歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
山名氏家臣 ここでは四天王として名高い垣屋、日下部氏系以外の主な家臣について記しています。 [但馬の城跡]
田結庄氏概要 大きな地図で見る 鶴城 豊岡市六地蔵と山本の両地区
戦国時代(1467~1568)の但馬地方の守護大名である山名氏の家臣のうち、四天王といわれた武将に、垣屋、太田垣、八木、田結庄の四氏があり、それぞれ但馬の各地に城を構えていました。
その四天王の一人、田結庄是義(たいのしょうこれよし)は鶴城を守っていました。豊岡市六地蔵と山本の両地区にまたがる「愛宕山」がその昔の鶴城です。この田結庄ともう一人の武将、垣屋隠岐守隆充(続成(みつなり)=光重・楽々前城主=日高町佐田)[*1] との間に、天正年間、大きな戦いが行われ、その結果、田結庄氏が滅ぶことになったのですが、その下りは後ほどお伝えします。田結庄氏は、但馬国城崎郡田結郷田結庄(豊岡市田結)を本貫とする中世豪族でした。田結(たい)は、円山川が日本海の注ぐ河口で、海水浴で知られる気比ノ浜の東に位置する漁村です。わかめ漁などがさかんです。
田結庄は「たいのしょう」と読み、出自は桓武平氏であったといわれますが、その世系については詳らかではないようです。
越中次郎兵衛盛嗣 気比ノ浜
『田結庄系図』によれば、桓武天皇の子で桓武平氏の祖、皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の後裔とみえ、七代後の平 盛嗣(盛継 たいら の もりつぐ 生年不詳 – 建久5年(1194年))、通称は越中次郎兵衛盛嗣がいました。平安時代末期の平家方の武将です。父・平盛俊(たいらのもりとし)同様平家の郎党として勇名を馳せました。
『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将でした。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢三郎義盛(さぶろうよしもり)との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残しています。
能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛嗣を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。侍大将である盛嗣が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの=源頼朝)の御弟、九郎太夫判官殿(源義経)であるぞ」とおっしゃいました。
すると敵が 「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま:京都)の稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」
と失礼なことを申します。そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そういうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。
すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。
そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。その矢は、盛嗣の鎧(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われましたが、彼は自害を快く思わず、平盛久らと共に京の都に落ち延びます。都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後但馬国で潜伏生活へ入りました。盛嗣は城崎郡田結郷気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われています。その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っていました。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐(キリ)を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町(1町=約109メートル)も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいました。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下されました。源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦め(縛る)ても誅して(殺して)もまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもあります。諸説あるものの、そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。
「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清 、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命を受けました。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になりました。
越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行きました。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねました。
「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」
「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」
「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」
「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛嗣ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」
と言ったので、 「それならば切れ」と、
由井ヶ浜(神奈川県鎌倉市)に引き出して首を切ってしまいました。越中次郎の忠義の振る舞いを誉めない者はいなかったといいます。赤間神宮(山口県下関市)にある壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓七盛塚 は、江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもあります。墓は、左近衛少将有盛、左近衛中将清経、右近衛中将資盛、副将能登守教経、参議修理大夫経盛、大将中納言知盛、参議中納言教盛、伊賀平内左衛門家長、上総五郎兵衛忠光、飛騨三郎左衛門景経、飛騨四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛継、丹後守侍従忠房、従二位尼時子の一門が並んでいます。
平家落人伝説は、但馬でも約40ヶ所に残されていますが、唯一確かといえるのが、この越中次郎兵衛盛嗣にまつわる話です。豊岡市気比と城崎町湯島に残る2基の宝篋(ほうきょう)印塔がその供養塔と伝わっています。
さて、竹野町には宇日(ウヒ)があり、香美町香住区御崎地区は余部(あまるべ)鉄橋で知られる余部からさらに岬にあり、日本一高い所にある灯台で知られ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将門脇宰相教盛(清盛の弟)らがこの地に逃れてきたと伝えられる平家落人伝説の地です。鎧(よろい)、丹後半島には平などもゆかりがありそうな地名です。いずれも田結同様に陸の孤島というべき魚村です
田結庄是義(たいのしょう これよし) 鶴城趾/豊岡市山本
違い鷹の羽* (桓武平氏後裔?)
戦国時代の田結庄氏のものではないが、後裔の方が再興された田結庄氏が用いられている家紋とのこと。武家家伝 さんより
参考略系図 称田結庄氏 越中次郎兵衛 宮井太郎兵衛尉 桓武天皇━葛原親王・・・平 盛嗣(盛継)━━盛長━━━━━盛重━━盛行━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 鶴城主 ┃ 左近将監 左近将監 1642没 ┗━盛親━━盛敏━国盛━━重嗣・・・是義━━━━盛延 さて、盛嗣の子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したといいます。盛長はその後、橋爪郷宮井(豊岡市宮井)に移り住み、宮井太郎兵衛尉盛長と称し『但馬国太田文』にも、同郷公文職、大庭庄下司職を有していたことが知られます。その後、盛長の子盛行が田結庄に帰り、ふたたび田結庄氏を称したといいます。 戦国末期には、左近将監国盛は但馬守護山名時熙に仕え、山名四天王の一人に数えられる重臣となりました。子重嗣は山名持豊に従って赤松満祐の「嘉吉の乱(1441)」に際して播磨国に出陣したと伝えられますが、それを裏付ける史料はないようです。
「応仁の乱(1467)」以前の但馬で守護山名氏に従う諸将としては、垣屋・太田垣・八木・田結庄の四天王に加えて、塩冶(えんや)・篠部・長(ちょう)、奈佐、上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南・田公などの諸氏が数えられています。
田結庄氏で明確な裏付けを得るのは、戦国末期の左近将監是義(これよし)です。子は田結庄盛延。是義は愛宕山((宝城山)豊岡市六地蔵・山本)に鶴城を築いて居城とし城崎郡を領し、太田垣輝延(朝来郡)、八木豊信(養父郡)、垣屋光成(気多郡)らと但馬を四分して勢力を広げました。神武山の亀城に対して鶴城と呼びます。山名氏の有子山(出石)城下に田結庄という町名が残っているのは田結庄氏の屋敷があったのが由来とされています。 平安時代に成立した「和名抄」に城崎郡内に新田、城崎、三江、奈佐、田結の5郷が記されており、田結郷は 気比庄(湯島、桃島、気比、田結、瀬戸、津居山、小島)、灘庄(今津、来日、上山、ひのそ)、下鶴井庄(三原、畑上、結、楽々浦、戸島、飯谷、赤石、下鶴井)、大浜庄(江野、伊賀谷、新堂、滝、森津)からなっています。下鶴井庄の南端であり、山名氏の本拠地である九日市守護所や此隅山城に最も近い愛宕山に城を築いたのも、納得できます。 やがて、但馬に伯耆・出雲の尼子氏[*2] が勢力を伸ばしてくると是義は尼子氏に味方しました。是義は、垣屋氏との仲が悪かったのです。それは、是義が垣屋氏勢力範囲である美含郡(竹野・香住)の併合を狙っていたからです。
永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻(第一次但馬征伐)を受けます。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰しています。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦いました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っています。
その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれました。田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化しました。元亀元年(1570年)毛利党色を示していた楽々前城主 垣屋続成(つぐなり)を奇襲により殺害することになります。 しかしその後、山名祐豊は天正三年(1575)春、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じました。
野田合戦と田結庄氏の没落織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦 が起きます。
天正三年(1575)六月十三日、長谷村(豊岡市長谷)で、カキツバタ見物の宴会が行われている時、楽々前城主(日高町佐田)、垣屋続成(みつなり=光重・隆充)の家来が鉄砲で鳥を撃っておりますと、その弾が酒盛りをしていた田結庄是義の幕の中に落ちました。是義は大そう怒って、その垣屋の家来を召し捕らえて殺してしまいました。このことがあって、光成は是義を征伐しようと時期を狙っていました。その年の秋、10月15日、垣屋播磨守続成(光重・隆充)は、同族(親類)の垣屋駿河守豊続(亀城主、後の豊岡城)の応援を受けて、田結庄是義の出城である海老手城(豊岡市新堂、栃江、宮井境界標高215mの山上)を垣屋続成・長(ちょう)越前守らに略取します。是義の属将・海老手城主、栗坂主水は養寿院(豊岡市岩井、後の養源寺)に、お参りして留守でした。したがって城はわけなく落とされてしまいました。垣屋勢は勢いに乗って、養寿院を焼き払い、田結庄方の宮井城(豊岡市宮井)にも攻め寄せてきました。
危ないところで逃げ延びた栗坂主水は、すぐに鶴城に行き、是義に事の次第を話すと、是義は大いに驚き、「ただちに、海老手城を取り返せ」と、一門の将兵五百人を集めて、海老手城に向かいましたが、垣屋勢の援軍五百人に阻止されて、野田(豊岡市宮島付近)の沼田での大野戦となりました。この戦いを「野田合戦」といっています。野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけでなかったのですが、置いた小田井神社は焼き払われました。また宮井城主の篠部伊賀守は、田結庄の旗色が悪いとみて、垣屋駿河守の軍に降参してしまいました。繰り出した垣屋の別働隊の追撃もあって、田結庄軍のうち鶴城下に帰着した者はわずか十六名であったといいます。
このようにして追いつめられた田結庄是義は、「今はこれまで」と家来とともに、ひそかに菩提寺正福寺(豊岡市日撫)にて自害し、没落していったといわれています。このとき、天正三年(1575)十月十七日と書かれています。
いま、愛宕山の南側の麓に静かに建っている宝篋(ほうきょう)印塔が是義の墓と伝えられています。 また、海老手城主、栗坂主水は、お坊さんとなり、諸国を修行した後、海老手城下の村(滝・森津・新堂あたり)で余生を送り、自分の死が近づいたことが分かると、墓の穴の正座して、鐘を打ちつつ死んでいったと伝えられています。新堂の氏神さんの境内に、立派な宝篋(ほうきょう)印塔が建っています。また、海老手城落城の時に、垣屋勢に捕らえられた十六人の武士は、打ち首にされた後、城下の森津畷にさらし首にされました。後々までこの畷を「十六畷」といったそうです。野田合戦の様子は軍記物に記されているばかりですが、1575年 (天正3年)、八木城主、八木豊信が但馬の情勢を吉川元春に報告している中で、「田結庄において、垣駿(垣屋駿河守豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれをもたれ候、御気遣い有るべからず候」と記されており、その事実は裏付けられています。この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野~竹田城)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保しました。そして天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は秀吉の因州征伐による第二次但馬征伐によって居城である有子山城を包囲される中で死去しました。ここに二百数十年続いた但馬山名氏も滅亡しました。 【資料:兵庫県大辞典など】
こうしてみると、家臣団の対抗が起きた中、田結庄氏は唯一人、主君山名氏に最後まで忠臣をとげた忠義の重臣のように見えます。しかし、下克上の時代であり、山名氏に不満を募らせた他の重鎮とは違い、それがかえって仇となったともいえます。他の戦国時代では多く見られるように、垣屋・太田垣・八木氏などが姻戚関係を深めるのとは異なり、系図からも全く姻戚関係が見当たりません。
[脚注] *1…「郷土の城ものがたり-但馬編」には隆充または光重とありますが、「但州発元記」では垣屋隠岐守隆充となっています。宿南保氏が考証された系図では隆充という名は記されておらず、豊岡市史所蔵『垣屋系図』にしたがい続成としております。 *2…尼子氏…宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の支流。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、京極高秀次男、高久が近江国甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。孫の尼子晴久の時代には山陰・山陽八ヶ国約200万石を領する大大名にまでなった。 塩冶(えんや)氏塩冶(えんや)周防守 但馬山名氏家臣。但馬美方郡(浜坂町)芦屋城主。 播磨屋さんの武家家伝によりますと、 近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉・南北朝時代の守護大名。宇多源氏の成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に住み、子孫は佐々木氏を称しました。成頼の玄孫秀義は源頼朝を援けて活躍。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となり、四男?氏信は京極氏の祖となりました。秀義の五男が義清で、出雲・隠岐の守護に補せられて、子孫は同地方に繁栄しました。
