たじまる 弥生6 奴国誕生

奴国誕生

2.九州北部「奴国誕生」

1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。 スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。

南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。

当時の天皇は、記紀に

中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。

「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

3.出雲神政国家連合

つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。

荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。

邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。

例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。

ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。

現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。

神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。

神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。

4.四隅突出型方墳


2号墳墓

大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。 山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。

墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。

このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。

造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。


西谷2号墳墓

姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。

また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。

出雲西部の荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。

さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。

朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。 楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。

5.統一奴国

初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。

スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。

そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。

この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。

スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。

『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。

また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。

6.スサノオは「砂鉄」を採る男だった

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。 このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。


[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。

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近代-6 舞鶴

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

舞鶴(まいづる)

日本海に面し、東西に分かれた舞鶴湾(若狭湾)のリアス式海岸を臨む都市舞鶴は、天然の良港です。北近畿を代表する国際港湾都市であり、行政・経済面において中心的な立場を担っています。市内東部にある軍港のほか、造船や硝子といった重厚長大産業都市として発展し、舞鶴都市圏を形成しています。

古代~近世まで

舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、舞鶴は丹波(丹国)の領土に入っていた。ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹国は丹波国と丹後国に分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられました。

平安時代にまとめられた「和名抄」「延喜式」とも、国府は加佐郡、現在の舞鶴市内と思われます。ただし、易林本の節用集では、与謝郡とあり、現在の宮津市府中と推定されます。最初は加佐郡に置かれ、のちに与謝郡に遷されたのではないかとも思われます。与謝郡には丹後一の宮である籠神社、国分寺跡などがあって、山陰道の支道が通り駅家が置かれており、古代の政治、文化の中心がここにあったことは確実で、府中という地名から想像しても、丹後国府がこの地に営まれたことは間違いないようです。

南北朝時代には、醍醐寺の荘園が置かれました。室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり、田辺(舞鶴)を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれました。以後、丹後国は一色家の領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において西軍に属した一色氏は没落し、細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱します。

戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落しました。信長の命により丹後国は細川藤孝の領地となり、舞鶴が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治しました。
1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与しました。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。西軍の派遣部隊と対戦したが、後陽成天皇の勅命により、城を敵明け渡した(詳細については細川藤孝の項目を参照)。戦後細川家は、九州の豊前小倉藩に転封されました。

舞鶴藩

京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。

京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。[くわしくはこちら]
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明治から第二次世界大戦まで

明治維新翌年の1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称しました。1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となったが、同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入されました。1873年(明治6年)には舞鶴藩の家老であった河村真六によって、舞鶴藩の藩校であり多くの学者を輩出した明倫館が明倫小学校として開校し、1889年(明治22年)に市町村制が導入されると加佐郡舞鶴町(西舞鶴)が誕生しました。その後1901年(明治34年)10月には、舞鶴湾が日本海有数の軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。それに合わせ東舞鶴の浜村などでは大規模宅地開発が計画され、京都市に模して碁盤目状の市街地が形成され(南北に一条から九条、東西に軍艦の名前が使われる)、多くの海軍官署が設置されました。(現在でも舞鶴市内いたる所に海軍の遺跡が存在します。)

軍都として順調に発展を遂げた舞鶴でしたが、1923年(大正12年)2月のワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、舞鶴鎮守府は海軍要港部に格下げされ、同時に海軍工廠も工作部に縮小され、一時期人口が減少、市況は沈滞しました。同年9月には関東大震災で被災した横須賀市にあった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が移設されることになり、1936年(昭和11年)7月には、再び舞鶴要港部が鎮守府に格上げされると、活況を呈し、人口はピークに達しました。

1943年(昭和18年)になるといよいよ戦局が激化すると、舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり、東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになりました。また舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られ、両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く要請します。旧舞鶴市側は難色を示しますが、市役所の位置など諸条件を提示、東舞鶴市も了承したことから、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて京都府知事に一任し、舞鶴市海軍記念日にあたる同年5月27日に東西舞鶴両市は合併しました。市役所は東舞鶴市中舞鶴支所に置かれることとなり、人口は15万人を超え、日本海側有数の大都市として重要な地位を占めるに至りました。

戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が勃興し、人口も増加しましたが、1945年(昭和20年)7月29日、突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲しました。また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、多数の死傷者を出しました。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。終戦後はアメリカ進駐軍舞鶴分遣隊が駐屯、舞鶴港が政府の在外邦人引き揚げ港に指定され、大陸からの引き揚げの拠点となりました。1945年(昭和20年)から13年に渡って66万人余りの引揚者が舞鶴に降り立ち、懐かしの母国の土を踏みしめました。その頃の岸壁の母は有名です。現在は、当時の引揚桟橋があった平に、舞鶴引揚記念館が建てられています。

戦中からの東西分離運動

舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増しました。そこで1943年(昭和18年)に海軍は東西両舞鶴市に合併を要請し、それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日に合併。新しい舞鶴市が誕生しました。当時の人口は154,953人。

しかし、前述のように、城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化しました。同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至りました。1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議されました。京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決しました。舞鶴は(かつて明治の廃藩置県までは田辺と呼ばれていました)東西を分ける五老岳が峙えているため、市街地も東西で分かれて発展しています。東舞鶴はかつて1901年に舞鶴鎮守府が設置され、軍港として計画して造られ軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区でもあります。一方、西舞鶴は古代から丹国の中心として発展したかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区です。このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、旧舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っているとされています。

西舞鶴の市街地のさらに西側に位置する由良川を境に、天橋立で有名な宮津市などと接し、東舞鶴の東は福井県に接しています。西南部は福知山市、南部は綾部市に接しています。
市内をJR舞鶴線・小浜線が横断し、市西部には北近畿タンゴ鉄道宮津線が走っています。また舞鶴若狭自動車道があります。現在、東舞鶴駅と西舞鶴駅では駅前再開発が行われています。
日本海側気候に属し、冬季は北西の季節風の影響で気温が低く、雨や雪が多くなりやすいですが(代表的な格言:「弁当忘れても傘忘れるな」=北近畿共通)、盆地に位置する地域と比べると夏と冬の気温の差が比較的小さく、過ごしやすい気候でもあります。舞鶴市の年間平均気温は14.3℃、年間降水量1786.3mmは、全国152気象台の平均値に近い数値です。

現 在

1957年(昭和32年)に舞鶴市と関係の深かった加佐郡加佐町を編入して現在の舞鶴市が形成され、国政調査において初めて人口が10万人を超え、京都府内では京都市に次ぐ規模の都市になり、北近畿の中核都市としての地位を確立しました(舞鶴都市圏)。しかし、近年の人口は減少傾向が止まらず、現在では京都府南部の宇治市・亀岡市に追い抜かれています。

現在でも日本海最大の海上自衛隊舞鶴地方総監部(1952年設置)や第八管区海上保安本部(1948年設置)と海上保安学校(保安大学校は広島県呉市)があり、国防拠点都市としての性格と、舞鶴港が1951年(昭和27年)に重要港湾に指定、また1995年(平成7年)には日本海側港湾では初めてFAZ(輸入促進地域)の指定を受けるなど、中国や韓国、ロシアなど定期コンテナ航路を有する国際貿易港を持つ交流・物流都市としての性格、また中丹広域振興局や近畿財務局などが立地する行政都市として発展を続けています。

平成20年4月、海上自衛隊所属である南極観測船「しらせ」がユニバーサル造船にて新造され、進水式が執り行われました。

舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)

対ロシアの戦略上、日本海軍は日本海側へ海軍の軍事拠点を設置する事が悲願となっており、1889年(明治22年)に、湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に白羽の矢をたて、舞鶴に鎮守府を設置する事が閣議決定されました。

