【たじま昔ばなし】 出石乙女(いずしおとめ)

古事記によれば、「むかしむかし、出石(いずし)の里に、出石乙女(いずしおとめ)という、美しくて心のやさしい女神が住んでいました。

出石乙女は天之日樫(あめのひぼこ)の娘で、美しさも家柄も良かったので、多くの若い神々が競って結婚を申し込んだのでした。

ところで、秋山之下氷夫(あきやまのしたびおとこ)と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)という二人の兄弟神も、この土地に若い二人の兄弟神がいました。
あるとき兄神が、弟神に向かって、

「私は出石乙女に求婚したが駄目だった。お前はどうだ?」

と、尋ねました。

「あはははっ、出石乙女といっても、ただの女です。このわたしがその気になれば、簡単なことですよ」

と、弟神が言ったので、兄神は笑いながら、

「そうか。もし成功したら、私の背と同じ高さの瓶(かめ)に一杯の酒と、山海の珍味をすべてやろう」

と、約束したのです。

弟神は、さっそくこの事を母神に話すと、母神は山から藤の葛(かずら)を取ってきました。

そしてそれで衣服を織り上げて、弟神にそれを着させると、乙女の家に行かせました。

すると不思議なことに、弟神が乙女の前に出ると着ていた衣がいっぺんに藤の花に変わり、ついに弟神は乙女の心を得ることができたのです。

やがて二人は夫婦となり、毎日幸せに暮らしていました。
ところがこれをねたんだ兄神は、約束した品物を弟神に贈らなかったのです。
さあ、この様子をすべて見ていた父神は、

「兄とはいえ、弟との約束を破るとは何ごとだ!」

と、約束を破った兄神に呪文をかけたのです。

そのため、兄神は日増しにやせ細って、病の床につくようになりました。
そしてそれから八年もの間、兄神は父神に泣いて許しをこうたのです。
そこで父神はこれを許して呪文もとかれたので、やがて兄神も元気になって、その後は平穏な日々が続きました。

今でも出石町桐野(いずしちょうきりの)には、出石乙女を祭ったといわれる御出石神社(みづしじんじゃ)が残っています。」

註…津田左右吉は、『古事記』独自説話はほとんど皇室になんらかのかたちで関係する説話であるのに、この出石乙女の話はまったく皇室とは関係ない説話として登場していることを不思議がっている。

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【たじま昔ばなし】 竹田城にまつわる昔ばなし

千石の米を食べた千石岩

竹田城は三百㍍もある山上に築かれています。こんな高いところにどうして城をつくったのでしょうか。今のように機械の力があっても並大抵のことではないのに、人の肩と手と足をただ一つの頼りとした五百年も昔では、考えることもできない大変なことだったのでしょう。

竹田の町はいうまでもなく、但馬の国中から、遠いところでは鳥取や岡山あたりからも、築城のために多くの町人や百姓が駆り出されて十三年もの間、明けても暮れても労役として使われました。あまりの苦しさにこの十三年間に、村中みんな夜逃げをするところも多く、驚いた築城奉行は、「夜逃げをする者は一家一族死罪にする。」というふれ札を立てました。このふれ札は今でも残っています。この話一つでも、城を築くために町人や百姓がどんな苦労をしたかわかるようです。

また竹田の町でも広くてよく米がとれるので、加都千石と呼ばれましたが、加都の畑に松の木が生えて田は荒れてしまうという、想像もできないような話も残っていて、築城の大変な有様が目に見えるようです。

ところで、竹田城の北側の門をつくるために、とても大きな石がいることになり、竹田河原に手頃な石が見つかったので、これを山に上に引き上げることになりました。
ろくろをはじめ、その時代にあったありとあらゆる道具を利用し、大変な数の人が毎日毎日汗を流して死にものぐるいで引き上げましたが、ようやく中腹まで運んだものの、それからは一ミリも動かなくなってしまいました。

ありとあらゆる力を振りしぼっても、全くだめでした。さすがの築城奉行も思いあまって、この石をその場にうち捨ててしまいました。そして、この石を河原から山の中ほどまで運ぶのに千石のお米を食べてしまったということです。いつしか人々はこの石を千石岩と名づけて、築城の苦しさをかたる話の種にしたよいうことです。

水源とみつばうつぎ

人間が生きていくためには、水はなくてはならない者ですが、300mもの山上に築かれた山城の竹田城に入る水は、どこからどうして求めたのでしょうか。

竹田城の西裏にある大路山の滝谷といいうところから、約2kmもの長い間を銅管を引いて城に水を送りました。ところが合戦のあった時、敵にこの水源を見つけられると、城は一日ももたないで落城してしまいます。水源を隠さなければなりません。城主は考えに考えたあげく、この滝谷に寺を建ててごまかしました。これを香華院千眼寺といいます。はじめは水源の無事を祈って千人の願いを封じこめたので千願寺と書いていましたが、いつの間にか千眼寺となりました。今でもここに寺があったあとがはっきり残っています。

もうひとつの謎が残されています。

「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある。」

という不思議な歌が伝えられていますが、これはおそらく水源や銅管のあり場所を、暗号に伝えたものでしょう。のちの時代に欲の深い男が、これは城が落ちる時に、城の金や宝を隠した場所をいったものであろうというので、本気になって山の中をあちこち掘りまわって物笑いになったという話しもあります。しかし、城にとっては、黄金千両、銀千両に代えることのできない水源であり、銅管であったことは間違いありません。

