室町-2 守護大名 山名(やまな)氏

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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守護大名 山名(やまな)氏

守護 山名氏垣屋氏太田垣氏八木氏田公氏宿南氏
田結庄氏塩冶氏篠部氏丹生氏長氏下津屋氏磯部氏ほか家臣但馬の鉱山但馬征伐大航海時代と世界経済

概 要

国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
目次

  1. 山名氏の起源
  2. 南北朝時代と四職
  3. 六分一殿
  4. 此隅山城
  5. 明徳の乱と山名氏の再起
  6. 応永の乱
  7. 生野城

但馬山名勢力図 クリック拡大

山名氏の起源

二つ引両/桐に笹(清和源氏新田氏流)
■山名氏系図
 山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。
義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。
源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのであろう。鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされるが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。
元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡、翌建武元年に後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足しました。倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発向、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。尊氏が京都を制圧すると後醍醐天皇は吉野に奔って南朝をひらかれ、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開きました。(南北朝の対立)。建武四年(1337)、時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、時氏は山名氏発展の端緒を掴んだのです。二代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡国・伯耆国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護となりました。

南北朝時代と四職

 暦応四年(1341)、幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、時氏は出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。その後、出雲・隠岐守護職は高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられ、時氏は丹波守護に補任されました。そして、貞和二年(1345)には侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました。

やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、観応元年(1350)、観応の擾乱が勃発しました。擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息したが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ時氏は尊氏に味方していましたが、のちに直義派に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。

山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下におきました。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。
時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。

山名時氏(六分一殿、但馬山名初代)

応安三年(1370)、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。永和二年(1376)、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、

  • 惣領を継いだ長男の師義は丹後国・伯耆国、
  • 次男の義理は紀伊国、
  • 三男の氏冬は因幡国、
  • 四男の氏清は丹波国・山城国・和泉国、
  • 五男の時義は美作国・但馬国・備後国
    の守護となりました。
    師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
    そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名の支配下に置かれたようです。但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
    時義は父時氏が亡くなったあと、惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代を但馬に送っていた記録もあります。時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
    そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。

応永の乱

 応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。
室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。そして、明徳2年(1391年)、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。
山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです。乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた時熙は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。
垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかであやうく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。その後、時熙は幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。
神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。
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此隅山城(このすみやまじょう)

 此隅山城は、兵庫県豊岡市の出石坪井にある山城。のちに別名「子盗城(こぬすみじょう)」と呼ばれましたが、これは不吉な呼び方としてのちに築城した城には有子(こあり)山城と名づけています。国指定史跡。文中年間(1372)ころ、但馬一の宮・出石神社に近い、北西にある独立した丘陵、標高140mの此隅山に山名時義が築城しました。南は気多郡・播磨方面、西方は豊岡・因幡方面、東方は丹後・丹波の三方が見渡せる山頂にあり、主郭は東西10-15m×南北50mで北西側に高さ2mの段差で区画された西郭があり、また南側には高さ3mの切岸で区画された郭が3-4段配置され、この部分が城の中枢と考えられます。大手は南麓から主郭南側に繋がるコースが想定されます。

此隅山城は但馬守護職に補任された時熙が、この頃に築いたと考えられます。以後山名氏の居城となりました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には各国から2万6000騎の西軍の軍勢が集まり、山名宗全は当城から京都へ出陣しました。永禄12年(1569年)、山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、より高所にある有子山城に居城を移し、城は廃城となりました。
そして時義の築いた此隅城は、規模こそ大きなものではありませんが、その占める意味は山名王国の首都ともいえる地位にあり、応仁の乱などで京都に出陣する時には、その大根拠地となり、宮内を中心にいちど兵力を結集してから隊をつくって出陣したといわれます。
持豊(宗全)が家督を継いで間のない永享八年(1436)、出石神社に奉納した願いの文が神床家に伝わっており「自分が父祖重代の後を継ぎ、親族の首領に立ったが、神明の助けがなければつとまりません。なにぶんお加護をお願いします。」とあり、これは山名宗本家の首領となった持豊(宗全)が但馬の一の宮に祈願したものです。
持豊(宗全)はほとんど京都におりましたが、享徳三年(1454)ごろには但馬に在国しております。これは最大の勢力となった持豊(宗全)に将軍義政が脅威を感じて討伐しようとしたのですが、のちに応仁の乱で対立する細川勝元の計らいで中止されます。そのため将軍から「但馬に在国して上洛すべからず。」と命じられ、本国の但馬に帰って、かわりにこの教豊(のりとよ)を京都に出仕させました。

明徳の乱と山名氏の再起

しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になるのでした。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになりました。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去しました。その子の義幸、氏之、義熈、満幸は若年であったため、中継ぎとして弟の時義が惣領となりました。これに対して、長男の氏清とその婿の満幸が不満を示します。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのでした。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いでした。 氏清の弟・山名時義が後を継いで山名氏の総領となり、氏清は丹波、和泉を領する守護に命じられましたが、総領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたといいます。
明徳元年(1390年)三月、山名一族で時熈に対立する満幸と叔父の氏清が、時熈を将軍義満にざん訴しました。義満は待っていたとばかりに、時義が生前将軍に対して不遜であり、後を継いだ時熙とその弟の氏幸も不遜な態度が目立つとして、討ち手の大軍を但馬に送り、時熈と氏幸の討伐を命じました。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白でしたが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか?」と確認したうえで出陣しました。
時熙と氏幸は挙兵して戦いますが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏幸の本拠伯耆を攻め、翌明徳2年(1391年)に時熙は但馬を逃れ、剃髪して備後に引きこもりました。戦功として氏清には但馬国と山城国、満幸には伯耆国と隠岐国の守護職が新たに与えられました。
ここで勢力を占めた満幸は、勢いに乗って出雲にある京都の仙洞御所領(上皇の領地)を占領しました。なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、代わりに今度は氏清・満幸らを挑発しました。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃しました。これが明徳の乱です。そして元中8年・明徳2年(1391年)、氏清は足利義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になりました。この満幸を討つために、備後に引きこもっていた時熈らを許し、幕府軍と協力して討伐に当たらせました。
この乱によって、但馬国衆は山名氏清方と山名時熙方に分かれて相分かれて戦ったことで、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていました。したがって、優秀な人材に対する時熈の期待は大きかったのでした。時熈は奮戦めざましく、満幸軍を破って敗走させました。この戦いで時熈の家来垣屋弾正は、弥陀(みだ)の名号や曼陀羅を袋に入れて首にかけて戦い、時熈が強敵八騎に取り囲まれて危ないところを救い出し、自分は戦死するなどめざましい働きをしました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の因幡守護職のみとなり、因幡山名家と但馬山名氏が対立していたことが窺え、一族は大幅にその勢力を減ずるに至ったのです。この明徳の乱で、氏清は斬られ満幸は敗れ、時熙に但馬国守護として山名の惣領に返り咲きました。氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵されました。但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、家臣団の人材不足は深刻でした。そのようななかで、頭角をあらわしたのが垣屋氏と太田垣氏で、垣屋氏は土屋氏の庶流、太田垣氏は日下部一族の末流で、山名氏家臣団には大きな逆転現象が起こったのです。この状況にあって急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけたのです。
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生野城(古城山=いくのじょう)

