【地名地誌】 気多郡三方郷(三方村)

三方郷

倭名類聚抄(倭名抄)

訓:美加太
弘安大田文に、三方荘、田59町、熊野山領觀音寺の田9町。
但馬考に、今の三方荘は、芝・安良川(今の荒川)・猪子垣・廣井・殿・栗山・觀音寺・知見・三所の10邑(村は当時は邑と書く)

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【地名地誌】 高生郷の地下(じげ)

『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、

古語は多可布(タカフ)

高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。矢作部(ヤハギベ)・善威田(ヨヒダ)・善原(エバラ)・稲長(イナガ)の4邑

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【地名地誌】 気多郡の由来について

兵庫県豊岡市日高町は、2005年(平成17年)、豊岡市周辺の城崎郡城崎町・竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併し、兵庫県で面積が一番大きい市となった。それまでは城崎郡日高町であった。さらに、1896年(明治29年)に郡の統合があり、美含郡とともに城崎郡に編入される以前は、「気多(けた)郡」と呼ばれていた。豊岡市合併前の城崎郡日高町全域(浅倉・赤崎は昭和30年に養父郡宿南村から編入)と・中筋地区(賀陽郷)・上佐野・納屋・床瀬・椒(狭沼郷)に該当する。

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二方郡から消えた三郷

[wc_skillbar title=”二方郡から消えた三郷” percentage=”100″ color=”#007bbb”] [catlist id=588] 延喜式神名帳に、二方郡は五座(小)で、温泉郷は二方郡(新温泉町)だが、元の浜坂町に二方神社(指杭)、大家神社(二日市)、大歳神社(居組)の三座で、旧温泉町(温泉郷)の式内社は竹田の面沼(めぬま・メヌ)神社・宮脇の須賀神社の二座であり鳥取県境に近い。七美郡式内社春木神社に列しているので、太古、春来は七美郡射添郷であったのだろうが中古に温泉郷となっている。

校補但馬考に、此の郡(二方郡)は、上古に一国なり。公事本紀曰く二方造(ふたかたのみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがのたかあなのみかど)ノ御世、出雲国造ノ同租 遷狛一奴命ノ孫 美尼布命(みちふのみこと)を国造に定め賜うとあり。その後一郡として、但馬に合わせられしは、何時にかありけん。古書に見えず。

倭名類聚抄に載る郷は、久斗、二方、田公、大庭、八太、陽口、刀岐、熊野、温泉(ゆ)、以上九村、村数五十四。

久斗郷 二方郷 田公郷 大庭郷 八太郷 熊野郷 温泉(ゆ)郷の七郷で、八太郷は荘園で八太庄、今は畑と一字に書いたとあるが固定している。八田小学校がある岸田側上流地区だ。宮脇に式内社の須賀神社がある。

熊野郷は不明だと記され、陽口、刀岐の二郷は、倭妙抄に和訓なし。その地も考えがたし。故に論せず。惣じて此の郡中諸郷の土地、その村入り交じりて正しからず。古代の境を失なえるに似たり、とある。

八太郷は今の十一村。井土、千原、鐘尾、千谷、宮脇、内山、越坂、海上、前村、石橋、岸田。

温泉(ゆ・ゆせん)郷は、今の十六村。湯村、熊谷、伊角、檜尾、春木、哥長、柤岡、細田、多子、塩山、中辻、丹土、切畑、飯野、相岡。と記す。

田公郷は中世期、八木氏から分かれた日下部一族田公氏の修理太夫家が地頭長井出羽入道祐収めた領地。今の村数七。栃谷、七釜、古市、新市、用土、今岡、金屋。

久斗郷、二方郷、田公郷、大庭郷は旧浜坂町内と分かる。その次に八太、陽口、刀岐、熊野、温泉と記されているから、八太郷は旧温泉町の西端、温泉(ゆ)郷は東端だから、倭名類聚抄では八太に続いて陽口、刀岐、熊野で温泉で終わるから、故意に順番を間違えたとは考えにくく、他の旧浜坂町内は余地がないから、八太郷と温泉(ゆ)郷の中間でなければおかしいことになる。

