但馬の神社創建年代

『国司文書 但馬故事記』(以下、但記)記載神社を創立年代順に並べてみた。

年代社名所在地祭神
第1代神武天皇御世大歳神社二方美方郡新温泉町居組主祭神 大年神、配祀神 御年神 若年神(但記 大歳神)
伊曽布いそう神社七美美方郡香美町村岡区味取保食神(但記 伊曽布魂命)
小代おじろ神社美方郡香美町小代区秋岡天照皇大神(但記 牛知御魂命・蒼稲魂命)
〃神武天皇3年8月小田井県神社 城崎 兵庫県豊岡市小田井町国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと(但記 上座 国作大己貴命、中座 天照国照彦天火明命、下座 海童神)
〃6年3月御出石みいずし神社出石兵庫県豊岡市出石町桐野日矛ひぼこ神(但記 国作大巳貴命、御出石櫛甕玉命)
 〃9年10月気立けだつ神社(現 気多けた神社)気多兵庫県豊岡市日高町上郷 国作大己貴命
 〃佐久神社兵庫県豊岡市日高町佐田 佐久津彦命(佐々前県主)
 〃御井みい神社兵庫県豊岡市日高町土居主祭神 御井神、配祀神 菅原道真(但記 御井比咩命)
〃15年8月夜父坐神社(養父やぶ神社)兵庫県養父市養父市場主祭神 倉稲魂命 配祀神 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命

(但記 上座 大巳貴命、中座 蒼稲魂命・少彦名命、下座 丹波道主命・船穂足尼命)

浅間せんげん神社養父兵庫県養父市浅間木花開那姫命(但記 天道姫命)
かづら神社(不明)兵庫県養父市浅間天火明命
御井神社養父市大屋町宮本御井命(但記 御井比咩命)
第4代懿徳いとく天皇佐伎都比古阿流知命さきつひこあるちのみこと神社 養父朝来市和田山町寺内(但記 養父郡坂本花岡山)佐伎都比古命・阿流知命
〃33年6月亀谷宮(久麻神社)城崎兵庫県豊岡市福田味饒田命(小田井県主)
第5代孝昭天皇80年4月与佐伎神社豊岡市下鶴井主祭神 依羅宿禰命、配祀神 保食命(但記 小田井県主 与佐伎命)
第6代孝安天皇67年9月布久比神社豊岡市栃江岩衡別命(但記 小田井県主 布久比命)
第7代孝霊天皇40年9月伊豆志坐神社(出石いずし神社)出石兵庫県豊岡市出石町宮内伊豆志八前大神

