多遅麻国造から国司但馬守へ

多遅麻国造から国司但馬守へ

但馬守たじまのかみ

960年頃 源経基
1010年頃 源頼光
1110年頃 平正盛
平経正
1130年頃 平忠盛
1182年 平重衡(権守)
矢沢頼康 柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主 戸田氏西 美濃大垣藩主 山口弘豊 常陸牛久藩主 浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主 遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主

但馬介たじまのすけ

? 源満頼
1224年 平有親
714(霊亀元)年 安部安麻呂
737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ)  記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。
天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。
地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

源頼光と頼光寺

頼光寺(らいこうじ) 曹洞宗

但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。 気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

気多神社

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

日本の政治と教育の基盤を作った但馬人

東大初代総理 加藤 弘之
天保7年6月23日生まれ。ドイツ文学の先駆者。幕府政治の改革を唱え、近代政治の基盤をつくりました。
日本で最初の博士号を取得。東京大学初代綜理をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。
文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官。
初代東京大学総長 1836年~1916年

出石藩主、兵学師範の家に生まれる。弘道館に学び17歳の時父親と共に出府。「書物も自分で書き写さなければならぬ」と、貧困と戦いながら勉学に励んだ。
特にドイツ学を極め、明治三年から八年まで明治天皇の進講役を務め、欧米の政体制度やドイツ語の講議をおこなっている。福沢諭吉とも親しかったが、好対照に幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになり、「政府はまず学校を多く建て、人材を育成して議会をつくるにふさわしい文明国にしなければならない」と、日本の大学制度の基礎づくりに貢献した。
1881年(明治14)、帝国大学の初代総長に就任。また官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥として頂点を極めた。
浜尾 新(はまお あらた)
江戸詰めの豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として生まれる。
1869年: 藩費遊学制度により慶應義塾および大学南校に学ぶ。
1872年(明治5年): 文部省に出仕、大学南校の中監事となる。
1873年(明治6年) – 1874年(明治7年): ヨーロッパに留学。
1874年(明治7年): 開成学校校長心得
1877年(明治10年)4月: 東京大学創立にあたり、法理文三学部綜理補として同郷の法理文3学部綜理(のちに東京大学総理)加藤弘之を補佐。1885年(明治18年): 学術制度取調のためヨーロッパに派遣される。東京美術大学(現芸大)を創立に際し、校長を拝命。幹事は岡倉天心。
1890年(明治23年): 文部省専門学務局長として、東京農林学校(農商務省主管)の帝国大学への合併を推進。東京大学第三代総長として東京大学のために尽くした。
1897年(明治30年)11月6日:蜂須賀茂韶に代わり第2次松方内閣の文部大臣となる。
1905年(明治38年)12月:東京帝国大学の第8代総長となる。
1924年(大正13年)1月13日: 枢密院議長。
1925年(大正14年)9月25日:東京府(現在の東京都)で死去。
彼の故郷中村の地に記念館として静思堂が建てられています。伊福部神社向かい。
天気予報の創始者 桜井 勉
天保14年9月13日生まれ。博学多才の行政家。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」著者・・・但馬郷土史研究の基礎。地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも大久保利通への桜井勉の進言によるといわれています。天気予報の創始者 1843年~1931年
出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。
一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天気予報の創始者で、測候所を設立しました。
晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。

憲政の神様 斎藤隆夫

兵庫県豊岡市出石町中村生まれ
明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。
明治27年(1894)7月、早稲田専門学校(今の早稲田大学)の首席優等で卒業。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。
明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
42歳で衆議院議員となり、「憲政の神様」といわれ、2.26事件直後の粛軍演説で有名。
斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。
その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説があり、
その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。

卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。

支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、  「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。 この事変の目的はどこにあるかわからない。」の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田茂内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。

1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(のち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。

『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。

  
明治館(旧郡役所)
館内では桜井勉をはじめ、出石の偉人展を常設しています。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

茶すり山古墳 (朝来市和田山町筒江)


【国指定史跡】 兵庫県朝来市和田山町筒江

北近畿豊岡自動車道和田山ICと道の駅あさごの手前南側にあります(古墳に行くには乗らずに並行する下の道から)。
茶すり山古墳は、5世紀前半に築造された円墳で、全国で六番目の大きさです。弥生前期後半の城の山古墳、弥生中頃の船宮古墳、中期末から後期初頭の但馬初の方形貼石墓の粟鹿遺跡など、古墳時代の有力な首長墓が、和田山町とその周辺に集中し、連続的に造られていることは日本国家形成期の周辺地域の歴史を考える上で重要な史料です。

5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳では近畿地方最大の古墳と言われています。全国でも第4位という大古墳です。そして兵庫県下でも最大の木棺を埋葬していました。墳丘の一部は壊されていましたが、幸いにも埋葬部は無傷で、見つかった二つの木棺からは、大量の副葬品が出土しました。