湯村のすぐ北の細田までが温泉郷。八太郷の井土は岸田川が北へ流れを変える今の竹田のすぐ北で、井土、千原、鐘尾と順に記され、現在もその地名が残る。井土のすぐ隣は田公郷金屋である。この狭い領域に消えた熊野郷や、しかも陽口、刀岐、熊野の三郷の余地はない。陽口、刀岐、熊野の三郷はどこに消えてしまったのだろう。

他にないかと捜してみた。二方、七美郡の郷は久斗7、二方7、田公、大庭が各7、村数が多いのは、二方郡温泉郷16、春木峠を越えて七美郡西部の郷では、射添郷13、小代郷20だが、倭名類聚抄には、陽口、刀岐、熊野の三郷は二方郡となっているので、山陰道の難所の一つである春来峠を越えた七美郡ではまずないだろう。

【地名地誌】 幻の地名 気多郡手邊(テナベ・タナベ・テヘン)

気多郡手邊(辺・てなべ・たなべ)

兵庫県豊岡市日高町の府市場・府中新の辺りは、府市場の人に聞くと、昭和30年代までは手辺(てへん)と言っていたそうだ。手辺は現在のどこに当たるのか?

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気多郷の行政区画の変遷

室埴村を調べに国府国分寺館に行き、気多郡地名についても資料をコピー(一部10円)してもらったのでかつてのブログを書き直してみた。

気多郡地図(日高町史より)

気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡です。
古文漢文得意ではないのでおかしいところはご指摘下さい。

『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編

但馬國氣多郡

郷名万葉仮名読み記述郷社・村社
氣多(ケタ)山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府(コフノ)市場、堀、野野荘、池(ノ)上、芝 (上郷・下郷)原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府、此に在り。後徒治高田郷云、延暦三年紀、但馬國氣多團が此処に在り。神明式、氣多神社。天平十九年紀、氣多(ノ)君十千代、弘安大田文、氣多ノ上郷(ノ)田百十一町、氣多ノ下郷(ノ)田百七十三町、但馬考 今(ノ)府中組領、山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、芝 (ノ)九邑、是此域也祀典所 伝、伊智神社(國府市場村)、御井神社(土居村)、三野神社(野野荘村)
太多タダ十戸・此垣(コロガキ)・漆垣・山(ノ)宮・石井・太多・栃本・東河内・水口・稲葉・萬却・山田・萬場・名色(ナシキ)・栗栖野・荘境・久田谷・田(ノ)口・羽尻 (ノ)十九邑訓が見当たらないので多陀と云う読みを当てる。出雲に多太郷在り、弘安大田文 伊勢大神宮領太多荘田八十町、地頭楽ノ前 藤内兵衛が神領目録を作る。…但馬考に郡西に太多荘在り。此垣村ノ気多郡比曾寺ノ田十一町。祀典所 山(ノ)神社(山ノ宮村)、戸(ノ)神社(十戸村)< /br>此垣
三方美加太ミカタ但馬考に今(ノ)、芝・安良川・猪(ノ)子垣・廣井・殿・栗山・觀音寺・知見・三所 (ノ)十邑(一か所足らない?数え間違いか?)横川ノ中堂領三方荘 五十九町、熊野山觀音寺領ノ田九町、寛仁紀に建寺された觀音寺が有り、寺の後ろに鶴峰城趾が有り。弘安三年始め、安良川(荒川?)村山名(ノ)老臣垣屋氏菩提寺隆國寺有り。但馬國の巨刹と為った。祀典所 謂 神門(カント)神社、山王社と稱(たと)えられるのは此である。
楽前佐佐乃久萬(ササノクマ)伊府・篠垣・佐田・野村、伊原萬葉集には佐左那美と按じる、神楽馨波ノ字ヲ用イル、…篠ハ小竹ナリ、…本居(宣長?)氏曰く、天祖が天窟ニ隠れられた際に天鈿女(あまのうずめ)(2)の命が香山の小竹葉を採って舞った故事に因むとする(天岩戸の舞)。その音が佐佐と聞こえたので小竹の故名を佐佐(笹)と為す。楽前は即ち篠ノ隅(クマ)の段を借りる。

…弘安大田文 國分寺領氣多郡楽前ノ南荘田四十八町、楽前ノ北荘田二十四町 地頭楽前入道(垣屋隆国だろう)、一つ、但馬考 楽前ノ荘と云う、今は二つに分ける。曰く、北荘は伊府・篠垣・佐田 三邑、曰く、東方の野村、伊原(ノ)二邑…