足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である東山龍徳寺で行っておりました。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡しました。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであったのです。これにはいろいろ原因があるのですが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられています。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいと、たびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかったのです。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまいました。
これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」
ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようです。

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれています。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれています。
一方播磨国に引き上げた赤松満佑は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しませんでした。
ところが、そのころになって、今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられています。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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室町薄群青(うすぐんじょう)#5383c3最初のページ戻る次へ
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たじまる 室町-1

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

室町時代は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。足利氏が将軍だったことから足利時代とも呼ばれる。
足利尊氏が1336年(建武3年、北朝延元元年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから、15代将軍義昭が1573年(元亀4年)に織田信長によって追放されるまでの237年間を指す。
しかし、建武新政期を含む最初の約60年間を南北朝時代、最後の約80年間を戦国時代と区分して、南北朝合一(1392年)から明応の政変(1493年)までの約100年間を狭義の室町時代とする場合も多い。

守護大名

室町幕府が成立すると、国内統治を一層安定させるため、1346年(貞和2)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2 つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていきます。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者が出現しました。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置き、さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していきました。

■守護大名 室町時代

領国室町前期中期後期
畿内山城国 やましろ畠山氏京極氏細川氏
大和国 やまと興福寺
河内国 かわち畠山氏
和泉国 いずみ畠山氏細川氏
摂津国 せっつ細川氏赤松氏
山陰道丹波国 たんば仁木氏山名氏細川氏
丹後国 たんご山名氏一色氏武田氏
但馬国 たじま今川氏山名氏
因幡国 いなば山名氏
伯耆国 ほうき山名氏
出雲国 いずも山名氏京極氏
石見国 いわみ山名氏大内氏
隠岐国 おき山名氏京極氏
山陽道播磨国 はりま赤松氏山名氏赤松氏
美作国 みまさか赤松氏山名氏赤松氏
備前国 びぜん赤松氏山名氏赤松氏
備中国 びっちゅう渋川氏細川氏
備後国 びんご細川氏山名氏
安芸国 あき武田氏山名氏
周防国 すおう大内氏
長門国 ながと厚東氏大内氏
南海道紀伊国 きい畠山氏細川氏畠山氏
淡路国 あわじ細川氏
阿波国 あわ細川氏
讃岐国 さぬき細川氏
伊予国 いよ河野氏細川氏河野氏
土佐国 とさ細川氏
西海道豊前国 ぶぜん少弐氏大友氏大内氏
豊後国 ぶんご大友氏
筑前国 ちくぜん少弐氏大内氏
筑後国 ちくご大友氏菊池氏大友氏
肥前国 ひぜん少弐氏渋川氏
肥後国 ひご大友氏阿蘇氏菊池氏
日向国 ひゅうが島津氏
大隅国 おおすみ島津氏
薩摩国 さつま島津氏
壱岐国 いき京極氏
対馬国 つしま宗氏
領国室町前期中期後期
東海道伊賀国 いが仁木氏
伊勢国 いせ土岐氏一色氏北畠氏
志摩国 しま土岐氏一色氏北畠氏
尾張国 おわり土岐氏斯波氏
三河国 みかわ高氏一色氏細川氏
遠江国 とおとうみ今川氏斯波氏今川氏
駿河国 するが今川氏
伊豆国 いず上杉氏
甲斐国 かい武田氏
相模国 さがみ三浦氏上杉氏
武蔵国 むさし高氏上杉氏
安房国 あわ上杉氏
上総国 かずさ上杉氏
下総国 しもうさ千葉氏
常陸国 ひたち佐竹氏
東山道近江国(北) おうみ京極氏
近江国(南)おうみ六角氏
美濃国 みの土岐氏
飛騨国 ひだ京極氏
信濃国 しなの斯波氏小笠原氏
上野国 こうずけ上杉氏
下野国 しもつけ宇都宮氏小山氏
出羽国 でわ
陸奥国 むつ北条氏伊達氏
北陸道若狭国 わかさ斯波氏一色氏武田氏
越前国 えちぜん斯波氏朝倉氏
加賀国 かが斯波氏富樫氏
能登国 のと吉見氏畠山氏
越中国 えっちゅう斯波氏畠山氏
越後国 えちご上杉氏
佐渡国 さど上野氏高氏

※比較的短期間の大名は省略しています。

南北朝時代

内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。

近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。

将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。

しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。
足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。

新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。

その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。
山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。

貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。
伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。
まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。

大岡山と進美寺

東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、対照的に気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっています事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。
古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもありました。山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)で、進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されている私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多いのも、但馬国府・国分寺が置かれていたためでしょう。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でしました。
進美寺も同じく天台宗です。山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのでしょう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の流れで、朝来郡で優勢な郷士で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に備後に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。
旧大岡寺庭園は、兵庫県豊岡市にある日本庭園。国指定名勝。発掘調査の結果、室町時代末期に作庭され、江戸時代初期に改修されたことが判明しました。
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進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中しているからであります。
しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代(もくだい)と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。
大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

城にまつわる話し

城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。三開山城(みひらきさんじょう)


三開山 豊岡市駄坂

豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。

室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。

延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。

その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。

このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。

しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。
一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。