しかしながら、呉、佐世保の整備が優先され、舞鶴の軍港建設費用には日清戦争によって清国から支払われた賠償金があてられる事になりました。舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事には莫大な費用を要しましたが、1899年(明治32年)末には、土地造成工事がほぼ出来上がりました。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、1901年(明治34年)10月1日に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。

  • 1904年(明治37年):日露戦争勃発。鉄道舞鶴線開通。
  • 1923年(大正12年):ワシントン海軍軍縮条約により要港部に格下げ。同時に海軍工廠も工作部に格下げ。
  • 1936年(昭和11年):舞鶴海軍工作部が海軍工廠に昇格。
  • 1939年(昭和14年):鎮守府に格上げ。
  • 1943年(昭和18年):倉谷に第二造兵部を設置。
  • 1945年(昭和20年):太平洋戦争終戦。大陸からの引き揚げの拠点となりました。

周辺の名所・文化施設・祭事

赤れんが博物館(旧兵器廠魚形水雷庫)(国重要文化財


舞鶴赤レンガ倉庫群(国重要文化財および近代化産業遺産)

  1. * 舞鶴赤レンガ倉庫群(12棟の煉瓦倉庫群)7棟は海上自衛隊舞鶴総監部、近畿財務局、舞鶴倉庫などの倉庫として使用している。このような手付かずのものは、全国的に見て大変貴重で、近代化遺産として、映画やテレビドラマのロケに使用される事が数多い。
  1. o 赤れんが博物館
  2. o 舞鶴市政記念館
  3. o まいづる智恵蔵
  • 海軍記念館
  • * 赤れんがフェスタ(10月)
  • * 舞鶴引揚記念館

海上自衛隊護衛艦隊

護衛艦隊(ごえいかんたい、JMSDF Fleet Escort Force)とは、日本の海上自衛隊自衛艦隊に属する護衛艦[*1]によって編成された艦隊。潜水艦部隊や掃海部隊、航空部隊と共に、日本の海上防衛を担っています。

護衛艦隊は日本の自衛艦隊の中核となる艦隊で、司令部は横須賀基地(船越地区)におかれています。海将が務める護衛艦隊司令官が、総数47隻の護衛艦と多数の補助艦艇よりなる護衛艦隊を指揮し、これらの練度管理にあたります。2008年(平成20年)3月に護衛艦部隊の大規模な改編が行われ、それまでの12個護衛隊を8個護衛隊(DDH中心4個とDDG中心4個)に再編され、また6つの地方隊直轄護衛隊はすべて解隊されて地方隊直轄であった護衛隊は護衛艦隊に新編、編入されました。2008年現在では、4個護衛隊群(Escort Flotilla)が編成され有事に備えており、海将補が群司令を務めます。各護衛隊群は4隻ずつ、2つの護衛隊(Escort Squadron)より構成され、搭載するヘリコプター8機が含まれる。護衛隊の1つはヘリコプター搭載護衛艦(DDH)が旗艦となりミサイル護衛艦(DDG)1隻を含むDDHグループと呼ばれ、別の護衛隊はミサイル護衛艦1隻を含むDDGグループと呼ばれる。護衛艦隊の編成

  • 護衛艦隊
  • 護衛艦隊司令部
  • 護衛艦隊旗艦(DDG-170さわかぜ)
  • (機動運用部隊)
  • 第1護衛隊群(司令部:横須賀基地長浦地区)
    • 第1護衛隊 旗艦DDH-143 しらね、DDG-172 しまかぜ、DD-101 むらさめ、DD-108 あけぼの
    • 第5護衛隊 DDG-173 こんごう、DD-107 いかづち、DD-114 すずなみ、DD-157 さわぎり
  • 第2護衛隊群(司令部:佐世保基地)
    • 第2護衛隊 旗艦DDH-144 くらま、DDG-178 あしがら、DD-153 ゆうぎり、DD-154 あまぎり
    • 第6護衛隊 DDG-176 ちょうかい、DD-102 はるさめ、DD-110 たかなみ、DD-111 おおなみ
  • 第3護衛隊群(司令部:舞鶴基地)
    • 第3護衛隊、旗艦DDH-141 はるな[*2]、DDG-177 あたご[*3]、DD-112 まきなみ[*4]、DD-156 せとぎり
    • 第7護衛隊 DDG-175 みょうこう、DD-103 ゆうだち、DD-104 きりさめ、DD-109 ありあけ
  • 第4護衛隊群(司令部:呉基地)
    • 第4護衛隊 旗艦DDH-142 ひえい、DDG-171 はたかぜ、DD-155 はまぎり、DD-158 うみぎり
    • 第8護衛隊 DDG-174 きりしま、DD-105 いなづま、DD-106 さみだれ、DD-113 さざなみ

各護衛隊群の気質

各護衛隊群の気質の違いは以下の通り

  • 第1護衛隊群:「広報の1群」と呼ばれ、広報活動に従事することが多い。最新鋭艦の配備が早いことでも知られる。
  • 第2護衛隊群:「訓練の2群」と呼ばれ、練度の高さに定評がある。また地元九州出身者が多く、生活環境が比較的安定しているため士気も高い。韓国、中国と国境を接する精鋭部隊である。
  • 第3護衛隊群:「書類の3群」と呼ばれ、東郷平八郎元帥の伝統からか、上級指揮官クラスがさらに昇進するための登竜門と言われる。荒海の日本海を乗り越え、北朝鮮、ロシアとは正面から相対する最前線部隊である。
  • 第4護衛隊群:「だめだしの4群」と呼ばれ、温暖な瀬戸内海で戦略予備的な位置にある。
  • (地方配備部隊)
  • 第11護衛隊(横須賀基地)
    • DD-122はつゆき、DD-123しらゆき、DD-125さわゆき
  • 第12護衛隊(呉基地)
    • DD-129やまゆき、DD-130まつゆき、DD-131せとゆき
  • 第13護衛隊(佐世保基地)
    • DD-127いそゆき、DD-128はるゆき、DD-132あさゆき
  • 第14護衛隊(舞鶴基地)
    • DD-124みねゆき、DD-126はまゆき、DE-229あぶくま[*5]
  • 第15護衛隊(大湊基地)
    • DE-227ゆうばり、DE-228ゆうべつ、DE-230じんつう、DE-233ちくま
  • 第16護衛隊(佐世保基地)
    • DE-231おおよど、DE-232せんだい、DE-234とね
  • 海上訓練指導隊群
  • 第1海上補給隊
  • 第1輸送隊
  • 第1海上訓練支援隊
    • 訓練支援艦「くろべ」、「てんりゅう」

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海上自衛隊舞鶴地方隊

地方隊とは、海上自衛隊に置かれて、主として担当の区域(警備区)の防衛・警備及び自衛艦隊の支援に当たることを目的としている部隊です。機動運用が行われる外戦の基幹部隊である自衛艦隊の隷下ではありません。旧海軍の鎮守府、陸上自衛隊の方面隊に相当するものです。

  • 横須賀地方隊
  • 舞鶴地方隊
  • 大湊地方隊
  • 佐世保地方隊
  • 呉地方隊の5つが置かれています。舞鶴地方隊(JMSDF Maizuru District)は海上自衛隊の地方隊の一つ。主要部隊は京都府舞鶴市にある舞鶴基地に配備されています。 第44掃海隊及び第2ミサイル艇隊が配備されています。日本海中部海域の沿岸防備を担っています。
    1901年(明治34年)10月1日、海軍舞鶴鎮守府が置かれる。
    1952年(昭和27年):保安庁警備隊発足と同時に舞鶴地方隊が新編される。新編時の舞鶴地方隊には、舞鶴地方総監部、舞鶴、新潟各航路啓開隊が新編される。