天日槍命

〃62年7月耳井神社城崎豊岡市宮井御井神(但記 小田井県主 耳井命)
第8代孝元天皇32年10月諸杉もろすぎ神社〃 内町多遲摩母呂須玖神(但記 天諸杉命、亦の名 多遲摩母呂須玖神、但馬諸助)
 〃56年6月小江おえ神社城崎 兵庫県豊岡市江野豊玉彦命但記 大巳貴命・小田井県主 小江命)
第10代崇神天皇10年9月粟鹿あわが神社朝来朝来市山東町粟鹿日子坐王(但記 彦坐命・息長水依姫命)
赤渕神社朝来市和田山町枚田赤渕足尼命 配祀神 大海龍王神 表来大神(但記 赤渕宿祢命)
鷹貫たかぬき神社気多豊岡市日高町竹貫鷹野姫命(但記 当芸利彦命)
久流比くるい神社城崎豊岡市城崎町来日闇御津羽神(但記 来日足尼命)
〃28年4月美伊神社美含美方郡香美町香住区三川主祭神 美伊毘売命、配祀神 美伊毘彦命(但記 八千矛神、美伊比咩命、美伊県主 武饒穂命)
第11代垂仁天皇11年11月和奈美神社養父養父市八鹿町下網場主祭神 大己貴命、配祀神 天温河板誉命(但記 天湯河板挙命)
第14代仲哀天皇2年須義神社出石兵庫県豊岡市出石町荒木由良度美神(但記 須義芳男命)
気比けい神社城崎豊岡市気比 主祭神 五十狭沙別命、配祀神 神功皇后 仲哀天皇
神功皇后元年5月水谷神社養父養父市奥米地天照皇大神(但記 丹波道主命)
〃8年6月二方ふたかた神社(古社地)二方美方郡新温泉町清富但記 美尼布命
第15代応神天皇元年7月宇留波神社(宇留破神社)養父養父市口米地不詳(但記 養父県主 宇留波命)
第16代仁徳天皇2年3月葦田神社気多豊岡市中郷天麻比止都祢命(但記 天目一箇命)同神
楯縫神社豊岡市鶴岡彦狭知命
井田神社主祭神 倉稲魂命、配祀神 誉田別命 気長足姫命(但記 石凝姥命)
日置神社豊岡市日高町日置天櫛耳命(但記 櫛玉命)
陶谷神社(須谷神社豊岡市日高町藤井句々迺智命(但記 野見宿禰命・武碗根命)
〃6年4月日出神社出石兵庫県豊岡市但東町畑山多遲摩比泥神(但記 日足命)
〃15年4月多他神社七美美方郡香美町小代区忠宮主祭神 素盞鳴尊、配祀神 大田多根子命 埴安命(但記 多他毘古命)
第17代反正天皇2年3月志都美しつみ神社(黒野神社へ合祀)七美板仕野丘(美方郡香美町村岡区村岡)(但記 志津美彦命)
第18代履中天皇海神社(絹巻神社)城崎豊岡市気比字絹巻主祭神 天火明命、配祀神 海部直命 天衣織女命(但記 海部直命。のち上座 海童神、中座 住吉神、下座 海部直命・海部姫命)
第20代安康天皇2年6月志都美神社(黒野神社へ合祀)七美萩山丘(美方郡香美町村岡区村岡)但記 志都美若彦命
第21代雄略天皇2年8月石部いそべ神社出石兵庫県豊岡市出石町下谷奇日方命(但記 石部臣命)
西刀せと神社城崎豊岡市瀬戸西刀宿祢、配祀神 稲背脛命
〃4年9月三野みの神社気多豊岡市日高町野々庄師木津日子命(但記 天湯河板拳命)
神門かんと神社気多豊岡市日高町荒川主祭神 大国主命、配祀神 武夷鳥命 大山咋命(但記 鵜濡渟命)
第22代清寧天皇5年6月桑原神社美含豊岡市竹野町桑野本保食神仁布命(但記 久邇布命)
第25代武烈天皇3年5月多麻良木神社(玉良木たまらぎ神社)気多豊岡市日高町猪爪彦火々出見尊(但記 大荒木命、亦名 玉荒木命、建荒木命)
〃7年5月桃嶋神社(桃島神社)城崎豊岡市城崎町桃島主祭神 大加牟豆美命、配祀神 桃島宿祢命 雨槻天物部命(但記 桃嶋宿祢命・両槻天物部命)
第26代継体天皇11年3月桐野神社出石豊岡市出石町桐野倉稲魂命(但記 鴨県主命)
第29代欽明天皇25年10月物部神社(韓國神社)城崎豊岡市城崎町飯谷物部韓国連命
〃33年3月佐受さうけ神社美含美方郡香美町香住区米地主祭神 佐受主命、配祀神 佐受姫命(但記 佐自努命)
第30代敏達天皇3年7月高阪神社(高坂神社)七美美方郡香美町村岡区高坂高皇産霊尊(但記 彦狭島命)
〃14年5月名草神社養父養父市八鹿町石原主祭神 名草彦命、配祀神 日本武尊 天御中主神 御祖神 高皇産靈神 比売神 神皇産霊神
第31代用明天皇2年4月朝来石部神社(石部いそべ神社)朝来朝来市山東町滝田大己貴命(但記 櫛日方命)
第33代推古天皇15年10月大与比神社養父養父市三宅主祭神 葺不合尊、配祀神 彦火々出見尊 玉依姫命 木花開耶姫命(但記 大与比命)
〃34年10月中嶋神社出石兵庫県豊岡市三宅田道間守命
第34代舒明天皇3年8月山ノ神社(山神社)豊岡市日高町山宮主祭神 句々廼馳命、配祀神 大山祇神 埴山姫神 倉稲魂命 保食神 奥津彦神 奥津姫神 櫛稲田姫神 品陀和気命 速素盞鳴命(但記 五十日帯彦命)
第36代孝徳天皇大化3年3月兵主ひょうず神社朝来朝来市山東町柿坪大己貴神(但記 素盞嗚命・天砺目命)
佐嚢さの神社朝来市佐嚢須佐之男命(但記 道臣命・大伴宿祢)
伊由神社朝来市伊由市場少彦名命(但記 伊由富彦命、亦名 伊福部宿祢命)
足鹿あしか神社朝来市八代道中貴命(但記 伊香色男命)
〃7月黒野神社七美美方郡香美町村岡区村岡主祭神 天御中主命、配祀神 天津彦々瓊々杵尊 志津美下大神(但記 天帯彦国押人命)
大家神社二方美方郡新温泉町二日市大己貴命(但記 彦真倭命)
第40代天武天皇白鳳2年8月椋橋むくばし神社七美美方郡香美町香住区小原伊香色手命(但記 伊香色男命)
〃白鳳3年3月深坂神社城崎 兵庫県豊岡市三坂武身主命(またの名、水先主命・建日方命)
〃白鳳3年5月酒垂さかだれ神社兵庫県豊岡市法花寺酒解子神・大解子神・小解子神
   〃御贄みにえ神社(御食津神社)兵庫県豊岡市三江豊受姫命(但記 保食神)
 〃白鳳3年6月久々比神社城崎 兵庫県豊岡市下宮久々比命(城崎郡司)
重浪しぎなみ神社豊岡市畑上物部韓国連神津主命(但記 城崎郡司 物部韓国連神津主)
佐野神社 兵庫県豊岡市佐野狭野命(小田井県主)
女代めじろ神社 〃豊岡市九日市上町主祭神 天御中主神、配祀神 神産巣日神 高皇産霊神(但記 大売布命)
穴目杵あなめき神社豊岡市大篠岡船帆足尼命(但記 黄沼前県主 穴目杵命)
〃7月刀我石部とがいそべ神社(石部神社)朝来朝来市和田山町宮主祭神 姫蹈咩五十鈴姫命、配祀神 天日方奇日方命 五十鈴姫命(但記 誉屋別命)
〃白鳳12年4月兵主神社城崎豊岡市赤石速須佐之男命
大生部大兵主おおいくべだいひょうず神社(大生部兵主神社)出石豊岡市但東町薬王寺主祭神 武速素盞鳴命、配祀神 武雷命(但記 素盞鳴命、武雷命、斎主命、甘美真手命、天忍日命)
〃10月屋岡神社養父養父市八鹿町八鹿主祭神 天照大日留女命、配祀神 誉田別命(但記 武内宿禰命)
保奈麻神社(春日神社?)養父市八鹿町大江主祭神 彦火瓊々杵命、配祀神 天津児屋根命(但記 紀臣命)
〃白鳳14年8月[木蜀]椒はじかみ神社気多豊岡市竹野町椒咩椒大神(但記 大山守命)
〃9月鷹野神社美含豊岡市竹野町竹野主祭神 武甕槌命、配祀神 天穂日命 天満大自在天神 須佐之男命 建御雷命 伊波比主命 五男三女神(但記 当芸志毘古命・竹野別命)
第41代持統天皇3年7月久刀寸兵主くとすひょうず神社気多豊岡市日高町久斗大国主尊 配祀神 素盞鳴尊(但記 素盞鳴尊
高負たこう神社豊岡市日高町夏栗白山比売命 配祀神 菊々理比売命(但記 大毅矢集連高負命)
ノ神社(戸神社)豊岡市日高町十戸主祭神 大戸比売命 配祀神 奥津彦命 品陀和気命 火結命(但記 田道公)
売布めふ神社豊岡市日高町国分寺大売布命
〃8月桐原神社養父朝来市和田山町室尾主祭神 応神天皇、配祀神 経津主命(但記 経津主命)
更杵さらきね村大兵主神社(更杵神社)朝来市和田山町寺内但記 武速素盞嗚神 武甕槌神 経津主神
第42代文武天皇庚子4年3月伊智神社気多豊岡市日高町府市場神大市姫命(但記 大使主命 商長首宗麿命)
〃10月手谷神社出石豊岡市但東町河本主祭神 埴安神、配祀神 倉稲魂命 大彦命(但記 大彦命)
〃大宝元年9月春木神社(春来神社)七美美方郡新温泉町春来主祭神 天照皇大神、配祀神 少彦名神 伊弉諾命 大己貴神 伊弉冊命(但記 大山守命)
〃慶雲3年7月伊伎佐神社美方郡香美町香住区余部伊弉諾尊(但記 彦坐命 五十狭沙別命 出雲色男命)
いかづち神社気多豊岡市佐野主祭神 大雷神、配祀神 須佐之男命 菅原道真(但記 火雷神、亦名 別雷神)
〃慶雲4年6月法庭のりば神社七美美方郡香美町香住区下浜武甕槌命(但記 大新川命)
第43代元明天皇和銅5年7月倭文しどり・しずり神社朝来市生野町円山天羽槌命(但記 天羽槌雄命)
第44代元正天皇養老3年10月伊久刀神社養父豊岡市日高町赤崎主祭神 瀬織津姫神、配祀神 大直毘神(但記 雷大臣命)
兵主神社豊岡市日高町浅倉大己貴命(但記 
〃養老7年3月盈岡みつおか神社養父朝来市和田山町宮内主祭神 誉田別命、配祀神 息長足姫命 武内宿禰(但記 波多八代宿祢命)
第45代聖武天皇天平2年3月夜伎坐山神社(山神神社)養父市八鹿町八木主祭神 伊弉冊尊、配祀神 忍穂耳尊 瓊々杵之尊 速玉男命 事解男命(但記 五十日足彦命)
杜内もりうち神社養父市森杜内大明神(但記 大確命)
井上神社養父市吉井主祭神 素盞鳴命、配祀神 稲田姫命(但記 麻弖臣命・吉井宿祢命)
〃天平18年12月兵主神社城崎豊岡市山本主祭神 速須佐男命、配祀神 高於加美神(但記 素盞嗚神 武甕槌神)(赤石から遷す)
〃天平19年4月小坂神社出石豊岡市出石町三木