北近畿豊岡自動車道の建設に伴って発掘調査がおこなわれ、頂上部に埋葬された2基の木棺から、畿内以外では初めてとなる「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」をはじめ、多数の鉄製品、銅鏡、玉類などの副葬品が出土しました。同じ朝来市和田山町にある、城ノ山(じょうのやま)古墳、但馬最大の前方後円墳である池田古墳などに後続する、5世紀前半の但馬地域の王墓と考えられています。なお古墳は、道路の設計を変更して保存されています。
副葬品は、道の駅但馬のまほろば埋蔵文化財センターに展示してあります。

 

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

こうのとりと久々比神社

1.クグイと誉津別命

『日本書紀』』巻六 第六話 伊勢の斎宮[*1]
治世23年秋9月2日、群臣を集めて詔して言った。誉津別皇子(ほむつわけのみこと)[*2]は父の垂仁天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。「誉津別命(ほむつわけのみこと)は三十歳になり、長い顎髭が伸びるほど成長したが赤子のように泣いてばかりいる。それに声を出して物を言うことがないのは何故だろう。皆で考えてくれ。」冬10月8日、天皇は大殿の前に誉津別命と立っていた。そのとき鵠(くぐひ)[*3]が空を飛んでいた。皇子は空を見上げて白鳥を見て「あれは何者ですか。」と言った。天皇は誉津別命は皇子が白鳥を見て口を利いたので驚き、そして喜んでそばの者に詔して言った。天皇 「誰かあの鳥をとらえて献上せよ。」臣下の一人 「手前が必ず捕らえてご覧に入れましょう。」天皇 「よし。もし捕らえることが出来たら褒美をつかわす。」こう申し出た者は鳥取造(ととりのみやつこ)の祖で、天湯河板挙(あめのゆかわたな)という者だった。天湯河板挙は白鳥の飛んで行った方向を追って、出雲まで行って捕らえた。ある人は(但馬)で捕らえたともいう。

11月2日、天湯河板挙が白鳥を献上した。誉津別命はこの白鳥を弄び、ついに物が言えるようになった。これによって天湯河板挙は賞をもらい姓を授けられた。鳥取造(ととりのみやつこ)という。そして鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。

治世25年春2月8日、阿部臣の先祖である武渟川別(たけぬなかわわけ)、和珥(わに)臣の先祖の彦国葦(ひこくにぷく)、中臣連の先祖の大鹿島(おおかしま)、物部連の先祖の十千根(とおちね)、大伴連の先祖の武日(たけひ)らの五大夫達に詔して言った。

天皇 「先帝の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ・崇神)天皇は聖人であられた。慎み深く、聡明闊達(そうめいかったつ)であられた。よく政務を取り仕切り、神祇を祀られた。それで人民は豊かになり、天下は大平であった。私の代でも怠りなく神祇をお祀りしようと思う。」

3月10日、天照大御神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)からはなして、倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。倭姫命は大御神が鎮座あそばす地を探して宇陀(うだ)の篠幡(ささはた)に行った。さらに引き返して近江国に入って美濃をめぐって伊勢国に至った。

そのとき天照大御神は倭姫命に言った。

「伊勢国は波が重ねて打ち寄せる国だ。国の中心というわけではないが美しい国だ。この国に腰を下ろしたいと思う。」

そこで大御神の言葉に従ってその祠(ほこら)を伊勢国に建て、斎宮(いつきのみや)を五十鈴川(いすずのかわ)の畔(ほとり)に建てた。これを磯宮(いそのみや)という。

同様な話が久々比神社等に伝わります。

一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられています。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。

▲ページTOPへ

2.こうのとりの神社-久々比(くくひ)神社

(本当はコウノトリの神社ではないけれど…)


兵庫県豊岡市下宮
祭神:久久遲命(くくのちのみこと)

一説には天湯河板挙命(あめのゆかわぞなのみこと)を祀るともいう。式内小社 コウノトリに縁のある神社とされている。
室町末期の建物と推定され、三間社流造の本殿は、中嶋神社・酒垂神社・日出神社(但東町畑山)とともに 【国指定重要文化財】に指定されている。

ご由緒に、

コウノトリは古くは「くぐひ」と呼び、大きな白鳥を意味する言葉です。霊鳥なのでその棲んでいる土地も久々比(くくひ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(くくちのみこと)をお祀りした。これが久々比神社の始まりでした。ところで、その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(きぬさきのうみ)」といって、このあたり(下宮)はその入り江の汀(なぎさ)でした。また、あたりは樹木繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座す景勝の地でした。私たちの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久々遅命」を奉齋し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことでしょう。和名抄では城崎を「支乃佐木」と訓じています。木の神がきのさきと訛ったとも考えられます。