雨乞いの神様三谷神社の由来

竹田城主太田垣宗寿(むねひさ)の時代のことです。
ある日突然、太田垣氏の主君である出石の山名氏から使いが竹田城にやってきました。上使をもてなすために、数々のご馳走が出され、城中の多くの女の人が給仕をしました。その中に絹巻という十七才になる美しくてかしこくやさしい娘がいました。上使は絹巻の様子を見込んで、出石の本城に連れて帰りたいと宗寿に頼みました。宗寿は絹巻を手放すことをかわいそうに思いましたが、主人に当たる出石城の使いの頼みであるので、仕方なく絹巻をいいふくめて出石に行くようにすすめました。

さて、その夜は大へんな嵐となり、夜が明けた城山の麓の三谷ヶ淵は昨夜の大雨に水かさを増し、ものすごい有様でした。そのにごり水の中に、絹巻の死体が浮かんでいるのを村の人が見つけました。かわいそうに絹巻は、永年住み慣れた竹田城を離れたくはなかったのですが、主人宗寿の命令にそむくわけにもいかず、考えにあまってこの淵に身を投げたのでした。これを聞いた人々は絹巻きを憐れんで、小さいほこらを造りその霊をとむらいました。そして、いつしかこのほこらを三谷神社と呼ぶようになったのです。

さてその後、この淵に時おり白い蛇が姿を見せるようになりました。ところがある夏のこと、近年にない大日照りで百姓たちは困り果て、この三谷ヶ淵に水を取りに集まりました。水を取ろうとすると、どうしたことか、かんかんでりの青空は急に黒雲となったかと思うと、立ってもいられないほどの大雨となり、村人たちは、これは絹巻の変身である白蛇様が、滝壺の水がなくなって自分の姿を見られると恥ずかしく思い、大雨を降らしたのだと喜ぶとともに、さらに絹巻の霊を厚くとむらったということです。

それからは、この三谷神社は雨乞いの神様として、村人から信心され、大切にされたのです。

武士の恩がえしとつくし

天正九年(1581)のことです。播磨赤松氏の律師光影が二人の家来を連れて竹田城に乗り込んできました。

城主は五代目太田垣朝延でした。軍使は朝延に、ただちに赤松氏に降参し城を明け渡すようにと迫りました。これを聞いた朝延は怒って、軍使三人を大路山滝谷ヶ原で切り捨ててしまったのです。ここで、赤松氏と太田垣氏の戦いの火蓋が切られたのです。

その後何年か経ったとき、村人たちはこの切られた三人の侍の霊を慰めるために、三体の石地蔵をつくって、手厚く祭りました。ところが妙なことに、この滝谷ヶ原付近は、昔からつくしが一本も生えない土地であったのに、このことがあったあくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくしがたくさん生え、村人たちを驚かせました。

これは地蔵様のお陰であるとともに、霊をとむらった武士の恩がえしであろうと、それからのち、毎年春の一日を村人たちは、つくし取りに楽しむようになりました。

庵主を救った人食い地蔵

城が落ちた時、裏山づたいに密かに逃れ出た一人の若い女がありました。

敵の目をかすめてようやく辿り着いたのは、城からさして遠くもない久留引の村でした。助けを求められた村人たちは哀れに思い、かくまうとともに、小さい庵を建てて堂守にしました。この庵主となった女は、明けても暮れても、戦死した竹田城の勇士の霊をとむらって仏に仕えていました。また、何くれと村人たちの世話をするので、立派な尼さんだと大へん大事にされました。

ある夜、賊がこの庵を襲った時のことです。庵主に斬りつけた賊の刀が、門前にまつられていた石地蔵に当たり、庵主は危ないところを逃れることができました。そしてその拍子に倒れた地蔵様の下敷きになって、賊はついに死んでしまったのです。まさに仏ばちがあったわけです。その後、村人たちはこの地蔵様を人食い地蔵と呼ぶようになりました。

どういうわけかと土地の物知りに聞くと、庵主が一生懸命に仏様に仕えたので、地蔵様が身代わりになられたことをある名高い坊さんが聞かれて、施徳地蔵といわれたのを、いつしか人食い地蔵となまっていうようになったのだとのことでした。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

【たじま昔ばなし】 本当は恐い?!「通りゃんせ」伝説(朝来市生野町)

「佐渡の金山、生野(イクノ)の銀山」として知られる銀の町として有名な兵庫県生野。生野鉱山は約1200年前に開坑されたとも伝わる古い鉱山で、操業時の坑道は地下880m・坑道の長さ延べ350kmにも及び、採掘した鉱石は、金・銀・銅・亜鉛など70種類にも及びました。山名・織田・豊臣・徳川の直轄地を経て、明治22年以降皇室財産になりましたが、明治29年には三菱に払い下げられ昭和48年にその長い歴史を閉じました。

要衝の地に有りながら、町の中央を流れる市川の度重なる氾濫や、鉱毒の為に、田畑を耕しても育たず民家も少なかったので、あまり人の住めるところでは無かった様で、「死野」とも呼ばれていたようです。「播磨国風土記」には、垂仁天皇が「死野」から「生野」にするよう言ったと言う話も伝わります。もし生野に鉱山がなければ人は住まなかっただろうとさえいわれ、鉱山とともに栄えた町です。

