生野本陣破陣
10月12日午後10時、
●多田弥太郎
南らを説得できず、諦めた多田弥太郎は黒田興一郎と共に沢卿のいる生野の陣営に戻り、沢卿に但馬脱出を勧めた。各部署巡視の名目で逃走した沢卿のために、「軍備を整え再挙を謀らねば大和と同じ運命を見る」との意見に一致し、断腸の思いで解散した。
◆ハリマ大中トーク◆
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石野博信館長が語る ハリマ大中トーク40 「正始元年銘鏡の背景-但馬・森尾古墳と日本海交易-」
資料はこちら↓
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時代は卑弥呼の時代です。3世紀に倭国連合が日本列島にあって、その 国の都が邪馬台国です。邪馬台国は、九州説、大和説などありますが、倭 国の女王卑弥呼が西暦239年に中国・魏の都である洛陽に使いを出してい ます。どんな船で、何人くらいで行ったのか。奈良時代から始まる中国へ の正式の外交、遣隋使とか遣唐使とか教科書で習いましたけど、あの船で もしょっちゅう難破しているんですよね。大きなりっぱな船でも難破して ます。それなのに丸木舟に板を貼った程度の船で、よく行けたなと思いま す。朝鮮半島の帯方郡に魏の出張所がありました。そこの役人に同行して もらって洛陽へ行ってますけど、何千キロですから。陸路も大変だったと 思います。
ともかく239年に一回目の使いが行った。それが景初3年、西暦の239年 で、その次の年が正始元年です。景初3年1月に皇帝が亡くなっていますん で、次の年には年号が変わる。使いが出発して、洛陽に着くまでに半年、 6か月もかかっていまして、12月くらいに着いて、そして次の年に帰って 来ています。帰ってきた時が正始元年。つまり、日本から使いが来る、そ のために正始元年という最新の年号が入った鏡を何枚か渡してくれていま す。いわゆる『魏志倭人伝』には銅鏡を100枚渡したと書いてます。魏の皇 帝からの下賜品には錦や絹の高級織物をはじめ五尺刀などがあり、銅鏡100 枚は後の方に書いてます。中国側の意識としては、織物の方がはるかに高 価で良いものだ、銅鏡はオマケみたいなものという意識なんですね。ただ 倭国の人間は鏡が好きだったみたいで、「汝好物」(汝の好きな物)と書 いています。魏の年号を刻んだ鏡が3番の表にありますように、今現在12 面、最近、奈良県桜井茶臼山古墳で出たのも含めると13面が日本中で出て います。他にも、「三角縁神獣鏡が『銅鏡100枚』の中心」と考えている 人たちがおりますが、それが正しかったら、その種類の鏡は500面以上出 ていますからあふれますけどね。
で、今日話題にしますのが、1番・2番にあります鏡で、左側が正始元 年の三角縁神獣鏡で、2番目が但馬の豊岡市森尾古墳の銅鏡です。3番の 表で3世紀の年号鏡の分布をみますと、瀬戸内側の山口県10番とか大阪湾 にも3面程ありますけれども、ぱっと見た感じでは日本海側に多いことが わかります。その中でも、但馬と丹後にかたまっているんですよね。普 通は、魏と倭の交流・貿易は、瀬戸内海がメインルートのように言われ ていますが、日本海側になぜ多いんだろう?、というのが私の疑問の出発 でした。よくこの手の鏡は邪馬台国が手に入れて、邪馬台国の王が各地域 の、邪馬台国の命令に従った地域の王に下賜したと言われているんです。 邪馬台国が大和にあって、そのまんま大和政権として発展していったんだ と言ってます。それにしては瀬戸内海の豪族よりも日本海沿岸の古墳から 出てくるのはなんでやろ。しかも、日本海沿岸の古墳はみんな小さいん です。3番の表の右端に方墳とか円墳とかあり、前方後円墳と書いてある のが3つありますけど、12個の内3つだけが前方後円墳で、後は小さな古墳 です。特に日本海沿岸は一つを除きますと、みんな方墳・円墳から出てき ている。
先に結論から言いますと、私はこれは中央政権からもらったんじゃな くて、日本海沿岸のクニグニの王は独自に貿易を行っていたんじゃないか、 というのが、サブタイトルに『但馬・森尾古墳と日本海交易』と付けた 理由です。ひとつだけ例を4番にあげてます。丹後の太田南4号墳です。 そこに太田南古墳群の測量図がありますけど、右側の2号墳からはりっぱ な鏡が出ています。問題の『青龍三年銘鏡』は景初三年よりも数年前の 235年でちょっと左側にあります太田南5号墳、山の尾根をちょこっと平ら にした程度の小さな墓から出ています。鏡を専門にやっている先生方は、 もし俺に鏡をくれるんだったら青龍三年銘鏡より2号墳の出土鏡だったら もらいますと言ってます。という事は、学問的には年号が入った鏡は大変 重要だけれども、鏡の質としてはしょうもない鏡だということです。これ がはたして邪馬台国政権や大和政権が下賜するようなモノだろうか。そう いう疑問もあります。
6番の地図の上に刀の図面を入れています。『魏志倭人伝』に「五尺刀 二本」と書いてあります。2本ですから、「銅鏡100枚」よりは貴重品です。 魏の国の一尺が23cm余りですから、五尺だったら1m20cmぐらいになります。 そんな長い刀は今のところ3世紀の日本列島のどっからも出ておりません。 古墳時代になるとありますけれど。それに近い1mクラスの刀はこの地図 にある分だけ出ています。それが全部日本海沿岸というのも凄いことで すよね。1番は韓国、2番は福岡県糸島市で伊都国という都があった所で す。島根県から1本、11番が兵庫県但馬の妙楽寺、それから12番が兵庫丹 波の内場山遺跡です。長野県の3世紀の墳墓から、渦巻の取っ手がついた 鉄刀が出ています。これは、日本中で3本だけ出てまして、その内の1本 は但馬です。これは韓国製です。韓国で造られた刀が日本海沿岸で、長 野県の北と但馬から出ています。長野県木島平村根塚は、川が日本海に 流れ込んでいる信濃川流域です。
もうひとつ資料を入れないといけないのが、兵庫県から変わった鏡が 出ていまして、博物館で作りました研究紀要という雑誌の中で「放射状 区画珠文鏡」という難しい題のレポートを書きました。3世紀の日本海 沿岸に多い鏡です。