いつごろからクグヒ=コウノトリという誤った伝承になったのか分からない。おそらく全国からコウノトリが姿を消し豊岡のこの周辺のみ残ったことに結びついたのではないだろうか?
まず辞書で引くと、クグヒは「鵠」と書く。ハクチョウの古称で鳴く鳥の総称。コウノトリは感じで書くと「鸛(こうのとり)」。羽毛は白く翼の大部分は黒色。形はツルに似る。鳴かない鳥。

『国司文書 但馬故事記』によれば、人皇42代文武天皇大宝元年秋10月 物部韓国連久々比命卒す。三江村に葬り、その霊を三江むらに祀り、久久比神社と称しまつる。
もともと御祭神は城崎郡司(首長) 物部久々比命=久久遲命を祀った神社であるが、歳月を経て久久遲命をコウノトリと偶像化したようである。

[城崎郡司] 物部韓国連榛麿ーその子・神津主-その子・物部韓国連久々比
(式内韓国神社) (式内重浪神社)

拝殿

下宮という地名であることから上宮は創建時期が同じ酒垂神社のことをさすと思うのが妥当である。酒垂神社は、郡司・物部韓国連久々比命が創建したとしている。物部韓国連は田結郷を治めた連で、

本殿【国指定重要文化財】鳥取造の祖、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が「私が必ず捕らえて献上します。」と申し出て、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲の国で捕らえたといい、(あるいは但馬国で捕らえたともいわれる)11月2日、コウノトリを捕らえ、献上したのです。

摂社誉津別命神社はこの白鳥を弄び、ついに物が言えるようになった。この日初めて人並みのことばをお話しになられた。これによって天湯河板挙は賞をもらい姓を授けられた。鳥取造(ととりのみやつこ)という。そして鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。 実はこの話は、垂仁天皇が登場する神話として山陰・近畿各地に同様な伝承があるのです。それはいったい何を意味するのでしょう。
コウノトリは兵庫県の県鳥に指定されています。コウノトリの神社は久々比神社が全国で唯一ですが、近くに国特別天然記念物「兵庫県立コウノトリの郷公園」が」あります。こうのとりの神社が建てられた付近が最後の生息地になったのも偶然とはいえ何か不思議に思えます。

大きな地図で見る▲ページTOPへ

3.波太神社・鳥取神社

式内社 祭神 角凝命、応神天皇大阪府阪南市石田167

摂社 鳥取神社「天忍穂耳命」

鳥取部の本社。古来、鳥取大宮と称し又は波太八幡宮の社等の称号あり、波太神社は鳥取氏の祖角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀り、延喜式内の旧社にして国内神名帳に神階正四位下波太社とあり、鳥取大宮の称は鳥取郷の総社たるを以てなり、御鎮座年代詳かならさるも社伝(妙法院二品尭延親王の撰したるもの)に曰く、
和泉國日根郡鳥取郷者天之湯河板挙居地也、湯河板挙為垂仁天皇子誉津別命捕くぐい献之始皇子乃長無言於是発言天皇大悦、即賜姓曰鳥取造事日本書紀湯河板挙社建於波太むら祭祖神角凝命延喜式神明町所謂波太神社是也、古、紀、其他の史書に曰、垂仁天皇の時角凝命三世の孫天湯河板挙、皇子誉津別の為にくぐいを出雲(或は云但馬)に捕えてこれを献ぜしかば天皇其の功を賞して鳥取連の姓を賜ふ云々。時に天湯河板挙一族の居住地たる大字桑畑の奥の宮に祖神角凝命を奉祀す。 これ波太神社の起源なり。 波太は畑の義にて鎮座地を社名としたるなり。

天湯河板挙命はコウノ鳥に因果を言いふくめ、雄と雌の二羽を大和の都へ連れかえった。さて、誉津別王は大喜びで毎日コウノ鳥と遊んでいたが、そのうち満足に口がきけるようになり、ほぼまともな知恵も付いたようであった。

天皇は胸をなで下ろし、「誉津別もこれまでになれば、やがて安心して朕の位を譲ることも出来よう。これもコウノ鳥のお陰よ。いや、天湯河板挙がおらねば叶いはしなかったことじゃ。彼には十分褒美をとらさねば」と考えた。

それまでは極低い位であった天湯河板挙命に『鳥取造』(とっとりのやっこ)という姓と、あわせて和泉の国の南部の一地方を与えた。

天湯河板挙命にとって、和泉の国のそのような土地にはほとんど馴染みが無いが、初めて我が領地を与えられたのである。そんな訳で大いに感激した。

「天湯河板挙よ、その方に遣わす和泉の地はこの大和の都のごとく開けた土地ではあるまいがあのコウノ鳥を捕らえた根気で、必ず当地に劣らん楽土を築いて貰いたい。いやいつの日にかその大和より発展する地と朕は信じておるのじゃ」
と天皇に励まされ、天湯河板挙命は一族郎党を引き連れて、和泉の国へ向かった。
そして、先ず住み着いたところは、畑村(はたむら)であった。

