平野釈放
平野が釈放されたのは文久三年十月のことであった。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。
平野が釈放されたのは文久三年十月のことであった。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。
9月28日、平野、北垣三田尻に到着
平野と北垣は周防国三田尻に到着した平野と北垣は、招賢閣において同藩筑前藩士の藤四郎、堀六郎、出石藩士多田弥太郎らと七卿に会見。但馬の情勢を報告し、出馬の懇請をした。
9月29日 進藤俊三郎、池内蔵太より天誅組破陣を聞かされる。軍需品仕入れのため京の止宿先花屋に泊まっていた進藤俊三郎、田中軍太郎、西村哲次郎は長州の野村和作、因州の松田正人、河田左久馬らと軍需品の調達に四条木屋町の具足屋大高又次郎の周旋で準備をしていたところに、鷲家口を脱出してきた池内蔵太(後の海援隊士)が訪ね、大和破陣の報告をした。これにより、一同は生野挙兵を断念し、その使者として進藤が播州に向かった。
同日9月29日に三田尻で七卿と会見し但馬の情勢を聞いた毛利定広は山口で平野と会見した。平野は定広に謁し、入説したが時期尚早と賛同を得られなかった。
10月2日 沢卿三田尻を出立する
慎重論を唱える者もあれば、この際大挙東上するといった声もあり、長州藩内でも意見は分かれていた。また、天誅組のように兵を挙げ、各地に義兵を挙げることにより天下の形成を動かしていくという声もあった。
平野、北垣は4日間三田尻に滞在していたが、論議はひとつにはまとまらなかったが七卿の中から沢宣嘉卿が総帥になることが決まり、沢卿のもとならば義兵を挙げようという声もあり、また七卿のもと三田尻に集まっていた諸方の士もいた。長州藩からは奇兵隊総督の一人、河上弥市(このあと南八郎と変名)が名乗りを上げた。
河上が行くならと集まった中には豪商白石正一郎の弟、白石廉作もいた。生野に随行したのは、水戸藩から小河吉三郎、川又左一郎、関口泰次郎、前木鈷次郎、筑前藩から戸原卯橘、藤四郎、堀六郎、仙田淡三郎、出石藩から多田弥太郎、高橋甲太郎、他に田岡俊三郎(小松藩)、森源蔵(阿波藩)江上庄蔵(尾張)といった面々。
午後8時頃に沢卿は招賢閣を抜け出し、三田尻港を出港した。
長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら二十七名の浪士とともに三田尻を出航したのは文久三(1863)年十月二日のことであった。二隻に分けた船は三田尻を出港。沢卿を乗せた船には平野をはじめとする諸方の志士たちと16名が、もう一隻の船には河上弥市を筆頭に長州藩の面々11名が乗った。沖に出た頃から雨が激しくなった。波も激しくなり風も強い。帆を降ろした二隻の船は一向に進まなかった。それでも明け方には上関まで辿りついたが、雨も風もますます激しくなったので、室津港に着いて船を降りた。
沢卿一行、陸路を取り玖珂に着く。
海路を断念した沢卿一行は室津港から陸路を取り、山路を急いで玖珂(岩国市玖珂)に着いた。
そんな中、北垣晋太郎と戸原卯橘は室津から軽船を雇い、暴風雨の中を先行した。
まだ風雨が続くなか、岩国城下を通り新湊に着く。また、軽船で先行していた北垣と戸原は大島(山口県大島郡周防大島)に仮泊し、5日の朝に新湊に到着し一行と合流。また、新湊では長州の西村清太郎と因州の大村辰之助が加わり、29名となったが、ここより北垣が単身で先を急いだ。
10月7日 北垣晋太郎、大和破陣を知る
先行していた北垣は、飾磨(兵庫県姫路市)に上陸し、夜半に新町(神崎郡福崎町)で京より戻って来た進藤俊太郎と落ち合った。進藤から大和破陣の報告と、長州の野村和作、因州の松田正人からの義挙の取止めの勧告を聞かされた。
その後、北垣と進藤は二里ほど離れた屋形の旅籠三木屋で本多素行を訪ね、善後策を講じ、北垣は沢卿一行に事の詳細を伝えるべく、飾磨に折り返した。
10月8日 平野國臣、姫路で天誅組破陣を知る
国臣ら沢卿一行の船は網干は航海中に嵐にあったりしたが十月九日飾磨に入港、ここで平野は藤四郎を伴って情報収集のために上陸した。市中を徘徊すると、天誅組大和破陣の噂を聞かされた。詳しい情報を知るために平野と藤は姫路藩の志士河合惣兵衛の徒、穂積某が室津(たつの市御津町室津)にいることを知り、穂積を訪ねてみたが、やはり市中の噂は本当であった。
10月9日 平野、北垣挙兵中止を説く
午後2時ごろ、網干港を出港し、午後6時ごろに沢卿一行は飾磨に上陸した。沢卿一行と合流した平野は旅籠に入り、食事が終わると一同に大和破陣の報告を一通りしたあと、大和破陣となった以上はこの度の義挙は取止めにしょうと意見を述べた。またその頃、先行していた北垣も一行のもとに駆けつけ、早速京にいる野村和作、松田正人らが説いた義挙取止めの勧告を伝えた。意見としては一旦、沢卿には因州で身を隠していただき、他の同志の方には大坂の長州藩屋敷に身を寄せておいていただこうといった内容であった。