備後考には祀典所 佐久神社(佐田村)
高田多加多タカタ但馬考には今の高田郷は、夏栗・久斗・禰布・石立ち・國分寺・水上(みのかみ)(ノ)六邑。安芸、石見、播磨、美作にも高田郷在り。…弘安大田文 高田郷田六十七町、地頭高田忠貞、國分寺領三十四町。祀典所 久刀村ノ兵主神社
日置比於岐ヒオキ但馬考は今の日置郷は、日置・多田ノ谷・伊福(ゆう)・上(ノ)郷・中(ノ)郷(ノ)五邑大和・伊勢・丹波・丹後・因幡・出雲にも日置郷有り。姓氏録に日置部氏の出自は天櫛玉命男、天櫛耳命、今(ノ)日置神社(日置村)。弘安大田文 田百四十六町、地頭越生長経、伊福別宮領田五町、祀典所 謂われには氣多神社(上郷村)、総社明神と称える。葦田神社(中郷村)、井田神社(伊福村)、楯縫神社(多田(ノ)谷村)
高生多加布タコフ・たこう但馬考は地下・岩井・宵田・江原(ノ)四邑。武蔵にも高生郷有り。多介布とも訓じる。姓氏録に武生宿禰、祖王仁の孫 河浪古の首。天平神護元年紀、河内国の人馬益人等が登って武生の連の姓を賜る。…但馬考は今の宵田村に高生の代の地が有り。是を持って(高生の)の名とする。高負神社
狭沼左乃サノ但馬考には今の佐野の荘の佐野・上石(アゲシ)・竹貫の三邑。八代谷の藤井・奈佐路・谷・八代・猪ノ爪・奥八代・河江・椒(ハジカミ)・三原・段(ノ)十邑。丹後にも佐濃ノ郷有り。弘安大田文 田三十四町、公文八木高貫に歓喜光院領八代荘田五十三町祀典所 鷹貫神社(竹貫村)、天日槍五世ノ孫 葛城ノ高額比売命、即ち神宮皇后の妣(ヒ)也。雷神社(佐野村)は曰く佐野天神、[木蜀]椒ノ神社(椒村)、は八幡宮とも称える。…多麻良伎(ノ)神社(猪爪村)、須谷(ノ)神社(藤井村)、また段村に氣多軍団の遺趾有り、八代(ノ)薬師堂、大岡寺の号により白山権現を祀る。大岡神に従五位下授かる。
賀陽加也カヤ但馬考は今(ノ)引野・土淵・加陽・八社宮(ハサミ)・伏村・清冷寺(ノ)六邑。備中に賀夜郡、伯耆に蚊屋郷、大田文 上賀陽ノ荘田十七町六段、南方、地頭、小林三郎、北方(ノ)地頭、小林眞重、下賀陽(ノ)荘田五十九町、上村(ノ)地頭河越修理亮、下村(ノ)地頭野元孫三郎

(2)鈿=音:テン、デン、婦人のかんざし。青貝細工。「花鈿」は、唐人の婦人がひたいに貼った装身具

気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、九つの郷で構成されていました。西から太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)、(気多郷)ですが、これはずっと後になって律令制度が整備された郷なので、縄文時代は違ったかも知れませんが、これが邑(ムラ:自然村:今の概ね区単位)を集合させた小国の単位であると思います。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占めます。

弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系であり、気多氏にとって重要な中心部でした。狭沼郷も円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点です。

■気多郡の沿革

平安時代中期に作られた日本語辞書である「倭名類聚抄」などを江戸期のものまで集成した『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編に、 「気多郡」…因幡にも気多郡有り、遠江に気多郷有り、本郡には大己貴神(オオナムヂ)を祀る気多神社…、高田、日置、高生、気多、狭沼の五郷、多太、三方、楽前、八代、賀陽、伊福の六荘、今の八十村を領し、出石郡出石町に在し気多郡を治める。…

と記し、 「気多(郷)」が四角い枠で囲まれて気多郡のトップに記されています。

「気多」…「原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府在此、後徒治高田郷云、弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考、今府中組、領山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、ノ九邑、是此域也、…」としつつ、気多の後に、太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)を記しています。