畑村というのは現在の桑原である。現在でも尚片田舎のイメージの残る土地であるから、天湯河板挙命が入った当時はどのような状態であったものか?……おそらく苦しい開拓の日々であったろう。

その苦しい中でも、深く先祖に感謝し、鳥取造の祖神である角疑命(つのこりのみこと)を祭った。

これが波太神社の起こりであるらしい。波太とは、起源が畑村であるのでそう名付けられたものと思われる。そして畑村はあまりにもへんぴな土地柄なので、段々と村が海岸の方へと広がって行き、東鳥取村(町)となり、そして阪南町(阪南市)へ合併した。
尚、山陰地方の鳥取市付近は、天湯河板挙命がコウノ鳥を捕らえた所と考えられる。-「鳥取り物語」育英社さん-

その後、永徳年間(1381~84年)に兵火のために、焼失。南朝方であった鳥取氏は山名氏清に攻められ滅亡した。残された同氏の耆宿は波太村より、当地に移し、貝掛の指出森より八幡宮を勧請し、相殿に合祀した。

1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻め兵火で焼失、1600年(慶弔5年)豊臣秀頼の命により片桐旦元が修復を加えたが、1638年(寛永15年)に本格的に再建された。
波太神社の名は畑村から付けられたとされ、秦氏の関係が伺えます。大きな地図で見る<http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>▲ページTOPへ

4.丹後に似た伝説

由緒

『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。現在の網野神社付近はかって墨江(離湖)とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口でした。当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社でした。現社地の東南800m。当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾(はやお)神社」神として祀っています。

網野地名の起源が語られています。「天湯河板挙命(アマノユカワタナノミコト)」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では“山辺(やまのへ)の大(おおたか)”という名で現れる)「垂仁帝の子誉津別王(ホムツワケノオウ)は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造(トトリノミヤッコ)の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を追ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)

但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を迫った道筋は、但馬八鹿(ようか)町の網場(なんば)和那美(わなみ)神社、豊岡市森尾 阿牟加(あむか)神社、同下宮(しものみや) 久々比(くぐい)神社を経て網野(松原村)に到り、鳥取(現弥栄町)でこれを捕えたというものです。

垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ホムツワケノオウジ)は、なぜか成長しても言葉が話せませんでした。天皇は残念に思い、とても可愛がっていました。ある日、大きな白鳥が鳴きながら群れをなして飛んで行きました。これを見た皇子は初めて何か言いました。それは「あれは何という鳥か」と言われたように聞こえ、天皇は驚き、大変喜びました。そこで、天湯河板挙(あまのゆかわたな)という者にこの白鳥を捕まえる役を命じられました。天湯河板挙は白鳥を追って但馬から松原村(網野町)に来て水之江に綱を張り、日子生命(網野神社の祭神のうち一柱)の御神霊にお祈りし、とうとう白鳥を捕えて天皇に献上しました。皇子は白鳥を友達のようにして遊び、ついに話すことができるようになりました。天皇は大喜びされ、天湯河板挙に厚く賞を与え、鳥取造(とっとりのみやつこ) という姓を賜りました。「網野神社明細帳」に、白鳥を捕らえようと網を張った地を以後「網野」といい、白鳥を捕えた地を「鳥取(弥栄町鳥取)」というようになったと記されています。

垂仁天皇は大和国纏向宮(まきむくのみや)で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。 田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」(丹後木津)に至っています。

[註]

[*1] 斎宮は斎王(今でいう宮司)のこもる宮。

[*2]…誉津別皇子 のちの応神天皇。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(サホヒメノミコト。彦坐王の娘)。
[*3]…鵠(クグイ・クグヒ)は現在の白鳥あるいはコウノトリの古名です。鴻と共に大きな鳥の代表として引用された中国の故事成語で有名。片手刀の一つ。性能は相方の鴻と極めて近く、敏速性は勝る。
鴻(おおとり)はその名が示す通り大型の水鳥で雁の近縁種。菱食い(ひしくい)とも呼ばれる。片手刀の一つ。鴻ノ鳥とは、大きな白い鳥という意味。
京丹後市観光協会

5.鳥取造

 このコウノトリの伝説はお隣の鳥取県にもある。こちらが伝承の本家なのかも。

「鳥取」の語は『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇に「鳥取造」、「鳥取部」がみえる。

『日本書紀』垂仁天皇二十三年九月から十一月の条にかけて「鳥取」の起源説話がみえる。

誉津別王子が成人しても言葉が喋れないことを天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発した。天皇、喜びて、その鳥の捕獲を命じた。天湯河板挙が鳥を追いつづけ各地を巡り、ついに出雲の地で捕獲に成功した。この功績から「鳥取造」の称号(姓:かばね)を拝命した。『記』にも同類の説話が見えるが、結末は違っているが、上記の久々比神社の御由緒と同じです。単なる偶然かも分からないが、同じ気多郡という郡名がそれぞれ存在していた。