■気多郡内の城跡

城 主所在地年代備 考
稲葉城大森飛騨守豊岡市日高町稲葉
太田の城山?豊岡市日高町太田
万場の城山豊岡市日高町万場
東河内の城山?豊岡市日高町東河内
来山城豊岡市日高町鶴岡
八代城藤井左京の居城豊岡市日高町八代・谷室町期
奥八代砦豊岡市日高町奥八代字宝城
進美寺山城(掻上城)豊岡市日高町赤崎・日置南北朝期(1333-)但馬南朝方の重要拠点城跡というより大寺院が軍事目的に利用され、戦国末期にも利用された
水生(みずのお)城南北朝:長左衛門尉、戦国期:榊原式部大輔政忠、次いで西村丹後守豊岡市日高町上石・上佐野但馬南朝の拠点 天正8年 秀吉但馬により攻略長楽寺の裏から山頂に至る間に数カ所の平坦地と、長城に伸びる尾根に掘割が数カ所在る。
上郷(かみのごう)城源満仲・源頼光・赤木丹後守豊岡市日高町上郷平安期:天徳年間(957-961)二段の土塁を持ち、ごく一部に石垣が残る。源満仲が但馬国司として赴任してきた時、築城。赤木丹後守は水生城合戦に参加した武士だという。
祢布城高田次郎貞長豊岡市日高町祢布南北朝期山名時氏に滅ぼされ廃城
森山城安田左近将監・紀伊守豊岡市日高町森山応安(1368-)~享禄(-1532)森山と知見境にある低い山(「あかんじゃ」「あかんじょ」とも呼ばれた)に二段の土塁と三カ所の掘割
篠森城足立忠経・足立肥前守豊岡市日高町久田谷1500~元亀三年(1572)久田谷入口の低い山、通称稲葉山
伊福(ゆう)城下津屋伯耆守日高町鶴岡室町時代(康正年間:1455-1457)
楽々前城(佐田城)[*10]山名氏守護代垣屋播磨守隆国日高町佐田室町時代(応永年間:1394-1428)
鶴ヶ峰城(三方富士)垣屋越前守続成の築城:垣屋御三家本城日高町観音寺室町時代(永正9年:1512)
宵田城(南龍城)隠岐守国重・筑後守忠顕:垣屋御三家・分家の城日高町宵田・岩中室町時代(永享2年:1430)

但馬にはこの他多数の城があります。くわしくは但馬の城をどうぞ。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
「日本の中世」放送大学教授 五味文彦、放送大学客員准教授・東京大学大学院準教授 本郷和人、放送大学客員准教授教・慶應義塾大学準教授 中島圭一『日高町史』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

但馬の火山 神鍋山

神鍋山 万場から神鍋山を望む

わが日高町の神鍋(かんなべ)地区は、関西のスキー場として古くから知られるが、旧火山の神鍋山を中心に高原が広がり古来から人が早くから住み始めた。

兵庫県豊岡市日高町にある神鍋山は、大正時代に開かれた関西初のスキー場として知られています。約2万年前の火山活動でできたスコリア丘で、標高469m、周囲約750mの噴火口は深さ約40mの擂鉢状の草原になっています。北西隣の大机山、南東の太田山、ブリ山、清滝山といった単成火山とともに神鍋単成火山群を構成しています。周辺には同時代に生成された風穴・溶岩流・滝などがあり、同じくスキー場として知られる鉢伏高原(養父市)とともに早くから人が住み着いた遺跡や古墳が多数あります。

噴火した火山の火口跡が鍋のような形状から「神様のお鍋」という意味で神鍋山とついたのでしょう。これは上記のようにもともと「神奈備(かむなび)山」が訛って「かんなべ」となり、「神鍋」という字を当てたのではないかと思います。ゲレンデ名になっている岩倉という字名があり神奈備の磐座(いわくら)のことではないでしょうか。

気多人(けたじん)のルーツと思われる縄文人は、中国山地を尾根づたいに獲物を追ってやってきたとも考えられます。また、海水面が今よりも低かった頃、海岸づたいに転々と移り住みながら移動してきたと考えられます。

兵庫県内で古い遺跡が発見されたのは、温泉町畑ヶ平遺跡、養父町・但東町の尖頭器発見、 大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。2カ所は同じ山岳地帯で尾根でつながっています。人類は最初、山岳地帯から住み着いていました。

噴火した火山の火口跡を見つけた縄文人は、鍋のような形状から、「カネ・ナペ」、「神奈備(かむなび)」が訛って「かんなべ」となり、「神様のお鍋」、「神鍋」という字を当てたのではないでしょうか?!

このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのです。これは神鍋山(かんなべやま)を神奈備と想定して、山神社、椒(ほそき)神社、雷神社の三つの名神大社を結ぶと正三角形に鳴ることに気が付きました。このトライアングルは、「三柱信仰」ではないか!と思うのです。

万場(マンバ)区は神鍋山から東に位置し、山田の奥神鍋スキー場と繋がるスキー場で、村落の氏神様が天神社です。てっきり名前から雷神社、山神社などとつながる古社のひとつだではないかと考えていたのですが、行く機会がなく初めて訪れました。境内の鳥居に天満宮と書かれてあり、したがって祭神はもちろん学問の神様菅原道真公です。

神鍋地区は古くは太多郷=旧西気村)で、鉢伏地区同様に意味不明の難解な地名の宝庫で、それだけ古くからの人が住み着いた歴史を感じさせます。神鍋(かんなべ)=カネ・ナペが訛った?、太田(ただ)、稲葉(いなんば)=イナパ?、山田(やまた)イヤマタ?、万却(まんごう)、名色(なしき)、万場(まんば)マパ?とポリネシア言語に近い発音です。この「まんば」は、マオリ語の「マノ・ポウ」、MANO-POU(mano=interior,heart,overflow;pou=pour out)、「水が流れ出す地中(のトンネル)」の転訛(「マノ」の語尾のO音が脱落して「マン」と、「ポウ」の語尾のU音が脱落して「ポ」から「ボ」となった)と解します。 →さらにまんばになったのでは?

くわしくは
http://sakezo.web.fc2.com/jomon6.html

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大薮(おおやぶ)古墳群 (養父市大薮)


画像:養父市

兵庫県養父市大薮

兵庫県養父市養父地域の円山川右岸道路に隣接した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。

大薮古墳群の大型古墳は、東からコウモリ塚古墳・塚山古墳・禁裡塚古墳・西の岡古墳など4基の古墳が作られています。また横穴式石室をもつ中・小規模の古墳群として、東から小山支群・野塚支群・穴ヶ谷古墳群などがあります。道林古墳群は石棺や木棺を埋葬施設とする5世紀後半から6世紀前半の古墳群。これらの古墳をすべてあわせたものが大薮古墳群で、約150基の古墳群が造営されています。北近畿でも最大規模の石室墳として注目されており、考古学や歴史ファンの間では「但馬の飛鳥が大薮だ」とも言われています。

大薮古墳群では6世紀から7世紀にかけて禁裡塚古墳を契機として、塚山古墳・西の岡古墳・コウモリ塚古墳といった順番で但馬最大の大型古墳が次々と作られました。しかし5世紀に朝来市和田山町で但馬最大の古墳である池田古墳や茶スリ山古墳を作った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はありません。こうした事から、6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