豊岡市出石町森井

小坂神(但記 天火明命)
〃天平59年3月須流神社出石豊岡市但東町赤花主祭神 伊弉諾命、配祀神 伊弉冊尊(但記 慎近王)
第46代孝謙天皇天平勝宝元年6月大炊山代神社(思往おもいやり神社)気多豊岡市日高町中思兼命(但記 天砺目命)
坂蓋神社(坂益さかます神社)養父市大屋町上山正勝山祇命(但記 大彦命)
〃天平宝字2年3月色来いろく神社美含豊岡市竹野町林国狹槌命(但記 大入杵命 亦名 大色来命)
第47代淳仁天皇天平宝字5年8月男坂おさか神社養父養父市大屋町宮垣男坂大神(但記 天火明命)
第49代柏原天皇延暦3年6月比遅ひじ神社出石豊岡市但東町口藤多遲摩比泥神(但記 味散君)
佐々伎神社豊岡市但東町佐々木少彦名命(但記 佐々貴山公)
第52代淳和天皇天長5年4月等餘とよ神社(等余神社)七美美方郡香美町村岡区市原主祭神 豊玉姫命、配祀神 天太玉命 月讀命(但記 等餘日命)
第53代深草天皇承和12年8月小野神社出石豊岡市出石町口小野天押帯日手命(但記 天帯彦国押人命)同神
〃承和16年8月安牟加あむか神社出石豊岡市但東町虫生天穂日神(但記 物部大連十千根命)
第55代文徳天皇仁寿2年7月阿古谷あこや神社(森神社)美含豊岡市竹野町轟主祭神 大山祇命 配祀神 八幡大神(但記 彦湯支命)
第56代陽成天皇3年4月丹生にゅう神社美方郡香美町香住区浦上主祭神 丹生津彦命、配祀神 丹生津姫命 吉備津彦命(但記 建額明命 吉備津彦命 高野姫命)
   

最初の但馬人

 

最初の但馬人(たじまじん)

但馬で最も古くから人がいたのはどこだろう。
現時点では、兵庫県と鳥取県境で氷ノ山の北、扇の山の東、兵庫県美方郡新温泉町畑ヶ平旧石器遺跡である。旧石器時代後期、同じく新温泉町海上東尾の上山旧石器遺跡と家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの集落跡複合遺跡)である。