    1999年(平成11年):舞鶴警備区内で不審船事案が発生する。防衛庁設置法に基づく「調査・研究」として、舞鶴地方隊の護衛艦「あぶくま」(DE-229)が、舞鶴基地を主たる母港とする護衛艦隊第3護衛隊群の「はるな」及び「みょうこう」とともに出動したが、「あぶくま」は地方隊配備護衛艦であって比較的低速だったため、充分に活躍できなかった(能登半島沖不審船事件)。2001年(平成13年)3月22日:舞鶴市長浜地区に舞鶴飛行場が完成し、今まで館山航空基地から飛来していた哨戒ヘリSH-60Jも舞鶴に常駐とする事ができるようになった。DE型護衛艦[*2]が配備され、日本海側の警備を担当することが主任務です。 北朝鮮への工作船の暗躍などに備えるためミサイル艇、高速警備艇の配備や特別警備隊なども順次配備され、島根県・山口県県境から秋田県・青森県県境までという広大な守備範囲を持ち、日本海側唯一の海上自衛隊の基地として増強が図られています。機動運用が行われる上記の自衛艦隊と異なり、警備区内での運用が中心であることからから旧型のDD護衛艦や、あぶくま型護衛艦などの小型のDE護衛艦や、さらに小型で高速のミサイル艇などを運用しています。

    編制

    • 舞鶴地方総監部(舞鶴基地:京都府舞鶴市)
      • 第44掃海隊
        • 掃海艇「あわしま」 はつしま型
        • 掃海艇「とびしま」 うわじま型
        • 掃海艇「ながしま」 うわじま型
      • 舞鶴警備隊
        • 舞鶴陸警隊
        • 舞鶴港務隊
        • 舞鶴水中処分隊
          • 「水中処分母船1号」
        • 新潟基地分遣隊(新潟基地:新潟県新潟市)
        • 第2ミサイル艇隊
          • ミサイル艇PG-824「はやぶさ」 はやぶさ型
          • ミサイル艇 PG-828「うみたか」 はやぶさ型
          • 輸送艦「のと」
          • 多用途支援艦「ひうち」
      • 第23航空隊(平成20年3月26日舞鶴航空基地隊から新編)
      • 舞鶴教育隊
        • 1939年(昭和14年)4月に海軍舞鶴第1海兵団が編成される。1952年(昭和27年)12月27日に舞鶴練習隊が新編される。1957年(昭和32年)5月10日に舞鶴教育隊となる。
      • 舞鶴弾薬整備補給所
      • 舞鶴造修補給所
      • 舞鶴基地業務隊
      • 舞鶴衛生隊
      • 舞鶴音楽隊

    第八管区海上保安本部

    海上保安庁は、海上の安全及び治安の確保を図ることを任務とする行政機関であり、国土交通省の外局となっています。主に、海難救助・交通安全・防災及び環境保全・治安維持が任務の内訳となりますが、現実には海洋権益の保全(領海警備・海洋調査)をも任務としています。

    諸外国では沿岸警備隊(コーストガード)、国境警備隊等と呼ばれる準軍事組織に相当し、戦争の際は軍隊の一部として参戦することが国際法では認められていますが、日本はこれを否定しています。有事の際に防衛大臣の指揮下に組み込まれる可能性はありますが、自衛隊には編入されず常に警察任務と海難救助に徹することが目的とされています。英称は1948年の開庁以来 Maritime Safety Agency of Japan(略称:MSA または JMSA 「日本国海上保安庁」の直訳)を用いてきました。しかし、諸外国の船員等の間で「海上警備機関か海事サービス機関か不明瞭」との声が多かったため、2000年から Japan Coast Guard(略称: JCG 「日本国沿岸警備隊」の意)に改められました。第八管区海上保安本部とは、海上保安庁の管区海上保安本部の一つで、北近畿と山陰地方の日本海沿岸、列びに京都府・福井県・兵庫県・鳥取県・島根県・竹島を管轄範囲とします。略称は八管。英語表記は8th Regional Coast Guard Headquarters。本部は京都府舞鶴市字下福井にあり、下部組織として4つの海上保安部、6つの海上保安署、航空基地1カ所、情報通信管理センター1箇所を有します。

    第八管区は、山口県・島根県境から石川県・福井県境までの広い海岸線に特徴を持っており、日本海でも山陰地方の沖合には、日本以外にも中華人民共和国・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」と記述)・ロシアの多くの船が行き交っています。第八管区管内では、日本海中部海域不審船事件やナホトカ号重油流出事故などが発生しており、その反省から警備業務、海難救助業務、災害防除業務を拡充しています。その他、日本海最大の好漁場である「大和堆」等における大韓民国の不法漁民による排他的経済水域内の密漁の摘発、北朝鮮工作員の不法入国や北朝鮮工作員や暴力団による麻薬・偽紙幣の密輸の阻止、海上自衛隊舞鶴基地周辺海域や若狭湾の原子力関連施設群、島根原子力発電所の警備業務、韓国が不法占拠を行っている竹島周辺海域で、韓国海洋警察庁による日本漁船拿捕を阻止するための警戒等も大きな仕事であります。組織第八管区海上保安本部

    • 第八管区海上保安本部(京都府舞鶴市)
      • 敦賀海上保安部(福井県敦賀市)
        • 小浜海上保安署(福井県小浜市)
        • 福井海上保安署(福井県坂井市)
      • 舞鶴海上保安部(京都府舞鶴市)
        • 宮津海上保安署(京都府宮津市)
        • 香住海上保安署(兵庫県美方郡香美町)
      • 境海上保安部(鳥取県境港市)
        • 鳥取海上保安署(鳥取県鳥取市)
        • 隠岐海上保安署(島根県隠岐郡隠岐の島町)
      • 浜田海上保安部(島根県浜田市)
      • 第八管区情報通信管理センター(京都府舞鶴市)
      • 美保航空基地(鳥取県境港市)
      • 舞鶴海上保安航空支援センター(京都府舞鶴市)

    海上保安庁は、1948年(昭和23年)、芦田内閣の下で設立されました。これは第二次世界大戦後、それまで日本周辺海域における法秩序の維持にあたってきた日本海軍が掃海部隊を除いて解体され、日本の海上における救難・治安の維持および海上交通を担当する世界初の海上警察・救難総合機関として、運輸省(現国土交通省)外局に設立されたものです。

    1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊が海上保安庁附属機関として組織されましたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となりました。保安庁創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて、保安庁の下に置かれることになっていました(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により結局、保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま、それに代わる自衛隊法の制定によって廃止となります。そのため、海上保安庁は改組を免れてそのまま存続することとなりました。

    海上保安庁は、戦後にアメリカ沿岸警備隊をモデルに誕生した組織であり、一方の海上自衛隊地方隊は、独立した沿岸警備組織がなかった戦前に沿岸警備を行っていた「海軍鎮守府」の伝統を受け継いだ組織である。創立時から、それぞれの職域が大きく重複していた。近年、不審船事件の発生などを受けて海上保安庁の体制が拡充しており、地方隊と海上保安庁との線引きが曖昧になってきている。海上警備任務では、日本近海で続発した不審船事件のうち能登半島沖不審船事件では、自衛艦隊の護衛艦隊の第3護衛隊群所属護衛艦と共に舞鶴地方隊所属護衛艦も出動したが速力不足で十分な活躍はできなかった。