童謡「とおりゃんせ」は、垂仁天皇の頃の本当は恐ろしい神の伝承だというものです。

「最新 日本古代史」恵美嘉樹著によると、
自由に坂道を往来する10人の旅人の5人を殺し、残りの5人を通す。20人が通ればそのうち10人は殺す。

『播磨風土記』で、「生野というところは、むかしこの地に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺した。このため死野(シニノ)と呼んだ。」とも一文である。童謡「とおりゃんせ」の原型ともいわれるが、この恐ろしい神の居場所は、但馬、丹波、播磨の3つの国の国境地帯にあり、近くには但馬一宮 栗鹿(アワガ)神社がある。祭神のアメミサリは神社の背後にある粟鹿山に鎮座します。大国主(オオクニヌシ)の子とされているが、元来はこの要地に独自の関所をもうけた氏族の神であったのだろう。そこに大和の三輪山の神官家のオオヒコハヤが颯爽と現れ、この粟鹿神を鎮めて、五穀豊穣の神にしてしまった。

神社の北側には、古代国家によって全国に張り巡らされた道路網の一つ、山陰道が通っている。近年、沿道から「駅子(エキシ)」と書いた木簡(墨で書かれた札)が発掘された(柴遺跡は朝来郡山東町)。

「駅」とは古代の緊急連絡網のために設けられた施設のこと。都までつながる道に等間隔に設置された。駅には馬が常時つながれており、緊急連絡がある場合、次の駅までリレー式に早馬で伝達していくわけだ。緊急でない場合は一役人も使っていた道でもありました。ちなみに陸上競技の駅伝の語源でもある。

この「駅子」の発見から、付近に駅があり、粟鹿神社の地が交通の要所であることがわかり、伝説の信憑性が裏付けられた山陰道など古代の道路網は飛鳥時代に整備されたといわれている。

交通の要衝で、荒ぶる神が通行人の半数を妨害し危害を加えるという伝承は、古代社会ではわりとポピュラーで、同じタイプの伝承は数多くみられる。神話学では「行路妨害」と分類されるこの伝承は、先住民が土地支配の正当性を語る思いが込められているのだという。地方豪族がまだ完全にヤマト王権に従属していなかった時代には、激しい縄張り争いから境界に見張りをつけ、場合によっては危害を加えた、といったことが日常頻繁にあったに違いない。「行路妨害」-それは地方の豪族が自らの土地を守る最大の抵抗だったのであり、境界が有名無実化した後世になって伝承として伝えられたのかも知れない。」

池田古墳(前方後円墳)や近年発見された「茶すり山古墳」(朝来市和田山町筒江)は、5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳としては近畿最大、全国でも第4位という大古墳が見つかりました。かりに朝来氏、粟鹿氏といった但馬王というべき豪族がいたことを裏付けます。

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大江山の鬼伝説(その二)

麻呂子親王(まろこしんのう)の鬼退治

 用明天皇の時、河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)という三鬼を首領とする悪鬼が集まり庶民を苦しめたので、天皇は麻呂子親王(まろこしんのう) に征伐を命じた。

 命をうけた親王は、七仏薬師の法を修め、兵をひきいて征伐にむかった。その途中、篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、親王が「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓をたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇った。掘り出してみると俊足の竜馬であった。(ここを名づけて馬堀という。)親王はこの馬に乗り、生野の里を通りすぎようとしたとき、老翁があらわれ、白い犬を献上した。この犬は頭に明鏡をつけていた。

 親王はこの犬を道案内として雲原村に至り、ここで自ら薬師像七躰を彫刻した。この地を仏谷という。 そして親王は鬼賊を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓した。それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ちとったが、土熊を見失ってしまった。そこで、さきの鏡で照らしたところ、土熊の姿がその鏡にうつり、これも退治することができた。末世の証にと土 熊を岩窟に封じこめた。これが今の鬼が窟である。(土熊は逃れて竹野郡に至りここで討たれたというものもある。)鬼退治を終えた親王は、神徳の加護に感謝して天照大神の神殿を営み、そのかたわらに親王の宮殿を造営した。鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬鏡大明神と号した。(かつて大虫神社の境内にあったという。)また、仏徳の加護 に報いるため、宿願のとおり丹後国に七か寺を造立し七仏薬師を安置した。この七か寺については、享保二年(1717)の「多禰寺縁起」によれば加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・竹野郡神宮寺・溝谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多禰寺の諸寺とされるが諸説のあるところである。

 麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたり、この伝説を書きとめた最古のものと考えられている「清園寺古縁起」には麻呂子親王は17 歳のとき、二丹の大王の嗣子となったとある。この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似性も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立にかなりの影響を与えていることがうかがえる。

 この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ヶ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原因となった怨霊=三上ヶ嶽の鬼神の崇りを鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。

 この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。

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大江山の鬼伝説(その一)

「陸耳御笠(くがみみのみかさ)-日子坐王(ひこいますのみこ)」

大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠(たんごふどきざんけつ)」[*1]に記された陸耳御笠[*2]の伝説です。

青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*3]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。

崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*4]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。
この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察]

陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

陸耳御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。

一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。

「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。

[*1]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*2]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*3]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。
[*4]…土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹
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【たんご昔ばなし】 浦島太郎

浦島太郎

「徐福伝説」とならんで「浦島伝説」があります。その内容は表現も構成も神仙思想を元に古代中国で流行した神仙伝奇小説に似ており、この物語が徐福伝説に似た不老不死への願望から生じた作品だったと考えられており、時代的には弥生時代に遡ると考えられます。異なるのは、徐福伝説は中国から常世のクニに不老不死の薬を求めて旅立ちますが、浦島太郎は反対に日本から蓬莱山(竜宮城)へ不老不死の薬を求めて亀に乗って向かいます。

