分にした律令国が誕生したのは、奈良時代の大化の改新(645)または本格的には大宝律令(701)とされているが、日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。

『国司文書・但馬故事記』には、「人皇1代神武天皇5年8月(推定BC656) 若山咋命の子、穂須田大彦名を以て、布多県国造(のち二方と改める)と為す」とあり、奈良時代より1200年遡る弥生時代には二方国をはじめ但馬には国や県が成立していた。そして村に神社が祀られていたのである。ではなぜ、このエリアだけが因幡と但馬ではなく、小さいのに二方国として独立していたのか。それは、人々の往来を阻む幾つもの山々に囲まれていることがその要因であることは、誰もが頷けることである。

主要国道の国道9号線は、京都市堀川五条で国道1号線から分岐し、山口県下関市までを結ぶ旧山陰道であるが、兵庫県の区間は70.1 kmと最も短いのに最大の交通の難所であったことは、明治に旧山陰道である山陰本線敷設で最後までこの区間が残っていたことでわかる。兵庫県養父市から鳥取県との県境の新温泉町までは、最長の蒲生トンネル・春来トンネル・但馬トンネルなどいくつもの長いトンネルで結ばれている。

国道を通過していると気づかないのが、神社(村社)を捜すと分るのである。国道から谷やかなり高地に入ると、地元に住んでいてもまったく未踏の高地にたくさんの集落があり、田が広がる世界が目に飛び込んでくることに驚くのである。そこはまたかつての旧山陰道であったものもある。車でもくねくねと細い山道で時間が掛かるのに、昔の人々はもちろん獣道のような山谷を歩いて、山林を切り開き、道を作り、田畑を開いて定住していったことに只々敬意を抱くのである。開拓者(パイオニア)といえばアメリカ大陸を想像するかも知れないが、我々のルーツである人々は、但馬の山間部を並々ならぬ苦労をして切り開き、新天地を夢見た偉大なる開拓者だったのだ。

よくそうした集落は平家の落人集落だといい、香美町余部の御崎や竹野町など、丹後半島にも平家の落人伝承が残る。中にはそういた歴史もあったかもしれないが、しかし、例えば但馬の高地や山間集落において、御崎でも平家の落人による以前から切り開かれていたことは、『国司文書・但馬故事記』の年代を見れば崇神天皇10年(推定BC91)に伊岐佐山(香美町香住区余部の伊岐佐神社)が記されており明らかだ。

新温泉町の神社の特徴

数年前に式内社と兵主神社を主に巡ったが、二方郡は式内社が但馬の他の旧7郡と比較して極端に少ない。
気多21、朝来9、養父30、出石23、城崎21、美含12、七美10、二方5(祭神の座数による)『国司文書別記 但馬郷名記抄 解説 吾郷清彦』
式内社では最下位であるが、ところが式外社では52社、式内社との合計57社と、旧8郡の中で最も多く、神社総数では第三位に上っている。これは国府のある気多郡(今の豊岡市日高町)から遠隔であったためと思われる。吾郷氏は「かつて二方郡が但馬国府より僻遠の地に在り、朝廷に対しあまり功献を示さなかったという事由によるものであろうか。これに対し式外社が圧倒的に多い。したがって郡としては、それだけ神社分布の密度が高いわけである」としている。
お隣の旧七美郡は、式内社8、式外社11(合計19)、美含郡式内社10、式外社30(合計40)であり、つまり、新温泉町(二方郡)の合計57社は、但馬で最も神社の数が多い。神社信仰の深い土地柄だったといえるのである。それは二方国の祖が他の7郡が丹後(当時は但馬・丹後も丹波に含まれた)の天火明命にはじまるのに対し、出雲国の素盞鳴尊が開いたとあることからはじまることからも、出雲国国家連合というべき出雲系の最東端のクニであったのだ。

私が神社を巡る目的は、神社そのもの以外の目的があるからである。その神社の由来を調べることで、その地域の歴史を調べたいからである。神社の外見や建築、鳥居、狛犬、拝殿・本殿など今の様式が造られるようになったのは、そもそもそこにある神社のルーツから言えばだいぶ後のことで、今の神社建築は、せいぜい寺社建築が発達した鎌倉期以降の神社の姿なのである。それとして研究するとして、その神社は何のために建てられたのかは、まったく別の意義があり、本題なのだ。神体山や磐など自然神や祖神・国主・郡主などの古墳のそばに祀られた神どころなのであり、各集落の起こりが見えてくるランドマークが神社なのだ。長い但馬トンネル・春来トンネルや人が定住し村が生まれてそこに氏神が祀られる。100年、1000年で物事を見ては間違う。数千年から何万年前の縄文・弥生時代というと、原始的なイメージを持ってしまうが、クニや村が生まれ、神社の原型である神籬、神場は、すでに村に祀られていたのであり、約2600年もの間、何も変わらず現在も守られてきたことが、日本の歴史を語り継いでいるランドマークなのだ。

新温泉町の『国司文書・但馬故事記』記載の神社

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小田井県神社と酒垂神社の関係

小田井県と小田井懸神社

小田井県神社の県は旧字で「懸」とは、古代の時代において施行されていた地方行政の制度で、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成される前は、国・県ムラであった。

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)は、「天火明命はこれより西して谿間タヂマに来たり、清明スアカリ宮に駐まり、豊岡原に降り、御田オダを開き、垂樋天物部命たるいのあめのもののべのみことをして、真名井を掘り、御田にがしむ。

すなわちその地、秋穂八握ヤツカ莫々然シナヒヌ。故れその地を名づけて豊岡原と云い、真名井を名づけて御田井オダイと云う。のち小田井と改む。」

 