2カ所は同じ中国山脈の山岳地帯で尾根でつながっている。人類は最初、山岳地帯から住み着いていたといえる。畑ヶ平(はたがなる)遺跡では、火山灰の下から約2万5,000年前の旧石器時代のナイフ形石器が発見された。見つかった石器や石材の種類はさまざまなので、人々が継続的に活動していた証だといわれる。ただし、ここは標高1,000mの高地であり、当時の気候は分からないが、季節を選んだ一時的な居住場所であったのではともいわれている。

家野遺跡(養父市別宮字家野 海抜6~700m)は、旧石器~縄文までの複合遺跡で、約8千年前の縄文時代早期の平地式住居跡・屋外炉跡・貯蔵穴・焼土抗・配石遺構が見つかっている。

兵庫県立考古博物館の遺跡データベースを調べてきた。その後、但馬の旧石器時代の遺跡の発見は増えている。

杉ケ沢遺跡第13地点 養父市関宮出合甲字轟野
西谷遺跡 養父市三宅字西谷
円光寺林遺跡 〃 古井字奥山
八木西宮遺跡 養父市八鹿町八木字西宮
大山田遺跡 〃

養父町と但東町で尖頭器が発見されている。、大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。

また、養父市関宮(せきのみや)町や豊岡市但東(たんとう)町で尖頭器が発見されています。また、上山高原遺跡(養父市大屋町上山字峯山、標高773mの御祓山から北東にのびる尾根の、標高480~520mの緩やかな斜面にで、一片の土器破片(縄文時代早期)が採集され、神鍋(かんなべ)遺跡(豊岡市日高町神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で爪型文土器が発見され、
鉢伏高原遺跡(養父市関宮町丹戸(たんど))で縄文時代前期前半の竪穴式住居跡、土坑、集積遺跡を検出した。尖頭器なども出土しました。

高柳ナベ遺跡(養父市八鹿町高柳)で発掘された遺跡は、縄文時代早期に土を掘った穴が1か所、古墳時代の竪穴住居跡が8棟、奈良時代の掘立柱建物跡が21棟、古墳時代から平安時代にかけて粘土を掘った採掘坑等で、早い時期から連続した遺跡です。

兵庫県神戸市や瀬戸内側では旧石器時代の遺跡がかなり発見されいる。これは道路工事や開発により偶然見つかるケースからで、但馬に人が住み着くようになったのが比較的に遅いということにはならない。山岳地帯の多い但馬には、手付かずの旧石器人の足跡がまだまだ眠っているだろう。

但馬人のルーツと思われる旧石器人は、まだ日本列島が大陸と陸続きだった頃、獲物を求めて北からやってきたのか?地形的には兵庫県西部まで続く中国山地を、氷ノ山、鉢伏や神鍋を尾根づたいに西の方から獲物を追って移住してきたとも考えられる。

豊岡市で考古学の先駆者として知られている但馬考古学研究会の故瀬戸谷晧氏は、HP「但馬最古の遺物を求めて」で、

「ひと昔前は但馬には本格的な旧石器時代の遺物はないと考えられていた。旧石器時代、すなわち土器製作を未だ知らない一万数千年以上も前のことを本格的に調査・研究しようとする人は但馬にはほとんどいなかった。

そんな実態を、たとえば一九七四年に刊行された『兵庫県史』本編のなかに探ってみよう。その一巻によると、県下の遺跡分布図に三八箇所に点が落とされているなかで、わずかに二点が記されていたのみである。それも、もっとも新しい時期の「尖頭器」出土地として、但東と養父の二町の遺跡が紹介されているだけである。」

しかしここに疑問が湧いていた。なぜ最初に住み着いた原始人は山深い但馬にあってもさらに標高が高い豪雪地帯ばかりなのか?

たしかに、縄文時代以前は、今より気候は亜熱帯に近く、雪が積もる状態ではなかったのかも知れない。だから冬場でも住みやすかっただろうか。獲物や木の実、果実などを採集するのには、平地より山岳地帯の方が豊富だ。また平地は敵から狙われやすい。

それにしろ、こうした奥深い山岳地帯からのみ旧石器時代の遺跡がみつかるからといって、未開発だったから残っていただけではないかと。もっと住みやすい低地に人はいなかったのだろうか?低地になるほど後世に人が手を加え、棲家や耕作地にし、縄文以前の遺跡遺物を破壊してしまい、痕跡が残っていないだけかも知れない。山岳地帯からしか旧石器時代の遺跡が発掘されないからといって、原始人はかならず山岳地帯のみに暮らし、これを但馬人のルーツと断言することは無理だ。

但馬の神奈備(かむなび)

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三瓶山・大山など山陰と山陽を分ける中国山地の東端に氷ノ山・扇の山があり、尾根づたい兵庫県で最も古い旧石器時代の遺物・遺跡が発掘されていることから、中国山脈の山岳地帯に住み、さらに尾根づたいに獲物を求めて移動し、鉢伏山、神鍋山辺りに住み着いたとも思われる。縄文時代の神鍋遺跡や磐座を思わせる岩倉という字が残る。

つまりそれは噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を、神鍋山の噴火口跡を見つけた縄文人たちは、不思議な地形にさぞ驚いたことだろう。神様が宿るところ、カンナビ(神名備)だと崇めたのだと想像する。