原作が成立したのは奈良時代の700年前後のことですが、現在、原作それ自体は現存していません。しかし、原作内容を知る手掛かりとなる史料として『日本書紀』、『万葉集』、『丹後国風土記』「逸文」の三書があります。いわゆる、説話を語る始原の三書と呼ばれるもので、「浦島説話」研究にとっての基本文献です。三書のうち、説話内容について最も詳しく触れているのが「逸文」です。そのため、「逸文」を核に据え、分析・考察することが「浦島説話」を読み解く鍵となるとされます。

日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代垂仁天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波國(古くは丹後も丹波に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、國造りをなされたをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野(たかの)神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかと伝えられています。

丹後国「風土記」逸文 筒川の嶋子(水江の浦の嶋子)

『丹後の国風土記』によると、与謝郡日置(伊根・筒川・本荘から経ヶ岬までの広い地域をさす)に筒川村(現在の伊根町筒川)があります。ここに日下部首(くさかべのおびと)等の先祖で名を筒川嶋子(つつかわしまこ)という者がいました。

嶋子は容姿端麗で優雅な若者でありました。この人は水江の浦の嶋子という人のことです。

長谷朝倉宮(はせのあさくらのみや(雄略天皇))の時代、嶋子は一人大海に小船を浮かべて釣りをしていました。しかし、三日三晩経っても一匹も釣れませんでした。あきらめていたころ1匹の五色の亀が釣れました。不思議だなあと思いましたが船上に上げておきました。すると、眠くなっていつの間にか寝てしまいました。

しばらくして目が覚めると、亀が美しい乙女に姿を変えていました。その美しさはほかにたとえようがありません。ここは陸から離れた海の上、
「どこから来たのですか。」
とたずねると、

乙女は微笑みながら
「あなたが一人で釣りをしていたのでお話ししたいと思い、風や雲に乗ってやってきました。」
と言います。

嶋子はさらに「その風や雲はどちらから」とたずねました。
すると乙女は「私は天上の神仙の国から来ました。決して疑わないでください。あなたと親しくしたいのです。」
と言います。

嶋子は乙女が本当に神仙の国から来たと信じました。

さらに乙女は「私は永遠にあなたのそばにいたいと願っています。あなたはどうですか。お気持ちをお聞かせください。」と言いました。
嶋子は「そんなに慕われているのを聞けばうれしいことです。」と答えました。乙女は海の彼方にある蓬山(とこよ)の国へ行こうと言います。嶋子は乙女が指さす方へ船をこぎ始めるとすぐに眠ってしまいました。

すぐに大きな島に着きました。そこは玉石を散りばめたような地面で、綺麗な宮殿があり、楼閣は光輝いているように見えます。嶋子がこれまでに見たことがない景色で、二人は手を取り合ってゆっくりと歩んで行きました。

すると、一軒の立派な屋敷の門の前に着きました。乙女は「ここで待っていてください。」と言って中に入って行きました。

門の前で待っていると、7人の子供たちがやってきて「この人は亀姫様の夫になる人だ」と語っています。

そして、次に8人の子供たちがやってきて、また「亀姫の夫はこの人だ」と話しています。嶋子は乙女が亀姫だと知りました。しばらくして、乙女が出てきたので子供たちのことを話すと、乙女は「7人の子供らは昴(すばる)で8人は畢(あめふり)だから怪しまなくてもいいですよ。」と言って門の中へ案内しました。(*昴(すばる)と畢(あめふり)は星座。畢は牡牛座を示します。)

屋敷の中では乙女の両親が出迎えてくれました。嶋子はあいさつをすると座りました。両親は、「神の世と人の世が別々でもこうしてまた会うことができてうれしい」と大変喜んでいました。

そして、たくさんのご馳走を味わうようにすすめられました。兄弟姉妹ともお酒を飲み、幼い娘らも取り囲みました。高く響きわたる美しい声、美しく舞い踊る人たち、見るもの聞くもの全てが初めてのことで驚くばかりでした。だんだん日が暮れて夜になり、みなが帰ると、嶋子と乙女の二人だけが残りました。そして、袖がふれあうほどに近づき、この夜、二人は夫婦となりました。

二人は幸せな日々をすごしました。見るものは美しく、ご馳走がたくさんあり、心ゆくまで楽しむことができました。嶋子は神仙の世界で楽しい時を過ごし、現世を忘れてしまっていたのです。そして、いつしか3年の時が流れます。嶋子は父や母はどうしているのだろうかと故郷のことがだんだん気になってきました。悲しくも懐かしくもなり、そのことを考えると食事も進まないので、顔色も悪くなっていきました。

妻となった乙女が、「近頃のあなたは以前とは違っています。どうしたのですか。そのわけを聞かせてください。」とたずねました。

嶋子は「昔の人はこんなことを言いました。人は故郷を懐かしむものだ。狐は故郷の山に頭を向けて死ぬと言う。私はそんなことは嘘だと思っていたが、最近になって本当のことだと思えるようになりました。」と言いました。乙女に「帰りたいのですか」とたずねられ、「私は神仙の世界で楽しい時を過ごしていますが、故郷のことが忘れられないし両親にも会いたくなりました。だから少しの間故郷に帰らせてほしい。」と申し出ました。
乙女は「あなたと私は金や石のように固い約束で結ばれ、永遠に一緒に暮らすと誓ったではありませんか。しかし、あなたは私一人を残して帰ってしまうのですね」と涙を流しました。二人は手を取り合って、歩きながら語らいました。いくら話をしても悲しみが増すばかりです。やがて、嶋子の思いが固いことを理解し、別れることを決心しました。

出発の日、乙女もその両親もみんなが見送りに来ました。乙女は嶋子に美しい玉櫛笥(*玉手箱:化粧道具などを入れるきれいな箱)を嶋子に渡して、「私のことを忘れないでください。この箱をあなたに差し上げましょう。でも、私にまた会いたいと思うのなら決してふたを開けてはなりません。」と固く言いました。嶋子は「決して開けません」と約束しました。