義清の孫出雲守護頼泰は、惣領として塩冶郡を根拠とし、塩冶左衛門尉と称しました。これが塩冶氏の祖であるとされています。貞清を経て、南北朝初期に名をあらわしたのが塩冶判官高貞です。高貞は、父のあとを継いで出雲守護となり、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆国船上山に挙兵すると、その召しに応じて千余騎の兵を率いて馳せ参じ、六月には供奉して入京。建武政権成立ののち、高貞は千里の天馬を献上し、その吉凶について洞院公賢・万里小路藤房らが議論したといいます。建武二年十一月、足利尊氏が鎌倉に叛すると、高貞は新田義貞軍に属して足利軍と箱根竹ノ下に戦いましたが、敗れて尊氏に降り、やがて出雲・隠岐守護に補任されました。暦応四年(1341)三月、高貞は京都を出奔、幕府は高貞に陰謀ありとして、山名時氏・桃井直常らに命じて追跡させ、数日後高貞は播磨国影山において自害しました。一説には、出雲国宍道郷において自害したともいわれています。高貞の妻は後醍醐天皇より賜った女官で、美人の聞こえが高かったため、尊氏の執事高師直が想いを寄せ、叶わず尊氏、直義に高貞の謀叛を告げ口したので、高貞は本国の出雲に帰って挙兵しようとしたのであるといわれています。
高貞没後、弟時綱の子孫から室町幕府近習衆が出ています。また京極・山名氏の被官人となったものもあるらしいです。この一族が塩冶周防守ではないかと思われます。尼子時代に尼子経久の三男興久が塩冶氏を継ぎましたが、父に背いて自刃しました。
但馬国の塩冶氏は高貞の甥・塩冶通清の四男・周防守の子・某を祖とします。但馬塩冶氏は山名氏に仕え、各文献・古文書にも「塩冶周防守」「塩冶左衛門尉」「塩冶肥前守」「塩冶前野州太守」「塩冶彦五郎」などの名が散見します。戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。高清は、もと出雲発祥の塩冶氏の一族で、のち但馬に移り芦屋城(新温泉町)を本拠地とし、山陰の複雑な山岳の地形を熟知し神出鬼没に兵を動かしたため、海賊の将と呼ばれた奈佐日本之介に対比して「山賊衆」と羽柴秀吉に言わしめましたが、もちろん山賊ではありません。
永禄12年(1569年)、但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に帰順の意を示します。 同年8月、山名豊国と通じたことに激怒した武田高信らの軍勢によって攻撃されるもこれを撃退、その後は毛利氏の傘下に入ります。
天正2年(1574年)~4年(1576年)にかけてはかつて自身を攻撃した武田高信を保護し、高信の復権と助命を毛利氏に嘆願していました。しかし、高清らの願いもむなしく武田高信は山名豊国によって謀殺されます。 後には高清自身も織田氏の侵攻には抗すべくもなく芦屋城を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国攻めを担当していた羽柴秀吉と対峙することになります。高清は鳥取城の北方に位置する雁金山に雁金山城を築き、奈佐日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を担当しました。鳥取城に対する兵糧攻めを行っていた羽柴秀吉は、鳥取城-雁金山城-丸山城のラインを遮断することが鳥取城の落城を早めることに気づき、宮部継潤に命じて雁金山城を攻撃させました。塩冶高清は宮部の手勢をよく防ぎましたが、兵糧の欠乏による兵の消耗はいかんともし難く、雁金山城は織田方の手に落ち、高清は奈佐の守る丸山城に逃れました。天正9年(1581年)10月、鳥取城中の飢餓地獄を見かねた吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出ます。これに対し秀吉は、経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、高清および奈佐の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲りませんでした。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、高清は奈佐とともに陣所で切腹して果てました。法名は節叟廣忠居士。
丸山城の西麓に、塩冶高清と奈佐日本之介それに佐々木三郎左衛門の3名の供養塔があります。
高清の子の塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は、吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移りました。
芦屋城北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城です。
築城年代はわかりませんが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられています。城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城でした。
いつ果てるとも知れぬ争乱に明け暮れていた元亀三年八月(1572)、鳥取城にいた山名の家来、武田又五郎高信が、布施城の山名豊国を攻めようとしました。それを知った豊国は、井土城主・河越大和守、温泉(ゆの)城主・奈良左近、七釜城主・田公氏、芦屋城主・塩冶周防守らに早馬を出し、戦いにそなえました。兵八百騎をもってまず芦屋城に攻め込んだ武田又五郎高信は、急を知ってかけつけた付近の大名、豪族のことごとくを敵に回す結果となり、庭中(ばんなか)での戦いで戦死、因幡武田氏の滅びる原因となりました。
天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬を平定しようとしたとき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せましたが、塩冶周防守の守りはかたく城はなかなか落ちませんでした。その話を、芦屋の方が話してくださいました。 芦屋の城はむかし亀が城といって、とても立派な城だったそうだ。
元亀年間に因幡の武田が攻めてきた時は、近くの大名もいっしょになって戦い、武田の軍勢を破ったそうだ。 塩冶の殿さんに近くの大名が味方したのは、よい大名だったからでしょう。 天正年間、秀吉の部下によって攻め落とされたが、秀吉の軍も芦屋攻めには苦労したそうだ。 大勢で城を取り囲み、いろいろの方法で攻めたが、城の中の何本もの旗が浜風になびき、それに夏だったそうで、日の光は強いし、秀吉軍は木の影や、民家の軒先に攻めるのをあきらめて、三人、四人集まり長期戦の構えをし出す有様、何回となく作戦も考えてみたがどうにもならない。本当に困り果てたそうだ。 そういう日が続いたある日のこと、何人かのお侍が坂の茶屋で相談していると、奥で聞いていたおばあさんが、「おさむらいさん、この城は亀が城といって亀が主だから、何年かかっても、どうしてもこの城を落とすことは無理ですよ。」それを聞いた何人かの侍は、この茶屋のおばあさんが城を落とす急所を知っているな、と感ずきました。それから毎日、おばあさんに聞きに来ますが話してくれません。そんな日が続いたある日、あまりにも気の毒に思ったのでしょうか、「おさむらいさん、この城を落とすのに急所が一つだけあるのですよ。」 と、話してくれましたが、それ以上どうしても話してくれない。また何日もおばあさんにお願いして、侍の熱心さに負けたのでしょう。 「この話はしてよいものか、悪いことか、わからなくなりました。その急所は、『亀の首を刀で切らなければ落ちない』」 と話してくれました。その亀の首は『坂の上』とも教えてくれました。そのおばあさんの話で秀吉の軍は、芦屋城を落とすことができたそうだ。 そのたたりでか、それ以後その茶店には男の子が生まれなくなり、そしてとうとう家も絶えてしもうたそうな。 たぶん、おばあさんが亀の首といった坂の上を通って、今でいうサイホンのようにして南の山から水を取っており、その水源を切られて水攻めにあったのでしょう。 そして宮部善祥房の手に落ちてしまいました。城主塩冶は城を捨てて因幡に逃れました。あくる天正九年、秀吉が鳥取城を攻めたとき、芦屋城主塩冶は丸山の出城で自害して果てました。 宮部善祥房が鳥取城主となってからは、芦屋城には但州(但馬)奉行がおかれましたが、関ヶ原で宮部氏が自害し、山崎家盛が摂津三田から因幡若狭に入り、弟の宮城右京進頼久に二方郡六千石を分け、芦屋城に住まわせました。それから二十年あまり宮城氏による支配が行われました。寛永四年、三代宮城主膳正豊嗣のとき、陣屋を清富に移しています。そのため芦屋城は廃城となってしまいました。 現在城下には、殿町・やかた・馬場などの小字名が残っており、芦屋の松原には塩冶周防守の碑も建っています。
篠部氏昭和42年五月二十日の各新聞の但馬地方版は「香住町月岡公園で、有馬(有間)皇子の墓が発見された。」と報じています。
有馬皇子とは、日本書紀に、斉明天皇の四年十一月五日に謀反が発覚し、捕らえられて、同年十五日には紀伊国藤白坂(和歌山県)で処刑されたと書かれておりますが、孝徳天皇第一の宮、有馬皇子のことです。
この事件は、有馬皇子が十九才のとき、大化改新の立て役者であった中大兄皇子ら改新派によって、天皇の位につけられた孝徳天皇のたた一人の遺児、有間皇子が、父天皇と同じように改新派の計略にもてあそばれ、非業の最期をとげられたことに同情してか、香住町には有間皇子の変の後日談を、次のように伝えているのです。
日本書紀では、このとき討たれたことになっているのですが、実は皇子の家来が身代わりとなって処刑され、皇子は追討に向かった者の好意によって、ひそかに丹波まで逃げのびたのです。ところが、皇子の弟宮である表米王 [*1]が但馬の国に住んでいるのを聞き、ふたたび舟で但馬をめざしました。
香住に浜に上陸した皇子は、志馬比山(しまひやま:香住駅の裏山)のあたりに隠れ住み、海部の比佐を妻にして、平和な日々を過ごしていたのです。その後も表米王と会う機会もなくこの地で亡くなり、入江大向こうの岡の上(月岡)に手厚く葬られました。
ところで、二人の間に男の子が生まれ、志乃武王と名づけました。やがて成人した志乃武王は、出石小坂の美しい娘を妻にし、天武天皇七年(678)志馬比山の山頂を切り開いて城塞を造りました。 やがて、幾年かの時が流れ、志乃武王の子孫、志乃武有徳が領主のとき、有徳は姓を篠部と改め、山頂にあった屋敷を山のふもと東方の台地に移したのです。そして、対岸の矢谷に川港を開いて、物資交易の設備を整え、中心地としたのです。
そればかりか、篠部氏の菩提寺として長見寺を建立し、要害の地としましたが、交通の便はともかくいろいろと不便なことが多かったので、当時としては前代未聞の大事業である、河川改修や耕地拡張の大工事を計画しました。
二十九年という長い年月を経て、ようやく完成しました。 この大工事によって、一日市の柳池をはじめ湿地は全部埋め立てられ、約70㌶という新しい耕地ができたのです。
このようにして、有間皇子在住以来、約五百年という長い間徳政を施し、領地内の人々から尊敬されてきた篠部氏ですが、延元元年(1336)に、篠部有信公が、祖先の法要のために長見寺に参詣されていたところを、かねてから領地のことで不和であった長井庄の釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりにあらかじめ示し合わせてあった一日市の塔の尾城に合図し、一手は長見寺に、他の一手は留守で手勢の少ない館へと攻め寄せました。
この不意打ちに驚いた篠部方は、必死になって防いだのですが、何分にも敵は多勢の上に充分な戦備を整えて攻めてきたのですから、そのうち寺に火を放たれたのを見て、もはやこれまでと、有信公をはじめ主従ことごとく火の中に身を投じ、悲痛な最期をとげたのです。 留守館でも寺に火がかかったのを見て、形勢は味方に不利であることを知り、一族の北村七郎は若君を、そして日下部新九郎は姫を連れて兵火の中を脱出したのですが、姫は逃亡の途中、姫路山のふもとで敵の矢に当たって倒れ、若君もまた、乱戦の内に行方不明となり、さすが名門を誇った篠部氏もついにその力を失いました。その後、行方不明であった若君は首尾良く落ちのび、奈佐(豊岡市)宮井城主・篠部伊賀守のところに身を寄せていたのですが、お家再興の望みもうまくいかず、のちに京都に移り住んだと伝えられています。 [*1] 表米王…但馬国の古豪族、日下部氏の祖とされている。
丹生氏(にゅうし)「上計(あげ)のお殿さんは、四十二の祝いの餅をのどにつめて死んだのだそうな。」 この話は、柴山地区の人ならみんな物心がついたころから聞かされる話です。日本海有数の避難港であり、カニ漁港としても知られる柴山港を、朝に夕に見下ろしている上計の城山にはこんな話が残されています。
丹生美作守長近は、養山城の城主でした。養山城は上計・浦上の二つの村を望み、北には柴山港から日本海を望む景色の美しい土地です。城主長近は、出石城山名誠豊の家老の一人であり、慈悲深い人でもありました。領地は、丹生地・浦上・上計・沖の浦・境の五つの村で、村民たちも長近の人徳になびき、戦国争乱の時代にもかかわらず、平和な明け暮れを楽しんでいました。
ところが、隣の無南垣の館山城主・塩冶左衛門尉秀国は、同じ山名家の家老の一人でしたが、野心満々たる人物であり、恵まれた漁獲と、避難する大小の舟で賑わう柴山を、なんとかして領地にしたいと考え、主君山名公に養山城主長近は避難にことよせて入港する他国の船と密輸して、私腹を肥やしているばかりか、ひそかに武器弾薬を蓄えつつあると報告し、みずから長近討伐の大将を引き受けました。 享禄二年(1529)十一月二十三日は、長近初老祝賀の日でありました。養山城内は、めでたい延寿を祝う声に満ちあふれていました。ところが、この機会を狙っていた塩冶左衛門尉は、日もとっぷり暮れたころ、数十人の手勢を引き連れて、沖の浦から山伝いに攻め込んできました。
これより少し前に、丹生地の大江田五郎兵衛という人が、たまたま用事があって無南垣に出たところ、塩冶勢が養山城を攻める準備をしている最中と聞いて、用事はそっちのけで取るものも取らず、大急ぎで養山城のこのことを知らせてきました。 急を聞いた養山城では、祝賀の席は一瞬にして上を下への大騒ぎとなり、油断して不意を付かれた酔いどれ兵士どもは物の役に立たず、城は火を吹き、美作守もついに自刃して果てました。
そうこうしているうちに、天下は織田氏から豊臣氏へと移り、秀吉の但馬征伐によって、山名氏の勢力も次第に衰えていきました。
鳥取城攻撃に勝ち誇った軍勢が、引き上げていく中で、海岸づたいに帰っていく軍の一隊が、無南垣の塩冶秀国の城をめざして、ときの声を上げつつ攻撃し始めました。いまは丹生三左衛門長宗と名を改めて旗頭となった熊之丞が、主君秀吉の許しを得て父の仇を討ったのです。戦いに慣れきった熊之丞にとっては、塩冶勢など物の数ではなく、一時間も経たない間に塩冶の城を攻め落とし、見事に父の敵を討ったのでした。
このときから、柴山地区では、かつての城主・丹生美作守長近の仁徳を慕い、四十二の歳を厄年として、初老を祝うことをやめ、八月二十四日の地蔵盆には、かつての城跡に建てられたお堂に集まって、供養回向をしているということです。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
応仁の乱 概 要戦国時代(1493年(1467年)頃-1573年頃)は、1493年の明応の政変頃あるいは1467年の応仁の乱頃をそのはじまりとし、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの約百年におよぶ全国的規模の争乱の時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。室町時代の一部、あるいは信長上洛以後を織豊時代(安土桃山時代)と区分することもあります。
幕府権力は著しく低下し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていきました。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制といいます。織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。織田軍団が全国制覇に動き出します。
とくに応仁の乱以降の百年ばかりの間というものは、日本の歴史において最も大きな転換期とされています。日本を大きく、新しく、改造してしまうことになりました。それ以前の古代では律令国家への権力統合、中世にはそれがゆるやかになり、中央では寺社や権門[*1] が独自の組織を形成して分立しました。戦国時代はそうした特権階級以外の人々には直接関わりのない歴史とは異なり、下克上という「日本全体の入れ替わり」つまり支配階層の全面的な交替が起きたという直接我々に触れる歴史です。 [*1]…権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団をさす
1.応仁の乱の原因 山名宗全邸址 2009/1/28 上京区堀川通上立売下る一筋目北西角
応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の8代将軍・足利義政のときに起こった内乱です。室町幕府管領の細川勝元と四職・山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し戦国時代に突入するきっかけとなりました。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれます。もともとは、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発しています。
ただし、実際には文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあり、両氏が対立関係となるのは寛正6年から両氏が和睦する文明6年(1474年)までであり、ことさらに勝元と宗全の対立を乱の要因とする理解は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解が提起されています。