『国史文書別記 但馬郷名記抄』に、

気多

この郡の西北に気吹戸主神の釜あり、常に烟を噴く。この故に気多郡と名づけ、郡名となす。今その山を名づけて『神鍋山』という。

また、根拠はないが、縄文人のことばは、ニュージーランドの先住民、マオリ族のマオリ語に 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)がある。「変わった(地形の)場所がある(地域)」 という意味である。

神鍋山(かんなべやま)

気多郡太多郷(兵庫県豊岡市日高町太田・栗栖野にかけて)にある神鍋山は、大正時代に開かれた関西初のスキー場として知られている。関西では珍しい約2万年前の火山活動でできた擂鉢状の噴火口と草原になっている。地質学でスコリア丘といい、標高469m、周囲約750m。噴火口は深さ約40m。北西隣のは大机山、南東の太田山、ブリ山、清滝山といった単成火山とともに神鍋単成火山群を構成している。周辺には同時代に生成された風穴・溶岩流・滝などがあり、同じくスキー場として知られる鉢伏高原(養父市)とともに早くから人が住み着いた遺跡や古墳が多数見つかっている。岩倉という小字もあるが、おそらく神鍋山をご神体とした磐座があったのであろう。神鍋と名付けられたのは、神様の大きな鍋のような山に見えたのか知れないが、以下のようにカンナビは全国にあることから、神奈備「かんなび山」がもとだと思える。「神奈備(かむなび)」が訛って「かんなべ」となり、「神様のお鍋」、「神鍋」という字を当てたのではないでしょうか?!

神奈備(かむなび)

「かんなび(山)」は信仰の対象として古代人に祀られていた山のことを指す。神奈備「カンナビ」は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする鎮座の意味や「ナビ」は「隠れる」の意味であり、「神が隠れ籠れる」場所とする意味であるという解釈がある。神名備・神南備・神名火・甘南備とも表記する。

神社神道も元は、日本で自然発生的に生まれた原始宗教ともいわれ、自然崇拝や精霊崇拝を内包する古神道から派生し、これら神社神道も古神道も現在に息づいている。

おそらく縄文時代、遅くとも弥生時代には、自然物崇拝をする原始信仰の対象で、背後にある山や、山にある岩(磐座いわくら)を神として奉った信仰において、神が居る場所の事、もしくはそのような信仰の事を意味する。神奈備信仰の神社では、山や磐がご神体のため、もともと社内にご神体を奉った建物がなかった。

神社の起源は、磐座や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に、臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではありませんでした。元来は沖縄の御嶽(うたき)のようなものだったと考えられます。

現在の神社には、神体として注連縄しめなわが飾られた社があるが、同時に境内の内外に神木や霊石としての岩や鎮守の森、時として湖沼や滝などの神体が存在し、主たる賽神さいじんの尊みこととは別に、自然そのものの神体が存在する。また古代から続く神社では、現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地きんぞくちの山や島などの手前に拝殿のみを建てているところもある。例えば奈良県桜井市の大神おおみわ神社、天理市の石上いそのかみ神宮、福岡県宗像市の宗像むなかた大社などである。

社に社殿が設置されるようになる過程には、飛鳥時代に仏教が伝来しその寺院建築の影響もあるといわれているが、神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからといわれている。現在の神社神道としての神体は「社(やしろ)」、すなわち神社本殿であり、神奈備とはいわなくなった。

出雲国風土記におけるカンナビ山

一般的にはカンナビを「神奈備」と書くが、出雲国風土記には、「神名樋野」「神名火山」と書いて、意宇郡、秋鹿郡、楯縫郡、出雲郡の4カ所であったとされている。これらはいずれも「入海(宍道湖)」を取り巻くようにそびえている。

■「神名樋野」風土記では(茶臼山) 秋鹿郡(松江市山代町 矢田町)
■「神名火山」(朝日山)眞名井神社 意宇(おう)郡(松江市東長江町・鹿島町)
■「神名樋山」(大船山)楯縫郡 (出雲市多久町)
■「神名火山」(仏経山)曽支能夜社(そきのやのやしろ) 出雲郡(簸川郡斐川町神氷)

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但馬国名神大社の特徴

式内社が全国で5番めに多い但馬国。そのなかでも朝廷より幣帛を受ける特にに重要な神社を名神大社という。但馬国には9社ある。

山・海・川などの自然信仰に由来する神社

そのものずばり名神大 山神社、気吹戸主神の釜だと思われる名神大 戸神社、雷の神 名神大 雷神社、薬草の神 名神大 [木蜀]椒神社(以上気多郡)

名神大 海神社(今の絹巻神社) (城崎郡)

多遅麻国造(人)をまつる、出石神社、御出石神社(以上出石郡)、粟鹿神社(朝来郡)、養父神社(養父郡)
2002年4月29日初稿 2015年12月8日改訂

但馬の中世武家社会の台頭と但馬守護

奈良時代の律令制からにおける地方行政組織である国司・郡司などは、平安時代末期の平治政権から、武家政権(幕府)である鎌倉時代には無実化し、地頭が設置された。平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。
守護は、国司に代わり国ごとに国内の治安維持などのために任命した武士。当初は、国内の兵粮徴発や兵士動員などを主な任務として有力な在地武士を国守護人に任命したのが守護の起源と考えられている。

日下部一族の武士化

10世紀になると、日下部一族は郡司のほか但馬国衙のさまざまの官衙に進出…朝来郡・養父郡
但馬介・但馬大目・但馬目など。また但馬検非違使・健児所判官代・執官兼行判官代などの在庁官人