    脚注

    • [*1]…護衛艦(ごえいかん)とは、日本の海上自衛隊が保有する自衛艦の分類の1つ。国際法上は、自衛艦旗を掲揚し、自衛官が運用しているため、軍艦として見なされる。
    • [*2]…ヘリコプター搭載護衛艦 Helicopter Defense Destroyer(略称:DDH)。はるな型・しらね型はヘリコプター搭載駆逐艦、最新のひゅうが型はヘリ空母に相当する。対潜・対空の各種武装も持つが、主な任務は回転翼機の母艦として補給や整備などを行う事である。181 ひゅうが(はるな後継艦・艤装中)。
    • [*3]…対空誘導弾(ミサイル)護衛艦 Guided Missile Defense Destroyer(略称:DDG)。他国ではミサイル駆逐艦や大型のこんごう型やあたご型はミサイル巡洋艦に分類される。主な任務は航空機やそこから発射されるミサイルを長射程の艦対空ミサイルで撃墜して、自艦のみならず艦隊を守る事である。その他、近年では弾道ミサイルの監視任務に就くケースが増え、弾道ミサイル迎撃能力を持たせる事も計画されている。あたごはイージス艦、イージスシステムを搭載した艦艇。アメリカ国外では、
      日本がこんごう型護衛艦(ベースライン5)4隻(DDG-175 みょうこう 所属:第3護衛隊群・第7護衛隊 母港:舞鶴)、およびベースライン7(2007年1月現在最新のもの)があたご型護衛艦2隻(DDG-177 あたご 所属:第3護衛隊群・第3護衛隊 母港:舞鶴、DDG-178 あしがら 所属:第2護衛隊群・第2護衛隊 母港:佐世保)、
      スペインがアルバロ・デ・バサン級フリゲート5隻を建造し、また韓国が世宗大王級駆逐艦3隻の建造を計画しているが、これらはいずれもアーレイバーク級をベースとしたイージス・システムを装備する。また、アルバロ・デ・バサン級をベースとしてノルウェーが建造を進めているフリチョフ・ナンセン級フリゲートにおいては、SPY-1Fレーダーを使用した、簡易型のイージス・システムが装備される。
    • こんごう型護衛艦…日本の海上自衛隊に配備された初のイージス艦(イージスシステム搭載護衛艦)。アメリカ海軍以外が初めて保有したイージス艦でもある。後継艦であるあたご型護衛艦が就役するまでは、海上自衛隊が保有する戦闘艦の中で最大の排水量を持っていた。1隻あたりの価格は約1223億円。
    • あたご型護衛艦…こんごう型護衛艦とは異なり最初からステルス性を考慮した設計が行われており、艦体や上部構造物側面の傾斜がそのために最適化されている。煙突の角の丸みが廃されており、ヘリコプター格納庫も複雑な形態になっている。マスト形状がはしご状の組み合わせで構成される在来型のラティスマストから、5000トン型護衛艦予想図にも取り入れられている日本独自の設計のステルス性能を高めた平面構成マストへ変更されている。さらに煙突の形状の変更や舷梯を上構内への収納型にすることによりステルス性能の強化が図られている。予算規模は14DDGと呼ばれていた1番艦「あたご」が1,453億円で、15DDGと呼ばれていた2番艦「あしがら」が1,389億円。
    • [*4]…汎用護衛艦 Defense Destroyer(略称:DD)他国では駆逐艦、フリゲートに分類される場合が多い艦種。潜水艦を探知・攻撃する事を主たる任務とするほか、一定の対空・対水上攻撃力を有する。かつては地方隊用の乙型護衛艦と区別するため「甲型護衛艦」とも呼ばれた。なお、DDA、DDKという艦種がかつて存在したが現在は廃止されており、それらも全てDDに統合されている。
    • [*5]…護衛艦 Destroyer Escoat(略称:DE) 、アメリカ海軍が船団護衛用に生み出した護衛駆逐艦に該当する艦種。護衛艦隊に所属するが事態対処においては各地方隊で運用され、おもに沿海域における対潜水艦哨戒、迎撃を任務とする。予算削減のため1993年以降は新造艦が建造されていない。2桁番号の護衛隊において旧式化したはつゆき型護衛艦と併用されている。
      映画「亡国のイージス」 主役艦の護衛艦「いそかぜ」の役を務めた。弾道ミサイル探知1998年にみょうこう(舞鶴)が、北朝鮮によるミサイル発射実験で発射されたテポドン1号の探知・追尾に成功した。2006年の発射実験では、日本海に展開していたこんごう(佐世保)とみょうこうがテポドン2号とみられる噴射熱の探知・追尾を行った。これらは実戦で初めて弾道ミサイルの探知・追尾に成功した例となった。
      ▲ページTOPへ参考:ウィキペディア、舞鶴市

近代-5

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日露戦争

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目 次

  1. 日露の対立
  2. 日露戦争
  3. 日本海海戦
  4. 講和へ
  5. 東郷 平八郎と肉じゃが
  6. 日本の台湾統治

1.日露の対立

大韓帝国成立後、朝鮮における日本の勢力は後退し、ロシアの勢力が強まりました。日本はロシアと妥協しながら経済的優位を確保しつつ、韓国に対する支配の強化と中国東北の満州への経済的進出を試みました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。
ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、満州全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図り、さらに韓国への進出を試みました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

2.日露戦争

日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日 – 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争。

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。

各国の思惑と戦費調達

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。


日本海海戦

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。旅順攻略、奉天会戦へ。戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

講和へ

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。

さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。

ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。

しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。

当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がりました。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もあります。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになりました。

3.東郷 平八郎と肉じゃが

弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

肉じゃが

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。
海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。

  • 1. 油入れ送気
  • 2. 3分後生牛肉入れ
  • 3. 7分後砂糖入れ
  • 4. 10分後醤油入れ
  • 5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
  • 6. 31分後玉葱入れ
  • 7. 34分後終了

発祥の地論争
京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
根拠は、

  • 舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
  • 呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。としています。
    なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    たじまる 近代-4

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    日清戦争

    目 次

    1. 清国の半植民地化と滅亡
    2. 朝鮮をめぐる日清の抗争
    3. 日清戦争の経緯
    4. 日清戦争
    5. 下関条約
    6. 日清戦争と三国干渉
    7. 辛亥革命
    8. 三国干渉とその後
    19世紀なかばから東アジアの中国・日本・朝鮮は、相次いで欧米列強による開国を迫られていました。

    アヘン戦争、清仏戦争(1884年 – 1885年)、日清戦争(1894年 – 1895年)、義和団の乱(19世紀末 – 20世紀初頭)といった事件が起こっていき、帝国主義列強に侵略されていくことになります。イギリスに香港島を割譲、九竜・新界租借地、威海衛租借地を与え、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権を与え、ドイツに膠州湾(こうしゅうわん)租借地を、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲しました。上海に共同租界やフランス租界が設置され、半植民地となっていきます。

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    1.清国の半植民地化と滅亡

    19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳(かげ)った時代です。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということでした。

    伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。

    まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。琉球につづいて、1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争(- 1885年)が起きたが、これによってもう一つの朝貢国越南(ベトナム)がフランスの支配下に入りました。アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。

    ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻した(ヤクブ・ベクの乱)。その中で、ロシアが1871年中央アジアからウイグルに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

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    2.朝鮮をめぐる日清の抗争

    日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊の制度改革を援助しました。ところが1882(明治15)年、改革に取り残され、冷遇された事に不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が起きました(壬午事変)。清はこれに数千の軍隊を派遣し、ただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めました。
    1884(明治17)年には、日本の明治維新に倣って近代化を進めようとした金玉均らのクーデターが起きましたが、このときも清の軍隊がこれを鎮圧しました(甲申事変)。
    朝鮮における清朝との勢力争いに二度敗北した日本は、清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、ほぼ対等な軍事力を蓄えるようになりました。

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    3.日清戦争の経緯

    大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われました。
    李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で「日清修好条規結」が結ばれました。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。平等条約でしたが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていました。
    その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示しました。ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。
    さらに同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。日本側の感情を逆撫でする効果は十分にあり、「征韓論」が巻き起こるに至りました。

    1875年(明治8年)9月20日、日本側が測量等のために朝鮮側の官僚と面会しようとして武装端艇でその陣営近くまで遡航し、さらに朝鮮側に断ることなく奥(ソウル方面)へと進もうとして江華島付近でで砲台から砲撃されたと記されていました。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は挑発だったと考えられています。
    朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦隊と海兵隊を上陸させて第2砲台を放火し、3日目には第1砲台も放火し、朝鮮側の35名を殺害しています。一方日本側の死傷者は雲揚の2名でした。
    この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されました。
    江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきました。
    1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになりました。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗しました。

    1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられました。
    1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなりました。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化しました。
    甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化しました。

    日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まりました。なお、宣戦布告は8月1日です。なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していました。

    日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものでした。

    「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結し、平和を回復させたいと思う。」
    7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破りました。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧しました。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始しました。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領しました。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かいました。

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    4.日清戦争

     日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と、1860年代から洋務運動による近代化を進める清朝(中国)との間で行われた、日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国では甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)。

    日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。
    大日本帝国と清国殿戦争で、支持勢力として、日本側は李氏朝鮮 独立党(開化派)、清国側は李氏朝鮮 事大党(保守派)。
    1894年(明治27年)、朝鮮南部に甲午農民戦争とよばれる暴動が起きました。農民軍は、外国人と腐敗した役人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどでした。わずかな兵力しか持たない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めましたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まりました。

    戦場は朝鮮の他、満州南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利しました。日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、軍隊の規律・訓練に勝っていた事があげられますが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがあります。

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    5.下関条約

    1895(明治28)年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれました。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意しました。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行いました。

    条約の主な内容は次の通り

    • 1. 清は朝鮮が独立国であることを認める。
    • 2. 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
    • 3. 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
      清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の約3倍に当たる賠償金3億円あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本に譲り渡しました。このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子があります。
      当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
      また同年には、日英通商航海条約を結び、イギリスに日本国内での治外法権の撤廃(領事裁判権の撤廃)を認めさせます。

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    6.日清戦争と三国干渉

    日清戦争は、欧米流の近代国家として出発した日本と伝統的な中華秩序との対決でした。結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなりました。他方、「眠れる獅子」とよばれてその底力を恐れられていた清は、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊しました。
    「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏としました。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点としました。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しました。これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって、清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃されました。

    1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ北京に進出しました。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進みました。

    その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置きました。しかし、清朝は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げていた。1911年、武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えました。

    翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡しました。

    戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速され、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

    下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えることになりました(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立)。
    しかし、ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求しました(三国干渉)。独力で3国に対抗する力を持たない日本は、やむを得ず代償として3000万両と引き替えに、返還させられました。

    結果、国民に屈辱感を与え、中国の故事「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に、官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになりました。
    以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と、次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用しました。

    加えて、1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、戦果は経済的にも影響を与えました。

    台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北しました。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始しました。
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    2.辛亥革命(しんがいかくめい)

     1911(明治44)年に起こった辛亥革命は、日本の東アジア政策に大きな影響を与えました。日本はいくつかの選択肢が考えられました。

    • 清朝を援助して満蒙権益を強化する
    • 革命派を援助して権益強化を図る
      しかし、日本は権益強化の視点にとらわれすぎたために、何を選択すべきかの政策判断を明確に下すことを躊躇せざるをえませんでした。
      辛亥革命そのものは、袁世凱が臨時大総統となり、中華民国の成立という一つの着地点を1912(明治45)年に迎えます。しかし、翌13(大正2)年には第二革命が勃発し、袁一派と国民党との対立は激しさを増し、中国の保全を願うイギリスのプレゼンスがある限り、日本も国民党も袁世凱に付け入ることはできませんでした。
      この状況を一気に変えたのは、またしても1914(大正3)年の第一次世界大戦でした。ヨーロッパ各国を本土で釘付けにし、そのためヨーロッパ各国はアジアを留守にせざるをえず、戦前よりはるかに日本の動向を気にかける有様となりました。日本にとってはまさに「大正の天佑」、千載一遇のチャンス到来と思われました。
      時の第二次大隈内閣は、外相加藤高明の強力な指導の下、東アジア情勢を変えるべく参戦しました。1915(大正4)年1月の中国に対する21ヶ条要求の主な内容としては、山東省のドイツ権益の譲渡、満蒙権益の強化、中国沿岸部の不割譲宣言などがあります。
      しかし、ポイントはあくまでも満蒙権益の強化に絞られました。明文化を求める日本とさらなる譲歩を恐れる中国との間に摩擦が続いたものの、最終的に半年後、中国は日本の要求を受け入れました。後発帝国主義国家日本のやや強引なこの外交手法は、中国そしてアメリカの強い批判を浴び、後まで日本の悪いイメージを残す結果となってしまいました。
      戦争は革命を育みました。1917(大正6)年、ロシアに十月革命が勃発。帝政を打倒したボルシェヴィキ政権は、帝国主義戦争を悪と見なし、直ちに講和の姿勢を示しました。帝政ロシアから一挙に共産主義ロシアへの大転換の前に、日本はまたもなす術を持ちませんでした。ここで二十世紀への遺産として残された恐露論は、緩和されるどころか、共産主義という「赤色」イデオロギーによって一層強化されることになりました。
      寺内内閣はロシアへの対抗上、日中提携強化を図り、西原借款という巨額の借款供与に踏み切りました。またボルシェヴィキ政権がアジアへ進出するのを抑止するため、1918(大正7)年にはシベリア出兵に踏み切りましたが、この二つの政策はいずれも失敗を運命付けられていました。▲ページTOPへ

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    近代憲法色(けんぽういろ)#543f32戻る次へ

    現代-9 地方分権

    歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

    政治と非政治のあいだ

    1.グローバリゼーション

    「ナショナリズム」といわれる19世紀に始まった標準化された言語・文化による国民国家。それに対して現在、輸送や通信のシステムが世界規模で整い、距離と時間を越えて互いに関連し合う状況が生まれました。「グローバリゼーション」の波である。グローバリゼーションは、二種類の評価が存在する。一種の進歩、チャンスとする見方で、今後の世界が進むべき方向を示唆する現象と考えられます。「世界市民」という理想は古くから存在したし、国家間の相互依存の強化が、平和構築に貢献するという考え方は古くからありました。グローバリゼーションは、民主主義のような価値が、国境を越えて広がり、実現していくチャンスだと考えることもできます。これとは対照的に、グローバリゼーションを偽装したアメリカ化ととらえる見方もあります。グローバルな基準が、結局は現在政治、経済、軍事的な覇権を握っているアメリカに有利なものとなる傾向があります。文化のような個性を重んじるべき領域でさえ、アメリカ的、もしくは物質・商業的価値が侵略していると考える人々も出てきました。それは結局、世界的に広がる資本主義体制の促進(それに伴う不平等の促進)を隠蔽する、イデオロギーにすぎないのではないか、という批判です。

    こうした評価とは別に、グローバリゼーションという言葉を、現在の主な現象として四つのことがあげられます。

    第一に、大量の人口移動です。大量の人間が国境を越えて移動する時代になっており、例えば難民問題を計算に入れない国家戦略は難しくなってきています。

    第二に、人の移動は、文化の変容を巻き起こします。情報産業や娯楽産業の世界規模での発展が加わり、文化の単位としての国家という考えは大きく揺らいでいます。

    第三に、経済のグローバル化があります。国民国家の特徴は、国家政府の統治を通じて国民経済を発展・維持させるという点にありました。雇用や金融、貿易量といった問題に、政府は制御を加えていました。市場のグローバル化は、こうした一国政府の統治能力を著しく低下させました。

    第四に、リスクのグローバル化があります。経済のグローバル化は、経済危機のグローバル化を伴います。コミュニケーションの国際的促進は、犯罪のグローバル化を生みました。違法な物や犯罪者の移動を、一国の警察だけで監視することは難しくなりました。現在極めて容易に国境を越えて移動しています。