室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満・足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していました。籤(くじ)引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしいて、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めます。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継いだが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。
義政は母・日野重子や愛妾・今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて気まぐれな文化人に成長しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。
打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていました。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立ちました。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けました。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて、再三将軍職就任を説得したことから、寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移りました。
文正の政変は、文正元年(1466年)7月、突然義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えました。義廉と縁戚関係にあった山名宗全は一色義直や土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから、義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われました(文正の政変)。
2.勝元と宗全の対立 山名宗全屋旧跡(2009/1/28)上京区堀川通五辻西入ル
嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めました。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継ぎましたが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。将軍足利義政は政治に疲れ、男子にも恵まれなかったことから僧籍にあった弟の義視を還俗させて後継者に立てていました。
嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は、主謀者赤松氏の再興に反対していましたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って自分の娘婿である赤松政則を加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていました。文正の政変で協力した2人でしたが、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する2人でもありました。
ところが、寛正6年11月23日(1465年12月11日)、正妻の日野富子が懐妊、やがて男子(足利義尚(のち義煕))が誕生すると、にわかに後嗣問題は波乱含みとなったのです。実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍しました。これに、管領斯波氏、畠山氏の家督問題が絡み、時代は動乱前夜の様相を呈していました。 一方、赤松氏で唯一残っていた次郎法師丸が、遺臣らの神璽奪還の功により再興が許されたのです。赤松氏再興の背後には管領細川勝元がおり、将軍継嗣問題、管領家の家督騒動、そして赤松氏の再興とが相まって宗全と細川勝元の対立は決定的となってしまいました。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは、全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていきました。
3.応仁の乱かくして、応仁元年(1467)1月、管領畠山政長の解任を契機として対立は発火点に達し、京都御霊社に陣取った勝元方の畠山政長を宗全方の畠山義就が攻撃したことで、応仁の乱の火ぶたが切られたのです。
応仁元年(1467)史上に類を見ない応仁・文明の乱が起こります。それは三度目の赤松氏再興の問題をめぐって山名持豊と細川勝元が対立し、管領の畠山氏と斯波氏の間での将軍の後継ぎ問題がからんで戦いが起こりました。両陣営とも地方から続々と兵力を上洛させました。幕府は争いを調停せず(できず)、両陣営の大兵力は京の東西に布陣する。前哨戦とも言える小競り合いを経て、5月26日に本格的な合戦が始まりました。乱が起こると応仁二年、宗全は但馬でも山名の四天王垣屋・太田垣・八木・田結庄(たいのしょう)を中心に、因幡・備後の勢力も軍備を整えて但馬に入り、総勢二万六千あまり此隅山城(このすみやまじょう)下の出石(いずし)付近に勢揃いしました。六月八日には西軍を率いて挙兵し、十五日には丹波口(京都)にさっそうと入りました。
細川勝元は京に軍勢を集結した山名方の留守を突いて、丹波守護代内藤孫四郎、長九郎左衛門らを但馬に侵攻させました。これを迎え撃ったのは、京に出陣中の父や兄の留守を守っていた太田垣新兵衛でした。竹田城から出撃した新兵衛は、但馬・丹波の国境の夜久野高原に布陣する細川勢に突入、内藤備前守孫四郎、長九郎左衛門らを打ち取る勝利しました。山名一族の大方は宗全に属しましたが、二男で備後守護の是豊(これとよ)は勝元方について宗全と対しました。その原因は、宗全には嫡男の教豊があり、幕府の横槍があったとはいえ家督も譲っていました。ところが、寛正元年(1460)宗全は教豊を放逐しました。これによって、是豊は自分が山名氏の家督を継げると期待したのですが、ほどなく教豊(のりとよ)が嫡男に復したことで野望はあっけなく潰れました。この家督をめぐる不満と、勝元の娘婿であったことなどが相俟って、是豊は勝元方につき石見・山城の守護職に補任されたのです。東軍にあって気を吐いたのは、播磨奪還を目指す赤松政則と山名是豊でした。さしもの権勢を誇った宗全でしたが、山名氏一族の統制は鉄壁とはいえないものがあったのです。
一方、播磨の回復を狙う赤松氏では、一族の赤松下野守が播磨に下り、旧臣を糾合すると播磨はもとより美作・備前の両国も回復してしまいました。これに対して山名方は、太田垣宗朝が但馬に帰り、夜久野合戦勝利の余勢をかって丹波へ侵攻、氷上郡の全域と多紀郡の大山荘あたりまでを制圧する勢いを示しました。
西陣織会館 上京区堀川通今出川南入(2009/1/28)
「西陣」の名は応仁の乱で西軍総大将である山名宗全が堀川よりも西に陣をおいたとされたことが由来です。 今出川通の大宮通と堀川通の間に西陣の史跡があます。西陣(にしじん)とは京都府京都市上京区から北区にわたる地域の名称。上京区内の東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの範囲の中を指しますが、住所としては存在せず、どこからどこまでかは正確に定められているわけではありません。 一般に鎌倉時代前半に綾織りの織り手がすでに集住していたことが知られており、西陣織など織物産業が集中する地域です。 また、日本で初めて映画館ができた場所です。
4.戦火の拡大応仁の乱は京都が主戦場でしたが、後半になると地方へ戦線が拡大していきました。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がっていきました。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙しますが、時期によっては去就が異なる場合があります。主に応仁4年(1470年)頃の状況に照らした去就を記す(参考資料:『鎌倉・室町人名辞典』・『戦国人名辞典』)。
■東軍
細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐 畠山政長:越中・(河内) 斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江) 京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐 赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作) 山名是豊:山城・備後 武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国 今川義忠:駿河 富樫政親:加賀半国 北畠教具:伊勢半国 大友親繁:豊後・筑後 少弐頼忠:肥前・対馬(筑前) 菊池重朝:肥後 島津立久:薩摩・大隅・日向(ただし、実戦には参加していない) 豪族小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など ■西軍
山名持豊(宗全)および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中(ただし、山名是豊を除く) 畠山義就:河内(紀伊・大和) 畠山義統:能登 斯波義廉:越前・尾張・遠江 一色義直:丹後・伊勢半国 小笠原清宗:信濃 土岐成頼:美濃 六角高頼:近江半国 河野通春:伊予 大内政弘:長門・周防・豊前・筑前 豪族吉良義藤、飛騨姉小路家、富樫幸千代、毛利豊元、武田元綱、竹原小早川氏、渋川尹繁・島津季久、一色時家など 京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半でした。「東軍」は皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加え、その近隣地域にも自派の守護を配置していたため、「東軍」が優位を占めていました。「西軍」は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していました。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていました。
一方、関東地方や東北、九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは別に戦乱状態に突入していました。 しかし、細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復しました。激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出しましたが、勝敗を決するには至りませんでした。
長引く戦乱と盗賊の頻発によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなっていました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。
この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。大内政弘が撤退したのも、領土の安堵を約束させるために日野冨子に政弘が賄賂を贈ったからこそできたことでした。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられています。
5.応仁の乱の影響文明九年(1477年)、西軍の中心的存在であった畠山義就、大内政弘らが相継いで領国に撤収したことで、さしもの応仁の乱も終熄を迎えました。しかし、乱はすでに全国に拡散しており、世の中は下剋上が横行する戦国乱世へと推移していました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもありません。さらに、応仁の乱は室町幕府の形骸化を引き起こし、終結から100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやりました。
応仁の乱は、将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上は全国に拡散され、戦国の世の幕開けとなったのです。
残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も政長と義就は山城国で戦い続けていたが、度重なる戦乱に民衆は国人を中心にして団結し勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。加賀国においては、本願寺門徒が富樫政親を追った(加賀一向一揆)。これは、旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。
清明神社
京都市上京区堀川通一条上ル806一条天皇は平安期の陰陽師・阿部清明の遺業は非常に尊いものであったこと、そして晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘4年(西暦1007年)、そのみたまを鎮めるために晴明公を祀る晴明神社を創建されました。境内の「清明井」は悪疫難病を平癒するという霊泉。
星形の清明桔梗印呪符や陰陽道、天文学に通じた神主の祈祷、人生相談が人気です。応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。そこで、地元の氏子が中心となり嘉永6年、明治11年、明治36年、昭和3年に整備改修が行われました。また昭和25年には多年の宿望であった堀川通に面する境内地を拡張するなど御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。近年は陰陽師が一大ブームが巻き起こり、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。
持豊(宗全)が亡くなったあと、孫の政豊(まさとよ)が後を継いで惣領となり(子の教豊は応仁の乱の起こった応仁元年陣中で亡くなった)、文明6年4月3日(4月19日)、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立し、終結しました。
11年間という長引く戦乱と盗賊の暴挙によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しまいました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなってしまいました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。
この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもないことです。さらに、応仁の乱は室町幕府の形骸化を引き起こし、100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやってしまいました。また、越前(福井県)の守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上の風潮が大勢を占め、戦国の世の幕開けとなったのです。
一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられるています。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられています。また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられています。 また、応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来の説でしたが、応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられるため、明応の政変 (明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説の一つとなっています。
6.九日市城(ここのかいちじょう)と当辺羅山(とべらやま)の合戦南北朝末期から15世紀まで、但馬守護・山名氏は、守護所を豊岡市九日市に置きました。東側の円山川を外濠に見立て、西側の当辺羅山の嶺々に城を築き、中心(九日市上町)の自然堤防台地をお屋敷が占める防御態勢でした。1454年(享徳3年)から4年間、山名宗全は将軍足利義教の怒りに触れて、京から当地に退去しました。この間に備後国被官・山名泰通に安堵状を発しています。
御屋敷内には一族の日真上人の産湯井が残り、山名大明神祠もあります。外縁部には山名氏菩提寺の系譜を引き、日真上人が改名した法華宗妙経寺が現存しています。
応仁元年(1467)足利幕府や諸大名の勢力争いから始まった有名な応仁の乱は、京都を焼け野原とし、続いて地方に広がって、戦いは十一年も続けられましたが、その西軍の総大将、但馬国守護大名山名宗全(持豊)ですが、宗全の子・是豊は、父の宗全と領地問題で仲が悪くなり、東軍の細川方につくこととなりました。文明三年(1471)、是豊の子の山名七郎頼忠をして、父宗全の本拠地である九日市城に攻め入るように指示しました。これに味方したのが、奈佐谷の奈佐太郎高春でした。奈佐太郎は当辺羅(とべら=戸牧)山に陣を張りました。
宗全の家来で九日市城を守っていた垣屋平右衛門は、これらに対して積極的に戦いをいどんで、頼忠を追っ払い、高春を討ち取りました。 歴史家の石田松蔵氏(豊岡市)は、この合戦の九日市城が、後の豊岡城であり、当辺羅山(戸牧山)というのが、今の文教府付近と思われるとのことです。
7.戦国時代の国内社会戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。
それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。 戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。