天火明命はまた南して、佐々前原ささのくまはらに至り、磐船宮いわふねのみやにとどまる。佐久津彦命をして、篠生原しのいはらかしめ、御田を開かせ、御井を掘り、水をそそがしむ。後世その地を名づけて、真田稲飯原と云う(今は佐田伊原)。佐久津彦命は佐久宮にいまし、天磐船命は磐船宮にいますなり。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田、磐舩いわふね神社:豊岡市日高町道場)
天火明命は、また天熊人命を夜父やぶ(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。天熊人命は夜父の溪間にき、桑を植え、かいこう。
故れ此の地を名づけて、谿間屋岡原と云う(のちの但馬八鹿)。谿間のこれに始まる。
天火明命はこの時、浅間の西奇霊くしび宮に坐す。天磐船命の子、天船山命、供し奉る(式内浅間神社:養父市八鹿町浅間)。
(中略)
時に国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと少名彦命すくなひこなのみこと蒼倉魂命うかのみたまのみことは、高志こし国(のち越の国・北陸・新潟)より還り、御出石みずし県(のち出石郡)に入りまし、その地を開き、この地に至り、天火明命を召してのたまわく、
汝命いましみこと、この国をうしはき知るべし」と。
天火明命、大いに歓びて曰く、
「あな美うるし。永世なり。青雲弥生国なり」と。故れこの地を名づけて弥生やふと云う。(いま夜父)

国作大己貴命は「蒼倉魂命と天熊人命とともに心をともにし、力を合わせ、国作りの御業を補佐たすせよ」と教え給う。

二神は、天火明命に勧めて、比地の原を開かせ、垂桶天物部命に命じて、比地に就かしめ、真名井を掘り、御田を開き、その水を灌がしむ。垂穂の稲の可美うまし稲、秋の野面に狭し。故れこの地を比地の真名井原と云う(比地県はのちの朝来郡)。

天火明命は、御子稲年饒穂命いきしにぎほのみことを小田井県主(のち黄沼前きのさき県・城崎郡)と為し、
稲年饒穂命の子・長饒穂命たけにぎほのみこと美含みぐみ郡故事記には武饒穂命と書す)を美伊県主(のちの美含郡・美伊は美稲の義、また曰く水霊の義)と為し、
佐久津彦命(両槻天物部命なみつきあめのもののべのみことの子)に命じて、佐々前ささくま県主(のちの気多郡・佐々前は献神の義)と為し、
佐久津彦命の子・佐伎津彦命に命じて、屋岡県主(のちの養父郡・屋岡は弥生の丘の義、のちの八鹿)、伊佐布魂命に命じて、比地ひち県主(のちの朝来郡)と為す。
(中略)
人皇一代神武天皇三年秋八月、天火明命の子瞻杵磯丹杵穂命いきしにぎほのみこと(稲年饒穂命とも記す)を以て、谿間小田井県主と為す。瞻杵磯丹杵穂命は父命の旨を奉じ、国作大己貴命くにつくりおおなむちのみことを豊岡原に斎き祀り、小田井県神社と称え祀り、帆前大前神の子・帆前斎主命を使わして、御食の大前に仕えまつらしむ。

また天照国照彦櫛玉饒速日天火明命を州上原すあがりのはらに斎き祀り清明すが宮と申し祀る。(いま杉宮と云う。当初は円山川下流に点在していた中洲のいずれかにあったのだろうか)

*1 御田(おた、みた、おみた、おんた、おんだ、おでん)は、寺社や皇室等が所有する領田のこと

小田井県から黄沼前県へ

小田井県は、「第10代崇神天皇9年秋7月、(小田井県主)小江命の子穴目杵命アナメキノミコト黄沼前県キノサキアガタ主と為す。」(城崎郡故事記に最初に黄沼前県が登場)とあるので、崇神朝に小田井県は黄沼前県と改名されたようである。同じく城崎郡故事記に「人皇17代仁徳天皇10年(322年)秋8月 水先主命の子、海部直命あまべのあたえのみことを以て、城崎郡司兼海部直と為す」と城崎郡の初見があるので、この古墳時代(4世紀)にはすでに城崎ゴオリと称していたようである。

黄沼前きのさきとは、円山川下流域は黄沼前海きのさきのうみと呼ばれていた入江の湖沼で、旧城崎郡一帯は小田井県から黄沼前県と云われるようになった。

『但馬郷名記抄の第五巻・城崎郡郷名記抄』に、

黄沼前郷はいにしえの黄沼海なり。昔は上は塩津大磯シオツ・オオゾより、下は三島に至る一帯の入江なり。これを黄沼海キノウミという。黄沼は泥の水たまりなり。故に黄沼というなり。

黄沼前島は、黄沼島・赤石島・鴨居島・ユイ浦島・鳥島(今の戸島)・三島・小島・小江・渚浦(今の奈佐)・干磯(ひのそ)・打水浦・大渓島(今の湯島)・茂々島(今の桃島)・戸浦など、その中にあり。

他にも現在の地名に宮島がある。『但馬郷名記抄』が記された平安後期(975)には、海抜が下がり現在の地形とほぼ同じであったと思うが、これらは地名として残っていたものであろう。

この城崎郡は、明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含ミクミ郡・気多ケタ郡の区域を含め、改めて城崎郡が発足(美含郡・気多郡は消滅)したのとは異なる範囲で、旧豊岡町と旧城崎町にあたる。ここでの城崎郡は、古代から明治29年以前までの城崎郡である。

最初から豊岡だった?!