大薮古墳群は、はたしてだれが作ったのか。簡単には説明ができません。禁裡塚古墳などの大型石室は、奈良県の飛鳥地域にあっても並々ならぬ規模を誇る大型の石室です。但馬らしい田園空間に今も良好な状態で残る大薮古墳群は、名実ともに兵庫県を代表する古墳群だ大薮古墳群クラスの古墳はなく、こうした事から6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

養父市ページより

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古代山陰道と但馬・丹波

古代山陰道と但馬・丹波


図:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所

律令制の時代、わが国は五畿七道(ごきしちどう)という地域区分をもち、現在の近畿地方を中心とした国づくりが行われていました。

ここでいう「道」とは、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物であり、朝廷の支配が及ぶ全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分していました。

五畿七道には、律令で定められた国(令制国)があり、それぞれの国府は、七道と同じ名前の幹線道路で結ばれていました。幹線道路は大路、中路、小路に区分され、大路は都と大宰府を結ぶ路線、中路は東海道・東山道の本線、小路はそれ以外の道路とされています。

この時代の記録を残す物の一つとして知られているのが、平安時代中期に編纂されほぼ完全な形で伝わっている「延喜式」(えんぎしき:律令の施行細則的位置づけ)で、細かな事柄まで規定され、古代史の研究で重要な文献となっています。そして「延喜式」は、幹線道路の沿道に置かれ、使者に馬や食事、宿泊などを提供した「駅家(うまや)」の一覧が載っている最古の記録なのです。

■古代山陰道の国と駅

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。 古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

【延喜式による古代山陰道の国と駅】

駅名
丹波国大枝野口小野長柄星角佐治日出花浪
丹後国勾金但馬国粟鹿郡部養耆山前面治射添春野因幡国山崎佐尉敷見柏尾伯耆国笏賀松原清水奈和相見出雲国野城黒田宍道狭結多杖千酌石見国波弥託農樟道江東江西伊甘

吉川弘文書刊「完全踏査 古代の道」(木下良監修/武部健一著)を参考に作成

これらのことからもわかるように、古代の道は江戸時代の道とは違い、未だ解明されていない部分も多いとされますが、一方でその研究結果から、古代の道は直線的道路が多く、かつ道幅も広くとられていたと考えられており、非常に計画的に整備された交通路であったといわれています。

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

古代の遺物という観点では、古墳や遺跡などわかりやすい形でみることのできるものがある一方で、実は今私たちの目の前に当たり前のように存在する「みち」は他の古代の遺物と同じように歴史や文化の宝庫でありながら、今もなお長い歴史の現在進行形の中で私たちが利用しその恩恵を受けている地域社会の生きた古代遺産ということを実感します。

 

「みち」がまちをつくり、そして「みち」や「まち」の出来事の蓄積が地域の歴史や文化をつくってきました。現代においても、北近畿豊岡自動車道が春日・和田山間に供用されたことで京阪神からの丹波・但馬地域への観光客も増加しており、新たな「みち」による北近畿文化圏の新たな1ページが開かれるのかも知れません。
古代山陰道の時代の丹波国とは、現在の京都府の亀岡市・園部町、兵庫県篠山市・丹波市にわたるエリアということができます。古代山陰道は京都の羅城門から始まり、この丹波を入り口に本路は但馬へ、支路は丹後を通り再び但馬で本路に合流し、日本海岸にむけて道がつづきます。延喜式による山陰道本路における丹波国の駅は「大枝」「野口」「小野」「長柄」「星角」「佐治」の6つが示されており、その比定地等について見ていきます。

■古代山陰道:丹波国の駅家

畿内の山城国から老の坂峠を越えて丹波国に入り、出発点の羅城門から約13.4キロの距離に最初の駅「大枝駅」(おおえ)があります。現在の京都府亀岡市篠町王子あたりと考えられています。同名の地名が京都府西京区にも残っていることから、もともとは(奈良時代には)山城国にあった駅家が平安時代に丹波国に移されたものと考えられています。

山陰道本路は、亀岡市の東西道路から先は、大筋では近世の篠山街道あるいはそれを踏襲する国道372号のルートに乗るものになりますが、より直線的な篠山街道のルートが近いと考えられています。また、丹波国府を経由するルートが本来の山陰道であるという考え方もあります。

そのルートの先にあるその次の駅家が「野口駅」(のぐち)です。現在の京都府園部町南大谷あたりに存在したと考えられています。十世紀に成立した百科事典「和名抄」に船井郡野口郷の記述があり、現在の薗部町南大谷に旧字名の野口があることから、比定地として有力視されているのです。ここには、地元の郷土史家の方々が立てられた「野口駅跡」の石碑が存在しています。

ここから「天引峠」といわれる峠を越えると同じ丹波でありながら、京都府から兵庫県に入ります。現在の篠山街道(デカンショ街道ともいわれています)に沿って、丹波第3番目の駅「小野駅」(おの)があります。これは現在の兵庫県篠山市小野奥谷あたりと考えられています。近隣には、「史跡延喜式小野駅跡」と記された碑と祠、その横に篠山市による板が立てられています。

「小野駅」から篠山街道を進み、次の駅「長柄駅」(ながら)に向かいます。「長柄駅」の比定地については諸説ありますが、西濱谷遺跡などの発掘などから、篠山市西濱谷にあった可能性が高いとされています。小野駅から篠山市街地の北側の山麓沿いを通ってきたと考えられ、小野駅からは12キロ程度となります。「長柄駅」から先の古代山陰道は本路と支路に分かれます。本路は現在の丹波市を通って但馬地方へ抜ける道であり、支路は篠山から丹後地方に向かい、但馬の出石地方を通って香美町村岡区で本路と合流します。

延喜式山陰道の本路は、「長柄駅」から国道176号線を北に向かいます。直線的な道路が多くなり、古代の道の面影を感じさせる風景がつづきます。

「長柄駅」の比定地から約16.4キロ、丹波市氷上町石生のあたりが「星角駅」(ほしずみ)の比定地とされています。このあたりは旧道の国道 175号線と国道176号線が合流する地点で、標高100メートル未満の太平洋と日本海の分水嶺としても有名で、「水分れ」と呼ばれる地区です。このあたりから延喜式山陰道は、昨年供用が開始された国道483号線(北近畿豊岡自動車道)と平行して走るようになり、駅家もインターチェンジの場所とほぼ同じ配置となってきます。ちなみに星角駅は北近畿豊岡道氷上ICの近くになります。

丹波地区最後の駅は「佐治駅」(さじ)です。北近畿豊岡道の青垣ICの近くであり、丹波市青垣町佐治という地名から比定地には問題がないとされています。北近畿豊岡道の「遠阪トンネル」を抜けると、もうそこは兵庫県朝来市にはいり、「丹波国」から「但馬国」に入ることとなります。