出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也 「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家家伝 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他▲ページTOPへ
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但馬の鉱山 概要 平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。
生野銀山生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山。
歴史生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられていますが、詳細は不明です。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊が銀鉱脈を発見、石見銀山から灰吹法といわれる採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まりました。
このようにして山名氏の時代が約十五年続き、その後弘治二年(1556)家臣である竹田城酒太田垣朝延の反逆によって約二十年経営され、天正五年(1577)から慶長三年(1598)までの約十六・七年間、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、江戸時代にはただちに徳川家康が間宮新左衛門を代官として「銀山奉行」を設置。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の財源的な存在でした。徳川幕府が滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されています。
慶安年間(1648年~1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称しました。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増しました。
明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められました。
明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。
昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しています。
2007年、日本の地質百選に選定されました。 その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており採掘した鉱石の種類は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など70種にも及んでいます。
鉱山資料館現在は、史跡・生野銀山 (三菱マテリアル関連会社の株式会社シルバー生野が管理・運営)となっており、のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館は、「和田コレクション」、「石亭標本」、「藤原寅勝コレクション」など常時2,000余点を展示しております。国内産出鉱石標本としては世界的にも貴重な国内最大級の鉱物博物館として知られております。「和田コレクション」は、和田維四郎博士が明治8年から30年間にわたって収集したもので、明治年間に我が国で産出した鉱物の大半を網羅し、最初の完全な日本産鉱物標本として国宝的評価と名声を博しています。和田維四郎の標本の散逸を惜しんだ三菱合資会社の岩崎小彌太社長が、同コレクションを一括して譲り受けました。その後当地に移管され、現在の三菱ミネラルコレクションの主体を成しています。 「和田コレクション(和田維四郎)」 、「石亭標本」は、木内石亭が苦労の末に日本全国から集めた2千余点の奇石や鉱物類の標本で、我が国最古の岩石・鉱物コレクションです。
銀の馬車道「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には 「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。 完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、 一部は新幹線姫路駅になっています。 しかしながら、「銀の馬車道」のルートをたどれば、あちらこちらに記念碑などがあり、 往時のおもかげを残しています。 1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。 道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。 この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。 ▲ページTOPへ
お雇い外国人幕末以降明治初期に、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のことである。江戸幕府や各藩、明治以降は新政府や各府県、または民間によって招聘された。幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人ともよばれることもあります。ジュール・レスカス(JulS. Lescasse)
明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設、かたわらパリの建築金物店ブリカール兄弟社の代理店も営んだ。代表作にニコライ邸(1875頃)や西郷従道邸(1885頃)などがある。 ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francisque Coignet)
(1835年 – 1902年6月18日)は、フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師のひとりである。兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力した。 コワニエは、フランス・サンテチェンヌの鉱山学校を卒業したのち、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州など世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。
明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、1868年(慶應4年)、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニエは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。
坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野~飾磨間に幅員6m・全長50kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1878年(明治11年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。
着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minerale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテチェンヌにて67歳で死去。
銀山現地にはコワニエの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。 ▲ページTOPへ
関連人物中江種造 (なかえ・たねぞう、1846ー1931)
豊岡藩出身の鉱業家。幕府貨幣司から新政府の鉱山司役人に転じ、コワニエとともに銀山開発に尽力した。のちに古河家の顧問役をつとめ「古河鉱業」を大きく成長させ、独立したあと、各地の鉱山を手中にし「鉱山王」とも呼ばれた。山林事業にも意欲的で成功し、郷里・豊岡の事業や後進の育成を推進した。豊岡藩の下級武士の子として生まれ(父・河本筑右衛門元則、母・松子)、1858年(安政5年)、豊岡藩士・中江晨吉の養子となり、藩警護役のかたわら火砲技術や数学・測量を学ぶ。1868年(慶応4年)、戊辰戦争において京・桂御所の警備につき、砲術家・久世治作に従い理化学を学んだ。明治新政府より「貨幣司」(造幣局の前身)勤務の命を受け、そこで身につけた金属分析技術をもって、貨幣司から鉱山司に転任となり、但馬国(現・兵庫県朝来市)の生野銀山の再興の職に就く。ここでフランスより来ていた外国人技師ジャン・フランシスク・コワニエらと協同し、最新の鉱山技術や製錬・冶金技術を学ぶ。その後、裸一貫で上京、1875年(明治8年)から1884年(同17年)まで、古河市兵衛の顧問技師として、栃木県・足尾銅山や新潟県・草倉銅山の経営に当たり、「古河鉱業」ひいては「古河財閥」(現在の古河グループ)を大きく成長させた。1884年(明治17年)、顧問役をつとめた古河家を辞し、鉱業家として独立自営する。岡山県・国盛鉱山など各地の鉱山を買収、巨万の富を成し「鉱山王」とも呼ばれるようになる。鉱業のみならず山林業にも手を染め、500万本もの植林を行い「山林王」の名も欲しいままにしたという。郷里・豊岡での産業振興や人材育成にも力を入れ、銀行・製糸工場・煉瓦工場などの経営にも関わり、1906年(明治39年)育英基金「中江済学会」を創設し、学者・弁護士・医師など多くの人材を育成した。
広瀬宰平
(ひろせ・さいへい、1828ー1914):別子銅山支配人(1865ー)。鉱山司付属試補として住友家より出仕、生野鉱山にて黒色火薬を用いた近代的採鉱法や冶金技術を視察し、銅山の再生に西洋技術および近代的経営法の不可欠を確信、1872年(明治5年)コワニエの別子視察を要請し、 1874年L・ラロックを雇用した。1876年別子近代化起業方針を打ち出し、改革に着手する。1877年(明治10年)、住友家の指名を受けて初代「住友」総理事となり、明治15年(1882)1月、住友家では、伝統的家業経営から近代企業経営へと大きく転換していく中で、当時住友家総理人であった広瀬宰平は、第十二代家長住友友親の命を受けて、「住友家法」を制定した。以降明治期関西財界の実力者となる。
高島北海
(たかしま・ほっかい、1850-1931):萩・明倫館の出身で明治政府工部省の技術官僚にして画家。1872年(明治5年)から4年間、生野鉱山に勤務する。コワニエからフランス語を学び、治水や山林・地質・植物に関する学問を元に政府の命により渡欧、フランス・ナンシーに渡り3年間滞在する。元来絵画を好んだ彼は、当時アール・ヌーボーの旗手であったエミール・ガレらと交友、日本文化や植物に関する知識を紹介し、その新興芸術に多大な影響をあたえた。
明延鉱山明延鉱山(あけのべこうざん)とは、兵庫県養父市大屋町で世界的に有名な多金属鉱脈鉱床です。日本最大の錫鉱山で日本の産出量の90%をしめていました。かつて操業していたスズ、銅、亜鉛、タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈をもつ鉱山。特にスズは日本一の鉱量を誇っていました。
歴史 明延鉱山は平安時代初期の大同年間に採掘開始といわれる。明治初年(1868年)、生野銀山とともに官営となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられました。
昭和48年(1973年)に三菱金属株式会社(現三菱マテリアル株式会社)となり、昭和47年(1972年)のオイルショックをきっかけに、昭和51年(1976年)に三菱金属の子会社として分離・独立し明延鉱業株式会社となる。最盛期には、鉱山関係の人口が4,123人(963世帯)おり、娯楽施設の協和会館では、最新の映画が上演され、多くの芸能人(島倉千代子、村田英雄、フランク永井など)が歌いました。
大正元年(1912年)に明延鉱山の鉱石を神子畑(みこばた)選鉱所に運ぶためにつくられた5.75kmの鉱山列車「明神電車」は、昭和27年(1952年)以来、乗車賃「一円」で乗客を運んだことから、「一円電車」として有名になったこともあります。
粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から昭和26年(1951年)頃には月産35,000トン、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500トンであったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、昭和62年(1987年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山しました。
平成19年(2007年)11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、「25.我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、明延鉱山関係では、「明神電車と蓄電池機関車」、「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」、「明盛共同浴場『第一浴場』建屋」の3点が選定されました。
神子畑鉱山・選鉱所 すでに撤去されています
朝来市佐嚢。1878年(明治11年)の鉱脈再発見により、加盛山と呼ばれ、生野鉱山の支山として稼働していましたが、1896年(明治29年)の生野鉱山の三菱合資会社への払い下げ後、1917年(大正6年)採鉱の不況により閉山しました。明延鉱山で採鉱された鉱石の選鉱場となり、1919年(大正8年)に竣工。昭和に入ってから数度の拡張工事を経て、最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設となりました。
最初の建設が1919年(大正8年)の選鉱場跡は、2003年(平成15年)の調査で、内部の階層延べ22階、幅110m、斜距離165m、高低差75mという規模が確認されました。木造部分と鉄骨部分があり(木造部分が初期の建設と考えられる)、一部鉱石などを入れる容器としての鉄筋コンクリート造の部分がある。 2004年(平成16年)に取り壊され、現在はコンクリートの基部やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)の一部等が残るのみとなりました。
神子畑鋳鉄橋兵庫県朝来市の神子畑川に架かる鋳鉄一連アーチ橋。明延(あけのべ)鉱山から採掘されたものを神子畑選鉱所(最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設)や生野精錬所まで輸送するための鉱石運搬道路として手引車や牛車(後に鉄道馬車等のトロッコ用の線路が引かれる)などのためにかけられた鉄橋群の一つである。鋳物で作られたものとしては日本では最古のもので横須賀製鉄所で作られ飾磨まで海輸し運ばれたとされ、生野鉱山の開発などで呼ばれたフランス人技師たちの指導のもと作られました。
他に5箇所架けられていたが現在は他に羽淵鋳鉄橋を含めて2つだけが現存するものとなっています。 1977年6月27日に重要文化財に指定されています。老朽化のため1982年には一年かけて修繕が行われました。2007年に近代化産業遺産に認定されました。
諸元
施工年 明治16(1883)年4月-1885年3月 橋長 15.975m 最大支間 14.2m 幅員 3.6m 高さ 3.81m 明神電車(めいしんでんしゃ)
明神電車は、かつて兵庫県大屋町(現・養父市)・朝来町(現・朝来市)の明延鉱山にあった鉱山用軌道。明延(あけのべ)と神子畑(みこばた)を結ぶことからその名がついた。延長:5.75km 鉱石列車のほかに、鉱山関係者の便宜を図って人車も1945年から運行されました。この時、当初は運賃無料であったのが、1949年から50銭、1952年から1円を徴収するようになった。その運賃はその後、1985年11月の廃線まで変わらなかった。「1円電車」と呼ばれる所以はここにある。
なお、登山客へも10円の料金を徴収して開放していた事があり、その後は関係者かどうかに関係なく運賃を1円に統一した。しかし、1960年代にマスコミで「運賃が1円」ということが取り上げられた結果、興味本位の部外者の乗車が増え、その中には運行を妨害するような者も少なからずいたことから、業務に支障が出るという本末転倒の事態になり、部外者の乗車を禁止せざるを得なくなった。(小学生の時に乗った時は11円でした。) 円高の進行で錫鉱山としての国際競争力が低下し、明延鉱山が1987年に閉山となったことに伴い、明神電車も廃線となりました。 ▲ページTOPへ
阿瀬鉱山兵庫県豊岡市日高町阿瀬