大方の者はこれらの意見に賛成であったが、長州藩河上弥市や彼に従う奇兵隊の面々、それに秋月藩士戸原卯橘ら少壮派は猛反対した。彼らは京大坂の同志がどう言おうとまず我々は倒幕の先鋒であって、三田尻を出たときから死ぬ覚悟できている。どのような状況であろうと、初志を貫くべきであると怒気をこめた。意見が対立したまま時が流れていったが、やがて沢卿は口を開き、各有志に進展を委ねようということになったので、この夜は河上、戸原ら少壮派の意見が通り、北上することに決議した。
その夜旅館にて国臣は大和義挙破陣の状況を説明したあと、自分の考えをこう述べている。
大和義挙敗退となった今、我々の計画している但馬の義挙も成功の見込みがない。ここは忍びがたきを忍んで、一時解散し、時節の到来を待つのが上策と思う。
そして国臣は、解散後の一時落ち着く先も考慮したようであった。
または、生野義挙の目的は倒幕戦のさきがけとなる事で、したがって大和義挙が不成功であっったからといって、一時解散は筋が通らない。
さて、国臣の考えはどちら真実だったであろうか。
10月10日 沢卿一行北上、仁豊野で本多素行中止を説く
沢卿一行は市川を船で北上し、姫路城下を過ぎて、仁豊野(姫路市仁豊野)の茶屋奥田屋で休息した。ここで本多も一行と合流し、沢卿への挨拶を終えると直ちに義挙中止説を唱えた。これに怒った河上、戸原ら少壮派は今更命乞いをするな、卑怯者、斬ってしまえと本田に詰め寄った。お互い刀を引き合わせかけたところ、沢卿が制止されたのでなんとかこの場はおさまった。
休息が終わると、少壮派は沢卿を擁して先に先行し、その日は屋形(神崎郡市川町)と辻川(神崎郡福崎町)に分宿することとなった。
北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)は、養父郡能座村(養父市)の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれた。父・三郎左衛門は、鳥取藩郷士で儒学を修めまわりの農民から信頼されていた人だった。
天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、宿南村の池田草庵の青溪書院で原六郎(朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門の子。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎)らとともに論語など漢学を学びました。勉強も大変良くできたという。
長く続いた徳川の幕藩体制が揺らぎ、近代国家に生まれ変わろうとする幕末。北垣国道は尊皇攘夷派の活動にのめり込んでいった。師である池田草庵の反対を押し切って、慶応元年(1865)原六郎たちといっしょに生野義挙に参加するが、生野挙兵は失敗に終わる。
その頃、京では伏見において、薩摩藩内による藩士同士による騒乱があった。文久2年4月に起こった寺田屋騒動である。この事件により藩邸の中に監禁されていた美玉三平という人物がいた。彼は、今自刃するのは犬死にと薩摩藩を脱藩。その後、江戸に三ヶ月ほど潜伏し、年が変わって文久3年2月に京に戻っている。
一方、2月23日北垣晋太郎は、浪士隊と共に入洛していた千葉道場出身の山岡鉄太郎(鉄舟)、清河八郎(出羽国庄内藩)と親戚である西村敬蔵(但馬八鹿の郷士・池田草庵に学んだ蘭法医)邸で会見し、農兵組立ての建白を老中板倉勝静に提出を依頼していた。
文久3年3月、京では依然薩摩藩の探索は厳重であったために七卿と同じく京を落ちた美玉三平はこの日に但馬に入り、近江膳所藩(滋賀県)藩士で京都明暗寺に入り虚無僧となり、但馬養父村の明暗寺出張所を拠点として尊王攘夷運動を進めた本多素行と会い、養父市場で止宿した。
8月21日に養父市場で止宿した美玉は、翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島(城崎)の温泉宿田井屋鯰江(なまずえ)伝左衛門方に投宿した。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。
この鯰江伝左衛門は北垣晋太郎と同じ青渓書院(養父市八鹿町宿南)の池田草庵の徒であり、鯰江の紹介により、美玉三平は但馬の有志と会い、その後農兵組立に関与していくことになった。
国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く牢屋へ入れられてしまった。
