ペリー来航
約200年にわたり平和と安定を楽しんでいた鎖国下の日本の門を叩いたのは、アメリカでした。1853(嘉永6)年6月、4隻の巨大な軍艦(黒船)が、江戸湾の入口に近い浦賀(神奈川県)の沖合に姿を現しました。軍艦には計100門近くの大砲が積まれていました。率いるのはアメリカ海軍提督ペリーで、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えていました。4隻の巨大な黒船はいきなり太平洋航路から来航したのではありませんでした。
1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー(Matthew Calbraith Perry)司令長官兼遣日大使を乗せた巡洋艦「ミシシッピー」を旗艦とする東インド艦隊は、一路アジアへと向かいました。ペリーはタカ派のフィルモア大統領(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていました。艦隊は大西洋を渡って、インド洋、マラッカ海峡からシンガポール、マカオ、香港を経て、上海に5月4日に到着しました。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに変わっていて、彼の下でドッピン長官は侵略目的の武力行使を禁止しましたが、航海途上のペリーには届いていなかったのです。
上海で巡洋艦「サスケハナ」に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊しました。最初はペリーの謁見を拒否しましたが、王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城しました。しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していました。王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用されました。
ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言しましたが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになりました。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになります。
ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航しました。1853年6月3日(7月8日)に江戸湾浦賀に来航しました。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていました。その様子から、日本人は「黒船」と呼びました。
浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」(両船は蒸気外輪)、「サラトガ」、「プリマス」両船は帆船)の巡洋艦四隻は、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となりましたが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようです。このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれています。
嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。
1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。
ペリー来航
ペリーが去ったあと、老中阿部正弘は、半年後にやってくるペリーへの解答に頭を悩ませていました。最も単純なやり方は、要求を拒否し、外国船を武力で打ち払う攘夷を行うことでした。しかし、軍事力の乏しい幕府では実際に攘夷を行うことは不可能でした。
阿部正弘は幕府だけで方針を決めるよりも、すべての大名の意見を聞いて国論を統一しようと考えました。外交について外様大名はまったく発言の機会を許されていなかったので、これは画期的なことでした。しかし、大名の意見の中にも名案はありませんでしたが、これによって、国の重要な政策は、幕府の考えだけでなく多くの意見を聞いて合議で決めるべきものだとの考え方が広がり、幕府の権威はかえって低下していきました。
日米和親条約
嘉永7(1854)年1月、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。
1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。
約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、この条約の締結によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれました。この条約は、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つです。
なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられます。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙いましたが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まったのです。
安政五カ国条約
日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していましたが、日本側は消極的態度に終始しハリスの強硬な主張で、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲得して世論を納得させた上で通商条約を締結することを企図しますが、勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田正睦は辞職に追い込まれました。しかし、ハリスはアロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐには、あらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得しました。新たに大老に就任した井伊直弼はこれを脅威に感じ、孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切りました。
安政5年6月19日(1858年)、日本とアメリカの間で日米通商条約が結ばれました。この諸条約は、勅許の無いままに大老の井伊直弼によって調印されたために仮条約となされて、安政の大獄・桜田門外の変(井伊大老暗殺) といった国内政争を引き起こしました。1865年になってようやく勅許されました。
条約の内容