日高町史によると、 気多郡三方荘阿瀬谷(豊岡市日高町河畑)から金や銀が発見された時期については、異説があって一定していません。永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えていますが、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われています。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件であった。この地域を領有することになったということは、幸運にも銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなりました。但馬守護の山名や、家臣太田垣が、生野銀山の経営に手を染めるのは、公式的には、天文十一年(1542)というから、それに先立つ百三十年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになります。何はともあれ、この鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができました。 時代によって、阿瀬銀山、河畑銀山あるいは阿瀬河畑銀山とも呼ばれたようです。 天正5(1577)年、豊臣秀吉の但馬征伐後、別所豊後守の給地になったが、天正10(1682)年からは生野銀山の支山となり、銀山奉行・伊藤石見守が支配した。それ以来、「木戸岩」、「八十枚山」、「与太郎」など多くの間歩(坑道)が次々と発見され隆盛を誇った。阿瀬金銀山は広い範囲にわたり、その繁栄を物語るように「阿瀬千軒」、「金山千軒」、などの言い伝えが今も残されています。 江戸時代、元文3(1738)年ごろ、気多郡にあった金山として「阿瀬奥金山」の名があります。安政6(1855)年8月、八々山人赤木勝之が著述した「但馬国新図」には、但馬における名産として、『阿瀬の銀』は、生野の銀と並び称されています。阿瀬には、阿瀬金山(阿瀬之奥金山)もあったので、併せて阿瀬金銀山とも称されました。
現在は阿瀬渓谷のハイキングコースになっています。(中学生の時に阿瀬渓谷から金山峠まで歩いています。分校跡らしい小屋には少女マンガが置きざらしになっていました。)
和田維四郎と日本鉱物学和田鉱物標本は、東京大学理学部鉱物学教室の基盤を築いた日本人の初代教授である和田維四郎の収集した日本最大の鉱物標本コレクションである。和田維四郎が開成学校助教から東京大学助教授・教授、地質調査所長、鉱山局長、官営製鉄所長官と職を転ずることがあっても、終生変えなかったのが鉱物収集であった。和田維四郎の逝去後、標本は全て岩崎家に買い取られ、現在三菱マテリアルの所有になっています。
和田維四郎は、若狭小浜藩から14才の若さで貢進生というエリート集団に選ばれたことは、彼が藩内で際立った存在だったではあろうが、明治時代という激動の時代の中で、かくも光り輝くとは予想されなかったに違いない。 明治3年7月27日、大政官より各藩に人材を大学南校に貢進せよとの通達があった。各藩より優秀で壮健な16歳以上20歳までの男子が15万石以上の藩からは3名、5万石以上の藩からは2名、5万石未満の藩からは1名が貢進生として選出され、藩は一人当り学費として一ヵ月10両を下らない資金を援助し、書籍代として年50両を大学南校に納入しなければならなかった。この年の10月に各藩から選出された貢進生は合計319人おり、その中には小浜藩から和田維四郎が選ばれています。貢進生の多くが明治・大正の各界で活躍していることからみても、貢進生は、いわばエリート養成集団であったことは明らかです。
明治11年、内部省地理局に地質課が設けられ、和田維四郎はナウマンと共に、地質課に移動した。地理局は明治7年に創設された地理寮に起源を持ち、明治10年に地理局となった。その後、ナウマンと和田維四郎の建議により明治15年に地質課を分割して地質調査所が設立され、和田維四郎は所長となりました。地質調査所の調査研究は直接間接に日本産鉱物の研究に大きく貢献し、特に鉱物の分析には最も力を入れていました。この間、和田維四郎は明治14年に東京大学助教授を兼任する。また、明治17年から18年に和田維四郎はベルリン大学のウェブスキー教授の下で鉱物学を学び、帰国後の明治18年10月に東京大学教授に昇進し、日本人として最初の鉱物学の教授となりました。これ以降、鉱物学の研究教育は日本人の手で行われる。和田維四郎の東京大学教授兼務は明治24年まで続いた。
彼は64年間の人生の中で、東京大学教授として日本の鉱物学の基礎を築き、優秀な後継者を育てました。同時に地質調査所を創設し、所長として日本の鉱山開発やその後の地質事業の基盤を確立しました。更に、鉱山局長として最初の近代的鉱業法制を整備し、官営八幡製鉄所長官として製鉄所を建設し稼働させた。そして晩年、古書収集に没頭し書誌学者として大家をなした。しかも、これらの仕事を同時並行でこなしています。能力は勿論、その努力は超人的であったと思われます。
鉱物学が科学として日本に導入されたのは、明治6年に東京に開成学校が開かれ、ドイツ人鉱山技師カール・シェンク(Karl Schenk)が鉱物学を講義したことに始まる。しかし当時の設備は極めて不完全で、和田の後継者として東京大学教授になった神保小虎によれば、外国から購入した約150点の鉱物標本と教科書としてドイツのヨハンネス・ロイニース著「博物学」(Leunis’ Naturgeschichte, 1870)が一冊しか備え付けられていなかったという。日本産鉱物にいたっては、一つとしてなく、鉱物研究の設備は皆無で、結晶の形態は、学生が書籍を参照しながら板紙を用いて作成し、初めて見ることができた有り様であったといいます。
明治6年オーストリアのウィーンで開催される万国博覧会に日本の物品を出品することになりました。この時、政府は各府県に命じて各地の鉱物を集め、これをウィーンに送った。同時に、出品した鉱物標本の一部を内務省博物局に収蔵した。これが日本で鉱物を収集した最初です。
また博物局に収蔵されたかを知る唯一つの手掛りが「博物館列品目録」に残されています。また、明治7・8年に文部省は日本産鉱物調査の目的で、各府県から鉱物を徴収し、金石取調所を設け、ドイツ人ナウマンと和田維四郎に担当させた。この時集めた鉱物標本の鑑定の結果は明治8・9年にわたって「各府県金石試験記」として文部省から刊行されています。さらに、明治10年に第1回内国勧業博覧会が東京で開催されました。各府県は競って管内の物産を出品したが、その中には鉱物も数多く含まれていました。博覧会の出品物の多くは博物局に寄贈されたか購入されたが、その記録は「博物館列品目録」に残されています。東京大学の助教であり博覧会の審査委員でもあった和田維四郎は、出品された標本の大部分を東京大学に収めて研究を行い、その成果を「本邦金石略誌」として世に問うています。 和田維四郎の逝去後、標本は全て岩崎家に買い取られ、現在三菱マテリアルの所有になっています。しかし、明治初期に開成学校助教から東京大学助教授・教授時代に勧業博覧会などの機会に日本全国から集まった標本を東京大学に収めて研究に用いたものが基礎になっています。その点で、和田鉱物標本は東大コレクションの名を付しても不思議ではない。平成11~12年に和田標本画像データベースを作成するべく、三菱マテリアル中央研究所、シルバー生野、ゴールデン佐渡、鴬沢町立標本館、土肥黄金館を調査し、全標本の写真撮影を行った。
-東京大学総合研究博物館
但馬の鉱山東京大学総合研究博物館が所蔵する鉱物学関係の書籍の中に、明治13年発行の「博物館列品目録 天産部第三 鉱物類 」があります。
▲ページTOPへ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 -「和田鉱物標本」-東京大学総合研究博物館 他
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山名氏と赤松氏 山名持豊(山名宗全) 赤松氏と万人恐怖 嘉吉の乱(かきつのらん) 乱の経過 黒田城と長谷部休範 1.山名持豊(山名宗全)山名持豊(山名宗全)は、応永11年5月29日(1404年7月6日)~文明5年3月18日(1473年4月15日)は、山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱(いみな)は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。山名氏の祖、山名三郎義範から10代目にあたります。
文明四年(1432)に家督を相続。1435年には父の時熙が死去し、1437年には兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち備後で挙兵し、これを鎮圧します。但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を与えられました。時熙には嫡男持熙(もちひろ)があり、はじめ後継者に立てられいましたが、将軍義教の勘気にふれて、持豊が家督に立てられたのです。永享七年(1435)、時熙が死去すると、持豊が山名一族の惣領となったのですが、備後において兄持熙が反乱の兵をあげました。ただちに軍を起した持豊は備後に進攻すると、たちまち持熙を国府城に討ち取りました。
将軍権力の強化と幕府政治の引き締めを狙う足利義教は、恐怖政治を行っていました。多くの守護、公家、武家が粛正の波にさらされ没落、つぎは自分の番と思いつめた満祐が義教を殺害するという暴挙を行ったのです。この前代未聞の事変に際して幕府は動揺をきたしましたが、赤松討伐軍を編成すると播磨に向けて進攻させました。その主力となったのは侍所頭人の地位にあり、赤松氏の本国播磨の隣国にあたる但馬守護職でもある山名持豊でした。
一族の反乱を平定した持豊は領国支配を固め、幕府の侍所頭人に任じられ、時熙につづいて幕府内で重きなしました。そして、持豊が侍所頭人在任中の嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が自邸に招いた将軍足利義教を暗殺するという一大事件が起こりました。
2.赤松氏と万人恐怖赤松氏は播磨国の地頭でしが、鎌倉時代末の赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄(げき)に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力した功績により守護に任じられました。南北朝の争乱では足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨国の他に備前国、美作国を領し、幕府の四職のひとつとなっていた家柄です。
義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去しました。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟たちの中から「籤引き(くじびき)」で後継者が選ばれることになりました。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任しました。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれています。義教は、当初は「三管四職」の有力守護大名による衆議によって政治を行っていましたが、長老格の三宝院満済、山名時煕(ときひろ)の死後から次第に指導力を発揮するようになりました。
義教は、将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者をそれぞれの家督に据えさせました。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた関東公方足利持氏を滅ぼしました。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶たちが根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなってしましました。
足利将軍の中では三代義満に比肩する権力を振るった義教でしたが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられました。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者たちの名が書き連ねられてあります。中には遠島にされたり、殺された者もいました。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記しています。
3.嘉吉の乱(かきつのらん)このころ幕府の最長老格となっていた赤松満祐は、足利義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨国、美作国の所領を没収されるとの噂が流れています。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津国の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまいました。
永享九年(1437)五月、大和国出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺されました。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居してしましました。 嘉吉元年(1441年)4月、足利持氏の遺児を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落(結城合戦)しました。捕えられた春王、安王は、護送途中の美濃国垂井宿で斬首されます。これより先の3月、出奔して大和国で挙兵し、敗れて遠く日向国へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、足利義教の当面の敵はみな消えたことになっってしましました。
嘉吉元年(1441年)、将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱 )されると、同年、赤松氏討伐の総大将として山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定し挙兵し大功を挙げました。
同年6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招きました。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」と招いたといいます。この宴に相伴した大名は細川持之、畠山持永、山名持豊、一色持親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熈貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちでした。他に公家の三条実雅(義教の正室三条尹子の兄)らも随行しています。
一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたちました。臆病な義教は「何事であるか」と叫びますが、傍らに座していた三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えました。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまったのでした。 酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名たちの多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑います。山名熈貴は抵抗しましたがその場で斬り殺されました。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負ってしましました。公家の三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向いましたが、切られて卒倒します。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化しました。
赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名たちは退出しました。
貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残しています。
嘉吉元年(1441年)に播磨国、備前国、美作国守護の赤松満祐が、六代将軍足利義教を暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱です。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれています。
管領・細川持之を始め諸大名たちは、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまいました。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は、必ず同調する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていたのです。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいました。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去しました。これを妨害する大名は誰もいなかったのでした。翌25日、ようやく管領・細川持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定しました。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されませんでした。本拠地の播磨国坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとしました。
その後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津国から、山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定しました。大手軍は7月11日に発向しましたが、事実上の総大将であった侍所頭人・山名持豊はなかなか京を動きませんでした。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪しました。これには管領・細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件がを起こっています。