つぎに、馬形のバックルです。ベルトの飾りです。それが3世紀の長 野市から出ています。3世紀では初めてで、韓国ルーツです。2・3世紀 の木棺を礫で囲む礫床墓が、長野県の北部と群馬県の北部にあります。 長野県の北と群馬県の北の土器は、この時期同じ顔つきをしています。 長野県の方は箱清水式、群馬県は樽式。名前は違いますけれど、土器 の顔つきはそっくりです。と言う事は、文化的な交流が日常的にあっ た。お墓の作り方もこの二つの地域に集中して礫床墓があります。
なぜ、今ここで長野県北部と群馬県北部の共通性を言い出したのか。 一番最初に戻りまして、なんでこんなお墓の形が出たのかと言うと、 群馬県の古墳と兵庫の古墳に同じ年号を刻んだ鏡がある、その背景は 日本海交易を通じて但馬の人と、群馬の人がともに、直接か間接か中 国・朝鮮半島と交流をしていたんだ、必ずしも大和政権のお世話にな っていたわけじゃない、という事が考えられるんじゃないかという事 を主張するために礫床墓の例を入れました。そしたら疑問として、同 じ「正始元年銘鏡」が瀬戸内沿いの山口県竹島古墳から出ていること をどう考えるのか。竹島古墳の年代は新しいんです。4世紀になります んで、中国との直接交流ではなく、後世に誰かに貰ったに違いない、と いうことにしております。
考古学者は大和政権中心の考え方を持つ人間が多くて、僕もその傾向 はあるんですけれども、兵庫県に来て改めて思うのは、兵庫の遺跡は凄 いのに何でマスコミの人が注目しないんだろう。こっちの情報の出し方 も大人し過ぎるんじゃないか、真面目なんですね。ということは、私が 前いた研究所は不真面目なのかとなりますけれども、奈良県は『万葉集』 とか『古事記』とかで、大王一族につながりやすいからマスコミ受けす るんですよね。遺跡の質としてはあまり変わりません。
今、邪馬台国の時代のネックレスが、館内で展示されています。ロビ ーで梅田東古墳の青いネックレスが展示されてます。この古墳は弥生か ら古墳の初めと言う説明がありますけど、弥生から古墳の初めと言うの は女王卑弥呼の時代です。だからどこか博物館でそういう年代が書いて あったら、「あっ、これ卑弥呼さんの時代だ」。そして、この古墳に葬 られた人は青いネックレスをしていた、とイメージをふくらませて下さ い。終わります。
【2011.5.10】
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【編集後記】 今回のメルマガはいかがだったでしょうか。次号は8月のイベント案内 と、ハリマ大中トークをお届けする予定です。お待ちください。
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十月十一日 沢卿一行は生野へ入る。
屋形村で合流した沢卿一行は生野街道を北上し、午後2時ごろに森垣村の延応寺に到着した。一行は京都の姉小路五郎丸とその主従であると言い、延応寺を休息所として利用した。この日のことをあらかじめ本多素行が住職に話をつけてはいたが、野袴を着け、長刀を銃砲を持った一行の威容に驚いた。
さっそく寺に乗り込み、やがて中島太郎兵衛、太田六右衛門ら地元勢や美玉三平らも駆けつけ、また生野代官所剣客だった伊藤龍太郎も門人15名ほどを引き連れてきたので総勢29名だった一行は、忽ち大人数となった。
午後3時には延応寺に集結した志士の内、白石簾作と川又佐一郎が沢卿の書状を持って代官所へ走り代官所借用の談判をするが、代官川上猪太郎は倉敷に出張中で不在のため交渉には元締の武井庄五郎が応接した。
元来、銀山町内での宿泊、滞在は御法度とされていたが、武井は姉小路様(沢卿)の書状を拝見し、「表立っての義軍の御逗留は役所の都合上申せませんが、通りがかりの御一泊と言うことならば、市中の御宿を手配いたしましょう。」という返答をした。話が進まず、やむお得ず当寺で夕食をとり、烏帽子直垂の沢卿を先頭に隊列を整えた一行は、丹後屋太田治郎衛門の邸へ移動する。
午後8時ごろ丹後屋に武井が交渉に訪れた。藤本義芳雑記によると、武井庄五郎は丹後屋に訪れ、二階座敷に案内された。浪士の中から、平野国臣、多田弥太郎、南八郎(河上弥市・高杉晋作のあとの奇兵隊総督)、美玉三平、藤崎左馬蔵(木曽源太郎)、虚無僧素行(本多素行)らは武井と一通りの挨拶を済ませたあと、平野は武井にこう語った。
「京都三条様始め、七卿様長州に御下りのうち、今回沢主水正様は京都へ容易ならざる感歎の筋があり、長州を出発され、我々は供として追従しましたが、諸国の吟味が厳しく、身を忍ぶ所もないので、しばらく匿っていただきたい。」
それに対して武井は、「高貴なお方を匿えと申されますが、当初のお話では一同の方々を通りがかりの御宿泊ということで約束いたしておりましたが、正義の士の方が匿ってくれとは話が違うと存じます。」と答えた。
これには平野も閉口した。今度は美玉が「先だってよりの農兵組立ての儀、早速了承していただき、感謝しております。このことに関して、代官様始め、皆様方も我々と同じく正義の一味と推察いたしております。」と言うと、
武井は「それは以ての外の事、当代官は言うに及ばず、我々も公儀の禄を食む者でございます。」と答えた。それに対して美玉は燈火の火を消し、暗闇になった部屋で一時沈黙になったが、やがて武井はポンポンと手を打ち「誰か灯かりを持って来い。」と呼びかけ、やがて浪士側の意見は通らぬまま交渉は終わってしまったという。
武井が退去したあと、南八郎(ここからは河上のことを変名の南八郎と呼ぶことにする)や戸原卯橘らから平野や美玉に代官風情に言いくるめられてこんな旅籠で悠長に戦の準備など出来るかと言い、直ちに代官所を占拠するべきだと言った。
この時点で天誅組は壊滅しており、平野国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの南八郎の強硬派に意見が分かれ、中止の本陣と強行の先陣とに志士達が分裂した。