鳥取県のHPに鳥取県の名前の由来があった。
「鳥取」とは、大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する人たち「鳥取部(トトリベ)」に由来しています。』…鳥取県の名前の由来は、平安時代に書かれた和名類聚抄に出てくる因幡国の「鳥取郷」まで遡ることができます。そして、その「鳥取郷」という地名は、古代、白鳥を捕らえて朝廷に献上する「鳥
取部」という部民の住んでいた土地に由来するといわれています。ちなみに鳥取県史によると、「鳥取部」は、河内・和泉・伊勢・美濃・上野・越前・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・備前・備中・肥後など広く日本中に分布していたそうです。北海道・福島県・群馬県・千葉県・富山県・愛知県・三重県・京都府・大阪府・兵庫県・鳥取県・岡山県・愛媛県・熊本県・佐賀県に、「鳥取」を含む地名がある(あった)ことが分かりました。なんと、全都道府県の約3分の1にあたる数です。ところで今回、このほかにも古事記中に2か所、「鳥取」という言葉を見つけました。「鳥取」という地名の起源は「鳥取部」にあるはずなのに、「鳥取部」より前に「鳥取」という地名(や神名)が出てくるのは面白いなと思ったので、ちょっと紹介しておきます。

ひとつは上で紹介した話の少し前で、垂仁天皇の御子が「鳥取の河上宮」で太刀を千振つくらせた、という記事が出てきます。「鳥取の河上宮」というのは、和名類聚抄に出てくる和泉国の「鳥取」で現在の大阪府阪南市に当たると考えられています。日本中に数ある「鳥取」の中でも、最も由緒ある地名といえるかもしれません。垂仁天皇の在位は(西暦で)紀元前29年から紀元70年ということですから、阪南市内にある「鳥取」、「和泉鳥取」、「鳥取中」、「鳥取三井」といった地名は2千年の歴史を持っていると言えるかもしれません。また、古事記の中で、大国主命は6柱の女神と結婚していますが、6番目の妃は「鳥取神」という名前です。この「鳥取神」という神は他の古代史料に現れないため、残念ながらその名の由来までは分からないようですが、大国主命の最初の妃が「稲羽之八上比売(因幡の八上姫)」で、最後の妃が「鳥取神」というのも、なんだか不思議な縁を感じませんか。

ただ、これは神話の世界を含んでいますので、本当に2千年の歴史があるかどうかは、残念ながら誰にも分かりませんね。では、古代の史料で裏付けられる最古の「鳥取」はどこになるのでしょうか? 調べてみたところ、どうやら藤原宮跡から出土した木簡に記されている「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」が最古のもののようです。

これは、現在の京都府京丹後市弥栄町鳥取に当たると考えられていますが、藤原京といえば、694年に飛鳥京から遷都され710年に平城京へ遷都されていますから、京丹後市弥栄町の「鳥取」は、正真正銘1300年の歴史を誇る地名と言えるのではないでしょうか。「太田南古墳」の近くです。

<http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>▲ページTOPへ

6.出雲大神の祟りを畏れて修理した

それは、七世紀の飛鳥に君臨した女帝・斉明天皇にまつわる話です。
この『日本書紀』の記述には、誉津別皇子の「口が利けない」こととクグヒの伝承と似ています。誉津別皇子の話では、その原因が「出雲神の祟り」であったとは記されていませんが、『日本書紀』編者が、出雲の祟りと知っていたらしいことは、意外な場所からはっきりします。

ある晩、斉明天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占(ふとまに)[*4]で夢に現れたのが何者であるか占わせると、それは出雲大神の祟り(たたり)とわかった。天皇は皇子を曙立王(あけたつのおう)[*5]、菟上王(うなかみのおう)とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売(ひながひめ)と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神(出雲)の宮を造らせた。また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

要するに出雲大社を修理(建立)したという。これに続けて、出雲のキツネが意宇(おう)郡の葛(かずら)を食いちぎって去っていった話し、犬が死人の手首を、ある神社に置いていった話しなどが載っています。不気味な内容ですが、なぜ斉明天皇が出雲大社を修繕したのか、その理由がはっきりと書かれていません。ただ、どうやら垂仁天皇の故事にならったらしいことは分かっています。というのも、斉明天皇には建皇子(たけるのみこ)という孫がいて、生まれて以来口がきけなかったこと、しかも早逝し、斉明天皇は深い悲しみに包まれていたと『日本書紀』は記しています。

要するに、斉明天皇は建御子(たけるのみこ)の不具は、出雲神の祟りに違いないと憶測していたのでしょう。それほど、「出雲は祟る」という伝承は、強いインパクトを以て伝わっていたことを証明しています。