・神奈川(1859年7月4日)・長崎(1859年7月4日)・箱館(函館)(元から)・新潟(1860年1月1日)・兵庫(1863年1月1日)の開港。(下田の閉鎖(1860年1月4日))
・領事裁判権をアメリカに認める。
江戸(1862年1月1日)・大阪(1863年1月1日)の開市
・自由貿易。
・関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率。関税自主権がない状態)。
・内外貨幣の同種同量による通用。
・アメリカへの片務的最恵国待遇
江戸幕府は列強の外交圧力によって順次、日米修好通商条約調印後に同様の条約をイギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と結びました(安政五カ国条約)。
ただし、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜、兵庫ではなく神戸でした。このことは条約を結んだ各国から批判もされましたが、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化しました。幕府は、神奈川は江戸時代から東海道の宿場町として栄えてきた都市であり、ここを開港場として外国人の活動の場とすることを避けて隣接する横浜村を指定しました。当時の横浜村は小さな漁村であり、ここに外国人の居留地を建設しても問題はないと考えたのです。兵庫ではなく神戸村を指定したのもしかりです。
条約港の設定
安政条約で重要なポイントは、
1.自由貿易が開始されたこと
2.締結された条約がいわゆる不平等条約(領事裁判権の容認、協定関税、片務的最恵国待遇)であったこと
の二点です。
列強という言葉は英語でグレート・パワーズといい、強力な海軍力と豊富な商船隊により、世界のどこにでも自国の力だけで進出する力を持つ国、というかなり具体的な実態を持つ言葉でした。海を制する国家が列強だったのです。当時、列強の名に値する国は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアなどです。すなわち安政の五ヶ国条約の締結国です。
イギリスの初代駐日総領事(のち特命全権公使)オールコックは、
「我々の常に増大する欲求や生産能力に応じるために、我々は絶えず次々に新しい市場をさがし求める。そして、この市場は主として極東にあるように思われる。我々の第一歩は、条約によってかれらの提供する市場に近づくことである。(中略)我々は唯一の効果的な手段を携える。それは圧力である。そして、必要な貿易の便宣や一切の権利を与えるという趣旨の文書を得る。残るはわずかにあと一歩である。それは条約を実施し、実行ある条約にしなければならないということだ。」-『大君の都』オールコック
自由貿易と不平等条約
第一に、不平等条約は、異なる文明が共存するためのシステムであった、ということです。
条約とは、そこに国家間の取り決めを結び条約を履行するだけの力を持った主権を有する国家が存在するということが前提になっています。欧米とは異なるものの法制度が存在しているので、欧米人といえどもそれを守らなければならないのです。一般に誤解されている領事裁判権というのは、アジアの法律に欧米人が従わなくても良い、という制度ではありません。
しかし、アジアの国家はヨーロッパ的な意味での近代国家ではなかったため、ヨーロッパでは保障される人権や、財産権などが守れない危険性があります。そこで、自国民の人権や財産権が侵害される恐れがある場合(被害になる場合)には、ヨーロッパの法律で裁判し、法律の体系が異なることから生ずる不利益を回避しようとする制度が、領事裁判制度です。領事裁判権は、異なる法制度の間に生ずる軋轢を改称するための緩衝処置として考え出されたものでした。
第二は、条約が東アジアの植民地化への防波堤になっていた、という点です。
たとえヨーロッパ的な意味での近代国家でなくとも、近代国際法の上では、主権国家として認められた場合、その国を勝手に併合したり植民地とすることは簡単にはできません。植民地化することができるのは、そこに主権を有する国家が存在せず(無主の地)、最初にそこを併合すると主張し(先占の権)、その国がその土地を実質的に支配していると各国が認めた場合である、というルールがありました。条約を締結したということは、そこに主権国家が存在することを列強が認めたということになるので、簡単には植民地化することはできない、ということになります。 十九世紀末において、アジア・アフリカ地域において独立を保ったのは、東南アジアのタイ、アフリカのエチオピア、リベリアなどですが、東アジアは、日本、中国、韓国が独立を保持し、広大な植民地化を阻んでいました。その理由は、自由貿易と不平等条約のシステムにあったということができるでしょう。
しかし、事実の上で植民地化の危機がなかったということと、アジア側が危機を認識していた、という問題は別のことです。アジア側から見ると、条約締結の過程において示された欧米の軍事力に象徴される「西洋の衝撃」は、植民地化の危機の意識として定着し、のちにヨーロッパに対抗していくナショナリズムの原動力になっていきます。
万国公法
19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、国際法学者であるヘンリー・ホイートンの代表的な著作である国際法解説書の翻訳名。東アジア各国に本格的に国際法を紹介した最初の書物で多大な影響を与えました。
前近代の東アジア世界の国際秩序、すなわち総体として華夷秩序に取って代わって、欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する「条約体制」と呼ぶ国際秩序を東アジアにもたらした。しかし欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともあります。
近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としていますが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていました。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としていますが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つに分類されます。
まず欧米を「文明国」、オスマントルコや中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられます。具体的には不平等条約を砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定されます。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになります。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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