当初の計画は、十月二日に戸原卯橘が長州三田尻から郷里の筑前秋月に出した手紙にあるように「三丹を服従致させ、直に京師へ罷越し、皇朝の恢復遠からずと存じ候えば、今日より発足致し候」というものだった。
これに対し、平野は代官所を無理に占拠するのはよくない、今しばらく時期を待つのが妥当と答え、双方またもや強行、自重の対立が始まった。互いに激しく言い争いが続き、沢卿が自分の不徳の致すところで、自分が責任を取って腹を切ると言い出し、議論は収まったが、結局は強硬派の議論の勝利となった。そうなると直ちに陣容が整えられた。陣容は以下のとおりである。
南八郎ら強硬派に押されて挙兵に踏み切った。
●総帥 沢主水正宣嘉
●総帥御側衆 田岡俊三郎(伊予) 森源蔵(阿波)
●総督 平野國臣(筑前) 南八郎(本名:河上弥市 長州)
●議衆 戸原卯橘(筑前) 横田友次郎(因幡) 木曽源太郎(肥後)
●軍監 川又左一郎(水戸) 小河吉三郎(変名:大川藤蔵 水戸)
●録事 藤四郎(筑前)
●使番 高橋甲太郎(出石)
●節制方 中島太郎兵衛(高田村) 美玉三平(薩摩) 多田弥太郎(出石) 堀六郎(筑前)
●周旋方 中條右京(出石) 太田六右衛門(竹田村) 太田悟一郎(竹田村)
●農兵徴集方 黒田与一郎(高田村) 長曽我部太七郎(阿波)
●兵糧方 小国謙蔵(地役人) 小川愛之助(地役人) 大田仁右衛門(生野町)
また、沢卿の名で宣言書(激文)が起草された。執筆は多田弥太郎、補筆は平野と美玉が行った。
先年開港以来 御国体ヲ汚シ奉り小民共困窮致シ候ヲ 御憂慮遊バサレ 度々関東へ攘夷ノ勅下シナサレ候ヘ共 終ニ属シ奉ラズ朝廷ヲ蔑シ奉ル。
剰サエ毒薬ヲ献ジ候処 皇祖天神ノ保護ニ依り玉体恙無ク在ラセラル。
然ル処八月十七日奸賊松平肥後守始メ偽謀ヲ以テ禁門ニ乱入シ関白ヲ幽閉シ公卿正義ノ御方々ノ参内ヲ止メ御親兵ヲ解キ放チ言路ヲ隔絶シ恐多クモ今上皇帝逆賊ノ囲中ニ在ラセラル。実ニ千秋ノ一時ノ大厄ヲ醸シ恣ニ三条公始メ毛利宰相父子ヲ所置セラレ候始末
不倶載但馬ノ国ハ人民忠孝ノ情厚ク南北朝ノ時ニモ賊足利ニクミセズ皇威ヲ揚ゲ国体ヲ張り候条聞コシ召サレ兼テ頼母シク 奇特ニ思シ召サレ候 早々馳セ集り大義ヲ承り叡慮ヲ奉り奸賊ヲ退ケ震襟ヲ安シ奉ル可ク候事癸 十月
沢主水正但馬国家旧家並ニ有志之人々 江
翌十二日未明、代官所を占拠し本陣を定め、運上蔵を開き金と米を出させ、沢卿の檄文を各村々に発表し農兵を募った。この時の触れ役は、侍髷に後鉢巻き、ぶっさき羽織に義経袴、大小を差して四枚肩の駕籠を走らせ、至る所の村々の庄屋で檄文を読んでは先へ行ったという。檄文の内容と三年間年貢半減の約束に、即日二千人を越える農兵が朝来郡と養父郡から生野へ集結した。
[catlist ID = 35]9月28日、平野、北垣三田尻に到着
平野と北垣は周防国三田尻に到着した平野と北垣は、招賢閣において同藩筑前藩士の藤四郎、堀六郎、出石藩士多田弥太郎らと七卿に会見。但馬の情勢を報告し、出馬の懇請をした。
9月29日 進藤俊三郎、池内蔵太より天誅組破陣を聞かされる。軍需品仕入れのため京の止宿先花屋に泊まっていた進藤俊三郎、田中軍太郎、西村哲次郎は長州の野村和作、因州の松田正人、河田左久馬らと軍需品の調達に四条木屋町の具足屋大高又次郎の周旋で準備をしていたところに、鷲家口を脱出してきた池内蔵太(後の海援隊士)が訪ね、大和破陣の報告をした。これにより、一同は生野挙兵を断念し、その使者として進藤が播州に向かった。
同日9月29日に三田尻で七卿と会見し但馬の情勢を聞いた毛利定広は山口で平野と会見した。平野は定広に謁し、入説したが時期尚早と賛同を得られなかった。
10月2日 沢卿三田尻を出立する
慎重論を唱える者もあれば、この際大挙東上するといった声もあり、長州藩内でも意見は分かれていた。また、天誅組のように兵を挙げ、各地に義兵を挙げることにより天下の形成を動かしていくという声もあった。
平野、北垣は4日間三田尻に滞在していたが、論議はひとつにはまとまらなかったが七卿の中から沢宣嘉卿が総帥になることが決まり、沢卿のもとならば義兵を挙げようという声もあり、また七卿のもと三田尻に集まっていた諸方の士もいた。長州藩からは奇兵隊総督の一人、河上弥市(このあと南八郎と変名)が名乗りを上げた。
河上が行くならと集まった中には豪商白石正一郎の弟、白石廉作もいた。生野に随行したのは、水戸藩から小河吉三郎、川又左一郎、関口泰次郎、前木鈷次郎、筑前藩から戸原卯橘、藤四郎、堀六郎、仙田淡三郎、出石藩から多田弥太郎、高橋甲太郎、他に田岡俊三郎(小松藩)、森源蔵(阿波藩)江上庄蔵(尾張)といった面々。
午後8時頃に沢卿は招賢閣を抜け出し、三田尻港を出港した。
長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら二十七名の浪士とともに三田尻を出航したのは文久三(1863)年十月二日のことであった。二隻に分けた船は三田尻を出港。沢卿を乗せた船には平野をはじめとする諸方の志士たちと16名が、もう一隻の船には河上弥市を筆頭に長州藩の面々11名が乗った。沖に出た頃から雨が激しくなった。波も激しくなり風も強い。帆を降ろした二隻の船は一向に進まなかった。それでも明け方には上関まで辿りついたが、雨も風もますます激しくなったので、室津港に着いて船を降りた。
沢卿一行、陸路を取り玖珂に着く。
海路を断念した沢卿一行は室津港から陸路を取り、山路を急いで玖珂(岩国市玖珂)に着いた。
そんな中、北垣晋太郎と戸原卯橘は室津から軽船を雇い、暴風雨の中を先行した。
まだ風雨が続くなか、岩国城下を通り新湊に着く。また、軽船で先行していた北垣と戸原は大島(山口県大島郡周防大島)に仮泊し、5日の朝に新湊に到着し一行と合流。また、新湊では長州の西村清太郎と因州の大村辰之助が加わり、29名となったが、ここより北垣が単身で先を急いだ。
10月7日 北垣晋太郎、大和破陣を知る
先行していた北垣は、飾磨(兵庫県姫路市)に上陸し、夜半に新町(神崎郡福崎町)で京より戻って来た進藤俊太郎と落ち合った。進藤から大和破陣の報告と、長州の野村和作、因州の松田正人からの義挙の取止めの勧告を聞かされた。