城崎(郷)が豊岡になったのは、一般には次のようにいわれている。

1580年(天正8)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤の支配となった。宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。(城崎城は木崎城とも記す。)

しかし、上記の通り、『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)の冒頭から、天火明命は豊岡原と名づけて、のちに小田井と改めていたのだ。宮部継潤は、自分の発案で豊岡と改めたのではなく、おそらく寺社の有力者から昔は豊岡原と呼ばれていたことを聞いたり、こうした古文書を読んでのことではなかったろうか。

順番でいうと、豊岡原→御田井(小田井)→黄沼前→城崎→豊岡

となるので、元通りになったとも云える。

御田井と三江(御贄みにえ

次にこれらの地理的要因による地名以外に、城崎郡には、小田井県神社を中心にした神社に関連する地名がある。それが小田井県神社とは円山川対岸に位置する三江(郷)である。

『但馬故事記』には、

人皇40代天武天皇白凰三年(663?)夏六月、物部韓国連神津主の子・久々比命を以て、城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(豊岡市畑上 式内重浪神社)

この時大旱たいかん*1に依り、雨を小田井県宮に祈り、戎器を神庫に納め、初めて矛立ホコタテ神事を行う。また水戸上神事を行う。後世これを矛立神事・河内神事と称し、歳時これを行う。

(*1 大旱 大旱魃・大干ばつ)

また、祖先累代の御廟を作り、御幣ごへいを奉り、豊年を祈り、御贄田みにへた神酒所みきとを定め、歳時これを奉る。また海魚の豊獲を海神に祈る。これにより民の飢餓を免れる。(これはあまの神社、今の絹巻神社だろう)

故れ、酒解子神さかとけこのかみ大解子神おおとけこのかみ小解子神こどけこのかみを神酒所に、保食神うけもちのかみを御贄村に斎き祀る。是に於いて各神の鎮坐を定む。
(中略)
酒垂さかたる神社 祭神 酒解子神・大解子神・小解子神
御贄神社(御食津みけつ神社) 祭神 保食神

下ノ宮なら上ノ宮はどこをさすのか

下宮という地名はどこに由来したのであろう。通常神社の上社・下社は同じ祭神である場合は、山中の元社は日常の参拝には不便なため、集落の近くに里宮・下宮が設けられることをいう。例えば富士山を祀る浅間神社の上社は富士山頂だが、下社としては富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。久々比神社がある場所が、現在豊岡市下宮であるから、下宮は久々比神社であることは間違いない。国道312号線で河梨峠で京都府との府県境あるので、上ノ宮は同じ谷あいにあったのだろうか。酒垂神社と御贄神社、そのどちらかが上宮と呼ばれ、同じ神社の上社(上ノ宮)・下社(下ノ宮)の関係にはないが、御贄が三江の古名であるので、三江郷のどこかに鎮座されていたのだろう。現存する式内社であれば、小田井県神社の御贄と御神酒を司った場所という意味では、御神酒を司った酒垂神社と久久比神社は、上宮・下宮の関係があったかもしれない。酒垂神社は創建以来、遷座の記録がない。式内酒垂神社がある今の法花寺の古名は神酒所と云った。三江郷の二つの式内社の高低差で考えれば上にある酒垂神社が上ノ宮、低所にある久々比神社を下ノ宮と呼んでいたのかも知れない。

現存せず所在不明であり、三江の古名は御贄で、御贄神社が今の三江には唯一梶原の八幡神社のみだ。当社を下社とすれば、三江村がのちに下ノ宮となった所以と考えられなくもない。現存する式内久々比神社が下宮と思われるわけだが、久々比神社創建は次の通り、これより後である。下ノ宮は古名の御贄田、御贄村、三江村である。久々比神社がのちの時代に別記されている。久々比神社創建以前に御贄神社があったようである。

「人皇42代文武天皇大宝元年(701)、物部韓国連久々比卒す。三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称し祀る。
物部韓国連格麿の子・三原麿を以て、城崎郡の大領と為し、正八位下を授く。
佐伯直赤石麿を以て、主政と為し、大初以上を授く。
大蔵宿祢味散鳥を以て、主帳と為し、小初位上を授く。
佐伯直赤石麿はその祖阿良都(またの名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申し祀る。(また荒都神社という)」とあるので、『但馬故事記』では他の式内社と酒垂神社、御贄神社が併記されている。

ということは下の宮も三江村内であったことになるが、下宮で他に御贄神社の古社地が見当たらない。御贄神社の境内に久々比神社が建てられ、のちに久々比神社の方が残ったとも考えられなくもない。

『但馬郷名記抄』に、

古くは御贄郷といい、小田井県大神御贄みにえの地なり。この故に名づく。
神田かむた(今の鎌田)・神服部かんはたべ神酒所みきと・白雲山・馬地村・殻原村(今の梶原)・火撫(今の日撫)・物部村・白鳥村・金岡森(今の金剛寺)・磐船島(今の船町か?)
※()にあるのは、現存する地名で分かる範囲である。

御贄とは神饌で、神に供する供物のこと。主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれ、儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする「直会(なおらい)」とよばれる儀式が行われる。神田が鎌田と考えるのが自然であるが、御贄田が三江村であったから、御贄田はのち神田とも考えられる。とすれば今の下宮となる。
御贄郷につながる地名としてあと、神服部かんはたべ神酒所みきとがある。

神酒所は酒垂神社のある今の法花寺であることは間違いないが、神服部はどこだろう。ここでさす神服部の神は当然、小田井県神社だ。その小田井県神社の服部であり、服部は機織部(はたおりべ・はとりべ)で衣食住の衣を司る部である。古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人、およびその活動地域をいう。「部」(ベ)が黙字化し「服部」になったという。神服部と呼ばれていた別の集落が三江郷のどこかにあったことになる。また、神服部の部は、のちに省略され、神服かむはたが今の鎌田かまたであるとも思えるし、その例が、同じ豊岡市日高町の篠民部しのかきべが篠垣、猪子民部いのこかきべが猪子垣のようにあるので、神服部の部が部民制が廃れると部落といい、省略され神服と云うようになったと想定することは充分にあり得る。