平野釈放について黒田公に勅命があったのは、文久三年10月のことであった。それが藩主不在の理由で延び延びになっていた。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。文久三(1863)年3月にほぼ一年ぶりに釈放された。平野の感激はいうまでもない。
情勢が再び勤王派に有利となった。文久三(1863)年の頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。
文久二年以前の朝廷機構は、伝奏(朝廷・幕府間の諸事項に付き天皇への御伺とその処理)・議奏(典礼と任免に付き天皇の御裁下を仰ぐこと)が重要な仕事であった。
文久二(1863)年12月、朝廷機構を改革し、国事係を設けられ、少壮有為な公卿等二十余名が任命された。このころ姉小路公知卿は国事参政、沢主水正は国事寄人、京へ上っていた国臣は、孝明天皇の大和行幸決定(文久三年八月十三日)と共に八月十六日、学習院出任を命ぜられた。
国事参政の実質的働きは、攘夷断行臨時職務であった。、この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。
そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
幕府側に農兵組立ての建議した北垣らに対して、今度は美玉三平が朝廷側に農兵組立ての勅許を拝するために北垣晋太郎を伴って7月下旬に上洛し、平野國臣や真木和泉に拝受方の斡旋を依頼した。それから、美玉は朝廷から農兵組立ての指令を拝受したあとに但馬に戻ることを約束し、北垣は8月13日に但馬に戻った。
農兵組立の指令は、はからずともほとんど同日に、朝廷と幕府より発令があった。
翌14日、生野及び久美浜代官所に幕府から農兵組立ての指令が下された。また、16日は朝廷から農兵組立ての指令も下りこの日から平野國臣は学習院出仕を仰せ使わされている。
文久三(1863)年8月14日、攘夷祈願のため孝明天皇から大和行幸の勅許が下され、その先鋒として浪士たちが集結し、まず手始めに幕府の直轄地である大和五條をめざして京を出発し、伏見から淀川を下り堺へと向かった。また、この日に生野、久美浜両代官所に農兵組立ての公文が幕府より下された。
8月16日、三条中納言実美より、美玉三平に対し御用御召の報あり、農兵組立の御書が渡された。その文面は要約すると次の通りである。また、平野国臣が公式に学習院出仕を命せられたのもこの日からであった。こうして、美玉による表向きの外警防備の手筈は整ったのである。
但馬の国は要地に当たり、まことに京都よりわずかに三、四十里の地、きっと兵備するのに適している。農民等忠孝に厚きようであるから、農兵の組立、切迫した時勢により、速やかに出来るように。もちろん、その功績により必ず沙汰あり。帯刀は許す。以上、心得て置くべし。
八月十四日 勘定奉行より、生野、久美浜代官へ
八月 参政 美玉三平へ
文久三(1863)年、三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策する。十七日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五條天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。十九日、国臣は五條に到着するが、その前日の八月十八日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩の公武合体派が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派七公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
朝廷及び幕府から農兵組立の命が出されたが、大和義挙は壊滅し、八月十八日の政変で、生野義挙の拠り所であった国事参政は解体されてしまい、三条ら攘夷派七卿をはじめ、尊攘派は一婦されてしまった。
平野は『尊攘英断録』をもとに『回天管見策(回天三策)』を著し朝廷に献上したところ、孝明天皇のお目にとまり、平野に対して、おぼえめでたくなった。
文久二(1862)年春、福岡藩主黒田公が明石に到着、本陣に宿泊されることがわかった。平野は久光公使者といつわり、黒田公に書状を提出する。それには、黒田公に勤王派へのご協力をお願いし、もしかなわぬ時は、道中に危険が生じた場合、お守りできぬやも知れず、とあった。黒田公はこの要求を断わり、急病ということにして福岡へ引き返すことになる。この時、意外にも平野は黒田公帰藩のお供を命ぜられる。
行列が下関に着くと、筑前の最新鋭「日華丸」が待っていた。平野は家老から黒田公乗船ゆえと下検分を依頼される。そして日華丸に移ったところで、まんまと盗賊改め方に逮捕されたのだった。そして福岡の獄につながれた。四月二十九日の事であった。