■古代山陰道における丹後・但馬路の分岐について

山陰道丹後支路最初の駅は「日出駅」(ひづ)駅です。その比定地は兵庫県丹波市市島町上竹田段宿とされ、由良川支流の竹田川右岸を北上し、市島町に入ってからは左岸に移って比定地に達します。現在は国道175号線が近くを通っています。

その次は福知山市にあると考えられる「花浪駅」(はななみ)です。日出駅から由良川筋を避け、西回りでいくルートと考えられます。福知山市中心部から西の西明寺・今安付近を通過して府道109号線を北上し、福知山市野花から府道528号線を沿って北上すると「花浪駅」にいたります。具体的な比定地としては京都府福知山市瘤ノ木周辺とされています。

この周辺には「花浪駅跡」とされた地元が建立した石碑もあり、和泉式部の歌にも「はななみ」の言葉が用いられたものがあります。ここから小さな峠を越え、国道426号を通り、丹後支路は丹後国に入ります。 国道426号を加悦町を経て、野田川町に達すると、ここが丹後国唯一の駅家「勾金駅」(まがりかね)の比定地となります。支路と丹後国府への道がクロスするポイントに置かれたと考えられています。この駅家から丹後国府へは10キロ程度で、国府は宮津市中野府中あたりとされ、宮津湾が天の橋立にふさがれた風光明媚な阿蘇海に面しています。 再び「勾金駅」に戻り、支路を進むことにしましょう。府道2号線宮津八鹿線を西に進み、岩屋峠を越えるとそこは但馬国です。ここに山前駅を置く説もありますが、山前駅については諸説あって分からないことが多いので、今回の特集ではふれないこととします。

さらに西に進み、豊岡市出石町中心部まで支路は峠を越えながら直線的に進むと考えられています。出石市街からは、国道482号線を通り、豊岡市日高町に向かいます。豊岡市日高町には但馬国府があったとされ、この周辺の弥布ヶ森遺跡がそれではないかと有力視されています。正倉院文書の中に「高田」駅家という記述があり、延喜式以前、このあたりに「高田」という駅家があったと考えられています。延喜式の時代には、但馬国府がその代替施設として役割を果たした可能性があります。)

丹後・但馬路の最後の駅家は「春野駅」(かすがの)1です。この駅の比定地については諸説あり、特定は難しいとされています。ある説では、国道 482号線の蘇部トンネルを抜けて、香美町村岡に通じるルートにその駅家があったのではないかと考えられています。古代道路のルートを新しい自動車道やバイパスが通る例がよく見られることなどを考えると、可能性のある説とはいえ、近くの道の駅「神鍋高原」があるあたりが好適地とも思われます。 ここをまっすぐ進み、古代山陰道の支路である丹後・但馬路は香美町村岡区で本路と再び合流すると考えられます。

(丹後と但馬を結ぶ支路で山前はどこなのか。射添と春野間は蘇武岳越えという難所ではありますが直線距離が近すぎるので、山前は勾金と春野の間であれば高田あたりであれば勾と春野の中間、出石神社あたりではないか。)

この支路は丹後国府へ行くだけでなく、それから但馬国府を経て山陰道本路へ戻ります。分岐点の考え方にはいくつかあり、比較される路線は、「佐仲峠越え」「瓶割り峠越え」「水分れ街道」の3つが考えられています。 「佐仲峠越え」は「長柄駅」より本路を進み、現在の舞鶴若狭自動車道とクロスするポイントから分かれるルートで、佐仲峠を越えて、丹波市春日町国領に出る道です。

「瓶割り峠越え」のルートは、鐘ヶ坂峠の手前で分岐し、北上して瓶割峠を越え、「佐仲峠越え」と同じく丹波市春日町国領に出ます。福知山市史などはこのルートを採用しています。

「水分れ街道」のルートは丹波国の駅家「星角」から、現在の国道175号線やJR福知山線に沿って進む黒井川沿いのルートです。 それぞれのルートの違いは「佐仲峠越え」がもっとも標高が高いところを通り丹後・但馬路の最初の駅に最も近く、「水分れ街道」は峠を越えない平坦な道路であるが最初の駅までは最も遠くなっています。古代道路は最短のルートをとる場合が多いこと、江戸時代の道しるべも「佐仲峠越え」のルートを丹後への道としていること、高速道路に沿ったみちであることなどを考えると「瓶割り峠越え」のルートの蓋然性が高いと考えられます。

丹波市春日町国領から北上すると舞鶴若狭自動車道の春日ICに到達しますが、この付近に位置する七日市遺跡で南北方向に走る幅約11mの道路遺構が見つかり、位置や方位、幅員などから山陰道丹後支路の可能性が高いとされています。この遺跡では、多数の建物や、木製品・硯・石帯、および「春マ郷長」「大家」「門殿」などと記された墨書土器が出土し、木簡・墨書土器が多数出土した付近の山垣遺跡とともに、この地域を治めた役所の跡と考えられています。

■古代山陰道:但馬国の駅家

但馬国は現在の兵庫県但馬地方とほぼ同じ地域をさします。第2回の中で、とりあげた丹波市青垣町から北近畿豊岡道にある全長4キロ近くある遠坂トンネルを抜けると兵庫県朝来市、但馬地域の入り口となります。

延喜式による山陰道本路における但馬国の駅は「粟鹿」「郡部」「養耆」「射添」「面治」とつづき、その後但馬国から因幡国に入ります。

但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。 延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

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楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

天正八年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に際して、ときの城主垣屋峰信は織田勢に抗戦、敗れて討死したという。その後、秀吉政権下の有子山城主の支配化におかれ、 現在みられる縄張りはそのおりに改修されたものと考えられている。

宵田村には市が開かれ、気多郡の集積地として栄えました。「宵田表の戦い」で羽柴軍により降参し、豊臣方へつきます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」では、このような話が書かれてあります。

宵田城主垣屋隠岐守峯信は、天正八年(1580)、羽柴秀吉が但馬征伐に向かってきてからは恐れおののき、心安らぐ日はありませんでした。

ある日、魚売りが江原村を行商していました。そのころは商人が津居山港から歩いたのではなく、円山川を上下して船で行き来しました。商人は売り声を張り上げて歩いていました。その日は、カキ・どこう・このしろの三種類であったので「かきや・このしろ・どこう」とふれました。