「気多(郷)」…「郷名は現存せず。弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考には今の府中組で、山本、松ノ岡(松岡)、土居、手邊(辺)、國府市場(府市場)、堀、野野荘(野々庄)、池ノ上(池上)、芝の九村がその域である。」と記されている。

手邊(辺)は現存しないが、和名抄は記載順が所在地に忠実に記載されているので土居と府市場の間に記されていることからその中間にあったと考えられる。それ以外の村はそのまま区名として現存している。

※脱簡(1)書物の中の一部が抜けていること。章・編の脱落や落丁のあること。

しかし、大田文に伝える日置郷は、日置、多田ノ谷、伊福、上ノ郷、中ノ郷の五邑、とされていてまた、弘安大田文には気多上郷、下郷とあり中郷がなく、日置郷には上ノ郷、中ノ郷があり下郷が抜けてしまっている。上ノ郷、中ノ郷は現存するから、下郷はのちに中郷と呼ばれるようになったのではないか。この時代に円山川をはさんだ対岸の気多上ノ郷、中ノ郷は日置郷に加わったことがわかるから気多郷名は消滅したのだろうか。あるいは気多の上ノ郷とは気多郷でないと、気多郷には上下の二郷しかなく、今の府中組が気多郷なら上下二郷では分けられないから、今の府中組は気多郷ではないはずだ。しかし、その後、他の郷にも上ノ郷、中ノ郷を除いたその他の(今の)府中組九村が記載されていない。

また出石郡の項では、同様に神戸郷が四角い枠で囲まれてトップに記され、「現存せず…但馬考は宮内、坪井二邑(村)と伝える。」としている。宮内、坪井二村は出石郷に編入され神戸郷は現存しないことが分かる。ところが、気多郷はすっかり消えてしまっているのだ。これは気多郡だから気多郡気多郷ではダブルので省略しているのだとする考えもある。但馬考は(気多郷は)今の府中組だとしてある。

「気多(郷)」に続いて、太多郷、三方郷、楽前郷、高田郷、高生郷、日置郷、賀陽郷が記されている。

明治以降の気多郡(旧日高町)の変遷

1889年(明治22年)4月1日町村制施行(7村)
気多郡中筋村(賀陽郷)・日高村(日置の日と高田・或いは高生の高から日高)・国府村・八代村・三方村・西気村・狭沼郷三椒村
1894年(明治27年)12月15日清滝村が西気村より分立
1896年(明治29年)4月1日気多郡が美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅
1925年(大正14年)11月1日町制を施行し城崎郡日高町となる
1950年(昭和25年)4月1日城崎郡豊岡町、五荘村、新田村、気多郡中筋村が新設合併し、豊岡市発足
1955年(昭和30年)2月1日養父郡宿南村の一部(浅倉、赤崎)を日高町へ編入
1955年(昭和30年)3月3日竹野村、中竹野村、奥竹野村、三椒村が合併し、新たに竹野村となる
1955年(昭和30年)3月25日日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足
1958年(昭和33年)1月1日城崎郡日高町上佐野地区を豊岡市へ編入
1976年(昭和51年)9月1日城崎郡日高町西芝字大向野の一部と豊岡市の間で境界変更
2005年(平成17年)4月1日豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅

気多郡高生郷とは

高生郷とは

高生郷(タカフ、たこう)とは、かつて但馬國氣多郡(現在の豊岡市日高町及び豊岡市中筋地区、佐野地区、竹野町椒地区)にあった郷名で私が生まれ住んでいる場所です。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学には、読みは多加布。神名式(延喜式)、気多郡高負神社。姓氏録に高生宿祢の出自。宿祢の文には同祖の王仁の孫、河浪古の首、天平神護元年紀、河内国の人馬を伴い、武生の辺に居す。弘安太田文には気多郡高生郷田百七町、公文矢部の尼。

但馬考では、

宵田 河合道記曰く豊岡より三里、馬駅なり。先ずは豊岡の馬を大方ここにて そうじて、姫路までの街道、馬は多し。自由なり。
今この辺の田地を高生代と云う。俗に(北の)日置郷と合わす謂われなり。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