    2.政党とは何か

    かつて政党はイギリスの政治学者E.パーカーによって「国家と社会の架け橋」と評されました。またアメリカの政治学者E.E.シャットシュナイダーは、政党を「民主主義的な政治のメーカー」であり、「政党は、単に近代政治の付属物ではなく、近代政治の中核であり、そしてそのなかで決定的にして創造的な役割を演じている」と表しました。確かに20世紀の前半までは選挙制度と並んで代表制民主主義を駆動させるエンジンの一つとして、このような政党を賞賛する声が満ちあふれていました。しかし今日においては、政党に対する不信感が世の中に充満しています。日本における近年の世論調査が示す、時には50%を超える無党派層の存在はその象徴です。

    我々が考えてきた政治は、民主主義と自由主義の思想に基づいています。しかし、この二つは同一ではありません。民主主義は「統治者と被治者の同一性」という原理を含んでおり、自由主義は、「公と私の分離」という原理を含んでいます。自由民主主義という政治は、この容易には両立しがたい葛藤を抱え込んでいます。この葛藤は、政府をはじめとする公的領域を、すべての私人が選んだ代表者によって制御するという方法で対処されてきました。そしてこの代議政治の諸問題を解決するために、さまざまな方法が試されてきたのです。

    つまり、公と私の区別という、自由主義的な政治観の再検討です。これは言い換えるなら「政治的なもの」と「非政治的なもの」の区別を再考することです。この問題こそ、現代の政治のあり方を考える際にしばしば提起される重要なテーマだといえます。

    我々は、「政治的なもの」に関する再検討の必要性を確認したいと思います。
    我々が政治に無関心である一つの問題点としては、戦後の日本の政党がわかりにくいことです。もともと民主主義の理念による自由党と民主党が合併し自由民主党(以下自民党)が発足しました。政治学の定義では上記のように民主主義と自由主義とは同一ではありませんが、かといって旧社会党を中心に発足した民主党や自由党が合併して今の民主党という政党も自民党に対して違いがわかりにくいものです。また政教分離に反するような政党が与党に参加していることこそ問題であるといえます。しかし、日本以外でも宗教思想と政治が全く関連がないことはないのですが、そうした個人個人の意志ではなく組織的な選挙は危険であります。政治に関心を持とうとしても、とくに国会は国民生活から乖離した議論を繰り返してあまりにも膨大な国家予算と公的な時間を浪費している以外の何者でもありません。
    前出のシャットシュナイダーは、1942年にその著書『政党政治論』の中で、「近代民主政治は、政党競争の副産物なのである」と述べています。すなわち今日民主政治は国民自らが選挙において指導者也代表者なりを選べることを最大の特徴とするようになったが、そのような選挙の存在が政党を発展させたというよりは、政党の選挙を通じての権力獲得のための努力が、政党よりも古い歴史を持っている選挙に大きな意味を与えていたとおうのです。

    3.政党の機能

    政党の第一の機能は、利益の集約による選挙民の組織化であう。そのままではそれぞれ異なった利害関心を有し、個々バラバラのまま、自分自身や社会の未来に関してどのような選択を行えばよいのかわからない選挙民に対して、市民の中から表出されたさまざまな要求を政策という形で具体化された少数の選択肢として提示し、選挙民の選択に関わる負担を軽減するという役割を担います。第二の機能は、政治的リクルートと政治的リーダーの選出です。政党に所属していなくても無所属という形で誰しもが自由に立候補でき、その首長が多くの支持を得て選挙に勝ったならば、代表として議会に臨んだり、大統領といった政治的リーダーになることが可能です。しかし必ずしも彼らが政治家たるに相応しい決断力、責任感、さらには情熱といったものを備えているわけではありません。多様な国民の中から、政治家として相応しい人物を発掘し、国民に提供するという責任を担っているのが政党です。すなわち、政党は所属する個々の政治家の保証人としての役割を果たしているのです。さらには政党は党内におけるリーダーシップ獲得の競争を通じて、国家の舵取りを担うに相応しい指導者を養成し、国民に提示します。

    第三の機能は、政治的社会化です。人は生まれてから政治社会に有権者としてデビューするまでに、ある一定の政治的指向や知識を持つことが期待されています。政党は、街頭演説、パンフレット、ビラ、さらには今日ではホームページ等のさまざまな手段を用いて政治問題に関する情報の提供を国民に行っています。そのことは選択に必要な情報の蓄積に役立っています。ただし、今日においては、政治的社会化を担うアクターとして政党以外に、家族、仲間集団、学校、マスメディア等も存在しています。さらにいえば、政治的社会化の担い手は政党というよりはマスメディアとなっています。
    かつては、選挙民の第一の目的は選挙で代表を選ぶことであって、選ばれた代表は政策をつくり決定するという政治的分業を市民も受け入れていたといえます。「市民たちはたいていの場合、代表制のコストの一部として容認している」とまで述べたのは、現代民主主義の代表的な研究者として知られるR.A.ダールでした。

    しかしそれは、政治についての情報があまり行き渡っていなかった時代で通用したことです。新聞以上に単純化した形で政治のことを伝えるようになったテレビの普及と共に、新たな反政党論がわき起こったのは偶然ではありません。さらに今日においては、インターネットという新たな情報メディアの発展が市民における政治的情報の蓄積に大きな役割を果たすようになってきています。今まで余り知ることのできなかった政治の世界におけるさまざまな出来事を、以前より容易に知ることができるようになりました。テレビに映し出される居眠りをしている国会議員にとどまらず携帯電話をしたり、無用な揚げ足取りをして党利党略を行う議会、その議員の表情を見ればその議員が何を言っても、嘘かどうかが瞬時に伝わってしまいます。議員数削減が急務であるとか、参議院は不要だ、という声が多いのもわかります。何より諸問題が山積みとなっている現代に、相変わらず提案から審議・可決まで、あまりにも時間がかかる現状の国と行政のシステムを改善することこそが、地方自治体以前に行うべき最大の改革ではないでしょうか。

    一般市民の基本的な政治参加である選挙において、中心的な役割を果たしている政党に対して、もっぱらその不満の矛先が向けられるのも当然の話です。国民自らが判断し得なかったことのツケを負わされることに、もはや市民は我慢できなくなったのです。
    以上のように自らが主体的に考え判断し得るようになった市民を前にして、かつては国家と社会の架け橋といわれた政党が政治的決定を独占することはもはや不可能となりつつあります。そのような時代にふさわしい役割を新たに見つけることが、政党の生き残りを左右することは間違いありません。政党が提案し、国民自らが決定するよいう新たな政治的分業、すなわちイギリスの政治学者I.バッジが提案したような「政党民主政としての直接民主政」、すなわち政党に媒介された直接民主制の構想もその一つでしょう。代表制と直接制とを両立させる半直接民主制の提案です。現在の代表制の下において、政策を提案し洗練させ、市民の投票を指導し組織化するという二つの役割を担わせるかわりに、重要な問題の決定は市民の投票に任せようというのです。政党自らが特権の一部を放棄することが、新たな政党政治の未来を切り開くのです。

    4.政治と非政治のあいだ

    グローバルなネットワークの形成に国家以外の主体として、NPO(非営利組織)やNGO(非政府組織)があります。こうした公共的な問題に、公共的な仕方で貢献する国会外の組織の重要性が、注目されています。一見私的に見える活動でありながら、その性質上公共的な利益の実現を促進する可能性をもつ、さまざまの自発的な組織や団体を「市民社会」と呼ぶことがあります。それには、NPOやNGOといった言葉が生まれる以前から、各種ボランティア団体、教会、文化サークル、学術団体、労働組合、スポーツ団体、市民運動等といった、さまざまな協同社会が含まれます。

    市民社会が注目されるようになった理由の一つとして、1989年の民主革命に結実した東欧の民主化闘争において、教会や労働組合に集う普通の人々のネットワークが、政党に支配された権威主義的な官僚制国家に対抗する、批判的な公共圏として働いたのです。こうした普通の市民が自発的に形成する公共性の可能性が、国家の統治能力の問題性と限界性が指摘されるなかで、再評価されるようになってきています。こうした「市民」論は、代表制によって形骸化した民主主義を再活性化させるものとして期待されています。とはいうものの、市民社会の内部にも権力は存在します。そして市民社会が現実として国家の内部に存在しているがゆえに、活動は間接的に国家の統治を被っています。その限界を考慮に入れつつ、新たな政治の空間として、市民社会の可能性を探っていく必要があるでしょう。