秀吉が今日攻めてくるか、明日攻めてくるかと、びくびくしている時ですから、この売り声が「垣屋この城どこう(退陣せい)」と聞こえてしまいました。そこで、これは秀吉の征伐の前触れと、てっきり思いこんでしまい、一族を引き連れて楽々前城へ逃げました。

佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。


宵田城 南方向から 下は国道312号城山トンネル

その年の五月、征伐に来た秀吉軍のうち、斉藤石見守近幸、小田垣土佐守らが大軍を率いて宵田城を攻めた時には、城中は音なしの構えどころか、一人残らず楽々前城へ退き、もぬけの殻であったといわれています。そこで秀吉の命により、宮部善祥房の家来の伊藤与左右衛門父子を城代として守らせました。
楽々前城では、父子家臣ともども籠城しましたが、ついに二百二十年続いた垣屋氏は城とともに滅んでしまいました。

しかし、天正八年(1580)、第二次但馬征伐で秀吉の弟秀長と宮部善祥房が但馬に軍を進めたとき、はじめて秀吉軍と敵対しましたが、宵田表の戦いなどのあと秀吉軍に従いました。そして、「但州・因州境目」の重要拠点岩経城主に起用され、因幡鳥取城攻撃には主力部隊として活躍しています。

垣屋氏と関ヶ原の戦い

垣屋光成の子が恒総で、父と同じく秀吉に仕えました。恒総は天正十五年(1587)の九州征伐、同十八年の小田原征伐、さらに文禄の役(朝鮮出兵)にも出陣し、一万石を与えられ、因幡桐山城の城主となりました。関ヶ原の合戦で垣屋隠岐守恒総は、因幡国若桜の木下備中守と一緒に大阪に着陣し、西軍に属します。諸将と共に伏見城、大津城を攻め、やがて関ヶ原へ向かわんとしていましたが、既に戦が始まり、どうやら西軍の旗色が好くないとの情報が伝わります。垣屋としては為すすべもなく、高野山に逃れて日頃師檀の関係を結んでいた僧侶の許に身を寄せました。
やがて天下の赦免があろうかと心待ちにしていたのですが、徳川軍の検使が来て自害すべしとの命を伝えたので自刃しました。こうして垣屋は、関東から但馬にやってきて、二百年の年月を積み重ね、但馬を追われて因幡に新住の地を得たものの、それは二十年しか保てませんでした。留守の桐山城では城主を失い、鳥取城同様にこの城も攻められるのかと勘違いして、家中の者が隠岐守恒総の内室や子供を引き連れて、但馬の故地気多郡西気谷を目指したといいます。

また幸いにも垣屋駿河守家系統である垣屋豊実が東軍についていたため、江戸時代に至って竹野轟(とどろき)城主垣屋家(駿河守)の家系は、徳川重臣 脇坂氏の家老になります。駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としています。このように垣屋は生き残っているのであり、滅亡したと記述している諸所の文献は間違いであるといわざるを得ないのです。現実に子孫の方は多く但馬におられます。

関ヶ原の戦いの頃、日本の人口は、500万人の状態が続いていました。農耕の開始に次ぐ人口革命の時期であり、戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられ、約3倍に膨れあがり1200万人を超えます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

(4) 文明の発生

約1万年前に氷河時代が終わると、地球は気候の変化によって植物の分布が変わり、大型動物も減っていきました。こうした環境変化の中で、人々は、植物を栽培したり、動物を育てるようになり、農耕・牧畜が始まりました。また、表面をみがいて性能を高めた磨製石器を用いるようになり、火を使って土器をつくるようになりました(新石器時代)。

文明の発生 道具

約5000年から3500年前、エジプト、メソポタミア、インド、中国の各地域に文明が生まれました。土器や磨製石器だけでなく、青銅器や、少し遅れて鉄器も用いられるようになりました。小さな集落に分かれていたクニが数万人の規模で集まり住む都市国家が生まれました。多数の人々を動かす灌漑工事には、工事を指揮する指導者が必要でした。彼らは、戦い、祭り(祀り)なども指揮しました。彼らは広い地域を統合するにつれて、やがて王となっていきました。王のもと、税が納められ、また記録のために文字が発明されて、書記が雇われました。こうして国家ととよばれる仕組みが整えられていきました。
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができます。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作りました。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削されました。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使いましたが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになりました。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられました。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられました。

青銅器は大陸から北部九州を中心とする地域では銅矛(どうほこ)銅剣(どうけん)銅戈(どうか)などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸(どうたく)がよく知られています。

北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに日本国内で生産も開始されました。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられていますが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわかっていません。

出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから、実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高いです。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかります。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できます。

一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられますが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌(ぜつ)を内部につるして鳴らすものとして用いられましたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられています。また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになりましたが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられました。このように、大型の青銅器は出現当初を除いてほとんどが祭祀に用いられるものでした。このほかに鋤先(くわさき)などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられますが、大型の青銅器に比べて非常に少量です。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)を除き、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産されました。青銅器の鋳型は、列島での初期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは、主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られます。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになります。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられています。

一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられていますが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多いです。
コメの他にもう一つ、弥生時代と縄文時代を大きく分けるものとしては鉄があります。鉄もコメと同じように大陸からやってきました。かつては水田耕作と鉄は同時に到来したと考えられてきました。水田を開発するためには鉄が必須とであると思われていたからです。豊になった富を狙って鉄は武器として使われ、弥生時代は縄文時代と異なり、最初から戦争の時代だったというのも半ば常識でした。ところが最近の研究では、鉄の方が数百年も遅れてやって来たことが判明しました。弥生時代前半には小競り合いはあったとしても、殺戮を伴う戦争はあまりなかったようです。

製鉄の技術を知らない弥生人は、少ない鉄器をリサイクルして大切に使う一方で、縄文以来の石器も当たり前の道具として利用し続けていました。鉄器がなかなか広がらなかった理由としては、少数のグループが技術と物流を抱え込んでいたことが大きいのです。鉄器の原材料は半島から持ち込まれていたのですが、それを運んだのは実は半島の人ではなく日本に住む弥生人でした。韓国釜山市で見つかった鍛冶炉のまわりから出る土器の94%が、なんと九州北部の人々が使っていたものと同じだったのです。九州北部の弥生人は、原材料の現地生産・輸入・日本での加工、そして流通まで担っていたことになります。

こうした特権を持つ人々は力を集約していきました。弥生時代の前期が終わるとされる紀元前4世紀ごろに、鉄や青銅器の武器などを使った戦闘が九州北部を中心に繰り広げられるようになりました。そして、紀元前50年頃までに日本で初めての王が、奴国(ナコク)と伊都国(イトコク)(いずれも福岡県)に登場したと考えられます。階級社会の誕生はコメではなく鉄によって生まれたといえます。