11世紀・12世紀
日下部系図 分立する家系が増加する…在地名を姓として郡司から在地領主に成長し武士化していった

室町時代

足利尊氏・直義兄弟が大軍を率いて上洛を開始。京都の室町に幕府が置かれていたので室町幕府とよばれている。
狭義では建武新政を含む最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年)または明応の政変(1493年)以後の時代を戦国時代と区分している。

山名氏までの但馬守護

1336年 – 今川頼貞

今川頼貞 但馬の天皇方掃討作戦を進める。
建武三年(1336)3月 播磨に入り、4月には但馬に進む

1336年~1338年 – 桃井盛義

桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村)を苗字の地とする。
桃井盛義の軍勢が各地に転戦して討伐に乗り出したものの、南党勢力の拠点的存在であった三開山城、進美寺山城は依然として健在。
このため、北朝軍はさらに応援の軍勢を但馬へ差し向けた

守護として足利直義が小俣来全を派遣

小俣来全はまもなく帰京し、代わって桃井盛義
(この間の先に但馬入りしていた桃井盛義との関係は明らかではない)
進美寺山城が南党勢力奪回後、強固な補強を行う
守護に交代があり、守護不在のまま進美寺山城攻撃が行われていたとみられる
養父郡小佐郷地頭伊達義綱などが当たっていた

1338年~? – 吉良貞家
建武5年・南朝延元3年 11月15日 幕府奉行所へ義綱の窮状を取り次いでいる
この吹挙状によって、但馬守護が桃井盛義から吉良貞家に代わっていることがわかるが、この時点に貞家はまだ京都にいたことがわかる。
『日高町史』資料編の『垣谷文書』
守護代左衛門尉家則とは誰なのか?

1340年~1351年 – 今川頼貞
1349年4月11日 正式に但馬守護に補任(『今川家古文書』

但馬南党の拠点、進美寺山城は陥落したが、もう一つの三開山城が残っていた

宿南保氏はこれを「新田義宗は建武4年(1337)以来、三開山城主であったとされるが、これは疑わしい。(中略)

山名氏は上野国緑野郡山名荘(群馬県高崎市)を本貫地とする新田氏庶流の武士である。山名氏は足利氏・新田氏の一門ではあるが、山名荘時代は農民的な小領主に過ぎなかった。時氏の代になって一代で頭角を現す。

(中略)

時氏は、尊氏の九州下向にも随従し、建武4年(南朝延元2年=1337)7月までには尊氏から伯耆守護に任じられた。その後、丹波・若狭お守護職も与えられ、貞和元年(1345)には幕府侍所所司にも任じられた。この間に但馬守護も僭称していた。

武家方二分裂の時代(観応の騒乱)

足利武家政権にまもなく動揺が起こる。その最初ともいうべき事件は、出雲・隠岐の守護塩冶判官高貞(佐々木近江守)の出奔であった。暦応4年(南朝興国2年、1341)3月、越前国で南朝方の動きが活発化してきた。これを討つため北朝方では高師春を大将に、六角(佐々木)氏頼、その一族塩冶高貞らを加えて越前へ攻め入る手はずを整え、それぞれ兵を領国から徴していた。その矢先、塩冶高貞が京都から出奔したのだ。

本国出雲へ逃げ帰った高貞の追討を命じられたのは、伯耆守山名時氏と若狭守桃井直常であった。高貞は自害し事件は落着した。この功によって時氏は出雲守護に補任された。武家政権内でひとかどの大将が仲間討ちされたことは事実である。

それから二年後の康永2年(1343)12月、丹波守護代荻野彦六朝忠が高山寺城(氷上市氷上)で反乱。伯耆ほうき守護山名時氏、丹波守護に任じられる)
高山寺城攻略の余勢を駆って時氏は但馬に攻め入り、南党と所々で戦った。
「此の年、山名時氏武家方となり、但州の所々において合戦、官軍(山名時氏方)、(但馬国衆の)長なが・太田・八木・三宅・田結庄ら武家に降りる。」(『南朝編年記略』)
三開山城は時氏によって陥落。以後、時氏はこの城を居所にしたと考えられる。

宿南保氏は、「進美寺山城に手こずり、その攻略後も手出ししていなかった三開山城を、時氏はあっけなく征服してしまった。そんな印象すら抱かせられる経過である。以後、時氏は三開山城を居所に但馬守護を僭称した*といわれる。これは但馬国衆ががおしなべて時氏に圧倒された結果によるといえよう。」と記している。この時期の但馬守護は今川頼貞である。頼貞は京都にいて、実権は守護代であっただろうが、その守護代は不明である。丹波守護同様に南北朝期、幕府の守護として機能していなかったようだ。

*僭称…称号を勝手に名乗ること

正平8年(北朝文和2年、1353)、南朝軍の巻き返しは積極的になった。尼崎方面から楠木正儀、伊勢からは北畠顕房が上洛を狙い、本国伯耆にあった山名時氏・師義父子が南朝に帰順し、京都進撃を企てた。時氏は5月6日伯耆を出発し、6月2日、但馬三開山城に着く。ついで丹波路の須知(京都府船井郡京丹波町須知)を経て、京都西郊の嵯峨に達した。(山陰道=今の国道9号)この軍に「但馬・丹後ノ勢ヲ印具シテ」と『太平記』にあるように、但馬勢もこれに加わっていた。