その後、北垣と進藤は二里ほど離れた屋形の旅籠三木屋で本多素行を訪ね、善後策を講じ、北垣は沢卿一行に事の詳細を伝えるべく、飾磨に折り返した。
10月8日 平野國臣、姫路で天誅組破陣を知る
国臣ら沢卿一行の船は網干は航海中に嵐にあったりしたが十月九日飾磨に入港、ここで平野は藤四郎を伴って情報収集のために上陸した。市中を徘徊すると、天誅組大和破陣の噂を聞かされた。詳しい情報を知るために平野と藤は姫路藩の志士河合惣兵衛の徒、穂積某が室津(たつの市御津町室津)にいることを知り、穂積を訪ねてみたが、やはり市中の噂は本当であった。
10月9日 平野、北垣挙兵中止を説く
午後2時ごろ、網干港を出港し、午後6時ごろに沢卿一行は飾磨に上陸した。沢卿一行と合流した平野は旅籠に入り、食事が終わると一同に大和破陣の報告を一通りしたあと、大和破陣となった以上はこの度の義挙は取止めにしょうと意見を述べた。またその頃、先行していた北垣も一行のもとに駆けつけ、早速京にいる野村和作、松田正人らが説いた義挙取止めの勧告を伝えた。意見としては一旦、沢卿には因州で身を隠していただき、他の同志の方には大坂の長州藩屋敷に身を寄せておいていただこうといった内容であった。
大方の者はこれらの意見に賛成であったが、長州藩河上弥市や彼に従う奇兵隊の面々、それに秋月藩士戸原卯橘ら少壮派は猛反対した。彼らは京大坂の同志がどう言おうとまず我々は倒幕の先鋒であって、三田尻を出たときから死ぬ覚悟できている。どのような状況であろうと、初志を貫くべきであると怒気をこめた。意見が対立したまま時が流れていったが、やがて沢卿は口を開き、各有志に進展を委ねようということになったので、この夜は河上、戸原ら少壮派の意見が通り、北上することに決議した。
その夜旅館にて国臣は大和義挙破陣の状況を説明したあと、自分の考えをこう述べている。
大和義挙敗退となった今、我々の計画している但馬の義挙も成功の見込みがない。ここは忍びがたきを忍んで、一時解散し、時節の到来を待つのが上策と思う。
そして国臣は、解散後の一時落ち着く先も考慮したようであった。
または、生野義挙の目的は倒幕戦のさきがけとなる事で、したがって大和義挙が不成功であっったからといって、一時解散は筋が通らない。
さて、国臣の考えはどちら真実だったであろうか。
10月10日 沢卿一行北上、仁豊野で本多素行中止を説く
沢卿一行は市川を船で北上し、姫路城下を過ぎて、仁豊野(姫路市仁豊野)の茶屋奥田屋で休息した。ここで本多も一行と合流し、沢卿への挨拶を終えると直ちに義挙中止説を唱えた。これに怒った河上、戸原ら少壮派は今更命乞いをするな、卑怯者、斬ってしまえと本田に詰め寄った。お互い刀を引き合わせかけたところ、沢卿が制止されたのでなんとかこの場はおさまった。
休息が終わると、少壮派は沢卿を擁して先に先行し、その日は屋形(神崎郡市川町)と辻川(神崎郡福崎町)に分宿することとなった。
生野義挙終結まで
10月14日 山伏岩の自刃
「山伏岩(自決岩)」 山口護国神社内
文久3年(1863年)10月14日
そのころ、小河吉三郎(大川藤蔵)は養父郡能座村のサケジ谷(朝来市山内)というところにいた。伊藤龍太郎が妙見山の南側の陣に行く前に、小河は南らと共に妙見山にいる同藩の川又左一郎を訪ねた。午前5時頃に沢卿本陣脱出の噂を聞いた小河は、川又にこれを伝えたあと、南に下山の説得をしたのだった。小河は川又と下山したあと、大村辰之助と丹後の片山九市にあった。地の利がある片山を案内役として、丹波路に入ったころに百姓たちが後をつけてきた。農兵として駆り立てられた百姓たちは、近隣諸藩の追討を知り、沢卿一行の本陣脱出を知ると彼らに騙されたと思っていた。やがてサケジ谷にさしかかったあたりで、百姓らは激しく発砲してきた。小河は百姓に殺されるのならと、その場で自刃した。小河の介錯をした川又は大村、片山と共に縄にかかり、出石藩に引き渡された。
午後4時、妙見山に訪れた伊藤龍太郎に説得され、下山した中條と長曽我部は生野に戻り、伊藤の案内で追上峠(神崎郡神河町)まで来ていた。ここから姫路街道に落ちるつもりであった。伊藤と別れ二人は猪篠村に向かったときに百姓どもは追跡していた。浪人待てと言い放ち、発砲する。まず中條は胸板を撃ち抜かれ、長曽我部は自刃しようとしたところを狙い撃ちされた。
午後4時半ごろ
南八郎ら志士13名は、山口村妙見山の陣から生野の本陣に戻るべく討死の覚悟で降りてきた。生野の追討に諸藩が出陣したうわさを聞いた農兵召集で駆けつけてきた農民どもは村への後のお咎めを恐れ、かくなる上は浪士たちを追い払おうということになり、山口村西念寺で早鐘を打ち、妙見山麓に押寄せたのであった。集結した農民たちは、沢卿をはじめ、義軍を偽浪士と思い込こみ空砲を放ってきた。
妙見山麓に街道があり、その向こうには市川が流れている。街道沿いにいる南ら13名と、川辺にいる農民どもとのにらみあいは続した。やがて農民どもは鉄砲で空砲を撃ちかけ、浪士たちを威嚇してきた。つい先程までは浪士たちの手足となって働いていた百姓たちであるが、手のひらを返してきたのである。憎い百姓らめと抜刀して追いかけると百姓どもはパっと散り、引き上げようとすると竹槍を振り回し、空砲を撃ってわぁわぁ騒いで迫ってくる。
百姓らは幕府側の追討の火の粉が浪士たちのせいで己に降りかかると恐れている。物の分らん百姓めと切りかかろうともしたが、百姓相手に討死してもと思っているところに、川の向こう岸から岩津村(朝来市岩津)の大川勇平という愚者が実弾を放ち、これが26才の小田村信一の胸板を貫いてしまった。2、3人の者が手負いの小田村を担いで、通称山伏岩という岩陰に連れて行き、みなもそれに続き、岩陰で百姓どもの銃弾から逃れました。
彼らを恐れて、百姓らは近ずくことは出きず、しばらく睨み合いが続いたが、これ以上、百姓と戦をしても仕方がない、もはやこれまで山伏岩の岩陰でまず南八郎が切腹、続いて9名が切腹、このとき見事なのが全員の介錯をした筑前秋月藩の戸原卯橘(29才)だった。