8月中旬、山名持豊はようやく4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防がありました。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍しました。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦しますが力尽き敗走しました。
赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨国の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまいましりました。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹しました。
この功績によって山名氏は、赤松氏の領国を加えて、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨など8ヶ国の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げました。京都室町に屋敷を構え在京しました。
山名持豊(宗全)は、満祐を討ち果たしたことによって播磨国の守護職を与えられ、備前国は山名教之、美作国は山名教清に与えられました。足利義満時代の明徳の乱で敗れて勢力を低下させた山名家は大きく回復し、管領細川家と力を競うようになります。 1443年には山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ、1447年には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結びます。
赤松氏はこの乱によって全ての守護職を奪われ没落しました。しかし、長禄元年(1457年)に赤松氏の遺臣が禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器のうちの神璽を奪還した事で、足利義政時代の赤松政則(義雅の孫)のときに再興を果たしています(長禄の変)。
播磨に兵を進めた持豊は赤松勢が拠る城山城を猛攻、観念した満祐は自害、赤松氏宗家は没落した。乱後、山名氏の功に対して幕府は、播磨・美作・備前の守護職を与えました。持豊はただちに垣屋越前守熙続を守護代に任じて播磨に派遣すると、赤松氏残党を掃討するとともに、領国支配を推進しました。しかし、播磨は赤松氏発祥の地であり、東三郡は幕府に味方した赤松満政が分郡守護に任じられるなど、領国支配の前途は多難でした。 播磨一国の守護職を望む持豊は幕府に働きかけ、ついに東三郡の守護職にも任じられました。この処置に怒った満政が挙兵すると、ただちにこれを討ち、満政を播磨から追い払いました。その後も赤松氏一族の挙兵が繰り返されましたが、そのことごとくが持豊によって征圧されました。
1450年(宝徳2)に出家し、家督を子の教豊に譲ります。1454年には赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立し、政務を引退して但馬へ下国しました。赤松則尚が播磨で宗全の孫に当たる山名政豊を攻めると、但馬から出兵してこれを駆逐します。1458年には赦免されて再び上洛。幕政を巡り、娘婿である細川勝元と対立するようになりました。三管領の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持しました。
その後まもなく、持豊(宗全)が守護を兼ねていた播磨国で赤松氏再興の問題が起こり、将軍がこれを許したので怒った、持豊(宗全)は二万の大軍を率いて但馬から播磨に出陣し、康正元年(1455)六月には、赤松教祐(のりすけ)・則尚(のりなお)を討って自殺させ、将軍の命にそむいて八月には京都に侵入しました。このように、持豊(宗全)の勢力は将軍をしのぎ天下に並ぶ者のない勢いでした。 山名持豊の傲慢と勢力拡大を嫌った幕府の謀略で、享禄三年(1454)、持豊は討伐を受けて隠居、家督を嫡男教豊に譲りました。このとき、持豊は出家して宗全と号し、備後守護職には是豊が補任されました。長禄元年(1458)、赦免された宗全はふたたび幕府内で権力を振るうようになります。
黒田城と長谷部休範和田山町東河(とが)の黒田城は、上道秀重(かんだちひでしげ)という武将が築いたものだといわれています。
上道秀重は小さいときから文武に優れ、嘉吉元年(1441)、竹田城を築いた名将山名持豊(宗全)の家来として播州の赤松満祐と戦い、たちまちこれをうち破り、さらに敵を追って進み、備前国上道郡(岡山県)に追いつめてこれを討ち滅ぼしました。その手柄によって、山名宗全からその地名をとり、上道(かんだち)の姓を与えられました。
その後、応仁二年(1468)三月二十日、夜久野ヶ原の合戦が起こりました。これは山名宗全と勢力争いをしていた細川勝元の家来で丹波国八上城(篠山町)の内藤孫四郎が、家来の長谷部四郎休範らとともに但馬国へ攻め込んで起こった合戦です。この戦いに、山名宗全の家来である竹田城主二代目・太田垣土佐守景近の三男、新兵衛尉宗朝(のちの三代城主)が多くの兵を引き連れて夜久野ヶ原に迎え撃ったわけですが、この時、黒田城の城主上道秀重は、長谷部四郎休範と戦いこの首を討ち取りました。大将を失った長谷部勢は総崩れとなり、夜久野ヶ原の合戦も山名軍の大勝となりました。山名宗全は大変喜び、御賀丸の太刀一振りと着替えの具足一揃いを新兵衛尉に贈ったと伝えられています。
しかし、その後東河村には悪い病気が流行し、村人たちは大へんな苦しみを受けました。それはきっと長谷部四郎休範のたたりであると噂が広まり、村人たちは相談して村の氏神さんに、休範の霊を祭ってその冥福を祈りました。それからは悪病も流行せず、村の平和は続いたということです。 その後、黒田城の城主も何代か続き、とくに秀重から四代あとの上道左京之進は、武芸に優れた人だったといわれ、天正八年(1580)九月、中国征伐中の羽柴秀吉に召し抱えられて鳥取城攻めなどに加わって手柄を立て、さらに山崎の合戦や賤ヶ岳の合戦にも参加したということですが、天正十二年(1584)の春、病に倒れ三月十八日に死んだといわれています。どうやら黒田城もそのころから、廃城となり子孫も絶えて、現在では跡形もなくなり、ただ伝説として物語が伝えられているだけとなりました。
出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也 「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家家伝 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
日下部氏族 概要 但馬の古代豪族、日下部(くさかべ)氏から出た氏族。起源にはいくつかの説がある。
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』) 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』) 出石神社と並ぶ但馬国の一宮、粟鹿神社の社家は、古代に神部氏が務め、その後日下部系図に見える日下部宿禰であった 八木氏は山名家臣。 越前国を拠点とした朝倉氏はこの出自。応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍に、越前朝倉氏は西軍から細川勝元率いる東軍に属した。
朝倉氏の起源朝倉氏は、但馬の古族、日下部(くさかべ)氏から出ました。平安時代末期に朝倉宗高? が但馬国養父郡朝倉に居住し、はじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。
越前朝倉氏数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。
朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。
義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。
元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦い が行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。
天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。 ▲ページTOPへ <
太田垣(おおたがき)氏
家紋:木 瓜
(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。 武家家伝 太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造の日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。
『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。
日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。
山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。
延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。
●太田垣氏の台頭
明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。
このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。
明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。
嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。
美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。
宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。 ▲ページTOPへ
八木氏
三つ盛木瓜/九曜(日下部氏朝倉氏族 右:見聞諸家紋にみえる八木氏の横木瓜紋) 武家家伝 八木氏は、開化天皇の子孫とされる但馬の表米王から数代のち、古族日下部氏から出て養父郡朝倉庄に城を築いた朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされています。すなわち、朝倉信高の弟である八木新大夫安高、小佐(養父市八鹿町)次郎太郎、、三郎大夫らが養父郡宿南荘に、それぞれ新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。 日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようですが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、朝倉氏の庶流が越前に住み、一乗谷にて守護代に成長しました。但馬では朝倉氏に代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家(山名四天王)のひとつと呼ばれました。 見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されています。 <
八木庄は朝倉庄から数キロ西に位置します。八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされています。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約 4.7キロメートル離れた朝倉に城を築きました。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼします。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせました。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るいました。 家系図の壬生本系図によると、宗高の孫、高景の弟、安高が八木に移り、八木氏を名乗りました。安高の弟、信高が浅倉氏を継いでいますが定かではありません。庶家に但馬国では太田垣、養父、小和田、軽部、宿南、奈佐、田公、阿波賀等があり但馬国最大一門となります(壬生本系図)。
信高の三男八木三郎高吉の子に、宿南氏の祖、宿南三郎左衛門能直 、寺木七郎高茂、田公八郎右衛門尉高時 です。
八木氏は幕府との関係強化につとめ、四代高家は執権北条貞時に、つぎの泰家は北条高時、「元弘の争乱」で幕府が滅亡してのちは将軍足利尊氏に従いました。そして、泰家の子重家は、但馬国守護の山名時氏および時義の重臣として活躍したといいます。しかし、南北朝期から室町時代における八木氏の消息は皆目といっていいほど分からない、というのが実状です。
たとえば、南北朝期、八木荘の隣郷の小佐荘にいた但馬伊達氏の文書のなかにも八木氏は出てきません。ただし、系図だけはしっかりしたものを残しています。同系図は『寛政重修諸家譜』が編集されたとき、八木勘十郎宗直が提出したもので、これには『但馬太田文』に記載されている八木姓の地頭・公文たちの名がすべて載っていて、系譜上の位置も矛盾がないそうです。
八木氏に関する系図以外の史料では、わずかに宗頼・遠秀に関する事蹟がしたためられている「八木遠秀絶筆歌後序」ぐらいです。とはいえ、八木氏は養父郡八木庄に本貫を置き、南北朝初期、山名氏が但馬守護に補せられたのち、その被官となったようです。 ●風流の武士 八木宗頼
八木城趾
八木氏の名が史上に現れるのは八木宗頼の代で、室町時代の宝徳(1449)のころから、文明十六年(1484)までの三十五年間です。宗頼は文学も親しむ武人で、毎年正月には漢詩をつくるのを例にしていたといわされています。寛正六年(1465)三月、将軍足利義政臨席の洛北大原野の花見盛会に、主君山名宗全とともに招かれたことが知らされています。また、応仁の乱後に、いわゆる五山僧との間でやりとりされた漢詩に関する史料も残っています。文明十二年(1480)ごろ、主君山名政豊が京都から但馬へ下国したのに従い、同十三年には一時的に但馬守護代となっており、一方、大徳寺の春浦宗熈との交流があったことから、春浦について参禅していたらしい。但馬在国中の宗頼は春浦に詩を寄せ、その詩によると居所に高楼二宇を築造して、宋代の隠者林通にちなむと思われる「月色」「暗香」の字を選んで扁額にしていたことがうかがわされています。このように八木宗頼は、和歌・連歌、そして漢詩のいわゆる和漢に造詣をもった風流の士だったのです。
文明十五年(1483)十二月、山名政豊の軍勢が播磨と但馬の国境真弓峠で、赤松政則の軍を破り南下しました。翌年二月、播磨野口の合戦において、宗頼は北野神像すなわち菅原道真の像を見つけだしました。像を得た宗頼は大いに喜び、相国寺の横川景三に賛辞を求め、子孫に伝えて敬神の範にしようとしたと伝えています。
宗頼の卒去については不明ですが、文明十六年以降、その存在を記す史料が見当たらないこと、のち山名と赤松の争いが激化し、延徳から明応のころ(1489~1500)になると子の豊賀が史料に現れてくる。おそらく、その間の数年のうちに宗頼は亡くなったものと思わされています。
八木氏歴代のなかで、とくに宗頼に史料が多く見られるのは、かれの教養が高く和漢に対する造詣も深く、交流をもつ人々に風流な公家や僧侶がいたからであろう。しかし、かれの作った作品が多かったにもかかわらず、その筆跡が伝わっていないのは残念なことです。
宿南(しゅくなみ)氏
三つ盛木瓜(日下部姓八木氏族) 武家列伝
宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、八木新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄(養父市八鹿町宿南)に宿南三郎左衛門能直(初代?)の長男重直を宿南庄に置いていましたが、康永年間頃(1342-45)、宿南太郎佐衛門信直によって築城し、地頭館を山に移したといわれ、田中神社附近に居館址が残る。宿南城に拠って中世の但馬を生きた。
宿南氏は朝倉氏、八木氏、太田垣氏らと同じく、古代豪族日下部氏の一族です。日下部氏は孝徳天皇の皇子表米親王を祖として朝倉・宿南氏をはじめ八木、太田垣、奈佐、三方、田公の諸氏が分出、一族は但馬地方に繁衍しました。
嫡流は朝倉氏でしたが、承久の乱(1221)において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐(おざ)次郎太郎、土田(はんだ)三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄に館を構えたといいます。いまも宿南野の一角に「土居の内」と呼ばれる字があり、周辺にはかつて地頭館があったことをうかがわせる地名が残っています。 宿南氏は八木一族のなかにあって、ただひとり関東御家人でした。 ●宿南氏の軌跡
重直の孫知直の代に元弘の変(1321)に遭遇、知直は小佐郷の伊達氏とともに千種忠顕に属して転戦したことが知られます。やがて、鎌倉幕府が滅び建武の新政が成りましたが、足利尊氏の謀叛によって南北朝の動乱時代となりました。知直は宮方に属して、建武二年(1335)新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に加わって東下しました。そして、箱根山における足利勢との戦いで、あえなく討死しました。
その後、南北朝の内乱は半世紀にわたって続き、但馬でも両軍の戦いが展開されました。宿南氏は南朝方として行動し、北朝方の討伐戦によって北朝方の手に落ちた宿南庄は、矢野右京亮が地頭に任じられました。所領を失った宿南氏は知直に代わって父の信直が一族を指揮し、やがて北朝方に転じて活躍、失った宿南庄の地頭職を回復しました。