6月9日、南朝軍は一挙に洛中へ攻め入った。大使は権中納言四条隆俊、大将は山名時氏であった。これから一ヶ月余に渡り京都を占領し、正平の年号が用いられたのであるが、この間の南朝軍の狼藉は未曾有のものであったという。やがて美濃へ走っていた足利義詮が巻き返しをはかって、後光厳天皇を奉じて上洛する。同天皇が鎌倉にいる尊氏に上洛を命じた、加えて西からは赤松勢が進軍してくる、などの情報が飛び交い、狼藉に対する不人気に、兵糧不足が重なって士気が衰え、南朝軍は浮足立ち、四条隆俊は吉野へ、山名時氏父子は丹波に逃走した。入れ替わりに義詮が7月26日に入京し、年号もまた文和に復した。

丹波に逃れた時氏はついで但馬に入り、ここで但馬国衆の再掌握につとめたようだ。彼はしばらく但馬にとどまり、彼に従って京都へ上洛した者たちへ感謝の状を発給して伯耆へ帰っただろう。しかし、南但馬(養父・朝来)の国人たちの信頼を取り戻し、再び時氏党になびかせることは容易ではなかったようだ。

正平9年(1354)12月13日、山名時氏は、ふたたび京都進攻。足利直冬を擁して伯耆を出発した。伯耆を出るときには5,000人であった直冬軍は、但馬で先遣隊の石塔頼房軍や但馬国衆を加えて7,600人となっていた。『太平記』には、そのときに、越中の桃井直常、越前の斯波高経から、尊氏を離反し直冬軍に呼応して上洛の軍を起こし、同時入京をしめし合わす旨の密使を送ってきたとある。
朝来郡に入り、与布土谷から黒川街道を分け上がって黒川に達し、三国峠を越す。そして山寄上(多可郡多可町)に達し、舟坂峠を越えて三方(丹波市氷上町)に達し、高見城下(丹波市柏原町)へと進んだと推定する。この城は尊氏方の丹波守護仁木頼章が拠っていたからであろう。

仁木氏 足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。仁木頼勝は室町幕府初代将軍足利尊氏の執事で丹波守護 後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した尊氏が敗れて九州へ落ちると、頼章は丹波国に留まり、久下、長沢、荻野、波々伯部など丹波の諸豪族を統率、更に播磨、美作、備前、備中の与党らも糾合し、追撃してくる南朝勢に対する防波堤となった。

尊氏が室町幕府を開くと、頼章は弟義長らとともに北朝・武家方の武将として越前金ヶ崎城攻めや河内四条畷の戦いなど各地を転戦し、また丹波の守護に任ぜられた。

尊氏の執事(後の管領)高師直と尊氏の弟直義の確執が尊氏派・直義派の抗争に発展すると(観応の擾乱)、頼章は一貫して尊氏派に属して直義派との戦いに活躍し、侍所頭人に任ぜられている。観応2年(南朝:正平6年、1351年)正月には尊氏の子の義詮とともに京を脱出している。同年2月に師直は直義派の上杉能憲に謀殺される。その後、同年10月に頼章が執事に任ぜられ翌年の尊氏と直義の和睦の際には尊氏側の使者を務めている。この間、丹波・丹後・武蔵・下野の守護職を兼帯し、義長と合わせて仁木氏は一時9ヶ国を帯有し、室町幕府草創期の基盤固めに貢献した。

仁木頼勝(1361年~1365年)

仁木頼章・義長の弟
1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1353~1360年丹後守護。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1362~1365年但馬守護。
長九郎左衛門ら南党勢 三開山城奪回作戦開始

唯一の但馬国人守護 長氏

1366年~1372年 – 長氏(ちょうし)
能登の国人領主長氏(ながうじ、おさうじ)とは無関係。長氏については不明。長(ちょう)弥次郎 但馬山名氏家臣。長信行の男。官途は越前守。但馬美方郡林甫城主(美方郡香美町香住区訓谷)。

高校時代に垣谷先生、長先生がおられ、垣谷先生は垣屋氏の子孫と自らおっしゃておられたのだが、長先生は自ら何も聞いていないのであるが、長で「ちょう」と音読みで読むのが珍しいと思ったと記憶している。長氏の子孫だと思われるが、長氏(ちょうし)は、資料が乏しく、謎だらけの二方郡の豪族である。能登の国人領主長氏のように「なが・おさ」と読むべきなのに、中国からの渡来人のように一文字で音読みである。もともと浜坂の村主などで、長「おさ」が「ちょう」と呼ばれるようになったようなものなのか、とにかく地名を二文字に改めた令にそぐわず、中世まで一文字のまま、しかも音読みのまま続いている。

宿南保氏『但馬の中世史』には、こう記されている。

長氏が但馬守護に任じられた背景には、長氏と山名時氏とが強い関係で結ばれていたことが考えられる。その仲介者としての役割を果たしたのは楞厳寺りょうごんじ(新温泉町田井)とみられる。楞厳寺は正平15年(北朝延文5年=1360)に、南溟禅師昌運(春屋和尚)が小庵(常楽院)を開いたのに始まる。この前々年11月に三開山城が陥落して、北但馬の南党は拠点城を失うが、城主だったとみられる長九郎左衛門は二方郡に退いて、奪回の機会到来を待っていたものと思われる。長氏が支配していたとみられる浜坂の地に、楞厳寺は開創されたのであった。

翌年の正平16年(1361)7月、山名時氏は三たび上洛の軍を起こして美作へ攻め入った。そして守護赤松世貞を追い出し、播磨進出をはかった。赤松軍から寝返り者の安保信善が現れ、但馬に走ってきた。これに勢いづいた長九郎左衛門は、安保とともに北但馬の三開山城奪回の軍を起こす。8月には奪回に成功しているようである。