「日高町史」には、その日置村と高田村が合併して日高町になったと記しています。

高田郷はその高生郷の西に隣接し、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府の存在が考えられます。
移転後の所在地については、近年の発掘調査により、但馬国府国分寺館に隣接する祢布(にょう)ヶ森遺跡(豊岡市役所日高総合支所(旧日高町役場)の付近)であると考えられるようになりました。

7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部(現在の丹後)、兵庫県の北部(但馬)および中部の東辺(兵庫県丹波地域)に及んでいました。年号は不明ですが北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離して成立したとする説もありますが確証はありません。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されています。後世まで長く続く領域が定まりました。

古丹波王國とは

丹波・丹後・但馬は、大古は同じ丹波に属し、総称して三丹、丹但、北近畿などという呼び方もありますが、これまでは勝手に「丹国」と名づけていました。

このブログは、「丹国ものがたり」のホームページからブログへ移転更新するためのブログです。

城崎(きのさき)という地名の由来

城崎(きのさき)の由来

『城崎町史』(1988年)は、豊岡市で出土した木簡に「絹前…」または「縄前…」とも読める文字があることから、「絹前」=キヌサキ説の可能性に触れている。

また一節では、太古、海の入江だった豊岡盆地が紀元前二万年ごろから隆起と海の後退によって次第に陸化、当時円山川河口から日高町水上(ミノカミ)あたりまで沼地状になった一帯を「黄沼前の海(きぬさきのうみ)」と呼んだ。同様に出石町出石川流域にも水上(ムナガエ)という地名がある。

太古はこの付近までが黄沼前(キノサキ)という入江だった。

しかし、いずれも現在の城崎温泉が城崎というようになった事実をどこにも記してはいない。江戸までは湯嶋と呼ばれていてのである。つまり今の豊岡市街地が城崎郷であって、城崎であった。

昭和になってどこの市町村もこぞって「市町村史」を編纂した。しかし本当なのかという部分は在り得るのだ。

戦後それどころではなかった当時は、誰もそんなゆとりはなかったし、日の目を見なかった地域の歴史研究。ブームによって急遽、郷土の史料を編纂するにあたり、数少ない郷土歴史研究家の存在は貴重だった。そのなかでそうした方々の苦労と叡智に敬意を抱くし、それを批判するのではなく、新たな発見や歴史認識等を踏まえて、検証していくことこそ、後の時代の我々の恩義につなぐものであると思うのである。

ではさっそく。城崎は城崎温泉そのものではない。

かつて「城崎」という地名は、旧城崎郡と城崎郷(豊岡市街地中心部)の呼び名だった。温泉地帯は城崎郡湯島と呼ばれていた。

奈良時代から平安時代にかけて、古代の日本国家は、地方行政の単位として国-郡-里(郷)を設けたが、但馬国は八郡に分けられた。当時の但馬国城崎郡は、今日の豊岡市市街地(旧豊岡町)と城崎町を合わせた地域とほぼ重なっている。

城崎の名が現われる最古の記録は奈良・平城京跡から出土した木簡(古代、紙と同じように木片に文字を墨書したもの)で、奈良時代の神護景雲三年(769)の年号が入っており「城崎郡」と書かれている。このほか古代には、「木前」「木埼」「木崎」などと表現されていた。

平安時代の承平年間(931~37)に成立した、わが国初の百科事典『和名抄』は、それぞれの地名に万葉仮名で和訓を付けており、城崎を「岐乃佐木」または「木乃佐木」と万葉仮名で読ませている。城崎郡内の新田(にった)、城崎、三江(みえ)、奈佐(なさ)、田結(たい)の五郷と余戸(あまるべ)が記されている。余戸は現在の香住町余部とは無関係で、所在地は不明。他の五郷は、現在にも生きているおなじみの地名だ。

城崎温泉は、湯嶋、湯島と云われ、古くは城崎郡田結郷湯島と云われていた。とくに田結郷は広範囲で近世には、田結郷をさらに大濱庄、下鶴井庄、灘、気比庄に分れていた。
気比庄は気比、田結、湯嶋、桃島、小島、瀬戸、津居山の七村。