そしてそれは、平安時代に至っても変わることはありませんでした。平安時代中期に記された『口遊(くちずさみ)』には、有名な「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という言葉がありました。当時の建物の大きさを語ったもので、出雲大社が一番、大和の大仏殿が二番、京都の平安京の大極殿が三番目の大きさだったという意味です。出雲大社が京都の天皇がおわします大極殿よりも大きく、日本一の大きさを誇っていたといいます。『日本書紀』では、「天皇と同等の宮を建てろ」と出雲国造に脅していたのが、時代とともに、いつしか、「天皇のものよりも立派な宮」になってしまっていたわけです。「出雲」が「天皇」を抜いてしまったかというと、「出雲」が祟る神という伝承が恐怖を呼び、さらに増幅されていったからでしょう。

近年発掘された柱から、室町時代には、出雲大社の本殿が、約48mもあったとという伝承が証明されたのです。伝承の内容や(出雲)大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神(おおくにぬし)の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。
記紀に出雲について相当あてています。

7.記紀に崇神天皇と垂仁天皇の話が集中したワケは

コウノトリは、鴻の鳥と書きますが、古くは鸛(こうのとり)、鵠(くぐい)はハクチョウの古名です。和名抄にはすでに「白鳥の異名。」と記されているように。鵠(くぐい)はコウノトリではありません。ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないため、クラッタリングと呼ばれるくちばしをたたく行為を行います。

崇神天皇と垂仁天皇の代になって初めて、記紀に日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、このころ全国規模(九州から東日本)の政権になったのではと考える説もあります。また、大漢国(丹波国・越・近江)中心の話が集中的に記されています。

垂仁天皇は、『古事記』では153歳、『日本書紀』では140歳、『大日本史』では139歳で崩御と記されています。これは「春秋年」といい、古代の日本には6ヶ月をもって1年とし、1年を2歳とする数え方があったとするもので、当時の年数は実際は2で割ると、それぞれの年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になるとする説です。

また、記紀が編纂されたのが712年・720年と垂仁天皇在位と数百年ものちのことであり、風土記などの多様な伝承を集めているので、整合性がとれない矛盾点が多くあるのは承知で、天皇は神であり人間の寿命とはかけ離れた絶大な存在であるとしたのか、日本という統一国家がまだ成立していな時代であり、複数の王統を一息に神武・崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后に集合したのか、苦心があります。また、この崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后の代に丹波・但馬の記述が集中していることから、この時代に丹波・但馬がヤマト王権に組み入れられたのではないでしょうか。

9代開化天皇の皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと。物部氏の祖・大綜麻杵の女)で次の后はやはり丹波から大県主由碁理の女 丹波竹野媛(たにわのたかのひめ。)で丹波からです。10代崇神天皇は丹波から后を娶ってはいませんが、四道将軍の一人 丹波道主王を派遣して丹波を平定させたということは、一時期、丹波勢力と不仲になっていた丹波を支配下におくことに成功したことを意味したのだろうか。次の垂仁天皇になって、にわかに実に沢山の皇后・后を娶っていることです。先代の10代崇神天皇が、皇后一人、后二人のみで、しかもまったく丹波に姻戚関係が見られないのに、11代垂仁天皇になるとにわかに最初の皇后と二番目の皇后、3人の后と宮人までが丹波(丹後)から同じ丹波道主王の子の姉妹で同じ日に宮廷に入っている、神功皇后は天日槍の後裔とするなど、どう信じていいものか?それだけ丹波(但馬を含む)との関わり方を誇張したかったのだろうか。籠神社から伊勢神宮に遷宮したことへの(祟りを畏れて)謝意だろうか。

『古事記』では、垂仁天皇は即位すると丹波から狭穂姫命を娶り、但馬の天日槍から始まり、本牟智和気が生まれると河内から出雲・因幡・但馬・丹波に向かわせてクグイを捕らえます。

そして、出雲から野見宿禰を見つけて相撲をとらせる。
狭穂彦と狭穂姫命によって暗殺されかかり、狭穂姫命は焼身自殺したのに、いくら愛していた狭穂姫命が進言したからといって、姫の兄弟の丹波道主王から娘をもらう。それだけで政略的なのに、しかも一人でいいものを、5人も一度に娶るなど信じがたい話ですが、それだけ日本海の要衝・丹波・但馬との政略結婚で姻戚関係を強固なものに築き上げたかったということだろうか。

それは何が何でも丹波を朝鮮諸国との要害かつ鉄資源を手中に収めねばならない理由だったのではないだろうか?

日葉酢媛が丹後与謝宮(籠神社)から伊勢神宮に移す。
それは出雲神祇の力を丹波・但馬から遠ざけたかったのではないだろうか?