『但馬郷名記抄』の順はほぼ南から列記している。とすれば、現存する殻原村(今の梶原)から磐船島(今の船町か?)まではだんだん北になる。神田が鎌田、神酒所が法花寺、白雲山は愛宕山(今の山本)ではないかと考えたが、『但馬故事記』に「天平18年冬12月、本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎。美含二郡の壮丁を招集し、兵士に充て、武事を調練す。」とあるから、すでに山本は存在していたことになる。物部村・白鳥村が赤石・下鶴井だろう。残るは馬地村と神服部だ。現存地名では祥雲寺と庄境が残る。馬地村は馬路村とも書く。その名のとおり、交通の要所とすれば庄境しかない。

神社と田結

豊岡市の日本海に面した場所に田結たい集落がある。明治の市町村再編までの郷村制では、円山川河口から円山川下流域の広大な郷域を城崎郡田結郷といった郷名になった村である。戦国時代から安土桃山時代に、山名氏の重臣に田結庄是義がいる。山名四天王の一人で、愛宕山に鶴城を築いて城崎郡を領した。その田結庄という姓は、『田結庄系図』によれば、桓武天皇の皇子葛原親王の後裔とみえ、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、のちに捕えられて暗殺された。しかし、その子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したという。

それはさておき、田結郷はすでに平安後期に編纂された『但馬郷名記抄』にある。
田結郷は古くは伎多由郷といい、[魚昔きたゆ](魚へんに昔)貢進ぐしんの地なり。この故に名づく。小魚・[魚昔きたゆ]の地。[魚昔きたゆ]は古語で伎多由または伎多伊なり。「きたゆ」とはサメのことらしい。「きたゆ(い)」が「たゆ(い)」に転訛し田結と書くようになったたものと思われる。

上記の御贄(三江)が神社にお供えする神饌の米や穀物・酒を、田結は神饌の海産物を納めていた重要な村であった。だからこそ郷名として三江郷・田結郷と名づいたのだろう。

日本の国のおこりから、人々は山や海、風、雨、雷などの自然には神が宿ると信じ、祟りを畏れ敬う。政り、祀り、祭りと漢字がいろいろあるが、すべてまつりごとは神事とつながるものなのである。城崎郡のまつりごとの頂点は、名の通り小田井県神社であり、その御神田が三江の古名御贄田の御贄神社、神酒所の酒垂神社、海の守護神、海神社(今の絹巻神社)という関係になる。

『但馬郷名記抄』の伎多由郷(田結郷)に、大浜・与佐伎村・赤石島・結浦・鳥島・三島・干磯浜打水浦、久流比・気比浦・白神山・[魚昔きたゆ]・大渓島、桃島・小島・西刀(今の瀬戸)
余部郷として墾谷(今の飯谷)・機紙村(今の畑上)・御原村(今の三原)

鳥島(戸島)・打水(二見)の間、磐水を支え、黄沼海きぬまうみ・きぬうみとなり、巌上より滴り滝となって岩を打つ。故にその地を打水浦(二見浦)という。

城崎の古語である黄沼前を、この黄沼海の前(手前)をいうとすれば、小田井県神社あたりをさす。

最後に、黄沼前郷に記されている内容をまとめてみたい。

黄沼前郷は古の黄沼海なり。昔はかみ、塩津大磯より、しも、三島に至るの間一帯の入江なり。

天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島湧き出て、草木青々の兆しを含む。天火明命 黄沼前を開き、墾田となす。

故に天火明命黄沼前に鎮座す。小田井県神これなり。

降りて、稲年饒穂命・味饒田命・佐努命あいついで西岸を開く。与佐伎命は、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き墾田となす。(中略)黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。

黄沼前郷と田結郷の混同が見られるが、この黄沼崎島とは円山川西岸の北は奈佐川・大浜川から南は佐野までの川に囲まれた平地を島になぞらえているものだろう。

ちなみに絹巻神社の山は絹巻山といい、山の斜面一帯に上坐・中坐・下坐と分かれており、今の境内は下坐であろう。絹巻山の社が絹巻社、絹巻神社という通称で、古語は名神大海神社である。『但馬故事記』の人皇13代仲哀天皇・神功皇后の記述に、

皇后ついに穴門国(長門)に達し給う。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神と為す。水先主名の子を以て、海部直となすは、これに依るなり。

絹巻山とは黄沼前山のことであり、黄沼は黄色い泥の意味なので、黄沼前を絹巻の二字の好字に替えたものだ。城崎も絹巻も、黄沼前から転訛した同じ語源である。

神社の由来や地名を調べれば、郷土の成り立ち。歴史が分かる。その点で『国司文書 但馬故事記』『但馬神社系譜伝』『但馬郷名記抄』など関連史料のように、神社や古墳時代の風習等を克明に記したは、全国的にも珍しく貴重な史料である。

この中から、字の変更を拾うと、次のようなものがある。律令制導入により、郷村名や地名を二字の好字(縁起の良い)にすることを奨励しているが、同様に伎多由は田結に、機紙は波多(今の畑上)、墾谷は飯谷、久流比は来日、百島(茂々島)は桃島、西刀は瀬戸、鳥島は戸島、与佐伎は都留井・鶴井、楯野は赤石、(立野も楯野だと思う)、耳井は宮井、島陰は下陰、野田丘は福田、深坂は三坂、鳥迷羅は戸牧、火撫は日撫、穀原は梶原、狭沼は佐努・佐野に、黄沼前郷は城崎郷、渚郷は奈佐郷、新墾田郷は新田郷、御贄郷は三江郷。

旧日高町内に多い垣のつく区名

豊岡市日高町の旧日高町内には、頃垣、猪子垣、篠垣と◯◯垣という区名が多い。市内で区と呼んでいるのは、明治以前までの村名で、平安期に編纂された『但馬郷名記抄』によれば、他にも頃垣の近くには漆垣という村があった。また、芝も当時は柴垣、国府地区の西芝は、芝垣と書していた。同史で餘部等の部の付く村名はあるが、但馬の旧八郡でも垣の付く村名は、他では見られない気多郡(旧日高町)の特徴である。