言い伝えによると、戸原は南ら同志たち10名の介錯をしました。介錯を終えた戸原は山伏岩によじ登り、後事を託すために百姓どもを手招きしましたが、誰も近寄るものはいなかった。戸原は刀を拾い、武士の最後を見よと腹を一文字に切り、喉を突いて同志たちの死んだ岩陰に転げ落ちた。
戸原が死んで、しばらくすると山伏岩の近くの藪の中に二人の浪士がいた。氷田左衛門と草我部某で、百姓どもはまた、わぁわぁ叫びながら二人の後を追った。すると氷田が後ろざまに羽淵村の元三郎というもの肩先を切りつつけると、元三郎は驚いて川に飛び込み、家に逃げ帰ったがすぐに死んだという。元三郎が斬られて、百姓どもは一目散に逃げ帰った。そして、静かになった頃を見計らい、氷田左衛門と草我部某は刺違えた。
午後8時、南八郎ら少壮派が壮絶な最後を遂げた山伏岩に出石藩は検分に駆けつけている.。検視に来た出石藩が驚いたのは、戸原に介錯された志士たちの首か皆、頸の皮を一寸(約3cm)程を残して切ってあったらしく、出石藩士たちはこれを見て思わず感歎の声を上げたという。
13名の浪士たちは皆、鎖帷子を着けて、懐中には鰹節が2,3本ずつ入れてあったという。また、戸原卯橘に介錯された首級は出石藩士により、一人ずつ切り離され、生野代官所に届けられた。
[catlist ID = 35]10月12日 生野代官所占拠
生野代官所跡(朝来市生野町口銀谷)
午前2時、陣容が整うと直ちに出陣の用意に取り掛かった。物々しい様相に丹後屋太田治郎左衛門は代官所に注進した。これを聞いた元締武井庄五郎はただちに密使を出石に差し向けた。
やがて、南八郎の率いる少壮派たちは代官所を包囲した。役人どもが歯向かうようなら切り捨てる気構えであったが、婦女子には一切手荒な真似はしないように言い伝えた。やがて表門が開かれると一斉に突入した。しかし、代官所側は刀を捨てて一切戦う意思が無いことを示し、南八郎は元締武井に対し、当分代官所を拝借すると言った。また、南は御持ち出しになられる品物があれば随意持ち出されよと、寛大に措置を取った。また、武井もなかなかの人物で、代官所内にある槍などの武具は事前に穂先などを削り、あまり使えないようにしてあったという。
午前4時、無血で占拠した代官所に沢卿らが到着した。
宣言書を携え、各村々に黒田興一郎、長曽我部太七郎ら農兵徴集方や、地役人たちが農兵招集に奔走した。午前10時頃から農兵たちは集りだし、正午頃には2000人余りの兵が集った。
本陣に集った兵の前に沢卿ら首脳が現れ、沢卿は床の間の上段に座し、側には平野、南、美玉、長曽我部、多田らが甲冑をつけて居並び、本多素行が烏帽子姿で今回の義挙の大意を告げた。やがて、式が終わり、農兵たちは銀山町の来迎寺に引き移った。
午後6時、本陣ではまたもや軍議が二つに分かれた。一つは生野に籠り、敵を迎え討とうという者。あるいは軍を整えて丹波路から京へ進出し、大和追討の諸藩の兵と一戦交えようというものなど、強行派と出石、豊岡、姫路などの諸藩の追討が寄せる風聞を知り、兵器が未だ不十分ということなどから自重すべしとこの期に及び意見はまとまらなかった。
この頃、代官所元締の武井は密使を豊岡、姫路へと送っていた。幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられた。
前日に武井から送られた密使は出石に午前8時頃に到着し、出石藩は早速出陣の用意を行い、一番手は生野に向かい出陣した。一方、生野本陣では美玉三平は大阪の薩摩藩の有志あてに義挙の勧誘状を送っていた。
しかし、軍議は未だ一致せず、このときの様子を銀山新話にこう記されている。
沢殿曰く、「竹田町より京都正義の方へ急々勢揃の上、此処へ下向いたすべき旨申し遣わすといえども当時京都にても時々に変事これあり、時節、これとても当に成り難し。そのうちに南に酒井(姫路15万石)、北には仙石(出石3万石)、京極(豊岡1万5千石)、東は篠山(青山氏6万石)、福知山(朽木氏3万2千石)、宮津(本庄氏7万石)、柏原(織田氏2万石)等寄せ来たらばいかに防戦すべきかな」と、有りければ、南八郎進み出て、「仙石始め加令一時に攻め寄せ候とも、某、黒田(興一郎)に勇士14,5人を賜え。
山口(山口村)へ砦を構え、要害堅固に防戦に及べば、仙石、京極取るに足らず。南より酒井寄せ来らば、森垣(森垣村)、追上(追上峠)2ヶ所の内、美玉(三平)始め長曽我部(太七郎)、多田(弥太郎)等、地役人農兵引き具し、追上峠よりポンペン放ちかくれば、酒井勢大半討たれ、進む敵はこれあるまじく、君(沢卿)の御側には平野、本多(素行)両士等守護あらば心安き事」と、安気に申しければ、平野曰く、「南公(南八郎)は若武者ゆえ、左様に思い召され候得共、この軍中は容易ならず仙石、京極のみにあらず。三丹一所に攻め寄れば大敵なり。」その時、多田進み出て、「なにぶん無勢にて所々へ手を分け候こと、はなはだ以って危うし。某、所存は峠の切り所に陣を布き敵寄せ来たれば逆路にポンペン打ち付ける時は、岩屋谷津村子までは寄る共、一人近寄る事ある可らず。陣屋付近なれば万事駆引き自由なり。」と申せば、南八郎気色変じ、「全体この度の企て違いに相成り、勢い揃い兼ねる杯。足下方申され候へ共、諸方の集り勢、当に致し多勢小勢、杯論ずるは、必竟(ひきょう)臆病神の付くに似たり。仮令無勢にても心を一致して身命を抛(なげう)ち、精神貫き発せば何千騎の寄手なりとも、蹴散らして一人も通す間敷。黒田殿は此の辺地理委しき事ゆえ、采を取り指揮いたすべし。」とある。
午後2時、南八郎や戸原卯橘の正義同盟の少壮派志士達は先陣として北面の守りへ山口村に出陣する。生野の村は今や戦かと大騒ぎになっている。諸藩の追討に対して、南らは生野からさらに東北に二里ほど離れた山口西念寺に赴き、大挙出陣して来る出石藩に備えることにした。
翌十三日に先陣は要害堅固な妙見山のほうが陣としてはふさわしいと、早速、農民に大砲や水など兵器、兵糧を妙見堂に運ばせた。ここなら諸藩の兵が押寄せても様子が一望出来るし、大砲を撃つにも絶好の場所である。それにくらべ、生野の陣地ではたとえ楠正成以上の軍師がいても諸藩の包囲を防ぐことは出来ないであろう。南らは山頂にある妙見堂の祠の周りに陣幕を張り、陣容を整えるとすぐに生野の陣営に至急移動するように使いを出した。