「但馬考」に、湯嶋 この湯の名、古書にあらわれるのは、古今集を始めとす。順の「倭妙抄」には、他の二方の温泉(ユノ)郷を載せしたしは、但馬の湯とのみ云うには、まぎらわしき方もあれど…考えるに、此の地の名、上古は大渓(オオタニ)と云しを、温泉あるゆえ、俗に湯嶋と唱えて、終わりに古名を失えり。

「但馬考」に、「城崎温泉」という呼び名が現れるのは、

温泉

(香川修徳の)一本堂薬選籍編曰く、但州城崎温泉、三敷座(座敷)ありて、…此邦諸州(日本全国)、温泉極めて多し。而して但州城崎新湯を最第一とす。(香川修徳は)新湯を一の湯、二の湯と分けて、二つありとした。

新湯に続いて、中湯、上湯、御所湯、曼陀羅湯、他一か所を記している。

引用:校補「但馬考」、豊岡市教育委員会、与謝野町

古代山陰道と但馬・丹波

古代山陰道と但馬・丹波


図:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所

律令制の時代、わが国は五畿七道(ごきしちどう)という地域区分をもち、現在の近畿地方を中心とした国づくりが行われていました。

ここでいう「道」とは、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物であり、朝廷の支配が及ぶ全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分していました。

五畿七道には、律令で定められた国(令制国)があり、それぞれの国府は、七道と同じ名前の幹線道路で結ばれていました。幹線道路は大路、中路、小路に区分され、大路は都と大宰府を結ぶ路線、中路は東海道・東山道の本線、小路はそれ以外の道路とされています。

この時代の記録を残す物の一つとして知られているのが、平安時代中期に編纂されほぼ完全な形で伝わっている「延喜式」(えんぎしき:律令の施行細則的位置づけ)で、細かな事柄まで規定され、古代史の研究で重要な文献となっています。そして「延喜式」は、幹線道路の沿道に置かれ、使者に馬や食事、宿泊などを提供した「駅家(うまや)」の一覧が載っている最古の記録なのです。

■古代山陰道の国と駅

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。 古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

【延喜式による古代山陰道の国と駅】

駅名
丹波国大枝野口小野長柄星角佐治日出花浪
丹後国勾金但馬国粟鹿郡部養耆山前面治射添春野因幡国山崎佐尉敷見柏尾伯耆国笏賀松原清水奈和相見出雲国野城黒田宍道狭結多杖千酌石見国波弥託農樟道江東江西伊甘

吉川弘文書刊「完全踏査 古代の道」(木下良監修/武部健一著)を参考に作成

これらのことからもわかるように、古代の道は江戸時代の道とは違い、未だ解明されていない部分も多いとされますが、一方でその研究結果から、古代の道は直線的道路が多く、かつ道幅も広くとられていたと考えられており、非常に計画的に整備された交通路であったといわれています。

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

古代の遺物という観点では、古墳や遺跡などわかりやすい形でみることのできるものがある一方で、実は今私たちの目の前に当たり前のように存在する「みち」は他の古代の遺物と同じように歴史や文化の宝庫でありながら、今もなお長い歴史の現在進行形の中で私たちが利用しその恩恵を受けている地域社会の生きた古代遺産ということを実感します。

 

「みち」がまちをつくり、そして「みち」や「まち」の出来事の蓄積が地域の歴史や文化をつくってきました。現代においても、北近畿豊岡自動車道が春日・和田山間に供用されたことで京阪神からの丹波・但馬地域への観光客も増加しており、新たな「みち」による北近畿文化圏の新たな1ページが開かれるのかも知れません。
古代山陰道の時代の丹波国とは、現在の京都府の亀岡市・園部町、兵庫県篠山市・丹波市にわたるエリアということができます。古代山陰道は京都の羅城門から始まり、この丹波を入り口に本路は但馬へ、支路は丹後を通り再び但馬で本路に合流し、日本海岸にむけて道がつづきます。延喜式による山陰道本路における丹波国の駅は「大枝」「野口」「小野」「長柄」「星角」「佐治」の6つが示されており、その比定地等について見ていきます。

■古代山陰道:丹波国の駅家

畿内の山城国から老の坂峠を越えて丹波国に入り、出発点の羅城門から約13.4キロの距離に最初の駅「大枝駅」(おおえ)があります。現在の京都府亀岡市篠町王子あたりと考えられています。同名の地名が京都府西京区にも残っていることから、もともとは(奈良時代には)山城国にあった駅家が平安時代に丹波国に移されたものと考えられています。