垣は民部(カキベ)の転訛したもの

垣というと垣根や石垣、神社の周りに張りめぐらせた瑞垣等をイメージするが、『但馬郷名記抄』によれば、垣は民部(かきべ)が転訛したもののようである。篠垣は「篠民部」、猪子垣は「亥猪民部」(古語は為能己訶支部)、頃垣は「己呂訶伎」。

民部(カキベ)とは

『日本大百科全書』には、

民部とは、664年(天智称制3)の甲子(かっし)の改革で設定された身分階層の一つで、家部(やかべ)とともに諸氏に設定された。その性格・意義については諸説があるが、大化改新によって公民になった民衆への私民的支配の復活や、また後の律令(りつりょう)制の帳内(ちょうない)・資人(しじん)的な従者の源流と推測するよりも、なお広く残っていた諸氏の私民的支配に、国家権力による統制を加え、その認定・登録を図ったものとすべきであろう。民部・家部は670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)に載せられ、壬申(じんしん)の乱を経た675年(天武天皇4)、家部よりも身分の高かった民部(部曲(かきべ))は公民化された。[野村忠夫]

部は、大和王権の制度である部民制(べみんせい)がはじまりで、王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。その集団である村が、墾田永年私財法によって平民化したものが「部落」であり、朝来市物部、養父市軽部、美方郡香美町余部(50戸に満たない村の総称で固有地名ではない)などが区名として、また豪族名として日下部氏、石部、伊福部などが残っている。

 

 

豊岡の地名の由来

豊岡(とよおか)

「豊岡」は、羽柴秀吉による但馬占領後の1580年、当地を与えられた宮部善祥房継潤が「小田井」に入り、小高い丘(神武山)に築城し、城崎キノサキ(荘)を佳字・「豊岡」と改めたことが起源というが、山名氏の時代に既に「豊岡」の名称が存在したとも考えられている。「地名由来辞典」

豊岡市日高町(旧気多郡ケタグン)の北部に水上ミノカミという地名がある。八代川が上石アゲシから但馬の大川円山川に合流し、日本海へ注ぐ。豊岡市出石町にも水上という区がある。こちらは「ムナガイ」と読む。八代川よりやや下流で円山川と合流する。円山川下流域はむかし黄沼前海キノサキノウミと言われる潟湖であった。その痕跡が水上という集落名として円山川をはさんで東西に残っている。つまりかつて潟湖黄沼前海の畔であった所以だ。同様に豊岡市街地の南端に大磯オウゾ、塩津がある。川を流れる淡水に日本海の海水が混じっていたので塩津だろうし、大磯は舟で日本海に出ていた中心的船溜まりだったから大きな磯と名付けられたとも想像できる。大磯と塩津の間に京口に円山川の廃川をまたいだ橋がある。豊岡城下から京都へ向かう出入り口だった。明治まで円山川はここで大きく蛇行し、京口以南の塩津は塩津村であった。豊岡市街は円山川や支流からの土砂でできた堆積地で、太古は豊岡市日高町水上・出石町水上から塩津付近は黄沼前海の潟湖で、いつごろか水位が下がり広大な平野ができる。平安までは小田井県オダイアガタ、のち黄沼前県キノサアガタ城崎郡キノサキグンへ変わる。大磯から小田井神社辺り、三坂(古くは深坂)から戸牧トベラまでが城崎郡城崎郷。

黄沼前(城崎)キノサキが小義では城崎郡城崎郷という郷名であり、立野・女代メシロ深坂(三坂)ミサカ・永井・鳥迷羅(戸牧)トベラ・大石(大磯オウゾ)の村をさした。

江戸期の伊能忠敬日本地図などは豊岡と書かれているし、豊岡藩である。

『国史文書 但馬故事記第四巻・城崎郡故事記』・『第五巻・養父郡-』に、

天照国照彦櫛玉饒速日天火明命アマテルクニテルヒコクシダマニギハヤヒホアカリノミコト 田庭タニワの真名井原に降り、豊受姫命トヨウケヒメノミコトに従い、五穀 養桑の種子を獲り、伊狭那子嶽イザナゴダケ(岳)に就ユき、真名井を掘り、稲の水種や麦菽(まめ)粟(あわ)の陸種を為るべく、これを国の長田・狭田に蒔く。すなわちその秋瑞穂の垂穂のうまししねないぬ。豊受姫命はこれを見て、大いに喜びてモウし給わく、「あなにやし。命これを田庭に植えたり」と。
故この処を田庭と云う。丹波の号ナこれに始まる。

天火明命はこれより西して、谿間(但馬)タジマに来たり。清明宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。後、御田井(小田井) 佐々原磐船宮(気多郡)→ 夜父ヤブ(養父郡)屋岡(八鹿)ヤオカ→ヨウカ、谿間(但馬)のこれに始まる
→ 比地ヒジ県(のち朝来アサコ郡)→  美伊県(のち美含ミクミ郡)
天火明命 美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡りて、田庭津国を経て河内へ。

『和名抄』(平安時代中期承平年間(931年 – 938年))

新田・城崎・三江・奈佐・田結・餘部*1

『国史文書別記 第五巻・城崎郡郷名記抄』(975 平安期)に、
北から伎多由キタユ(今の田結タイ)、餘部アマルベ墾谷ハリダニ機上ハタガミ[今の飯谷・畑上])、黄沼前(のち城崎)、御贄ミニエ(のち三江ミエ)、ナギサ(のち奈佐)、新墾田ニイハリタ(のち新田ニッタ)郷。