    公私の区別に依存する政治は、しばしば現実に存在する対立や抗争を適切な仕方で公的領域に吸い上げず、非政治的な問題として私的領域に封じ込めてしまう危険性があるといわれます。圧力団体や政党、マスコミ等を通じて、議会のような公的空間において論争化されるものだけが「政治的なもの」なのではありません。こうした政治の制度や慣行が無視し隠蔽する問題のなかに、我々が公的に対処するものが潜んでいるのかも知れないのです。公と私の区別は、固定的な基準として考えるべきではない。むしろ、その区別をすることの「政治」に配慮すべきであり、いかなる「政治」を求めているかが問われています。

    自由に国境も存在せず環日本海を交易していた古代のアジア。今と比べて文明の進化といったものの以前に、古代の人々がはるかにグローバルな視野を持っていたのではないかと想像すると、この21世紀において「ナショナリズム」と「グローバリゼーション」の対峙は、一種の進歩、チャンスとすると、あまりにも議会や行政の仕組みが波についていけず、時間や財源の浪費以外の何者でもないことにわれわれは癖壁としています。

    現在を特に、市民にとって必要なのは、政治に関する想像力、つまり「いまある政治のあり方」以外の「政治」を構想する力である。それは自分たちの生活世界を足掛かりとして、より善い、少なくともよりましな社会をつくろうと、努力することではないでしょうか。

    <http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司放送大学准教授 山岡 龍一
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    地方自治-1

    日本の国家と地方自治

    目 次

    1. 日本の国家としての歴史
    2. 日本の政府
    3. 君主制と共和制
    4. 連邦制と単一国家
    5. 立憲主義

    3.君主制と共和制

    君主制(英:Monarchy)は君主が支配する統治形態(政体)です。君主政とも言います。連邦は、複数の国家、またはそれに相当する強い行政上の権限を有する政府によって統治される州の集合であり、それらが1つの上位政府によって統治される国家様態です。中央政府から距離を取り連邦制を主張または擁護する立場を連邦主義といいます。
    これに対して、共和制(英:republic)は、国家に君主を置かない政体。君主制に対置される概念です。共和政ともいいます。共和制を取る国家のことを共和国といいまう。また、共和制を国家のあるべき姿だとする思想のことを「共和主義」といいます。一般に共和制では、国家の元首は君主ではなく、国民により選出されます。

    4.連邦制と単一国家

    地域間の民族的相違や国家の大きさなどを考慮して権力を分立させる考え方であり、その現実の形が「連邦制」です。州(アメリカ合衆国)、ラント(ドイツ連邦共和国)、共和国(ロシア連邦)などと呼ばれるいくつかの支分国が集まり、一つの主権国家を構成しますが、その際に中央政府への過度の権力集中を防止するために、中央政府と地方政府との間の合意に基づいて、憲法において両者の間の権限分配に関して明確に規定しています。ただし中央政府と地方政府との間で権力の衝突があるような場合には、中央政府が優越するという原則があります。

    主権が中央政府と政治的構成単位(州や地方など)との間に分割され、多くの場合連邦と呼ばれる体制を形作るような政体。とりわけ広大な国家や多民族国家など、地域的、民族的、また歴史的な多様性が見られる場合には、連邦制は対外的統一性と、国内的な分権性という両立させることができる制度であると考えられるため、採用されることが多いもの。対外的な、主として外交・国防部門での強固な統一性と、国内的な、主として民政部門での各構成単位の確固とした独立性の留保が、矛盾なく両立されることが目指されます。アメリカ合衆国、アラブ首長国連邦、ドイツ連邦共和国など、連邦制を敷いている国家は、地方分権的傾向が大きいとされています。また広義では現在のヨーロッパ連合(E.U.)の強い連邦政府(中央政府)と弱い国家政府を指します。

    比較的領土の大きな国や、歴史的に数多くの君主国や都市国家が並立していた時代が長かった(ドイツなど)、革命の過程で誕生した多民族国家が統合したソビエト連邦などなどで(ソビエト連邦はロシア連邦に)、他には2つの主権国家が統合して1つの国家となったアラブ連合共和国、英国の植民地であった13州が統合したアメリカ合衆国など、連邦国家には幾多もの成り立ちがあります。ただし、国によっては連邦制が形骸化している場合があります(アルゼンチンなど)。このような連邦制では、基本的に国家としての立法権や執行権及び司法権はすべて中央政府に集中されており、それに対して、場合によっては中央政府の意志として国家機能の一部が地方政府に委譲されているような国家を「単一国家」と呼びます。例としてはイギリスやフランスであり、日本もそのような単一国家として分類されます。
    歴史的には連邦国家においても中央政府の権力の拡大という現象が見られました。しかし今日では連邦国家か単一国家かに関わらず、参加民主主義への指向や各地方の住民のニーズの多様化、行政の効率化などに対応する形で、地方分権の流れが一般的となっています。

    5.立憲主義

    民主化の程度の高い国においては、統治に当たる者の権力行使を防止し、国民の権利と生活を守るための仕組みとして、代議制を駆動させる両輪として、選挙制度と政党があります。この他にも権力行使を抑制する制度としてまず、近代国家の最も基本的な仕組みが立憲主義です。憲法をはじめとした法による制限を通じて、統治者による権力行使を防止し、個人の権利や自由を擁護しようというものです。立憲主義の歴史は、1215年、イギリスで制定されたマグナカルタにはじまるとされています。それ以降、世界で最初の現代的民主国家であるアメリカ合衆国の独立宣言(1776年)や絶対王政を打倒したフランスの人権宣言(1789年)などによって、民衆によって選出された指導者によるワンマンな権力行使を抑制する近代的な立憲主義が確立していきました。

    さらに、権力を分立させて相互に抑制と均衡の役割を担わせる仕組みが。いわゆる「三権分立」です。国家の主要な統治機構としての立法府、行政府、司法府の三つですが、それぞれ異なった人間や党派に担当させることによって、多数派による少数派に対する横暴を防ごうという狙いもあります。

    立法府は国権の最高機関ですが、世界の多くの国は「一院制」であり、日本のように「二院制」を採用している国の2倍弱の約120ヶ国です。
    フランス革命の指導者の一人であるアベ・シェイエスは、1789年に二院制を否定する言葉を残しています。

    「第二院は何の役に立つか。もし第二院が第一院に一致するならば、それは無用な存在であり、第一院に反対するならば有害な存在である。」
    というものです。平民である第三身分の立場を擁護するシェイエスにとって、第三身分こそがすべてであったのであり、人民主義を代表する議員に対しては何らかの抑制も加えられるべきではないと考えていたからです。

    しかし、立法府を二つの院で構成することにも一定の合理性があります。モンテスキューも立法府を二院制で構成することを主張しました。優れた少数派としての貴族と多数派としての人民といった階級的な差異を反映した二院制によって、少数者に対する多数者による権力濫用に対して一定の抑制を施す仕組みということで、今日このイギリスの「貴族院型」と呼ばれる、選挙によって選ばれる代表によって構成される庶民院(下院)の方の権限が、王による勅撰で選ばれる議員によって構成される貴族院(上院)よりも強い。

    この貴族院型に対して、権力の濫用防止といった観点だけでなく、慎重な審議や第二の見解の用意といった観点から第二院が存在している場合もあります。これを「参議院型」と呼び、両院の議員が国民の直接選挙で選ばれる場合には、その権限は比較的に対等です。日本がその例です。衆議院の優越がいわれていますが、予算案の決議、条約の批准、首班指名を除いて通常法案においては両院はほぼ対等な関係にあります。
    二院制はさらに連邦制型と呼ばれる形態も存在します。アメリカがその典型で、国民を代表する院が下院であり、各州の利益を代表する院が上院です。