十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。
十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。もとより筆墨はなく、獄中で使用される粗悪な紙によって文字の形を作り、飯つぶの糊でいちいち別の紙に貼り付けたもので、国臣の国を思う執念が伝わる労作だ。
(前略)方今海外の諸蛮連合して、神州をうかがうは、之を囲み攻めんとする敵にして、蒼海は池の如く、海内は本城にして、清国は支城の如し。既に清国の仇をなすこと数十年、しばしば敗をとり、国境を蚕食せられ、或いは夷を雇いて夷を防がしむに至って、英仏の為に天津をとられ、北京に迫られ、終わりに王城を捨て満州に避くるに至りしは、英断のなき故なり。
今それ支城に等しき清国、この如く危急成るのみにならず、本城たる所の海内にも、敵兵すでにかん伏せるもの十年に及べり。(中略)海内よく一和し、器機全備し、兵練航熟し親兵をもって神国を守り、将軍精兵を統率して勝を期するものは、これ英断なり。(以下略)
(前略)皇国は元来義を貴び利を賤しむ。故に海外に出て商事を務めず、かつ異域を奪うことなし。故に巨艦への蓄えなし。今より必戦を予想し、紀州、日州(日向)あるいは北辺の如き、巨木多材の地を選び、天下の精工、良匠を召し集め、財貨だに費やしたらば、必ず整うべし。すでに水戸、薩摩、長州等にて、自製の巨艦は洋製に劣らずといへり。
西洋諸国は火器をもって勢利を助く。彼、長兵を用いなば、我また長兵をもって之を挫折せしむべし。これまた炭水銅鉄便せんの地に、水軍・大火床・たたら等を据え、鋳工・鍛工を招き砲銃を製せば、数年を経ずして備はらん。(以下略)
(前略)凡俗どもはとかく、人心の動かん事を恐れ、上部ばかりを押しつくろい巧言にこびいり、無事平穏をはかる。一時の間に合わせをしたり、安易な事のみを行う等、心身を労せずに必勝を求めんとする。
たとえ天地神に祈るとも、未だ人事を尽さざるに、天神いずくんぞ眞祐を下さんや。天朝を尊奉し、幕府を初め国主領主は王事を初め、幕臣はその主命に従いて、武を講じ兵を練り、庶民もまた家業を励みて、軍事を助け兵糧を償いなば、必勝の策は聖明の神武より輝き出でんことを疑うべからず。
文久三年上巳 平野次郎国臣
平野次郎の生い立ち
平野次郎(1828~64)は、 文政11(1828)年、福岡地行下町(福岡市中央区)で福岡藩足軽・平野吉郎右衛門能栄の二男に生まれる。誕生地は現在今川一丁目となっており、二〇二号線に面し、平野神社が建つている。
父吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分取り立てられている。二歳の時に、父平野吉郎右衛門を亡くした。十一歳で黒田家足軽平野吉郎右衛門の跡を相続した。名は種言、種徳、のち国臣、号は月迺舎・友月庵等。通称は源蔵・次郎。一般には「平野次郎国臣」と呼ばれることが多い。
十代の頃から国学と和歌に通じていた。11歳の時大塩平八郎の乱が起き、13歳にはアヘン戦争(~1842年) が起きている。次郎は14歳で足軽鉄砲頭小金丸彦六の養子になった。小金丸氏は、大蔵春実の三男の大蔵種季の子の小金丸種量の子孫で、本姓は大蔵氏であり、平野国臣の正式名は大蔵種徳(おおくらのたねのり)。
20代のころ、江戸勤務のさなか、黒船が来襲。幕府のその場しのぎの対応に不信感を抱いた。次いで長崎勤務。駐留外国人の非礼さに憤りは頂点に達した。外国の真の目的は日本の富を持ち出すことにある。今の幕府にはそれに対抗する力はない。幕府を倒し、天皇を中心に日本を統一する。強い危機感を抱いた国臣は独自の倒幕論を形成していった。
しかし、福岡藩は佐幕派。国臣は「国の臣下」を意味する名に変え、31歳で脱藩。京都に出て西郷隆盛らと知り合い、活動を始める。最初に表舞台に登場するのは西郷の自殺未遂にかかわる経緯だ。
発端は幕府大老井伊直弼が尊皇攘夷派を弾圧した安政の大獄だ。西郷は、薩摩藩と反井伊派の公家勢力との橋渡し役を務め、追われる身となった僧月照と京都を脱出。自身は先に薩摩に向かう。月照を警護する命がけの任務を国臣は快諾。山伏姿に変装し知略で追っ手を逃れた。
ところが、保守色に転じた藩は月照の薩摩入りを拒否。暗に殺害を命じる。途方に暮れた西郷は月照と入水自殺を図った。月照は死亡。西郷は国臣らの懸命の介抱で息を吹き返す。逃げ延びる国臣の後ろ姿にこうべを垂れ、見送ったのが大久保利通だ。一連の経緯は司馬遼太郎や海音寺潮五郎の作品にも登場する。
追われながら支援者の商家で番頭になりすまし、身を隠した国臣は薩摩に倒幕の決意を促すため再度入国を試みる。だが、薩摩はようやく公武合体に踏み出したばかりで倒幕とはギャップがあった。鹿児島の近くで待つと大久保から「入国不可能」の伝言が届く。このとき、薩摩藩を桜島になぞらえ、無念の思いを刻んだのが冒頭の「我が胸の」の歌だ。