天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島涌出て、草木青々の兆しを含む。天火明命、黄沼前を開き、墾田となす。
故に天火明命黄沼前島に鎮座す。小田井県神これなり(小田井県神社)。
降りて、稲年饒穂命イキシニギホノミコト(天火明命の子)*2・味饒田命ウマシニギタノミコト*3・佐努命サノノミコト*4(今の佐野)あいついで西岸を開く。与佐岐命ヨサキノミコトは、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き、墾田となす。
故に世界神となす。
鶴居岳は、また鵠鳴コウナキ*5山と名づく。鴻集まる故の名なり。黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。

中世の『但馬太田文』(弘安8年・1285 鎌倉期)では、城崎郷
佐野・九日・妙楽寺・戸牧・大磯・小尾崎・豊岡・野田・新屋敷・一日市・下陰・上陰・高屋・六地蔵の14村となり、江本・今森・塩津・立野は新田郷の新田庄となっている。

地元でも、1580年、神武山に築かれた木崎(城崎城)を宮部善祥房継潤が城崎(荘)を佳字ヨキジ・「豊岡」と改め、城も豊岡城としたと云う説が一般的に知られている。
江戸期の『伊能忠敬測量日記』には豊岡や出石・村岡城下は豊岡町、出石町、村岡町と書かれ、その他はすべて村と記している。

しかし、上記のように『但馬太田文』(弘安8年・1285)の城崎郷に「豊岡」の村名は記され、さらに山名氏の時代に既に「豊岡」の名称が存在したといえる。さらに『国史文書 但馬故事記第四巻・城崎郡故事記』には「天火明命は西して谿間(但馬)に来たり。清明宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。

この城崎郷(荘)域が明治からの城崎郡豊岡町である。ちなみに廃藩置県により丹波・丹後・但馬を合わせて久美浜県ができ、5年間ではあるが、1871年(明治4年)11月2日:但馬・丹後・丹波3郡(氷上郡・多紀郡・天田郡)が豊岡県に統合され、県庁が城崎郡豊岡町に置かれる。1876年(明治9年)8月21日:豊岡県が廃止され、兵庫県に編入する。丹後・丹波天田郡は京都府に編入。

城崎と豊岡という地名で大きな変化が江戸期から明治期にある。
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、今津村・湯島村・桃島村の区域をもって湯島村が発足。
1895年(明治28年)3月15日 – 湯島村が町制施行・改称して城崎町となる。
1950年(昭和25年) – 城崎郡豊岡町・五荘村・新田村・中筋村が合併して豊岡市が発足。
(以下、変遷は省略)

豊岡は古くは小田井で、のち城崎郷となるが、秀吉軍の但馬征伐以前から豊岡であったのだ。城崎郡城崎郷の豊岡城及び以東周辺の村名であり、城崎郡田結庄湯島村の湯嶋(湯島)は、「城崎温泉」と呼ぶようになる。拙者は旧気多郡(日高町)民なので、とやかくいうものではないが、客観的に解釈できるともいえるだろう。円山川下流域の今の豊岡市大磯から津居山まで古来から黄沼前(城崎)と呼ばれており、「城崎」を郡名として大きくみれば、城崎郡城崎郷は城崎郡の中心ではあっても、城崎郷のエリアだけを指すものではない。同じ城崎郡内である。江戸期にはすでに城崎郷(荘)豊岡町として呼ばれていたのであって、それから数百年経ったのちに、湯島村が町制施行・改称して城崎町となり、湯島を城崎(温泉)としたのであるから、自然の流れであっただろう。

豊受大神宮 外宮(伊勢神宮)、丹後では豊受姫命(豊受大神)を祀る神社が多く、京都府宮津市由良の京丹後市弥栄町船木の奈具神社、賣布神社(網野町木津女布谷)などでは祭神:豊宇賀能売神(とようかのめ)、賣布神社(京丹後市久美浜町女布)では豊受姫命、籠神社奥宮真名井神社、比沼麻奈爲神社、元伊勢外宮豊受大神社では豊受大神、丸田神社:宇氣母智命ウケモチノミコト(豊受) と記される。豊受は「トヨウケ」「トヨウカ」で、あるいは神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命ウカノミタマノミコト)と習合し、同一視される説もある。但馬では豊受姫命を祀る神社は少なく、養父神社を代表するように食物神としては倉稲魂命となっている。
天火明命は丹波から但馬に入り田を開く。豊かな岡とは、豊受の転化したものかもしれない。

小田井の周辺に田結と三江がある。
豊岡市田結(たい)は、城崎郡田結郷、古くは「伎多由」で、[魚昔](キタユ)貢進の地であった。[魚昔]とは小魚で海産物を献上する地。また御贄ミニエ郷(いまの三江) 贄を貢進する国をは御食ミケツ国といった。酒垂神社は小田井神社などに御神酒を献上していたものと思われる。

 


小田井懸神社

*1 餘部 アマルベ 戸数が50戸に満たない郷を地名を用いずに餘部(郷)という

*2 稲年饒穂命(イキシニギホ・天火明命の子) 人皇一代神武天皇三年 初代小田井県主
*3 味饒田命(ウマシニギタ) 甘美真手名の子。人皇二代綏靖(スイゼイ)天皇23年 小田井県主
*4佐努(サノ)命 味饒田命の子。人皇四代懿徳(イトク)天皇33年 小田井県主

*5 鵠(クグイ)…白鳥(はくちょう)の古名。(久々比命・久々比神社の久々比も同義だと思う)
鴻(コウ)…おおとり。オオハクチョウ、ヒシクイ。ガンの一種。
鴻鵠(コウコク)…鴻(おおとり)や鵠(くぐい)など,大きな鳥。また大人物。英雄。
コウノトリは鸛と書く。音-カンと書く。コウノトリは鳴かないので、鵠鳴山の鵠は鳴く鳥でなければならない。白鳥? コウノトリは鴻(の)鳥と書く場合もあるが大きな鳥という意味であろう。