船に乗って目を閉じるとあっという間に故郷の筒川が見えました。水江の浜に戻った嶋子は、大変驚きます。そこにはかつての村の姿がなく、見たことのない景色だったからです。しばらく歩いて、村人に水江の浦の嶋子の家族のことを聞いてみました。すると不思議そうな顔をして「今から300年前に嶋子という者が海に釣りに出たまま帰ってこなかったという話を年寄りから聞いたことがありますが、どうしてそんなことを急に尋ねるのですか」と言います。嶋子は村を離れていたのは3年間だと思っていたのですが、実は300年も経っていたと知り、途方にくれてしまいました。

さまよい歩いて10日ほど経ったとき、嶋子は再び乙女に会いたくなっていました。傍らに持っていた玉手箱にふと目を向け、なでていましたが、いてもたってもいられなくなり、約束も忘れてふたを開けてしまいました。すると、開けきらないうちに中から芳(かぐわ)しいにおいが天に流れていってしまいました。ここで我に返って約束を思い出しましたがすでに遅かったのです。

浦嶋子はここで玉手箱を開けてしまいました。するとたちまち顔がしわだらけになり、悲しみのあまりしわをちぎって木に投げつけたら樹皮が凸凹になったと伝わります。ここでは松ではなく榎だと伝わっています。

「浦島太郎」あるいは「浦嶋子伝」の話が形作られる以前に、人が亀の背に乗って海を渡る話や海神の国へ行き3年経って戻ってきた話など、原点とも言える伝説があります。

浦嶋神社(宇良神社)

  

京都府与謝郡伊根町本庄浜191番地 旧社格 郷社
祭神 浦嶋子(浦嶋太郎) 相殿神-月読命祓戸神
祭儀 例祭8月6・7日、祈年祭・延年祭(福棒祭)-3月17日
社殿 本殿神明造 (間口5.4㍍奥行3.6㍍)

御由緒:浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)7月22日とされ、浦嶋子を筒川大明神として祀むるのが始めであると伝えられる。醍醐天皇延喜5年(905)撰上の「延喜式神明帳」に、宇良神社(うらのかむやしろ)として所載されているいわゆる式内社である。


蓬山の庭

浦嶋伝説ゆかりの社として非常に有名です。この社には玉手箱や浦嶋縁起絵巻(国指定重要文化財)など、伝説の宝物が残されています。

嶋児神社

  
京丹後市網野町八丁浜(京都府京丹後市網野町浅茂川明神山382)

浦島太郎は、後世につたえられた名前で、風土記では水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)となっており、この嶋子を祀る神社が網野町浅茂川の海岸に鎮座します。祠(ほこら)が祀られています。
近くに鳥居は大変大きく立派なものです。

嶋児神社から左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれ、ここには乙姫をまつった福島神社があります。

「網野神社に伝わる伝説」

昔、銚子山古墳の地続きに日下部氏の屋敷がありました。日下部曽却善次夫婦には子どもがなく、子宝に恵まれたいと百日祈願をしていました。

満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見ました。

神から「ふたりの願いを聞き届けよう。明朝、福島へ来い」とのお告げです。翌朝、出かけると赤子が置かれており、夫婦は「嶋子」と名付け大切に育てました。

釣り好きの若者に成長した嶋子は、澄の江での漁の時は釣った魚を一旦磯の「釣溜(つんだめ)」にビクのまま浸けておいたといいます。
ある日、嶋子は福島で大変美しい娘に出会いました。乙姫様でした。ふたりは夫婦の約束をし、小舟で竜宮城へ行きました。手厚いもてなしを受け3年の月日が経ちました。

嶋子は故郷が恋しくなり、帰ることになりました。乙姫様が「お別れに手箱を差し上げます。再びお出でくださるお気持ちがあるなら、決して中をお開けなさいますな」と美しい玉くしげ(玉手箱)を渡しました。嶋子は懐かしい万畳浜へ帰って来ました。

ところが屋敷に着いてみると雑草が茂って一面の荒野原に…。竜宮城での1年は、人間界の何十年にもなっていたのです。嶋子は悲しみ、途方にくれました。その時、玉くしげのことを思い出し、これで数百年の昔に戻れるのではと箱の蓋を開けました。

すると中から白い煙りが立ち上り、嶋子はしわだらけのお爺さんに。驚いた嶋子は思わず自分の頬のしわをちぎって榎に投げつけました。その後、嶋子がどうなったかはわかりません。ただ、しわを投げつけたという一本榎は「しわ榎」といわれ、今も日本海を渡って来る浜風に枝葉をゆるがせて立っています。

網野神社(あみのじんじゃ)

  
式内社 旧府社
京都府京丹後市(網野町)網野789
祭神:日子坐王(ひこいますおう・水江日子坐王)、住吉大神、浦嶋子神

創建は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。

現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の正面千鳥破風(しょうめんちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。平成19年(2007年)~平成20年(2008年)、摂内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)ともども「平成の大改修」が行われました。

水江浦嶋子神

銚子山古墳の地続きに日下部氏の屋敷がありました。日下部曽却善次(くさかべそきゃくぜんじ)夫婦には子供がなく、子宝に恵まれたいと百日祈願をしていました。満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見ました。 神から「二人の願いを聞き届けよう。明朝、福島へ来い」とのお告げです。翌朝、出かけると赤子が置かれており、夫婦は「嶋子(しまこ)」と名付け大切に育てました。  釣り好きの若者に成長した嶋子は、澄の江での漁の時は釣った魚を一旦磯の「釣溜(つんだめ)」にビクのまま漬けておいたといいます。