国臣はそれでもあきらめない。身を潜めながら、今度は薩摩藩の最高権力者である藩主島津忠義の父、久光宛に建白書をまとめ上げると、飛脚を装い、薩摩入りに成功。大久保に会い、懸命に説得した。しかし、一脱藩浪士の働きかけだけでは簡単に動くはずもない。薩摩が公武合体から倒幕に転じ、維新を達成するのは、それから7年後のことになる。
その後、国臣は福岡藩に捕らわれ、投獄される。驚くのはその間の執念だ。政治犯には筆墨は与えられない。そこで、落とし紙でつくった「こより」を飯粒で紙に貼りつける「こより文字」を編み出し、牢内で総文字数3万字に上る和歌や論考を書き綴った。食事につくゴマ塩の黒ゴマで「天地」の文字を描き、壁に掲げて悦に入ったりもした。自らの境遇を決してあきらめない。ある種の痛快ささえ感じる。
1年後、朝廷の命により釈放される。直後に公武合体派の薩摩・会津両藩が尊攘派の長州を京都から追放する8・18の政変が勃発。国臣は但馬の生野で挙兵を企てる(生野の変)。勝算はなかったが、藩同士で争う状況を打開し、国内統一を訴える覚悟の挙兵だった。最後は捕らわれ、未決のまま処刑された。早くから独自の倒幕論を唱え、何ら後ろ盾を持たず、独力で駆けめぐった活動はわずか7年で幕を閉じるのだ。享年37。
幕末維新の英傑といえば、普通は坂本龍馬や西郷隆盛らが浮かぶ。ファンの多い人たちだ。が、それと並んで平野国臣の名を挙げるのは、たとえ有名ではなくとも、最初に行動を起こした人々を大切にしたいという思いが強くあるからだ。
福岡藩士
弘化2年(1845年)、18歳の時、普請方手付に任命され、太宰府天満宮の楼門の修理を手がけ、弘化2年に江戸勤番を命じられ江戸に出た。
福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚し、一男(六平太)をもうける。福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。
それでは、次は平野国臣について、いよいよくわしく追跡してみる。
6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。
嘉永6年(1853年)、再び江戸勤番になり、江戸で剣術と学問に励んだ。ちなみに同じ年に17歳の坂本龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許され、北辰一刀流の千葉定吉道場(現:東京都千代田区)の門人となる。
この頃に国臣の尚古主義は本格的になっており、安政元年(1854年)に帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。
平野と接点はないが龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月23日、龍馬も15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。
24歳の時、普請方手付として宗像神社の中津宮の修理役として宗像郡大島に出張、そこで薩摩藩を脱藩してきた勤王家・北条右門(木村仲之丞が本名)と出会う。北条は島津斉彬に早く島津家を嗣がせようと運動したことが災いとなり、仲間の多くは捕らえられ処刑されたが、運良く逃れ福岡黒田家にかくまわれた。当時の黒田家の当主は斉溥(なりひろ)・長溥(ながひろ)で薩摩藩からの養子、斉彬の大叔父にあたる人であった。
安政2年(1855年)に長崎勤務となり、ここで有職故実家坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなり、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになった(現代ならば侍の姿で街を歩くようなもの)。これには養家も迷惑し、国臣を咎めるようになった。
国臣は純粋で、かつ行動家だった。彼は国事に奔走する覚悟を決めた。そして養家に迷惑はかけたくないと考え、離縁を決意する。妻の菊と三人の子どもを捨てて養家を飛び出した。安政三(1856)年、29歳の時である。初め養父と妻は、国臣の離縁の申し出に驚愕した。夫婦仲はうまくいっていて、分かれる理由が分からない。二人はかたくなに拒んだ。
国臣は尋常な手段では別れられないことを悟る。そこで、太宰府天満宮への参拝を理由に家を出た。養父も妻も、国臣が数冊の書籍を包んだ風呂敷を手にしているのを見て少しも疑わなかった。
この時に藩務を辞職して脱藩した。結局、平野家へ戻った。無役の厄介となっている。この頃に梅田雲浜と出会い、国事についての知識を得た。