鉄はもともと武器として使われたわけではありません。最初は斧や鍬であり、狩猟に使う矢じりとして使われました。おそらくこの狩りに使う弓矢が、まず人を殺す武器に転用されていったのでしょう。戦国時代に伝来した鉄砲も、最初は合戦用ではなく、狩のための道具でした。計画的に稲作を行っていた弥生人は、隣りに豊かな人がいるからといって、本能としてすぐに襲いかかるような野蛮な性質とは思えません。特に日本では、縄文と弥生がゆっくりと統合していったように、「和」の価値観の強い世界でした。

参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信
「日本人の歴史教科書」自由社
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【縄文】(3) 縄文人はグルメ

縄文人

このころ、南方からも日本人の祖先となる人々がやってきました。東南アジアに住み着いた人々は、島から島へ丸木船で移動する航海術を身につけました。一部の人々は海洋民族として太平洋に広がり、ポリネシア(概ねハワイ諸島・ニュージーランド・イースター島を結んだ三角形「ポリネシアン・トライアングル」の中にある諸島の総称。)へ移住しました。やがて人々は黒潮(日本海流)に乗って日本列島にたどり着きました。アフリカを出てから、はるかな旅の末に、二つのアジア人の流れは、この列島でふたたび合流しました。

豊かな日本の自然は、豊富な木の実や川魚を育み、イノシシ、シカ、マガモ、キジといった動物や、山の幸、貝類やカツオ、マダイ、スズキなどといった海の幸をもたらしました。北海道や東北などでは、豊富なサケやマスを利用した生活文化が発達しました。日本列島は食料に恵まれていたので、人々は大規模な農耕や牧畜を始めるには至りませんでした。

縄文文化

縄文時代は一万年を超える長い時代なので、その間の文化社会の変化は大きく、一括した縄文文化という言い方が適当でないことが多いのですが、土器形式を基準にして大きく6つに分けられています(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)。各時期の継続年数は均等ではなく、古い時期ほど長い傾向にあります。

このころには、狩猟・採集を中心としたものでしたが、数十人程度の集団で、小高い丘を選んで生活していました。住まいは地面に穴を掘って床をつくり、柱を立てて草ぶきの屋根をかけた、竪穴住居と呼ばれるものでした。貝殻などの食べ物の残りかすを捨てた馬車である貝塚からは、土器の破片や石器が発見されています。青森県の三内丸山遺跡からは、約5千年前の大きな集落が見つかっています。人が来る前にはブナの林であったものが、人が来ると集落の周りはクリの林になったことがわかります。マメ・ソバなどの栽培や素朴な稲作が始まり、カキの養殖も見つかっています。はるかに計画的に生産が行われていました。

縄文文化は日本列島全体で一様のものではなく、土器や生活形態の違いが相当大きいのですが、土器の系統的つながりを見ると、北海道の土器は本州からの流れの支流といってもよい位置づけができ、縄文土器の特徴である縄を転がしてつけた紋様は、北海道で縄文時代を通じて盛んに用いられたのに、宗谷海峡を越えたサハリンではほとんど見られません。一方、南では沖縄本島の土器は北の九州方面の縄文土器の流れを汲むもので、決して中国や台湾から北上したものではないそうです。また、縄文文様は九州や沖縄では見つかっていませんが、したがって、文化的つながりとしては沖縄本島までは日本列島の縄文文化の範囲であったと認められます。

縄文人は特定の場所に集落を構え、それぞれ孤立していて、相互の交流はあまりなかったと想像しがちですが、そうではなかったのです。自然のガラスとして鋭い割れ口を持ち、石器の材料として非常に好まれた黒曜石が、交易によって100kmも運ばれた例は珍しくなく、霧ヶ峰(長野県)の鷹山では黒曜石を掘った鉱山跡が多数残存し、その盛んな採掘を物語っています。日本では新潟県の姫川にしか産出が知られていないヒスイは、装飾品の材料として遠く関東や北海道まで運ばれていました。海の魚の骨が内陸の遺跡で検出されたり、ときには食料まで運ばれたことがわかります。後・晩期には、海水を煮つめて塩を作った遺跡が、関東や東北地方の海岸近くに知られていますが、その製造に用いられた粗雑な作りの土器が海から離れた内陸の遺跡でも発掘されています。  縄文早期の日本の人口は、2万人だったといわれています。

縄文文化は想像以上に文化的暮らし

NHK 高校通信講座『日本史』縄文時代02
日本人が、日本列島固有の意識を持ち始めた起源ががどのような様相をとっていたかを知ることは、長く文字を持たなかったために難しいですが、縄文人は、太陽、風、雷、雨と雪、地震や台風などの自然の恐怖は、神々の行いであるとして恐れると同時に敬い、神がいると信じていました。人々は自然の豊かな恵みを祈って神殿をつくり、女性をかたどった独特な形の土偶をつくりました。日本人のおだやかな性格が育まれ、と陽で柔軟な日本文化の基礎がつくられました。

家族が一つ屋根の下にに寄り添い、人々が助け合いながら暮らし、次の世代へ智慧を伝承していった。いま我々が想像する以上にある意味では豊かな暮らしをしていたのではないだろうか? 多くの動植物と同じく自然に適応しながら進化していった。自然との共生であり、天変地異との戦いであった。
しかし、境界線もなく、国という意識もない。まさにボーダーレス社会です。テリトリーにこだわず平和に自由に暮らしていた社会は、今を生きる我々よりもある意味でははるかに文化的で人間らしい生活だったのではないのでしょうか。

秋田県池内(イケナイ)遺跡では、ヤマブドウやクワの実と一緒に絞られたニワトコの絞りカスの塊が発掘されました。ニワトコの表面には自然のコウジ菌が繁殖するので、今でもヨーロッパの一部では酒の材料として用いられています。  それを証明するものとして、長野県富士見町の井戸尻古墳で「有孔つば付土器」というう珍しい土器が出土しています。

どうやら中期縄文人たちは、自生した山ブドウやクサイチゴ、サルナシなんかの果物をそのままこの土器に仕込んで、軽くつぶした後フタをして孔(あな)にツルを通し、住居の柱などにくくりつけたのではないかといわれています。

しばらくの間すると液果類は糖分が含まれとるので、「野生酵母」の働きで温度が上昇し、果汁が炭酸ガスとともに吹き上がりますが、中身がこぼれない深さになっていて、主発酵が終わるころには酒も出来あがり、芳しい香りが漂うようになりました(これはブドウ酒などの果実酒造りと同じ原理だ!)。
したがって、縄文中期(紀元前三千年)には酒造りがすでに人間の手によって計画的に行われていたのでないかと考えられるます。また縄文晩期には日本に原生するお米の陸稲作が始まり、米による酒や粟、稗などによる雑穀酒作りが口噛み酒として始められました。