出雲神社を建てて、祭神をスサノヲから大国主に替えて国作りを大国主に、出石神社に大和から長尾市を派遣して、祭神を天日槍に代えて?、但馬を切り開いたのは天日槍であるとすり替えているからだ。

その後19年後には山背(山城)から国造であろう大国不遅から二人の娘をもらうという記載は、丹波はそのころ支配下として安定したので、次は丹波と大和を結ぶ山城を臣下に置くねらいとも読める。
それは、こう考えられる。

丹波はようやく制圧できたが、但馬の王はなかなか言うことを聞かない。田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせるが、ようやく田道間守が帰ってきたときには天皇はすでに崩御された後だった。手に入れたら許してやろうと思っていたのに。時すでに遅し。だから神様をオオナムチ(大国主)からヒボコ(天日槍)に替えよう。常世国の非時香菓、それは新羅征伐に向かっていたことを表しているのか?大和傘下にしたことを意味するのでは。

[註]

[*4]太占(ふとまに)…事記や日本書紀に吉凶を占う占法として登場する神道の秘法で、ト骨(ぼっこつ)と呼ばれるものの中でも鹿の骨が多く、鹿ト(かぼく)と呼ばれ、多く使用されている。鹿の肩甲骨を焼き、串で刺したうえ、オキにかざしその亀裂の大きさや方向を持って吉凶を判断する。
[*5]…曙立王(あけたつのおう)は、『古事記』に登場する皇族。大俣王の子で、菟上王と兄弟。開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。三重県多気郡多気町の式内社・佐那神社は天手力男神と曙立王を祀る。

『古事記』によると、唖の誉津別命が出雲国に赴くさい、そのお供をするべき人物として占いに当たったので、曙立王がウケイをすると、一度死んだサギが蘇り、また一度枯れた樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に大和師木登美豊朝倉曙立王という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという。

一説に曙立王が唖の皇子の伝承と関係を持っているのは、伊勢の佐那造がこれを語り伝えたためであるとされる。伊勢の佐那(三重県多気郡)近辺は古来より水銀の産地として知られるが、尾畑喜一郎氏は佐那造が古代の水銀採掘に携わった人々であるとし、気化した水銀を長時間呼吸することによって喉の病を患い、その職業病が誉津別命と曙立王の伝承を結びつけたとしている。

<http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>

出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

[catlist id=33]

新島八重と川崎尚之助

NHK歴史秘話ヒストリア
「悪妻伝説~明治のハンサムウーマン 新島八重」

 ある時は銃を構えた“女戦士”、ある時は日清・日露戦争の“従軍看護婦”、またある時は“茶道の先生”。「天下の悪妻」ともうわさされた女性の実体は、同志社の創立者・新島襄の妻・八重。勝手気ままに見える生き方だが、女は男に従うことがあたりまえとされた当時、八重は新時代・明治にふさわしい“ハンサムウーマン”だった。自分らしい生き方を求め続けた知られざるヒロインを通して描く、女性たちへのエール。-NHKより

 ここでは取り上げられていなかったですが、前夫だった川?尚之助がいます。

 川崎尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

 『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。
 兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

 安政四年(一八五七)、川?尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。
 戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

MAZDA ZOOM-ZOOM広島と但馬ドーム

阪神タイガースの本拠地甲子園球場がリニューアルし、8日にタイガースの初試合がありましたが、11:10の大逆転には感動しました。
広島カープも4月10日新しいスタジアム、MAZDA ZOOM-ZOOM広島で行われます。
設計したのは兵庫県立但馬ドームと同じ設計事務所だそうです。


兵庫県立但馬ドーム


兵庫国体女子ソフトボール大会

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たじまる】黒部の太陽と太田垣士郎

今晩3月21日(土)9時から、フジテレビ系列で記念ドラマ「黒部の太陽」が香取慎吾さん主演で放送されますね。
映画は小学生の時に学校で映画館鑑賞しました。

太田垣士郎

明治27年(1894年)2月、兵庫県城崎町(現・豊岡市)に生まれる。五高、京都帝国大学経済学部卒業。日本信託銀行入行後、阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移り、1946年社長。

1951年、電力界の再編成が行われ、関西電力が誕生すると同時に初代関西電力社長に就任。太田垣は、戦後の電力不足事情をいち早く見抜き、大規模な水力発電所の建設に踏み切った。岐阜県の丸山水力発電所である。当時としては最大規模であった。関西電力がスタートした当時の資本金は17億円だったが、スタートしたばかりの時に、資本金の10倍もの資金を投じて大水力発電所の建設に着手したのである。

終戦後の復興が目覚しい1950年代になり、関西地域の電力事情が逼迫する状況を目の当たりにした太田垣が、その打開策として手がけたのが世紀の難工事といわれた、黒部川第四発電所(いわゆるクロヨン)建設である。クロヨン建設に当たっては太田垣は「経営者が十割の自信をもって取りかかる事業、そんなものは仕事のうちには入らない。七割成功の見通しがあったら勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるもんじゃない」と言って決断したのは有名な話である。石原裕次郎&三船敏郎主演映画黒部の太陽(監督:熊井啓)で全国に知られるようになる。関西経済連合会会長就任、なにわ賞、藍綬褒章などを受賞。故郷の城崎温泉ロープウェイの発案者でもある。駅に太田垣士郎翁資料館がある。

地元但馬の関西電力の後輩社員に、故佐々木良作さん(民社党書記長・元衆議院議員)などがおられます。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