尊氏と弟直義が争った観応の擾乱に際しては尊氏方として行動、観応の擾乱が終熄したあとは、但馬守護となった山名時氏に従ったようです。時氏ははじめ尊氏方でっしたが、その後、直義の子直冬に味方して南朝方に転じました。宿南氏もこれに従ったため、延文元年(1356)、尊氏方の伊達氏の攻撃を受けました。ときの宿南氏の当主は、知直の子実直であったようで、よく伊達勢の攻撃を防戦しています。
その後の南北朝の動乱のなかで、宿南氏がどのように行動したかは、必ずしも明確ではありません。宿南氏系図を見ると、氏実─朝栄─忠実と続き、宿南城に拠ってよく時代を生き抜いたようです。宿南氏の名がふたたび記録にあらわれるのは、応仁の乱において、山名宗全の催促に応じて上洛した山名家臣団のなかにみえる宿南左京です。左京は忠実の嫡男左京亮続弘と思われ、続弘は八木氏から入って宿南氏を継いだ人物とされています。忠実には実子持実がいましたが、一族で山名氏の重臣である八木氏から養子を迎えることで宿南氏の安泰を図ったものでしょう。
ちなみに、宿南氏は八木氏とは代々密接な関係をもっていたことが「八木氏系図」からも伺われます。八木氏の系図のなかに宿南氏の系図が併記されており、しかも、兄弟の少ない八木氏とは対照的に、それぞれの代ごとの兄弟も書き込まれているのです。おそらく、一族の少ない八木氏を支えるかたちで宿南氏が存在し、それゆえに八木氏の系図に同族的扱いとして記されたものと思われます。 但馬征伐と宿南城
田公氏(たきみし)
家紋:木 瓜(日下部氏流)
*日下部氏の代表紋として掲載。 田公氏の紋は不詳。 武家列伝 七美(美方郡東部)村岡・城主。田公氏は但馬国の日下部氏族八木氏から別れた中世豪族で、その出自は、孝徳天皇の皇子表米親王の末裔が田公郷に土着して田公氏を名乗ったものといい、『和名抄』の二方郡田公郷、『但馬太田文』の二方郡田公御厨を本拠とし、田公を称するようになりました。すなわち、太田垣・八木・朝倉の諸氏と同じく日下部一族ということになります。八木系図によると、朝倉高清の長男・安高の三男・高吉の四男に田公氏を名乗った田公八郎右衛門尉高時がいます。美方町氏所収系図によると、朝倉宗高━高清の子に田公四郎高経(たかつね)が現れてきます。山名氏が山陰諸国を制圧した南北朝期にその被官となり、戦国時代、山名誠通のころには因幡守護代となった田公遠江守高時(時高とも)、同次郎左衛門尉清高がみえ、代々、因幡国八上郡日下部城を居城にしたといい、いまも因幡に田公姓があります。
田公氏の系図については異同が多いですが、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫で、朝倉高清から出ていることは、諸系図一致しています。とはいえ、田公氏の系図ならびに居住地については疑問が非常に多いといわざるをえないのです。
田公氏は、田公氏の小代における城跡も明確ではないようですし、墓所もそれらしいものが見当たらないようです。ただ、居城である城山城(香美町小代区忠宮)は天正五年(1578)に落城したため、田公氏の歴史が分からなくなったのでしょう。また、七釜(しちかま)城主であった田公氏嫡流も元亀年中頃(1570~72)まで活躍していましたが、その後の動向は不明です。
田公氏の軌跡 田公氏の祖といわれる朝倉高清は、承久三年(1221)に没したといい、高清から数えて八代目が綱典とされていますが、居城が落城した天正五年(1577)までの間は、三百五十余年となり、系図に記される世代は二から三人の名前が脱落したものと思われます。 応仁の乱における西軍の総帥山名持豊の命令に従って、京都に集結した山名軍のなかに田公美作守・同能登守らの名が見えています。文明十五年(1483)からの山名政豊の播磨侵攻に田公肥後守豊職が従軍し、垣屋越前守らと播磨蔭木城を守っていましたが、同十七年三月、赤松政則に急襲され垣屋一族多数が討死して城は落城しました。田公肥後守はかろうじて城を脱出して、政豊の拠る坂本城に急を報じましたが、戦いはすでに終わっていて救援することができませんでしました。長享二年(1488)八月、六年間にわたる播磨遠征に疲れた山名政豊は、兵を収めて但馬に撤退しようとしました。田公肥後守父子と政豊の馬廻衆がこれに同調しましたが、垣屋氏以下の諸将は戦闘継続を主張し、政豊は孤立して田公父子と馬廻衆に守られて播磨を脱出しました。政豊の敗戦を問責し、嫡子俊豊擁立を望む諸将の動きに対して、田公父子は政豊を奉じて木崎城(のちの豊岡城)に拠って、最後まで山名政豊を支持しました。 やがて、守護権力は弱体化し、守護職も有名無実化していきました。それでも、政豊は幕府内である程度の力を保持していたようですが、明応八年(1499)に没し、次男致豊、三男誠豊が家督を継承しました。そして、田公氏は勢力を失っていきました。
久須部村から流れる川と、秋岡村から流れる湯舟川にはさまれた小高い岡の上にあったのが大谷城です。小代(おろ)城とも呼ばれました。建久年間に朝倉景雲が城を築きました。正応年間に田公清高が親方になり、九代続きましたが天正五年十月、綱豊入道秋庭のときに落城しました。この城主が現在の村岡町内に出城をつくっています。大谷城は、七美(ひつみ)の古城の中心であるといえます。 支城として、村岡区総合庁舎の裏山、観音山に大谷城主田公氏の一族の高堂城がありました。 祖岡村(けびおかむら)に鎌倉時代温泉庄の奈良宗光の弟の正員(まさかず)が築城したと伝えられる祖岡城があります。建久のころ(1190~1198)には養父郡八木氏の一族高茂の城となり、八木氏のあと康永年間(1342~1344)以後は中村氏の城となって、大谷城主田公氏の支城となりました。天正八年(1580)六月十八日、秀吉(実勢部隊は秀長)が因幡(鳥取県)に攻め込んだ時に、この城に休憩し、道案内までしたのですが、天正十年八月十五日夜、入浴しているところを刺され、その後絶えたといわれています。
祖岡城から川に沿って東に三キロほど行ったところ(国道9号線春来峠付近)、長板村に祖岡城の支城、長板城があり、これも田公氏の城です。天正五年(1577)十月、羽柴秀吉の家臣、藤堂孝虎が大谷城を攻めたとき、長板城を捨て大谷城とともに秀吉方に戦いをいどみましたが力つきて敗れ、それ以後廃城となりました。
戦国時代後期、入道して秋庭と称した田公綱典は、天正五年(1577)羽柴秀吉(指揮者は秀長)の第一回但馬侵攻にあたって、本城である城山城、および支城である村岡の城を捨てて、因幡国気多郡宮吉城の同族田公新介高家を頼って逃走しました。その後、山名豊国に従って羽柴軍と戦い、豊国が羽柴軍に降って鳥取城攻囲軍に加わると、それに従軍し、のちに豊国が七美郡を領するようになると、村岡に戻り、豊国に仕えました。以後執事となり、長男の澄典も山名氏に仕えて用人を勤めました。 禅のお坊さんとして有名な沢庵和尚 は、綱豊の次男宗彰ですから美方町出身となります。 ところが、出石方面では山名の家老秋庭能登守綱典という者がいました。これは三浦大介義昭の弟義行が相模国高座郡秋庭に住み、地名をとって秋庭を号したといいいます。あわただしい戦国末期の世相のなかで秋庭能登守は出石郡の小坂村大谷に引隠して帰農しています。
いずれにしろ、沢庵宗彭は但馬に生まれたことは間違いないようですが、田公氏の生まれか、平姓秋庭氏の生まれかは異論が多いところです。しかし、沢庵宗彭は平姓秋庭氏の生まれとするのが通説のようです。
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守護大名 山名(やまな)氏 概 要 国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
但馬山名勢力図 クリック拡大
山名氏の起源 二つ引両/桐に笹(清和源氏新田氏流) ■山名氏系図 山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。 義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。 源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのであろう。鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされるが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。 元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡、翌建武元年に後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足しました。倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発向、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。尊氏が京都を制圧すると後醍醐天皇は吉野に奔って南朝をひらかれ、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開きました。(南北朝の対立)。建武四年(1337)、時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、時氏は山名氏発展の端緒を掴んだのです。二代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡国・伯耆国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護となりました。
南北朝時代と四職 暦応四年(1341)、幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、時氏は出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。その後、出雲・隠岐守護職は高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられ、時氏は丹波守護に補任されました。そして、貞和二年(1345)には侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職 の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました。やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、観応元年(1350)、観応の擾乱 が勃発しました。擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息したが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ時氏は尊氏に味方していましたが、のちに直義派に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。
山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下におきました。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。 時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。
山名時氏(六分一殿、但馬山名初代)応安三年(1370)、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。永和二年(1376)、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。 山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、惣領を継いだ長男の師義は丹後国・伯耆国、 次男の義理は紀伊国、 三男の氏冬は因幡国、 四男の氏清は丹波国・山城国・和泉国、 五男の時義は美作国・但馬国・備後国 の守護となりました。 師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。 そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名の支配下に置かれたようです。但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。 時義は父時氏が亡くなったあと、惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代を但馬に送っていた記録もあります。時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。 そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」 と呼ばれました。
応永の乱 応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。 室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。そして、明徳2年(1391年)、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。 山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。 周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです。乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた時熙は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。 垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかであやうく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。その後、時熙は幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。 神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。 ▲ページTOPへ
此隅山城(このすみやまじょう) 此隅山城は、兵庫県豊岡市の出石坪井にある山城。のちに別名「子盗城(こぬすみじょう)」と呼ばれましたが、これは不吉な呼び方としてのちに築城した城には有子(こあり)山城と名づけています。国指定史跡。文中年間(1372)ころ、但馬一の宮・出石神社に近い、北西にある独立した丘陵、標高140mの此隅山に山名時義が築城しました。南は気多郡・播磨方面、西方は豊岡・因幡方面、東方は丹後・丹波の三方が見渡せる山頂にあり、主郭は東西10-15m×南北50mで北西側に高さ2mの段差で区画された西郭があり、また南側には高さ3mの切岸で区画された郭が3-4段配置され、この部分が城の中枢と考えられます。大手は南麓から主郭南側に繋がるコースが想定されます。此隅山城は但馬守護職に補任された時熙が、この頃に築いたと考えられます。以後山名氏の居城となりました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には各国から2万6000騎の西軍の軍勢が集まり、山名宗全は当城から京都へ出陣しました。永禄12年(1569年)、山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、より高所にある有子山城に居城を移し、城は廃城となりました。 そして時義の築いた此隅城は、規模こそ大きなものではありませんが、その占める意味は山名王国の首都ともいえる地位にあり、応仁の乱などで京都に出陣する時には、その大根拠地となり、宮内を中心にいちど兵力を結集してから隊をつくって出陣したといわれます。 持豊(宗全)が家督を継いで間のない永享八年(1436)、出石神社に奉納した願いの文が神床家に伝わっており「自分が父祖重代の後を継ぎ、親族の首領に立ったが、神明の助けがなければつとまりません。なにぶんお加護をお願いします。」とあり、これは山名宗本家の首領となった持豊(宗全)が但馬の一の宮に祈願したものです。 持豊(宗全)はほとんど京都におりましたが、享徳三年(1454)ごろには但馬に在国しております。これは最大の勢力となった持豊(宗全)に将軍義政が脅威を感じて討伐しようとしたのですが、のちに応仁の乱で対立する細川勝元の計らいで中止されます。そのため将軍から「但馬に在国して上洛すべからず。」と命じられ、本国の但馬に帰って、かわりにこの教豊(のりとよ)を京都に出仕させました。