ある日、嶋子は福島で大変美しい娘に出会いました。乙姫様でした。二人は、夫婦の約束をし、小船で竜宮城へ行きました。手厚いもてなしを受け三年の月日が経ちました。  嶋子は故郷が恋しくなり、帰ることになりました。乙姫様が「お別れに手箱を差し上げます。再びお出でくださる気持ちがあるなら、決して中をお開けなさいますな」と美しい玉くしげ(玉手箱)を手渡しました。 嶋子は懐かしい万畳浜へ帰ってきました。ところが、屋敷に着いてみると、雑草が茂って一面の荒野原に……。竜宮城での一年は、人間界の何十年にもなっていたのです。嶋子は悲しみ、途方に暮れました。その時、玉くしげのことを思い出し、これで数百年の昔に戻れるのではと箱の蓋を開けました。すると中から白い煙が立ち上り、嶋子はしわだらけのおじいさんに。驚いた嶋子は思わず自分の頬のしわをちぎって榎に投げつけました。その後、嶋子がどうなったかはわかりません。

今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。

網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町朝茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔のしわを悲しみのあまりちぎって投げつけたとされる「しわ榎」(網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史蹟や伝承が今日までたくさん残っております。

日本書紀の浦島太郎

「西暦478年雄略天皇22年の秋七月、丹波国与謝郡(よさのこおり)の筒川(つつかわ)の水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)が舟に乗って釣りをしていら大亀が釣れた。するとたちまちに乙女に化身した。浦嶋子と海に入って、蓬莱山(とこよのくに)にたどり着いた。この後は別巻で。」・・・・とありますが、「別巻」とは何?風土記を指すとも言われています。

万葉集の浦島太郎

高橋虫麻呂の歌

「春、霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると、はるか昔のことが思い出されます。水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日、この世と常世の境を越えてしまいました。そこで、海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し、暮らしました。3年ほど経って、嶋子が「しばらく故郷に帰って、父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言ったところ、「またここで暮らしたいのなら、決してこれを開けてはいけません」と櫛笥(くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが、3年の間に故郷はなくなり見る影もなくなっていました。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開けたところ、常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり、浦島の子は白髪の老人になってしまいました。そして、息絶えて死んでしまいました。」

「浦島太郎」として現在伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』によるものです。亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世からのものです。

浦島太郎の話が広く世間に登場したのは明治43年から昭和24年までの小学校2年生の国定教科書『尋常小学読本』の中の「ウラシマノハナシ」で、この内容は私たちが知っている全国共通版の浦島太郎の話とほぼ同じです。つまり、全国でよく知られている浦島太郎は国定教科書のその人なのです。

これより先、児童文学者で国定教科書の編纂にも関わっていた巌谷小波は『日本昔噺』を著し、その中に「浦島太郎」の話を収めました。また、明治44年から文部省唱歌として歌われるようになりました。巌谷小波は『日本昔噺』の中で、

「むかしむかし、丹後の国、水の江という所に浦島太郎という一人の漁師がおりました。」

と書き始めています。ここでは浦島太郎が丹後(現在の京都府北部の半島)の人と明言しています。全国共通版の浦島太郎の話は実は丹後半島に伝わる浦島太郎、つまり、浦嶋子の伝説がもとになっていると言えるのです。

もともと浦島伝説は日下部(くさかべ)首族の祖神伝説として語り継がれてきました。この日下部族は近畿から九州に分布していますが、最古には南九州に上陸した隼人(ハヤト)族と想定されるそうです。

浦島伝説の要素を持つ神話は世界的に分布しており、『日本の歴史』(文春文庫の中で水野裕氏)では沖縄、朝鮮、中国、台湾原住民、インドネシア、インドシナ等に見られるようです。共通項は漁労民であると言うことで、隼人系潜水漁労民が宗像(むなかた・大分県)を経由し、日本海側に分布したものの伝えた伝承でしょう。日下部の一族も隼人の構成員でしょう。丹後一宮の籠神社の祭神が彦火明命(ホアカリノモコト)であり、火中誕生譚の火酢芹命(ホスセリ)とも見なされています。

竜宮城は、昔氏初代の昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説があります。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか、西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もあります。『三国遺事』[*1]では龍城国とされます。

天橋立の北にある元伊勢籠(もといせこの)神社は元伊勢と言われ、彦火明命(ひこほあかりのみこと:天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命)としています。豊受大神を祭っていましたが、雄略朝に伊勢に勧請されていったと伝わります。雄略朝に大和王権、丹後、伊勢との関連が深まり、浦嶋子が竜宮城に行ったのも雄略朝であると記されているのはそのあたりに関係があるのでしょう。主祭神を尾張氏の祖である竹で編んだ籠船に乗って龍宮へ行かれたという話が伝わっています。これは浦島太郎のモデルとなった話ではという説があります。

全国に伝わる浦島太郎伝説

おとぎばなしの浦島太郎の話は丹後半島に伝わる伝説がベースとなっているようですが、京都府与謝郡伊根町の浦嶋子、京丹後市網野町の浦嶋子のほかに、鹿児島薩摩半島の最南端にある長崎鼻、開聞岳が眼前に迫る地に浦島太郎の話が伝わっています。岬にある龍宮神社には豊玉姫(乙姫様)が祀られています。「竜宮城は琉球なり」とも伝えられているのです。