気多神社


平成20年(2008)12月31日建立
新しい鳥居が建てられていました。

気多(氣多)神社[ケタ]

兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
式内社 但馬國総社[*1] 郷社 気多大明神
御祭神 「大己貴命」 境内社には、八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社等が祭られている。

「国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。
国道482号線を出石方面に鶴岡橋を渡るとすぐ、但馬国府が置かれた推定地の対岸にあります。かつては、円山川(蓼川)の畔に船着き場がありそこから参道がつながっていたのでしょうが、円山川堤防の上を通る国道482号線のすぐ下にある道に挟まれています。国道からは神社に通じる広い道がなく、鳥居が道路のすぐ下なのですが神社に行く経路は、に鶴岡橋を渡ると上郷の村に入る市道に降りてから左折し畑の農道で行けることを発見するまで、ずいぶんかかりました。かつては但馬総社の立派なお宮で川が交通路だった時との移り変わりが気の毒なようです。

御由来:創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命(あしはらのしこをのみこと))と天日槍命と国占の争ありし時、命の黒葛此地に落ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し、中世以降総社 気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有したりき 明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。
大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。

現在の社殿は延宝五年(1677)の再建であり、大正十二年に大修理を行い現在に至っている。現存する鰐口(わにぐち)は応永三二年(1425)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多神社と社名を改め、明治五年郷社に列せられた。

惣社気多神社がある現在の豊岡市日高町上郷地区に関係があるのは間違いないが、口伝によると、気多神社は古くからここに鎮座していたのではなく、移転してきたものだというが、元の場所はといえば分明していない。

 「日高町史-気多郡に隣接する養父神社や出石神社には、神戸が伏していた。一定数の封戸が割り当てられ、その戸が納める租税がその神社の収入となっている。気多郡の中心的な神社は、その名前からして気多神社が中心的な地位を持つ神社だったろうが、神戸は寄せられていない。

---それらの神社は但馬の平野部の、どちらかといえば盆地性の比較的まとまった地域の中に存在していて、その土地の有力豪族から祭祀を受けていたものだった。この意味で、気多神社を奉じたと思われる気多氏の勢力は、養父神社や出石神社を奉ずる祭祀集団に及ばなかったものであろう。だから気多神社には、但馬国府の膝元に存在し、全但馬の中心的な場所を占めていた(惣社)にも関わらず、神戸の施入がなかったのである。」

太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命」と称させていた。
新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)
総社(惣社)とは
各所の神社に奉斎する祭神を、一箇所に勧請し合祭した神社の称。惣社とも書く。一般には一国の総社を指していうが、一郡・一郷の総社、寺院の総社、私人宅の総社などの例もある。各国総社の起源については諸説があるが、平安中期から末期にあると推定され、国司が関与した管内諸社の神霊を、国府に近い便宜の場所に勧請し、奉幣・参詣の簡便をはかったものといわれている。『白山之記』によれば、加賀国司の使が毎月朔日に一ノ宮白山社・二ノ宮菅生石部社など国内八社を巡拝していたが、その煩らいを廃するため、国衙に接する一所に合祀し、府南総社と名づけたとある。なお武蔵国総社大国魂神社祠官・猿渡容盛(明治十七年七十四歳歿)の『諸国総社誌料』は、未定稿ではあるが国別に資料を揚げ考証を加えている。 -『神道辞典』-

注連縄(しめなわ)


出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。
しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社


奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)


【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼
延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。
たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は神道に変わり聖徳太子は蘇我氏と仏教によって国をまとめようとしてのです。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28

前:もう一つの日本(ひのもと) 次:破壊されたミステリー 銅鐸
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

静神社(しずかじんじゃ)・子午線塔


日本標準時 最北端の塔

静神社に向かう途中、最北に子午線塔が建てられています。東経135度 北緯35度41分


京丹後市網野町磯
御祭神 静御前

当地で禅師の娘として生まれたとされる静御前は、父の死後、母とともに京都へ上り白拍子となりました。その後、舞を源義経に見そめられ、側室となりました。しかし義経は兄・頼朝に追われ、子どもも殺されてしまいます。

悲しみにくれ故郷の磯に戻った静御前は、二十余歳の若さでこの世を去りました。義経への愛を貫いた静の気丈さ。それをはぐくんだ故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいます。また、周辺には静の庵跡に建つ静御前生誕の地の碑、義経が船を着けたといわれている入艘の浜と沖の飛び岩があります。

[googlemaps http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&gl=jp&ie=UTF8&oe=UTF8&msa=0&msid=201168065864897767226.0004a89f7ae05c06a274e&brcurrent=3,0x5fffbaa7cabd0503:0xb9417724454eab50,0&ll=35.685954,134.991331&spn=0.0244,0.036478&z=14&iwloc=0004a8b3d9adb0ecba6dd&output=embed&w=425&h=350]

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。