コウノトリは、『国史文書別記 第五巻・城崎郡郷名記抄』(975 平安期)には、鶴居岳に同じく存在していたのかは不明であるが、下鶴井に近い野上に1965年(昭和40)「特別天然記念物コウノトリ飼育場」(現、コウノトリの郷公園附属コウノトリ保護増殖センター)が設置されたことは、偶然なのか、太古から何かつながる部分があって驚くのである。

式内社の廃絶と論社

延喜式神名帳に記載されている神社を式内社というが、平安期に作成されたその記載から、江戸期にはすでにその神社が廃絶となったり、その論社であるとする神社が多々ある。

当時、延喜式に記載された各地の神社が指定された経緯は、当時のその土地の歴史を知る上で欠かせない貴重な証であることには変わりない。

中でも厄介なのが、大和国(奈良県)と山城国(今の京都府南部)。ともに平城京・平安京など歴史的に大きな都が置かれた地域ではあるが、幾多の戦乱などにより、かつてそこにあったであろう式内社が廃絶したり、不詳になっている社が多いのも、大和・山城である。

したがって、その土地々々で我が村の神社こそ式内○○であるという神社がある。それを論社という。

廃絶して、旧社地は分かっているが、近隣の神社に遷座されたり、合祀されて残っているケースもあれば、まったくもって、論拠が不明なケースも有るのだ。

疑問が起きるのは、論社がいまその場所にあることがどうかではなく、歴史を知る上では、延喜式が作成された当時には式内社がどこに置かれていたのか?なのである。日本では神社こそ政治(まつりごと)の中心であり、今風にいえば役所であり行政であったのだ。政は、祀り、祭りとも同義で、要するに祭りは政ごとなのだった。単純に考えてみれば、もうアメリカナイズから開放されるべきであるといえる。私もビートルズや西洋かぶれで育った世代だが、だんだん分かってきたのは、日本の伝統文化は世界的に見ても最古の国家で、特筆すべき価値が有ることに気づいたのだ。その地域は当時は村があり、都として重要な場所であり発展していたことは間違いないからだ。論社がいまどこかは意味があるのだろうかと思うのであるが、論社があらわれるにはそれなりにいろいろな理由があるだろうし、すでに分からなくなってしまっているのである。

今日ではITの進化で、Googlemapに式内社を記録し、最短でまわるルートを表示することで気づくこともある。式内社の論社が氾濫する川岸で不自然であったり、他の式内社と近すぎると気づくこともある。

グローバル社会こそ、日本の歴史を見直し、知らなければ日本は世界に発信できないし、戦後なんともったいないことをしてきたんだろう。

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山名氏と九日市城・正法寺城

宿南保氏『但馬の中世史』「山名氏にとって九日市ここのかいち城とは」の項で、九日市の居館を九日市城と呼んでいる。豊岡盆地の中心部の近い場所だけでも城といわれるものは正法寺城・木崎きのさき(城崎、のち豊岡)城・妙楽寺城・九日市城がある。

正法寺城は山王山で、今は日吉神社となっている。文献に初めて登場するのは、『伊達文書』で、延元元年(1366)六月、北朝方の伊達真信らが南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃している。この性法寺は正法寺のことであろうとされる。

また『蔭涼軒日録』によると、長享二年(1489)九月、「但馬のこと、一国ことごとく垣屋に依る」とありながら、「垣屋衆およそ三千員ばかりあり、総衆は又次郎(山名俊豊)をもって主となす、垣屋孫四郎(続成つぐなり)いまだ定まらず」、また「朝来郡(太田垣)衆は又四郎殿を主と為すを欲する也。垣屋いまだこれに与せず」とある。
播磨攻めに失敗した山名政豊が居住していた所が「正法寺」であり、木崎城から18町余り隔たるところに所在するという(木崎城から18町というが、実際は日吉神社から神武山山頂までは約600m。1町は109.09091メートルなので×18町は1,963mだから合わないが、神武山で間違ってはいないだろう)。

寛永年間(1624~44)に著されたと思われる『豊岡細見抄』には、、山王権現宮(日吉神社)について、「今、領主京極家の産宮とす。往古はこの山真言宗性法寺という小寺あり。天正年間、社領没収の後、寺坊荒廃して退転せり。寛文年中、京極家丹後田辺(今の西舞鶴)より御入国の後、この寺跡の鎮守を尊敬ありて(中略)、今豊岡町の本居神とす。」と記されている。

拙者は、山王権現宮を祀ったとされる京極氏が治めていた丹後の宮津にも日吉山王宮があり、京極氏が日吉神社を信奉していたのは間違いないと思うし、天正年間に正法寺は消滅したので、寺跡のあとに日吉神社を建立し京極氏も守護神として大切に祀ったのだが、日本は長い間神仏習合であったから、それ以前の山名氏の頃からすでに正法寺の境内に、現在より小規模で山王権現宮も祀られていたとしても考えられなくもないと思っている。現在地名として残っている正法寺区はこの神武山にあった正法寺の寺領であろう。

但馬山名氏は、本州の6分の1を領する六分一殿と称された。その中心は山名宗全であり、出石であった。その権力はのちに京都を焼き尽くす応仁の乱の西方大将になってしまう。

因幡山名氏が鳥取城へ移るまでの本城があった鳥取市布施の布勢天神山城にも日吉神社(布勢の山王さん)があり、時氏が近江(日枝神社)から勧請したとされる。政豊は時氏の未子で但馬・伯耆守護時義から4代あと、持豊(宗全)の孫であるが、山名氏も守護である各国の城に日吉神社(山王権現)を祀っていたのではないだろうか。京極氏が丹後から豊岡へ入国するよりも以前から正法寺と共に祀られていたのではないかと思うし、今はJR山陰線で分断されているが線路以西も正法寺であり、かつてはこの寺領は広大であったように思われる。