山陰道本路は、亀岡市の東西道路から先は、大筋では近世の篠山街道あるいはそれを踏襲する国道372号のルートに乗るものになりますが、より直線的な篠山街道のルートが近いと考えられています。また、丹波国府を経由するルートが本来の山陰道であるという考え方もあります。

そのルートの先にあるその次の駅家が「野口駅」(のぐち)です。現在の京都府園部町南大谷あたりに存在したと考えられています。十世紀に成立した百科事典「和名抄」に船井郡野口郷の記述があり、現在の薗部町南大谷に旧字名の野口があることから、比定地として有力視されているのです。ここには、地元の郷土史家の方々が立てられた「野口駅跡」の石碑が存在しています。

ここから「天引峠」といわれる峠を越えると同じ丹波でありながら、京都府から兵庫県に入ります。現在の篠山街道(デカンショ街道ともいわれています)に沿って、丹波第3番目の駅「小野駅」(おの)があります。これは現在の兵庫県篠山市小野奥谷あたりと考えられています。近隣には、「史跡延喜式小野駅跡」と記された碑と祠、その横に篠山市による板が立てられています。

「小野駅」から篠山街道を進み、次の駅「長柄駅」(ながら)に向かいます。「長柄駅」の比定地については諸説ありますが、西濱谷遺跡などの発掘などから、篠山市西濱谷にあった可能性が高いとされています。小野駅から篠山市街地の北側の山麓沿いを通ってきたと考えられ、小野駅からは12キロ程度となります。「長柄駅」から先の古代山陰道は本路と支路に分かれます。本路は現在の丹波市を通って但馬地方へ抜ける道であり、支路は篠山から丹後地方に向かい、但馬の出石地方を通って香美町村岡区で本路と合流します。

延喜式山陰道の本路は、「長柄駅」から国道176号線を北に向かいます。直線的な道路が多くなり、古代の道の面影を感じさせる風景がつづきます。

「長柄駅」の比定地から約16.4キロ、丹波市氷上町石生のあたりが「星角駅」(ほしずみ)の比定地とされています。このあたりは旧道の国道 175号線と国道176号線が合流する地点で、標高100メートル未満の太平洋と日本海の分水嶺としても有名で、「水分れ」と呼ばれる地区です。このあたりから延喜式山陰道は、昨年供用が開始された国道483号線(北近畿豊岡自動車道)と平行して走るようになり、駅家もインターチェンジの場所とほぼ同じ配置となってきます。ちなみに星角駅は北近畿豊岡道氷上ICの近くになります。

丹波地区最後の駅は「佐治駅」(さじ)です。北近畿豊岡道の青垣ICの近くであり、丹波市青垣町佐治という地名から比定地には問題がないとされています。北近畿豊岡道の「遠阪トンネル」を抜けると、もうそこは兵庫県朝来市にはいり、「丹波国」から「但馬国」に入ることとなります。

■古代山陰道における丹後・但馬路の分岐について

山陰道丹後支路最初の駅は「日出駅」(ひづ)駅です。その比定地は兵庫県丹波市市島町上竹田段宿とされ、由良川支流の竹田川右岸を北上し、市島町に入ってからは左岸に移って比定地に達します。現在は国道175号線が近くを通っています。

その次は福知山市にあると考えられる「花浪駅」(はななみ)です。日出駅から由良川筋を避け、西回りでいくルートと考えられます。福知山市中心部から西の西明寺・今安付近を通過して府道109号線を北上し、福知山市野花から府道528号線を沿って北上すると「花浪駅」にいたります。具体的な比定地としては京都府福知山市瘤ノ木周辺とされています。

この周辺には「花浪駅跡」とされた地元が建立した石碑もあり、和泉式部の歌にも「はななみ」の言葉が用いられたものがあります。ここから小さな峠を越え、国道426号を通り、丹後支路は丹後国に入ります。 国道426号を加悦町を経て、野田川町に達すると、ここが丹後国唯一の駅家「勾金駅」(まがりかね)の比定地となります。支路と丹後国府への道がクロスするポイントに置かれたと考えられています。この駅家から丹後国府へは10キロ程度で、国府は宮津市中野府中あたりとされ、宮津湾が天の橋立にふさがれた風光明媚な阿蘇海に面しています。 再び「勾金駅」に戻り、支路を進むことにしましょう。府道2号線宮津八鹿線を西に進み、岩屋峠を越えるとそこは但馬国です。ここに山前駅を置く説もありますが、山前駅については諸説あって分からないことが多いので、今回の特集ではふれないこととします。