しかし、決戦の構えを整えるが、同夜になって生野本陣はこの頃も相変わらず議論は続いていた。南らが出陣したものの、残された大方の意見は自重説である。今、諸藩を迎え討とうとしても勝ち目がないという意見が多かった。南らのもとに多田弥太郎が説得に向かった。銀山新話にはこう書かれている。「銀山本陣より多田弥太郎早馬にて駆け付け、(沢卿からの)書簡差し出す。南八郎披見(ひけん)して打ち笑い、出石勢近寄り候に恐怖し、この出張(でばり)を開くべしとは片腹痛し。美玉始め平野等の諸勇士は酒井勢討ち入りに備え、某は此所にて仙石勢、相防ぎ此所より一人も通すまじき。云々。」
[catlist ID = 35]文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。
また、この義挙は大和で挙兵した天誅組に呼応してのものだったが、ともに天領であり代官所の占拠といい、山間部での挙兵といい、ともに共通するところが多い。
その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。
そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市(南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のころからの親友であった)。
変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。
8月19日に七卿と同じく京を落ちた美玉三平は、21日に但馬に入り、本多素行と会い、養父市場で止宿した。翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島の鯰江伝左衛門方に止宿。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。
8月24日 平野國臣、新撰組に襲われる。
五條から帰京した平野は木屋町の山中成太郎宅を仮住まいにしていたが、ここを新撰組に踏み込まれていた。幸い留守であったのでこの時は難を逃れたが、24日には三条木屋町の古東領左衛門宅にいるところを襲撃された。このとき古東が平野を逃がし、自ら縛に就いた。
8月26日、新撰組から難を逃れた平野は、阿波の浪士長曽我部太七郎を伴って、但馬に向かった。
9月1日、京に入った北垣晋太郎(国道 のちの京都府知事)は、長州藩士野村和作、因州の有志らと会見する。そのときに野村から天誅組に呼応し、生野で挙兵の提唱をされる。
9月2日 但馬入りをした平野はまず、能座村の北垣晋太郎を訪ねるが、北垣は上京のために不在であった。その日はここで泊まることとし、翌日、円山川を下り、湯島(今の城崎温泉)の旅館三木屋片岡平八郎方で止宿した。
こういう状況下で農兵組立を画策、実現の運動を進めていたのが、養父郡高田村の大庄屋中島太郎兵衛、弟の黒田与一郎、建屋村(養父市)の北垣晋太郎(後の国道)、膳所藩浪士で養父市場明暗寺出張僧の本多素行らであった。しかし、この計画は容易に具体化されなかった。
生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。
なぜ生野において挙兵されたかであるが、上記の農兵の存在の他に銀山による幕府の経済要所の占領、京からも近く、山間部でしかも代官所は周囲を高い塀で囲まれ、銀山町周囲には播磨口、但馬口など7つの番所が配置されており、ある種、砦のような様相であり、天領を浪士に占拠される幕府の精神的ダメージと、諸藩への倒幕の起爆剤としての働きかけが期待された。
9月5日、養父明神別当所普賢寺(今の社務所)において、第一回目の農兵組立て会議が行われた。この会議の場所が普賢寺となったのは養父市場に居住し、代官とも交流のあった本多素行がこの農兵組立ての発起人の一人だったからである。美玉、北垣らの画策が功を奏し、生野代官も農兵に賛同したため、代官所からは小川愛之助、木村松三郎が出席した。
また、会議には生野代官の呼びかけにより支配村の代表的な豪農や村役人24,5名が集まった。この会議では各村に2,3名の農兵周旋方が指名された。中には百姓に武芸の稽古をさせたところで何の役にもたたず、百姓の気性を荒立て、また、農業の妨げになるだけなどといった反対意見も出ていたが、当会議を前に生野代官川上猪太郎は農兵周旋方を有力な百姓に命じていたために、会議は一応のまとまりを見せる形となっていた。また、この会議が行われた日に美玉三平は湯島に平野が来ていることを知った。
一方、京にいる北垣はこの日、長州の野村和作と会見し、「但馬の国は1年かけて農兵を訓練し、兵器を備え、明年秋ごろに隣国の有志と気脈を通じて挙兵すれば、近畿、中国を動かすことが出来る。この機に長州も大挙を発せられれば事は成就する。大和の天誅組は一時、楠公の赤阪城退去の例に習ってもらうのが得策である。」と京へ向かう前に美玉や但馬の同志と話あった意見を述べたが、これに対して野村は「久坂(玄瑞)、寺島(忠三郎)も兵庫から潜行して(七卿落ちから別れて)、今京に来ている。君が告げる意見書も同志らと拝見した。実に得策とは思うが、今日の勢は1日も早く大和の義挙を助けないといけない。長州人や諸藩の同志も行って、兵器なども供給して便宜をはかりたい。」と意見した。また、「平野國臣はその為に但馬に向かったので、あなたも急いで但馬に帰り、平野を助けて、大和の応援を謀ってくれ。」と告げられている。
美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。
翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月8日 美玉三平、平野國臣と会見する。美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。
翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月11日 美玉、平野養父明神に参拝する。
8日に美玉と再開した平野は、農兵組立てについて談義し、10日には湯島に帰るはずであった幕吏が彼の止宿先でもある三木屋にまで探索に来ているとのことで、養父市場に留まることになった。11日には養父神社で祭礼があり、身辺は決して安全とはいえないが、平野は美玉、本多らと正午ごろに参拝に出かけ、二時ごろから境内で行われた相撲を観戦したという。
9月13日 北垣晋太郎、但馬に戻る。
この日は第二回目の農兵組立て会議が行われる予定であったが、京より北垣が帰り竹田町の太田六衛門方に来ていたので、急遽会議は取りやめにし、平野、美玉、本多、中島が集まり、京の情勢の徴収をした。北垣は長州の野村和作が説いた大和義挙に呼応して兵を挙げることの必要を語った。
9月19日、13日に予定されていた2回目の農兵組立て会議が、高田村の中島太郎兵衛宅で行われた。前回と同じく、生野代官所役人も参加し、今回において農兵組立ての意見はまとまり、会議は解散となった。表向きはそうみせかけ、役人が帰ったあと、用意されていた中島宅の別室でいよいよ挙兵の決行策を協議し、この会議には平野も参加した。農兵召集に関しては表向きの会議に代官所側が出席していたので問題はないであろう。会議の結果、10月10日を期して長州にいる七卿の一人を大将として、生野にて挙兵することに決まった。
平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、平野は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)と連携して、生野天領での挙兵を計画した。さてここで、いよいよ生野で倒幕の兵を挙げる事となる。
9月20日 会議の翌日、早速平野は長州にいる七卿の中から一人を総帥として迎えるため、長州に向かう。26日に広島に着き、後発の北垣晋太郎と合流し三田尻に向かった。
9月27日 吉村寅太郎戦死。
大和の東吉野村で戦っていた天誅組は、24日土佐の那須信吾ら6人の決死隊が彦根藩の陣に切込みを駆けるうちに、主将中山忠光は鷲家口を脱出、天誅組三総裁の藤本鉄石、松本奎堂は25日紀州藩勢との戦いにより戦死、吉村寅太郎は27日に藤堂藩勢40人の銃手に囲まれて銃殺され、事実上天誅組は壊滅した。
但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くあった。
1716年(享保元)、織田信長から豊臣秀吉および江戸幕府により置かれていた生野奉行を生野代官と改称した。それは産出量減少のためであった。奉行所・代官所は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の生野小学校付近にあった。江戸時代の生野奉行は11代、代官に改組後は28人が勤めた。代官には旗本が任命され、生野銀山の後背地となっていた但馬国、播磨国、美作国の天領も統治した。なお、統治規模は但馬国最大の藩である出石藩よりも大きく、江戸時代初期は5万2千石、江戸時代末期には8万2千石に達していた。明治維新期の日本の人口は、3330万人であった。しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していた。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていったのである。
文久2年(1862年)の頃から但馬の幕府領の豪農層などの間で農兵の組立の必要性が囁かれるようになっていた。外国船が日本沿岸に出没する社会情勢の折、北辺沿岸の防備に備えるためでもあり、領内の不意にも備えるためである。また、生野の代官は但馬から播磨にかけて244ヶ村、石高64,716石余りを支配していたが、武備に関しては裸同然であり、代官の家臣に地役人6,70人程しかいなかった。
生野天領では豪農の北垣晋太郎(のち国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。
平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。
28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎えることを決めた。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めるが、藩首脳部は消極的だった。
10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かった。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置いた。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張するが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。
北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)は、養父郡能座村(養父市)の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれた。父・三郎左衛門は、鳥取藩郷士で儒学を修めまわりの農民から信頼されていた人だった。
天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、宿南村の池田草庵の青溪書院で原六郎(朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門の子。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎)らとともに論語など漢学を学びました。勉強も大変良くできたという。