また他には香川県の荘内半島、長野県上松市、岐阜県各務原市、中津川市の寝覚の床と「龍宮乙姫岩」、神奈川県横浜市、沖縄の浦島太郎などの日本各地に浦島太郎の話が伝わっています。

まず最初に、京都府北部の丹後半島に伝わる物語を紹介しましょう。丹後半島にある伊根町と網野町には、丹後国風土記にもとづいた浦島太郎の伝説が残っています。

浦島太郎が竜宮城へ行ったのは日本書紀では西暦478年雄略22年の秋7月で、丹波国与謝郡の筒川村(日置の里筒川村は京都府宮津市)の水江浦嶋子が大亀を釣り上げたことで始まります。一般に知られるお伽話の浦島太郎の物語は丹後の国の風土記がもとになっています。しかし、その内容は風土記とは違っています。

[*1]…『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 – 1289年)によって書かれた私撰の史書。

■浦島太郎ゆかりの神社

網野町は「丹後国風土記」に伝えられる浦島太郎伝説の地でもあります。浦島太郎は、後世につたえられた名前で、風土記では水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)となっており、この嶋子を祀る神社が浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。

浦嶋(宇良)神社 京都府与謝郡伊根町新井
嶋児神社(しまこじんじゃ) 京都府京丹後市網野町浅茂川
網野神社 京都府京丹後市網野町

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【たんご昔ばなし】 間人皇后(はしうどこうごう)

丹後半島の北端に京丹後市丹後町に間人(たいざ)という「間人カニ」でも知られる漁村があります。

穴穂部間人皇后は、欽明天皇の皇女で、第31代用明天皇の皇后となり、574(敏達3)年、聖徳太子(厩戸皇子)[*1]を生みます。

587年、穴穂部間人皇后は、都での蘇我・物部両氏の権力争いを逃れ、自分の領地である丹後の大浜に何年か滞在しました。[*2]

都へ帰るときに、世話になった里人への感謝の意を込めて大浜に自分の名を贈り、「間人村」という名称を与えました。

しかし、里人は「皇后の御名をそのままお呼びするのは恐れ多い」と考え、文字だけをいただいて、皇后の御対座にちなんで「たいざ」と呼ぶようになったのです。(退座した事という説も)

ちなみに、奈良平城京跡から「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海草六斤」と墨書された神護景雲四年(769)の木簡が発見されています。
立岩をのぞむ海岸に、「間人皇后・聖徳太子母子像」が建てられています。

[註] [*1]…厩の戸口で厩戸皇子(聖徳太子)を出産したという『日本書紀』の逸話は有名だが、これは中国に伝来したキリスト教の異端派である「景教」(ネストリウス派)がもたらした新約聖書の福音書にあるキリストの降誕を元にしたとの説があるなど、史実かどうか疑われている。実際厩戸は地名に由来するとの説が有力。

[*2]…ただし、記紀などに穴穂部間人皇女が丹後に避難したとの記述はない。

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【たんご昔ばなし】 山椒大夫(さんしょうだゆう)

平安朝の末期、越後の浜辺を子供連れの旅人が通りかかった。七年前、農民の窮乏を救うため鎮守府将軍に楯をつき、筑紫へ左遷された平正氏の妻玉木、その子厨子王と安寿の幼い兄妹、女中姥竹の四人である。

その頃越後に横行していた人買は、言葉巧みに子供二人を母や姥竹と別の舟に乗せて引離した。姥竹は身を投げて死に母は佐渡へ売られ、子供二人は丹後の大尽山椒大夫のもとに奴隷として売られた。

兄は柴刈、妹は汐汲みと苛酷な労働と残酷な私刑に苦しみながら十年の日が流れた。大夫の息子太郎は父の所業を悲んで姿を消した。佐渡から売られて来た小萩の口すさんだ歌に厨子王と安寿の名が呼ばれているのを耳にして、兄妹は母の消息を知った。

安寿は厨子王に逃亡を勧め、自分は迫手を食止めるため後に残った。首尾よく兄を逃がした上で安寿は池に身を投げた。厨子王は中山国分寺にかくれ、寺僧の好意で追手の目をくらましたが、この寺僧こそは十年前姿を消した太郎であった。

かくして都へ出た厨子王は関白師実の館へ直訴し、一度は捕われて投獄されたが、取調べの結果、彼が正氏の嫡子である事が分った。然し正氏はすでに配所で故人になっていた。師実は厨子王を丹後の国守に任じた。彼は着任すると、直ちに人身売買を禁じ、右大臣の私領たる大夫の財産を没収した。そして師実に辞表を提出して佐渡へ渡り、「厨子王恋しや」の歌を頼りに、落ちぶれた母親と涙の対面をした。

『山椒大夫』(さんしょうだゆう)は、説話「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説で、森の代表作の一つである。

1954年、大映で溝口健二監督によって映画化された。ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得するなど、海外でも高く評価され、溝口の代表作のひとつとなった。

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【たんご昔ばなし】 羽衣天女伝説

羽衣伝説(はごろもでんせつ)は日本各地に存在する伝説です。その多くは説話として語り継がれています。最古とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県伊香郡余呉町の余呉湖は近江国風土記・京都府京丹後市峰山町のものは丹後国風土記に見られる。最も有名とされているのが静岡県静岡市清水区に伝わる三保の松原。なお天女はしばしば白鳥と同一視されており、白鳥処女説話(Swan maiden)系の類型といわれています(白鳥処女説話は異類婚姻譚の類型のひとつ。日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられる)。天橋立の松も羽衣に例えられます。