国臣の尚古主義は止まず、安政4年(1857年)には藩主に犬追物の復活を直訴し、無礼として幽閉されている。この時に、月代を伸ばしたままにして総髪にした。月代は古制ではないというのが平野の考えであり、後には浪士を中心に総髪が流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代を置かないのは異様である。国臣は優れた学才とこのような過激な言動から、人望を集めるようになった。
安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。
ところが7月16日、斉彬は急逝し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。31歳で脱藩し、国臣の志士活動のはじまりである。
その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。通名・国臣についてはわからないが、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物で、闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあったから、尊皇愛国の僕(しもべ)たらんと自ら名のったのだろう。生野で親しくなった但馬草莽の志士・北垣晋太郎ものちに国道と名乗っている。
西郷は安政5年(1858年)7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。
8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。
しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、結局、西郷たちの工作は失敗し、近衛家から幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照の保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。
9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、筑前で平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。
藩情が一変して難航。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。
藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。藩当局は幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。、国臣は追放され筑前へ帰った。
平野一行が薩摩領に入ったのは、万延元(1860)年十月だった。
村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、平野は大久保(利通)を信用し、期待して待っていたが、大久保は平野忌避の急先鋒であり、三つ先輩の親友西郷を氏に追いつめるほどの男であることを見抜いてはいなかった。平野一人で久留米城下の旅宿に泊まった時、盗賊改め方の池野に先手をとられる。ここで捉えられては万事休すと、池野の一瞬のすきに灰神楽を浴びせ、脱兎の如く飛び出し、友人宅に走り込む。その後離島に潜入する。ここで執筆したのが、島津久光公への上洛の希望を託した建白書『尊攘英断録』であった。
この一文は平野のかねてからの持論で、尊皇攘夷につき、藩主として断行すべき事を述べたものであった。その要点としては、
・航海術の習得
・罪人による離島開発
・海軍の増強
・清国と同盟を結ぶ(他は省略)
この書の中で国臣は、日本の武士は天皇のために忠誠を尽くすべきだとして、そのための行動決起を促している。
久光の返答を待つ間、国臣が宿で詠んだのが、国臣の歌で最も有名な次の歌である。
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」
日本と天皇を想う国臣の熱い思いが、この歌からひしひしと伝わってくる。
だが国臣苦心の『尊攘英断録』も、結局老中小松帯刀の手に留め置かれ、久光の目には触れなかった。結局、国臣は退去させられることになった。久光の素志は「公武周旋(公武合体)」にあり、幕府を倒そうなどという過激な了見はさらさらない。久光が上京を決意したのは、薩摩藩の代表として、堂々と京に上り、朝廷と幕府の間を取り持ち、国政のイニシアチブを握りたいというのが第一の理由なのであったからだ。しかし、大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。