さらに西に進み、豊岡市出石町中心部まで支路は峠を越えながら直線的に進むと考えられています。出石市街からは、国道482号線を通り、豊岡市日高町に向かいます。豊岡市日高町には但馬国府があったとされ、この周辺の弥布ヶ森遺跡がそれではないかと有力視されています。正倉院文書の中に「高田」駅家という記述があり、延喜式以前、このあたりに「高田」という駅家があったと考えられています。延喜式の時代には、但馬国府がその代替施設として役割を果たした可能性があります。)

丹後・但馬路の最後の駅家は「春野駅」(かすがの)1です。この駅の比定地については諸説あり、特定は難しいとされています。ある説では、国道 482号線の蘇部トンネルを抜けて、香美町村岡に通じるルートにその駅家があったのではないかと考えられています。古代道路のルートを新しい自動車道やバイパスが通る例がよく見られることなどを考えると、可能性のある説とはいえ、近くの道の駅「神鍋高原」があるあたりが好適地とも思われます。 ここをまっすぐ進み、古代山陰道の支路である丹後・但馬路は香美町村岡区で本路と再び合流すると考えられます。

(丹後と但馬を結ぶ支路で山前はどこなのか。射添と春野間は蘇武岳越えという難所ではありますが直線距離が近すぎるので、山前は勾金と春野の間であれば高田あたりであれば勾と春野の中間、出石神社あたりではないか。)

この支路は丹後国府へ行くだけでなく、それから但馬国府を経て山陰道本路へ戻ります。分岐点の考え方にはいくつかあり、比較される路線は、「佐仲峠越え」「瓶割り峠越え」「水分れ街道」の3つが考えられています。 「佐仲峠越え」は「長柄駅」より本路を進み、現在の舞鶴若狭自動車道とクロスするポイントから分かれるルートで、佐仲峠を越えて、丹波市春日町国領に出る道です。

「瓶割り峠越え」のルートは、鐘ヶ坂峠の手前で分岐し、北上して瓶割峠を越え、「佐仲峠越え」と同じく丹波市春日町国領に出ます。福知山市史などはこのルートを採用しています。

「水分れ街道」のルートは丹波国の駅家「星角」から、現在の国道175号線やJR福知山線に沿って進む黒井川沿いのルートです。 それぞれのルートの違いは「佐仲峠越え」がもっとも標高が高いところを通り丹後・但馬路の最初の駅に最も近く、「水分れ街道」は峠を越えない平坦な道路であるが最初の駅までは最も遠くなっています。古代道路は最短のルートをとる場合が多いこと、江戸時代の道しるべも「佐仲峠越え」のルートを丹後への道としていること、高速道路に沿ったみちであることなどを考えると「瓶割り峠越え」のルートの蓋然性が高いと考えられます。

丹波市春日町国領から北上すると舞鶴若狭自動車道の春日ICに到達しますが、この付近に位置する七日市遺跡で南北方向に走る幅約11mの道路遺構が見つかり、位置や方位、幅員などから山陰道丹後支路の可能性が高いとされています。この遺跡では、多数の建物や、木製品・硯・石帯、および「春マ郷長」「大家」「門殿」などと記された墨書土器が出土し、木簡・墨書土器が多数出土した付近の山垣遺跡とともに、この地域を治めた役所の跡と考えられています。

■古代山陰道:但馬国の駅家

但馬国は現在の兵庫県但馬地方とほぼ同じ地域をさします。第2回の中で、とりあげた丹波市青垣町から北近畿豊岡道にある全長4キロ近くある遠坂トンネルを抜けると兵庫県朝来市、但馬地域の入り口となります。

延喜式による山陰道本路における但馬国の駅は「粟鹿」「郡部」「養耆」「射添」「面治」とつづき、その後但馬国から因幡国に入ります。

但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。 延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

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