■但馬の貝塚

円山川(まるやまがわ)は、兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのでしょう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思えます。

二つの伝説に共通しているのは、円山川が流れる国府平野以北の下流域は水面下でした。その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(キノサキノウミ)」といわれる入り江でした。「神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点です。実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのです。

縄文時代で書いたように、今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代でした。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられています(縄文海進)。

但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしています。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、古代のことは想像に難くありません。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いているそうです。

豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっています。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚ですが、現在の海岸線からは十数kmも離れています。長谷貝塚はさらに内陸寄りにありますが、縄文時代後期の貝塚が見つかっています。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っています。

縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないでしょうか。

中谷貝塚(なかのたにかいづか)

豊岡市中谷に所在する縄文時代中期~晩期の貝塚。1913年に発見された、但馬地域を代表する貝塚の一つである。出土する貝はヤマトシジミが98%を占めており、ほかにハマグリ、アサリ、マガキなどが見られる。また、クロダイ、タイ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ドングリなども出土している。ヤマトシジミは海水と淡水が入り混じる汽水域に生息することから、縄文時代の豊岡盆地が、入り江となっていたことがわかる。
長谷貝塚(ながたにかいづか)

豊岡市長谷に所在する縄文時代後期の貝塚。出土する貝はヤマトシジミが80%を占め、サルボウ、マガキ、ハマグリなども見られる。また、タイ、フグ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ノブドウなども出土している。中谷貝塚同様、豊岡盆地が汽水域の入り江であったことを示す遺跡である。

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王政復古と鳥羽・伏見の戦い 学校で教えてくれなかった近現代史(21)

王政復古の大号令

徳川家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続しましたが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいました。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受けます。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が即位しました。

翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させましたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化しました。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつありました。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図ります。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていました。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に討幕の密勅が出されるにいたります。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなってしまいました。ここに江戸幕府による政権は名目上終了します。

しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わりませんでした。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画します。12月9日、王政復古の大号令が下され、第一回の新政府会議が開かれました。従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言されました。このことは「徳川家へ実質的な権力は帰ってくる」と考えていた徳川慶喜と親幕府派の諸大名や公卿らにしてみれば、まさにクーデターでした。

同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのです。(大政奉還)会議に参加した山内容堂は猛反対しましたが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定されました。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去しましたが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまいます。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発しました。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちしました。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られました。

鳥羽・伏見の戦い

12月25日、江戸薩摩藩邸を拠点としての治安攪乱や挑発行為の横行にたまりかねた幕閣は、幕臣・諸藩の兵を発して、江戸の薩摩・佐土原両藩邸を急襲し不穏分子の一婦をはかりました。この急報が二十八日、大坂城の徳川慶喜の許に届けられると、在坂の幕臣・会津兵・桑名兵から「薩摩討つべし」の声が上がり、ついに慶喜の挙兵上京が決定しました。

慶応四年(1868)一月三日正午過ぎ、薩摩藩討伐を掲げて、幕軍先鋒隊は淀城下を発し、鳥羽街道を北上しました。幕軍北上の動きを察知した薩長勢は、鳥羽小枝橋付近に布陣しました。

狭い鳥羽街道を縦隊で北上して来た幕軍が、小枝橋付近に到着したのは、すでに夕方近くでした。そこで「朝命により上京するので通せ」という幕軍と「何も聞いていないので通すわけにいかない」とする薩摩兵との間でにらみ合いとなりました。

薩摩の回答がない事にしびれを切らした幕軍は、再度交渉に向かいましたが、物別れに終わり双方が自陣に戻りました。その直後、鳥羽街道正面の薩摩砲が幕軍に向けて放たれました。こうして戦いの幕は切って落とされました。幕軍を待たせている間に臨戦態勢を整えていた薩軍は、この直後小銃の一斉射撃を行いました。西欧式装備の薩軍に対し、幕軍先鋒隊の見廻組五百余名は旧態依然の槍・刀を振りかざして肉弾戦を挑みました。銃弾の雨の中、多くの隊士が倒れていきましたが、これで時を稼いだ幕軍も銃を準備し、やがて壮絶な銃撃戦が開始されました。

それから約一時間ほどの激戦の末、日没とともに戦闘は終了しました。陣地とするべき場所を失った幕軍は下鳥羽まで撤退しましたが、薩軍は追撃しませんでした。

四日未明、松平豊前守以下約一千名の幕軍後続の中軍が合流した幕軍は、再び鳥羽街道を北上し、烈しく薩軍を攻めました。数時間の激闘の後、薩軍が後退もやむなしと思われたとき、新政府軍の援軍が到着し再び激戦となりました。薩摩を主力とする新政府軍は、御香宮神社を拠点として幕軍が陣した伏見奉行所とほとんど接していました。幕軍・新選組合わせて千五百名と、人数において勝っていた幕軍でしたが、火力に勝る新政府軍の攻撃を受けた幕軍は、午前十時頃、ついに横大路方面へ敗走しました。幕軍の拠点伏見奉行所は火を発し、日没頃には幕軍は敗走を余儀なくされました。前日、局長の近藤が狙撃され、傷の手当てのため大坂にいたため、土方歳三が隊士を指揮していました。土方は、得意の白兵戦で戦況を打開しようと、永倉新八の二番隊に塀を乗り越えて斬り込むように指示をしました。御香宮の西の京町通を通り、敵の背後を突くという作戦でした。しかし、途中で薩軍と衝突し小銃による銃撃を浴び、それ以上進むことができなくなり、永倉らはやむなく撤退しました。

戊辰戦争

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始しました。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始されました(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となります。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。これによって旧幕軍は瓦解しました。以後、翌年までおこなわれた一連の内戦を1868年の干支である戊辰をとって「戊辰戦争」と呼びます。

東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣されました。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布しました。

江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となりました。

しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けました。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりましたが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧されます(→上野戦争)。

そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至りました。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立されました(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。

旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言しますが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結しました。

その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離されました。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉しました(→明治維新)。

「幕末のジャンヌ・ダルク」新島八重と川﨑尚之助

川﨑尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。

兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

安政四年(一八五七)、川﨑尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。

戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。

兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い明治8年(1875年)には女紅場を退職して準備を始め、翌明治9年(1876年)1月3日に結婚。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、キリスト教主義の学校同志社(同士社大学の前身)の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。

明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。

日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を授与される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。
墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。

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