平野家親族の田中氏が生野資料館に寄贈された。田中氏は昭和12年頃、三菱合資会社生野鉱山営林技術者として勤務されていた。
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参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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「平野国臣」像 福岡市中央区西公園内
「生野義挙」は生野の変ともいう。
平野次郎国臣は、幕末三大義挙のひとつ、「生野義挙」の中枢人物である。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。幕末の但馬に関わる出来事として桂小五郎の但馬潜伏は有名だが、但馬・生野で起こったこの義挙を最初に起こした人としてもっと知られていいと思う。
彼は、幕末の動乱期に活躍した志士として、「幕末の三大豪傑」として知られる木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通が有名だが、またあまりにも有名な坂本龍馬らの影に隠れた人物の一人である。有名ではなくとも、明治維新の礎となった行動を最初に起こした人々の一人で、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物である。
平野国臣 ひらの・くにおみ●1828~64年。福岡藩士として江戸、長崎に赴任する。31歳で脱藩し、志士として活動、僧月照と入水した西郷を助け出した。薩摩藩主への建白書『回天管見策』を著すが、下関で捕縛され、出獄ののち生野にて挙兵。京都に護送され、37歳で斬首された。
闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあった。
《大内(おおうち)の山の御(み)かま木樵(ぎこ)りてだに仕(つか)へまほしき大君の辺(へ)に》
《大内のさまを思へばこれやこの身のいましめのうきはものかは》
《君が代の安けかりせばかねてより身は花守となりけむものを》
《わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山》
《年老いし親のなげきはいかならん身は世のためと思ひかへても》
《わが心岩木(いわき)と人や思ふらむ世のため捨てしあたら妻子(つまこ)を》
《国のため世のためなればいかにせんゆるしたまひね年月のつみ》
《青雲のむかふすきはみ皇(すめらぎ)のみいつかがやく御代(みよ)になしてん》
《大王(おおきみ)にささげあまししわがいのちいまこそ捨つる時は来にけれ》
平野はじめ志士たちの絶唱は、西行や定家らの名歌とは趣が異なるが、彼らの歌以上に私たち日本人の心魂を強く打ってやまない。それは天皇を敬い、国を愛する心こそ日本人の奥底にある最も深い心であるからである。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦 産経新聞2010.2.10 07:44 一部加筆した)
神戸製鋼所社長・工学博士 佐藤廣士氏は、「幕末維新の人物学―一歩前に出る勇気、決断(4)」『「自らの境遇を決してあきらめない」』(プレジデント2010年1月 19日)『平野国臣:「最初に種をまいた人々の思いと行動」』(プレジデント2010年 1月 18日(2009年6.15号)で、
我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山
幕末維新に関心がある方ならどこかでこの歌に出合っているはずだ。胸にたぎる思いを噴煙たなびく桜島の姿と重ねた堂々たる作風が胸に響く。私がこの歌の作者である一人の勤王志士と出会ったのは、九州大学に通う学生時代だった。
博多湾に突き出た丘陵地にある西公園に今も銅像が立つ福岡藩士、平野国臣。一般にはあまり知られていない。隣の大分出身の私もそうだったが、「我が胸の」の歌の作者と知り、足跡をたどるにつれ、その情熱と行動力に引かれてしまった。我が心 岩木と人や思ふらむ 世のため捨てしあたら妻子を
国臣が志士として活動するため、離別した妻子を思って詠んだ歌だ。岩や木のように心のない人間と思われても妻子を捨てる。決断をさせたのは外国の脅威だった。その生涯をなぞってみたい。
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【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
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