京極氏入国以前の山名氏の頃から正法寺に現在より小規模で山王権現宮も祀られていたのではないかと思っていたら、宿南保氏『但馬の中世史』にこのように記されている。

「木崎性法寺」は、現在の日吉神社鎮座の丘である。同神社はもと山王権現と称され、その地にあった正法寺の寺域内鎮守であった。承応年中(1652~55)に同寺が退転したことにより、跡地全域が社地となったものである。

(中略)

標高40m余のこの丘には、南北朝期の特色を示す尾根郭跡が残っている。それは神社本殿の裏側、豊岡駅方向に面する斜面である。(中略)

当時から正法寺伽藍は城郭を兼ねていたものであったことがわかろう。この位置は(奈佐方面から)九日市へ通じる道を抑えるに重要な場所である。

天正8年(1580)、豊臣秀吉の家臣、宮部継潤が山名氏討伐後に城主として入城し、木崎(城崎きのさき)(城)を豊岡(城)と改めた。木崎城はのちの豊岡城で神武山にあった。しかし神武山と呼ばれるようになったのはまだ新しく、明治五年(1873)に神武天皇遥拝所が設置されたことに由来する。明治五年までは神武山は豊岡と呼ばれていたのか、天正8年以降は豊岡城となり、豊岡は町名であると同時に城山も豊岡なのか分からないが、城崎から豊岡という町名となり、その城は豊岡城となったのである。木崎という地名は往古も存在しない。古語は黄沼前キノサキと書いたが城崎きのさきとは読めないので城崎と書かず、間違ってか故意か木崎とも書いたのだろう。

『豊岡市史』によると、山名氏は「戦時には此隅山このすみやま城を本城としつつ、平時には九日市の居館を守護の在所と定めて政務の中心とした」としている。九日市の詰城は妙楽寺城なのか、木崎城なのか、三開山城なのか、あるいは此隅山城なのか?また、正法寺城は単独の城だったのか?

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』には、こう記されている。
この城崎庄域に木崎城がいつごろ築城されたのかは明らかではない。「木崎城」の文献的初見は、長享二年(1489)九月の『蔭涼軒日録』に、但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守俊豊を擁立しようとして、政豊・田公たぎみ肥後守の立てこもる木崎城を包囲している。また「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。木崎城の所在については不明とされてきたが、『豊岡市史・上巻』では「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城を別扱いしている。

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』でも、山王山の正法寺城跡と神武山の豊岡(木崎)城跡は別々に記されている。今では山王山と神武山の間に道が通り分断されているが、ゆるい坂が上下しており、両山は同じ丘陵地の西と東にある同じ城域だったのではないか?と考えられるのである。

妙楽寺城は標高70mの見手山丘陵で妙楽寺から但馬文教府にかけて、東西約400m、南北約600mの大規模な城郭であった。

さて、最後の九日市城は、城というよりは山名氏の在所で、守護所と考えられている。所在地は不明確であるが、九日市上ノ町に「御屋敷」「丁崎」という字名がある。円山川左岸の堤防上を通る国道312号線から豊岡駅へ通じる交差点から九日市中ノ町にかかるあたりで、「御屋敷」は山名時義の居所と伝え、「丁崎」は「庁先」のことで但馬守護が事務を執った居館跡に関係する場所ではないかとされている。

しかし、宿南保氏は『但馬の中世史』で、「筆者は、あくまで山名氏の本拠地は此隅山城であったと考えている。(中略)『大乗院寺社雑事記』に、政豊の動静について、「九日市ト云在所ニ在之」と記している。「在所」とは城下町に対して村部を指す対比語である。この表現から当時本城ではないところに居住していたことを表現していると解釈しているのである。

山名持豊(宗全)は、室町幕府の四職のひとりとしてほとんどが京都に居住していたので但馬守護代に垣屋氏、太田垣氏らが任ぜられているため、実際に木崎城の城主は垣屋氏であった。木崎(豊岡)城と旧円山川に挟まれた街道を南北に宵田町・京町という。京町いうのは何であろう?京極氏から京町と呼ばれるようになったのだろうが、ひょっとして四職として幕府の侍所頭人を任じられた持豊(宗全)は幕府のある京都に住んでいたから、京殿などと呼ばれていたのではなかろうか?!但馬に引責後、京から家来や文化を連れて京風にしたからなのか?宵田町は山名家の筆頭家老、遠江入道(熙忠ひろただ)(豊岡市の「垣屋系図」では隆国)の次男で宵田城主となった垣屋越中守熙知ひろともが但馬守護代として実質的に但馬を掌握していたのだろう。宵田殿の居館があったことによるものだろうし、応仁の乱以降、山名氏は出石へ追いやられ(権威はあった)、但馬の中央部である木崎城(豊岡城)周辺を制圧して但馬の戦国大名となったのである。

これまでの資料からは、明徳二年の山梨の内紛において時熈らが妙楽寺城に立て籠もっている。また長享二年には政豊が木崎城に立て籠もっていることを考えると、木崎城もその候補となろう。また九日市の対岸であるが、かつて南北朝期に立て籠もった三開山城も詰城かもしれない。出石の此隅山城は、垣屋氏が山名氏との対立で楽々前城から垣屋氏起源の鶴ヶ峰城へ移したように、但馬山名氏の起源の本城であり、出石神社の祭祀権を掌握して地域支配を図るためには不可欠の城であろう。

とにかく、祇園祭が台風の影響で心配されたが、小雨の中無事に巡行が行われた。かつて祇園祭が最初に中止となったのは応仁の乱だというからすごい話であるが、ふと西の総大将で西陣の地名ともなった山名宗全について思い出してみた。

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