「丹後風土記」(715年)の中に、日本最古の羽衣伝説の記述がある。

「丹後の比治の山(磯砂山(いさなごさん))の頂上に真奈井(まない)という池(女池)がある。 奈良時代に編纂されたとされる「丹後の国風土記(逸文)」が伝える奈具の社の縁起によれば、 むかし、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比治の里にとどまり、 万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、 汝は吾が子ではないと追い出してしまいました。

「天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも」

と詠って、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。 そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云って、この村を安住の地としました。 此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。 これが竹野郡の奈具の社です。

この天女とは豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)、豊受大神(とようけのおおみかみ)のことである。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)でまつられる。  その後、伊勢神宮の外宮に移られるが、分霊は残されている。

■奈具(ナグ)神社

丹後國竹野郡 京都府京丹後市弥栄町船木奈具273
式内社 旧村社
御祭神 「豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ)」

風土記によると「ここに来り てわが心奈具志久なれり」とあり、奈具神社の由来はこの奈具志久(おだやかに)という言葉による。 奈具岡遺跡が近くにある。 水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期 (約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。
隠野とは、黄泉に通じる国という意味。

■奈具(ナグ)神社

丹後國加佐郡 京都府宮津市由良宮ノ上
式内社 旧村社
御祭神 「豐宇賀能賣命(とようかのめのかみ)」

社名「奈具」は、やすらぎを意味する「奈具志久」に由来するらしい。 同じく丹後国の竹野郡にあり、天女羽衣伝説の残る、 同名の奈具神社からの勧請という説もあり、 そちらの社名の起こりは、天女が老夫婦に放逐され、 各地を放浪した後、その地で「心なくしく(つまり、やすらか)」なり、 落ち着いたという。

■比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

京都府京丹後市峰山町久次宮谷
式内社 旧村社
御祭神 「豊受大神(とようけのおおかみ)」
「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」
「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」
「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」

■静岡県静岡市清水区の羽衣天女伝説

昔々のおはなし。三保の村に伯梁という漁師が住んでおりました。ある日のこと、伯梁が浜に出かけ、浦の景色を眺めておりました。ふと見れば、一本の松の枝に見たこともない美しい衣がかかっています。しかし、あたりに人影はありません。誰かの忘れ物だろうと、伯梁が衣を持ち帰ろうとしたそのとき、どこからともなく天女があらわれてこう言いました。『それは天人の羽衣。どうそお返しください』ところが、それを聞いて伯梁はますます大喜び。『これは国の宝にしよう』とますます返す気配を見せません。

すると天女は『それがないと私は天に帰ることができないのです』とそう言ってしおしおと泣き始めます。さすがに伯梁も天女を哀れに思い、こう言いました。『では、天上の舞いを見せてくださるのならば、この衣はお返ししましょう』天女は喜んで三保の浦の春景色の中、霓裳羽衣の曲を奏し、返してもらった羽衣を身にまとって、月世界の舞いを披露しました。そして、ひとしきりの舞いのあと、天女は空高く、やがて天にのぼっていったといいます。頃は十五夜。それは月明かりが美しい宵のことでした。

■余呉町の羽衣伝説

伊香刀美(『帝王編年記』より)

余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水浴びをした。それを見た伊香刀美(いかとみ)は、天女に恋心を抱き、白い犬に羽及を一つ、盗み取らせた。天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最も若い天女一人は、羽衣がないため飛び立てない。地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いぜりひめ)、妹娘は奈是理比賣(なぜりひめ)。  これが伊香連(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。妻を失った伊本刀美は寂しくため息をつき続けたという。

~解説~  古い文献によれば、奈良時代のころ、余呉ではこのような羽衣伝説が語られていたようである。  羽衣伝説は白鳥処女説話の一種といわれる。多くの人が天女という言葉からイメージする、中国風の衣装をまとい、薄い布の羽衣をたなびかせる姿は、仏教の影響を受けて変化したもの。白鳥の姿をした天女が登場する余呉湖の伝説は、日本の羽衣伝説の中で最も古いといわれている。

丹生(ニュウ)神社二座 近江國伊香郡 滋賀県伊香郡余呉町
式内社 旧村社
御祭神 「彌都波能賣命 丹生都比賣命」
創祀年代は、不詳。
式内社・丹生神社の論社の一つ。

社伝によると、天武天皇の御宇、 丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、 山土と丹生川の水を供え、天津神を祀ったという。 後、天平年間に現在の地に社殿を創建した。
よって、当社は土と水の神。
丹生真人は、誉田天皇の御子稚渟毛二俣王の後裔で、 息長氏の一族。息長丹生真人とも呼ばれていたらしい。

■倉吉に伝わる伝説

【伝説】  ひとりの百姓が、山腹の石の上に美しく芳しい衣が置いてあるのを見つけました。さらによく見ると、そばの流れで、若い美しい女性が水を浴びているではありませんか。「天女にちがいない」石の上の衣は、天の羽衣ということになる。百姓はその羽衣を盗みました。天女は羽衣がないので天上に帰ることができず、百姓の妻になりました。

数年たち、二人の子どももできました。天女は、子どもに羽衣のありかをたずねました。子どもは、父親の隠していた羽衣を、母親に渡しました。天女は、まさにも天にものぼるよろこびで、羽衣を着けると、天上に帰ってしまったのです。

二人の子どもは、母を慕って泣きました。母が好きだった音楽で、母を呼びもどそうと考えました。近くの山に登り、太鼓と笛を演奏しました。-天女が衣を置いていた山を羽衣石山、また、子どもたちが一生懸命、大鼓を打ち笛を吹きならした山を打吹山といいます。

鳥取県倉吉市

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