長く続いた徳川の幕藩体制が揺らぎ、近代国家に生まれ変わろうとする幕末。北垣国道は尊皇攘夷派の活動にのめり込んでいった。師である池田草庵の反対を押し切って、慶応元年(1865)原六郎たちといっしょに生野義挙に参加するが、生野挙兵は失敗に終わる。
その頃、京では伏見において、薩摩藩内による藩士同士による騒乱があった。文久2年4月に起こった寺田屋騒動である。この事件により藩邸の中に監禁されていた美玉三平という人物がいた。彼は、今自刃するのは犬死にと薩摩藩を脱藩。その後、江戸に三ヶ月ほど潜伏し、年が変わって文久3年2月に京に戻っている。
一方、2月23日北垣晋太郎は、浪士隊と共に入洛していた千葉道場出身の山岡鉄太郎(鉄舟)、清河八郎(出羽国庄内藩)と親戚である西村敬蔵(但馬八鹿の郷士・池田草庵に学んだ蘭法医)邸で会見し、農兵組立ての建白を老中板倉勝静に提出を依頼していた。
文久3年3月、京では依然薩摩藩の探索は厳重であったために七卿と同じく京を落ちた美玉三平はこの日に但馬に入り、近江膳所藩(滋賀県)藩士で京都明暗寺に入り虚無僧となり、但馬養父村の明暗寺出張所を拠点として尊王攘夷運動を進めた本多素行と会い、養父市場で止宿した。
8月21日に養父市場で止宿した美玉は、翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島(城崎)の温泉宿田井屋鯰江(なまずえ)伝左衛門方に投宿した。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。
この鯰江伝左衛門は北垣晋太郎と同じ青渓書院(養父市八鹿町宿南)の池田草庵の徒であり、鯰江の紹介により、美玉三平は但馬の有志と会い、その後農兵組立に関与していくことになった。
国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く牢屋へ入れられてしまった。
平野釈放について黒田公に勅命があったのは、文久三年10月のことであった。それが藩主不在の理由で延び延びになっていた。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。文久三(1863)年3月にほぼ一年ぶりに釈放された。平野の感激はいうまでもない。
情勢が再び勤王派に有利となった。文久三(1863)年の頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。
文久二年以前の朝廷機構は、伝奏(朝廷・幕府間の諸事項に付き天皇への御伺とその処理)・議奏(典礼と任免に付き天皇の御裁下を仰ぐこと)が重要な仕事であった。
文久二(1863)年12月、朝廷機構を改革し、国事係を設けられ、少壮有為な公卿等二十余名が任命された。このころ姉小路公知卿は国事参政、沢主水正は国事寄人、京へ上っていた国臣は、孝明天皇の大和行幸決定(文久三年八月十三日)と共に八月十六日、学習院出任を命ぜられた。
国事参政の実質的働きは、攘夷断行臨時職務であった。、この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。
そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
幕府側に農兵組立ての建議した北垣らに対して、今度は美玉三平が朝廷側に農兵組立ての勅許を拝するために北垣晋太郎を伴って7月下旬に上洛し、平野國臣や真木和泉に拝受方の斡旋を依頼した。それから、美玉は朝廷から農兵組立ての指令を拝受したあとに但馬に戻ることを約束し、北垣は8月13日に但馬に戻った。
農兵組立の指令は、はからずともほとんど同日に、朝廷と幕府より発令があった。
翌14日、生野及び久美浜代官所に幕府から農兵組立ての指令が下された。また、16日は朝廷から農兵組立ての指令も下りこの日から平野國臣は学習院出仕を仰せ使わされている。
文久三(1863)年8月14日、攘夷祈願のため孝明天皇から大和行幸の勅許が下され、その先鋒として浪士たちが集結し、まず手始めに幕府の直轄地である大和五條をめざして京を出発し、伏見から淀川を下り堺へと向かった。また、この日に生野、久美浜両代官所に農兵組立ての公文が幕府より下された。
8月16日、三条中納言実美より、美玉三平に対し御用御召の報あり、農兵組立の御書が渡された。その文面は要約すると次の通りである。また、平野国臣が公式に学習院出仕を命せられたのもこの日からであった。こうして、美玉による表向きの外警防備の手筈は整ったのである。
但馬の国は要地に当たり、まことに京都よりわずかに三、四十里の地、きっと兵備するのに適している。農民等忠孝に厚きようであるから、農兵の組立、切迫した時勢により、速やかに出来るように。もちろん、その功績により必ず沙汰あり。帯刀は許す。以上、心得て置くべし。
八月十四日 勘定奉行より、生野、久美浜代官へ
八月 参政 美玉三平へ
文久三(1863)年、三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策する。十七日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五條天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。十九日、国臣は五條に到着するが、その前日の八月十八日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩の公武合体派が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派七公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
朝廷及び幕府から農兵組立の命が出されたが、大和義挙は壊滅し、八月十八日の政変で、生野義挙の拠り所であった国事参政は解体されてしまい、三条ら攘夷派七卿をはじめ、尊攘派は一婦されてしまった。