このような但馬の情勢変化に驚いた南朝軍は、守護不在であった但馬の守護に仁木頼勝が任じられ、彼は三開山城に近い安良十郎左衛門が拠る安良城に入る。厳寒期を前に、美作にいた時氏軍はひとまず伯耆へ引き上げる。
翌正平17年(1361)6月、山名勢は再び軍を起こして備前・備中へと兵を進めた。これに呼応して、但馬から生野越えに播磨へ攻め入るよう但馬の南党国人衆に進軍を促すが、安良城に籠もる仁木頼勝を置いたまま出征することはできないとこれを拒んだ。

楞厳寺が開創されて、山名時氏は南溟禅師昌運に帰依するところがあったのだろう。同寺には同寺宛に時氏が発した書状四通と、開創当初の十数点の文書が残されていた。北但馬国人衆らが時氏といかに関わりあっていたかがわかる。楞厳寺がこれほどの働きができたのは、浜坂の領主、長氏の後ろ盾があったからだと思う。(中略)

正平17年には長九郎左衛門の息子で、のちの駿河守道全は、但馬守護二木頼勝が籠もる安良城を攻めている。これは山名時氏の命によって起こされている。

山名時氏は足利直冬を見限って貞治2年(南朝正平18年=1363)9月、将軍家に帰参した。帰参にあたって時氏は、実力で切り従えた国々の守護職を要望し、因幡・伯耆のほか丹波・丹後・美作を加えて五カ国が宛行われた。しかし但馬の拝領は阻まれた。まだ但馬の南半分は反山名の国人らによって固められている。

但馬の守護はもとのまま仁木頼勝に安堵された。しかし貞治5年12月14日、将軍家御教書は、長駿河守道全に、それから4年後の応安3年10月10日付の同書には、長伊豆守入道に宛てて施行されている。

但馬守護が仁木氏から長氏に替わったことにより、その被官となっていた国人領主らに影響を与えた。但馬守護に長氏が任じられたということは、その時点で実質的には山名時氏がそれに任じられたものとみてよいだろう。

織豊しょくほう(安土桃山)時代まで続いた山名氏

1372年~1376年 山名師義もろよし 山名時氏の嫡男。丹後・伯耆・但馬守護
1376年~1389年 山名時義 時氏の五男。美作・伯耆・但馬・備後守護
1389年~1390年 山名時熙ときひろ 時義の長男。但馬・備後・安芸・伊賀守護
1390年~1391年 山名氏清 時氏の四男。丹波・和泉・山城・但馬守護
1392年~1433年 山名時熙 時義の長男。但馬・備後・安芸・伊賀守護
1433年~1454年 山名持豊(宗全) 時熙の三男。但馬・備後・安芸・伊賀守護。室町幕府の四職。幕府侍所頭人兼山城守護
1454年~1458年 山名教豊 宗全(持豊)の嫡男。但馬・播磨・備後・安芸守護
1458年~1472年 山名持豊 但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。応仁の乱の西軍の総大将。宗全は出家後の法名。
1472年~1499年 山名政豊 教豊または宗全の子で教豊の養子ともされる。山城・安芸・但馬・備後守護
1499年~1536年 山名致豊 政豊の子。但馬・備後守護。
山名誠豊     但馬守護。致豊の弟。
山名祐豊     但馬守護。誠豊の養子、致豊の次男。1580年秀吉率いる織田軍に包囲される中、死去。
山名堯熙     但馬・備後守護。祐豊の三男。のち秀吉に所領を与えられ豊臣家の家臣となり秀吉に仕える。

南構遺跡(兵庫県豊岡市日高町久斗)について

いただいたパンフレットから

去る10月26日(土)、一般国道483号北近畿豊岡自動車道(八鹿豊岡南道路)の建設に伴い、豊岡市久斗(本籍は祢布)の南構遺跡の現地説明会が行われました。当日告知があったのかなかったのか、それもネットから知って毎日新聞一社のみでした。翌日現地へ行ったみました。

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【地名地誌】 気多郡三方郷(三方村)

三方郷

倭名類聚抄(倭名抄)

訓:美加太
弘安大田文に、三方荘、田59町、熊野山領觀音寺の田9町。
但馬考に、今の三方荘は、芝・安良川(今の荒川)・猪子垣・廣井・殿・栗山・觀音寺・知見・三所の10邑(村は当時は邑と書く)

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【地名地誌】 高生郷の地下(じげ)

『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、

古語は多可布(タカフ)

高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。矢作部(ヤハギベ)・善威田(ヨヒダ)・善原(エバラ)・稲長(イナガ)の4邑

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【地名地誌】 気多郡の由来について

兵庫県豊岡市日高町は、2005年(平成17年)、豊岡市周辺の城崎郡城崎町・竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併し、兵庫県で面積が一番大きい市となった。それまでは城崎郡日高町であった。さらに、1896年(明治29年)に郡の統合があり、美含郡とともに城崎郡に編入される以前は、「気多(けた)郡」と呼ばれていた。豊岡市合併前の城崎郡日高町全域(浅倉・赤崎は昭和30年に養父郡宿南村から編入)と・中筋地区(賀陽郷)・上佐野・納屋・床瀬・椒(狭沼郷)に該当する。

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神社・歴史マップ

これは参拝した但馬・丹後・因幡などのGoogleによる神社マップです。順次更新しています。

天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類です。
天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされています。ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされています。
国神系(国津神)の御祭神の神社は、式内社のように古社である場合が多いようです。

■ピンのカラー

赤…天孫系(天津神)
青…国神系(国津神)
黄…天日槍系
紫…天津神・国津神合祀と思われる。また自然神や郷村の祖神など区分が不明なもの

より大きな地図で 但馬・丹後の式内社 を表示