明徳の乱と山名氏の再起しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になるのでした。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになりました。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去しました。その子の義幸、氏之、義熈、満幸は若年であったため、中継ぎとして弟の時義が惣領となりました。これに対して、長男の氏清とその婿の満幸が不満を示します。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのでした。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いでした。 氏清の弟・山名時義が後を継いで山名氏の総領となり、氏清は丹波、和泉を領する守護に命じられましたが、総領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたといいます。 明徳元年(1390年)三月、山名一族で時熈に対立する満幸と叔父の氏清が、時熈を将軍義満にざん訴しました。義満は待っていたとばかりに、時義が生前将軍に対して不遜であり、後を継いだ時熙とその弟の氏幸も不遜な態度が目立つとして、討ち手の大軍を但馬に送り、時熈と氏幸の討伐を命じました。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白でしたが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか?」と確認したうえで出陣しました。 時熙と氏幸は挙兵して戦いますが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏幸の本拠伯耆を攻め、翌明徳2年(1391年)に時熙は但馬を逃れ、剃髪して備後に引きこもりました。戦功として氏清には但馬国と山城国、満幸には伯耆国と隠岐国の守護職が新たに与えられました。 ここで勢力を占めた満幸は、勢いに乗って出雲にある京都の仙洞御所領(上皇の領地)を占領しました。なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、代わりに今度は氏清・満幸らを挑発しました。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃しました。これが明徳の乱 です。そして元中8年・明徳2年(1391年)、氏清は足利義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になりました。この満幸を討つために、備後に引きこもっていた時熈らを許し、幕府軍と協力して討伐に当たらせました。 この乱によって、但馬国衆は山名氏清方と山名時熙方に分かれて相分かれて戦ったことで、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていました。したがって、優秀な人材に対する時熈の期待は大きかったのでした。時熈は奮戦めざましく、満幸軍を破って敗走させました。この戦いで時熈の家来垣屋弾正は、弥陀(みだ)の名号や曼陀羅を袋に入れて首にかけて戦い、時熈が強敵八騎に取り囲まれて危ないところを救い出し、自分は戦死するなどめざましい働きをしました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の因幡守護職のみとなり、因幡山名家と但馬山名氏が対立していたことが窺え、一族は大幅にその勢力を減ずるに至ったのです。この明徳の乱で、氏清は斬られ満幸は敗れ、時熙に但馬国守護として山名の惣領に返り咲きました。氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵されました。但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、家臣団の人材不足は深刻でした。そのようななかで、頭角をあらわしたのが垣屋氏と太田垣氏で、垣屋氏は土屋氏の庶流、太田垣氏は日下部一族の末流で、山名氏家臣団には大きな逆転現象が起こったのです。この状況にあって急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけたのです。 ▲ページTOPへ
生野城(古城山=いくのじょう)足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である東山龍徳寺で行っておりました。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡しました。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであったのです。これにはいろいろ原因があるのですが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられています。この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいと、たびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかったのです。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまいました。 これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」 ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようです。
山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれています。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれています。 一方播磨国に引き上げた赤松満佑は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しませんでした。 ところが、そのころになって、今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。
こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられています。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山 発祥の地として郷土史に輝いているのです。 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家家伝
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室町 薄群青(うすぐんじょう)#5383c3 最初のページ |戻る |次へ Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
室町時代は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。足利氏が将軍だったことから足利時代とも呼ばれる。 足利尊氏が1336年(建武3年、北朝延元元年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから、15代将軍義昭が1573年(元亀4年)に織田信長によって追放されるまでの237年間を指す。 しかし、建武新政期を含む最初の約60年間を南北朝時代、最後の約80年間を戦国時代と区分して、南北朝合一(1392年)から明応の政変(1493年)までの約100年間を狭義の室町時代とする場合も多い。
守護大名
室町幕府が成立すると、国内統治を一層安定させるため、1346年(貞和2)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2 つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていきます。
室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏 をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏 など数ヶ国を支配する者が出現しました。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置き、さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していきました。
■守護大名 室町時代
道 領国 室町前期 中期 後期 畿内 山城国 やましろ 畠山氏 京極氏 細川氏 大和国 やまと 興福寺 河内国 かわち 畠山氏 和泉国 いずみ 畠山氏 細川氏 摂津国 せっつ 細川氏 赤松氏 山陰道 丹波国 たんば 仁木氏 山名氏 細川氏 丹後国 たんご 山名氏 一色氏 武田氏 但馬国 たじま 今川氏 山名氏 因幡国 いなば 山名氏 伯耆国 ほうき 山名氏 出雲国 いずも 山名氏 京極氏 石見国 いわみ 山名氏 大内氏 隠岐国 おき 山名氏 京極氏 山陽道 播磨国 はりま 赤松氏 山名氏 赤松氏 美作国 みまさか 赤松氏 山名氏 赤松氏 備前国 びぜん 赤松氏 山名氏 赤松氏 備中国 びっちゅう 渋川氏 細川氏 備後国 びんご 細川氏 山名氏 安芸国 あき 武田氏 山名氏 周防国 すおう 大内氏 長門国 ながと 厚東氏 大内氏 南海道 紀伊国 きい 畠山氏 細川氏 畠山氏 淡路国 あわじ 細川氏 阿波国 あわ 細川氏 讃岐国 さぬき 細川氏 伊予国 いよ 河野氏 細川氏 河野氏 土佐国 とさ 細川氏 西海道 豊前国 ぶぜん 少弐氏 大友氏 大内氏 豊後国 ぶんご 大友氏 筑前国 ちくぜん 少弐氏 大内氏 筑後国 ちくご 大友氏 菊池氏 大友氏 肥前国 ひぜん 少弐氏 渋川氏 肥後国 ひご 大友氏 阿蘇氏 菊池氏 日向国 ひゅうが 島津氏 大隅国 おおすみ 島津氏 薩摩国 さつま 島津氏 壱岐国 いき 京極氏 対馬国 つしま 宗氏
道 領国 室町前期 中期 後期 東海道 伊賀国 いが 仁木氏 伊勢国 いせ 土岐氏 一色氏 北畠氏 志摩国 しま 土岐氏 一色氏 北畠氏 尾張国 おわり 土岐氏 斯波氏 三河国 みかわ 高氏 一色氏 細川氏 遠江国 とおとうみ 今川氏 斯波氏 今川氏 駿河国 するが 今川氏 伊豆国 いず 上杉氏 甲斐国 かい 武田氏 相模国 さがみ 三浦氏 上杉氏 武蔵国 むさし 高氏 上杉氏 安房国 あわ 上杉氏 上総国 かずさ 上杉氏 下総国 しもうさ 千葉氏 常陸国 ひたち 佐竹氏 東山道 近江国(北) おうみ 京極氏 近江国(南)おうみ 六角氏 美濃国 みの 土岐氏 飛騨国 ひだ 京極氏 信濃国 しなの 斯波氏 小笠原氏 上野国 こうずけ 上杉氏 下野国 しもつけ 宇都宮氏 小山氏 出羽国 でわ 陸奥国 むつ 北条氏 伊達氏 北陸道 若狭国 わかさ 斯波氏 一色氏 武田氏 越前国 えちぜん 斯波氏 朝倉氏 加賀国 かが 斯波氏 富樫氏 能登国 のと 吉見氏 畠山氏 越中国 えっちゅう 斯波氏 畠山氏 越後国 えちご 上杉氏 佐渡国 さど 上野氏 高氏
※比較的短期間の大名は省略しています。
南北朝時代内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。
近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。
将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。
しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。 足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。
新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。
足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。
その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。 山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。
貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。 伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。 まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。
大岡山と進美寺東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、対照的に気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっています事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。 古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。
日高町の南東に位置する須留岐山は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもありました。山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)で、進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。
山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されている私寺だったのであります。
『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多いのも、但馬国府・国分寺が置かれていたためでしょう。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。
大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でしました。 進美寺も同じく天台宗です。山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのでしょう。
大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の流れで、朝来郡で優勢な郷士で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に備後に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。 旧大岡寺庭園 は、兵庫県豊岡市にある日本庭園。国指定名勝。発掘調査の結果、室町時代末期に作庭され、江戸時代初期に改修されたことが判明しました。 ▲ページTOPへ
進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中しているからであります。 しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代(もくだい)と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。 大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。 城にまつわる話し城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。 三開山城(みひらきさんじょう)
三開山 豊岡市駄坂
豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。
室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。
延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。
その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。
秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。
このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。
この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。
しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。 一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。
■気多郡内の城跡城 城 主 所在地 年代 備 考 稲葉城 大森飛騨守 豊岡市日高町稲葉 太田の城山? ? 豊岡市日高町太田 万場の城山 ? 豊岡市日高町万場 東河内の城山? ? 豊岡市日高町東河内 来山城 ? 豊岡市日高町鶴岡 八代城 藤井左京の居城 豊岡市日高町八代・谷 室町期 奥八代砦 ? 豊岡市日高町奥八代字宝城 進美寺山城(掻上城) 豊岡市日高町赤崎・日置 南北朝期(1333-) 但馬南朝方の重要拠点城跡というより大寺院が軍事目的に利用され、戦国末期にも利用された 水生(みずのお)城 南北朝:長左衛門尉、戦国期:榊原式部大輔政忠、次いで西村丹後守 豊岡市日高町上石・上佐野 但馬南朝の拠点 天正8年 秀吉但馬により攻略 長楽寺の裏から山頂に至る間に数カ所の平坦地と、長城に伸びる尾根に掘割が数カ所在る。 上郷(かみのごう)城 源満仲・源頼光・赤木丹後守 豊岡市日高町上郷 平安期:天徳年間(957-961) 二段の土塁を持ち、ごく一部に石垣が残る。源満仲が但馬国司として赴任してきた時、築城。赤木丹後守は水生城合戦に参加した武士だという。 祢布城 高田次郎貞長 豊岡市日高町祢布 南北朝期 山名時氏に滅ぼされ廃城 森山城 安田左近将監・紀伊守 豊岡市日高町森山 応安(1368-)~享禄(-1532) 森山と知見境にある低い山(「あかんじゃ」「あかんじょ」とも呼ばれた)に二段の土塁と三カ所の掘割 篠森城 足立忠経・足立肥前守 豊岡市日高町久田谷 1500~元亀三年(1572) 久田谷入口の低い山、通称稲葉山 伊福(ゆう)城 下津屋伯耆守 日高町鶴岡 室町時代(康正年間:1455-1457) 楽々前城(佐田城) [*10]山名氏守護代垣屋播磨守隆国 日高町佐田 室町時代(応永年間:1394-1428) 鶴ヶ峰城(三方富士) 垣屋越前守続成の築城:垣屋御三家本城 日高町観音寺 室町時代(永正9年:1512) 宵田城(南龍城) 隠岐守国重・筑後守忠顕:垣屋御三家・分家の城 日高町宵田・岩中 室町時代(永享2年:1430)
但馬にはこの他多数の城があります。くわしくは但馬の城 をどうぞ。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 「日本の中世」放送大学教授 五味文彦、放送大学客員准教授・東京大学大学院準教授 本郷和人、放送大学客員准教授教・慶應義塾大学準教授 中島圭一『日高町史』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他