    2.日本の政府

    日本は天皇を君主とし議院内閣制の立憲君主国になります。国家に君主を置かず、国家の元首は国民から選ばれる(大統領など)政体である共和制国家とは異なります。対外的な、主として外交・国防部門での強固な統一性と、国内的な、主として民政部門での各構成単位の確固とした独立性の留保が、矛盾なく両立されることが目指されます。

    地方分権とは、特に政治や行政において、国家権力を地方自治体に移して分散させる体制を指す。政治・行政以外の組織体では、分権組織と呼ぶ場合もある。対義語は中央集権。

    日本において中央集権国家が成立した時期は、律令制の時代や明治維新の時代が代表的です。
    律令制によって朝廷は中央集権化を目指しましたが、荘園制度の崩壊から平安時代の終わりころには国府は衰えて守護大名が台頭支配しています。
    江戸時代の日本は、幕府という中央政府は存在するが、藩という「地方王国」に権限が下ろされていました。ただし、藩の大名は、参勤交代による江戸への出張や、幕府の公共事業への強制的な出費や参加も命じられており、半ば中央統制的な面も有していました。明治維新で廃藩置県が実施されると、強固な中央集権体制を作り上げ、135年が経った現在も変わっていません。2000年施行の地方分権一括法では、機関委任事務が廃止され、国家と地方公共団体が名目上では対等な関係とされています。しかし、中央政府主導で基礎自治体を合併させるなど、上から強制する姿勢で、「地方自治」と相容れない現象も起きています。

    たじまる 地方自治-INDEX

    地方分権薄桜(うすざくら)#fdeff2最初のページ戻る次へ
    1.日本の国家と地方自治
    2.アメリカの地方分権
    3.ヨーロッパの地方分権
    4.日本の政治との比較
    5.地方分権と市町村合併の歩み
    6.日本の地方分権
    7.北近畿の地方自治
    8.北近畿地方の都市圏
    9.政治と非政治のあいだ
     歴史を探る第一には、現在を考え、将来を見据えるためにある。経済のグローバル化や環境・災害の問題、戦争や生命の問題、家族の崩壊、人口問題など、今日、多くの問題に直面している。過去に遡って見てこそ現状が分かる。過去と現在と未来を結んでいるのが歴史である。
    同じような問題や課題を、先人たちがどう考え、どう対処して生きてきたのかを探ることも極めて重要なことであって、生きるヒントが見出せることになる。歴史の事実が正しい評価によって必ずしも動いているわけではない。そこに多様な物の見方を養う必要がある。
    歴史は人間が描くもの、歴史の転換点における人間の動きについて、さらに世界の歴史は、近代世界が形成されて大きく変化してきた。人と歴史がどうか変わってきたのかを考える。

    たじまる 現代-3 領土問題

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    領土問題

    概 要

    目 次
    戦後いまだ解決されていない外交問題に領土問題がある。

    1. 北方領土
    2. 竹島問題
    3. 尖閣諸島

    以下は、戦後、日本に復帰した領土。

    • トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。
    • 奄美群島  1953年(昭和28年)12月25日復帰。
    • 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。
    • 沖縄県   1972年(昭和47年)5月15日復帰。
      にもかかわらず、北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。

    1.北方領土


    『日本人の歴史教科書』自由社

    主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

    地理

    千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。

    プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

    千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。

    列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。

    生態系列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

    千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

    魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。

    日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。

    江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
    全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

    • 1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
      この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
    • 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
      占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
    • 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
      ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
    • 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
    • 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
    • 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
    • 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
      同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
    • 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
    • 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
    • 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
      この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
    • 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
    • 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
    • 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
    • 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
    • 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttps://kojiyama.net/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
    • 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定した。
      その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。
    • 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
    • 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
    • 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。
    • 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
      しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。
      北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
    • 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
    • 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。
      また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。
    • 1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
    • 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
      同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
      しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
    • 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
    • 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
    • 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。
      1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。
      フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

    2.竹島問題

    竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。

    竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。

    島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。
    竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。


    (島根県)

    1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。

    日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。

    経 緯

    • 1618(元和4)年:伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)に渡航。
    • 1692(元禄5)年:鬱陵島(当時日本では「竹島」と呼ばれていた)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
    • 1696(元禄9)年:江戸幕府が鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が鬱陵島・于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
    • 1849(嘉永2)年:フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩とも呼ばれる)。
    • 1877(明治10)年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
    • 1900(明治33)年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
    • 1904(明治37)年2月6日:日露戦争が勃発。
    • 1904年8月23日:第一次日韓協約が締結。
    • 1904年9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
    • 1905(明治38)年1月28日:本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
    • 1905年5月27日-5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
    • 1905年11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
    • 1910(明治43)年8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
    • 1914(明治47)年:鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
    • 1940(昭和15)年8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
    • 1945(昭和20)年9月2日:日本政府がポツダム宣言を受諾。
    • 1945年11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管。
    • 1946(昭和21)年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN(SCAP Institutions)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」)により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された。
    • 1946年6月22日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた。
    • 1948(昭和23)年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
    • 1951(昭和26)年8月10日:ラスク書簡により「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された。
    • 1952(昭和27)年1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言。
    • 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):サンフランシスコ平和条約が発効
    • 1953(昭和28)年1月12日:韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
    • 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。この竹島問題によって、日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
    • 1953年4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯した。
    • 1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
    • 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
    • 1954(昭和29)年8月15日:朝鮮戦争を共に戦ったジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を、非公式に韓国に伝達した等の事を大統領に報告した。
    • 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、韓国政府はこれに応じず。
    • 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
    • 1956(昭和31)年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。
    • 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
    • 1965(昭和40)年:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が調印され、李承晩ラインが廃止された。竹島問題は紛争処理事項であるとされたが、その後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルに着いていない。
    • 1977(昭和52)年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
    • 1982(昭和62)年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
    • 1997(平成9)年11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
    • 1998(平成10)年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
    • 2004(平成16)年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
    • 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
    • 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
    • 2005(平成17)年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
    • 2005年6月9日:慶尚北道議会が島根県に対抗して10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。
    • 2006年4月6日:ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。
      日本国外務省
      サンフランシスコ講話条約における竹島の扱い1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。
      以上

    3.尖閣諸島

    尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

    同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

    従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。

    なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。

    また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

    出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

    現代-3 領土問題

    歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

    領土問題

    概 要

    以下は、戦後、日本に復帰した領土。

    • トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。
    • 奄美群島  1953年(昭和28年)12月25日復帰。
    • 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。
    • 沖縄県   1972年(昭和47年)5月15日復帰。
      北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。


    『日本人の歴史教科書』自由社

    主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

    地理

    千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。

    プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

    千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。
    列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。
    生態系列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。

    千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。

    魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。
    日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。

    江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
    全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

    • 1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出
      この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
    • 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻
      占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
    • 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める
      ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
    • 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
    • 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
    • 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
    • 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す
      同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
    • 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
    • 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
    • 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる
      この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
    • 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。
    • 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
    • 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
    • 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
    • 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
    • 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定した。
      その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。
    • 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。
    • 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。
    • 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。
    • 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。
      しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。
      北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。
    • 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。
    • 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。

      また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。

    • 1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
    • 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
      同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
      しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
    • 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。
    • 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。
    • 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。

      1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。

      フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。

      ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。

      2.竹島問題

      竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。

      竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。

      明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。

      島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。
      竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。


      (島根県)

      1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。
      日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。

      経 緯

      • 1618(元和4)年:伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛ら幕府から許可を得て竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)に渡航。
      • 1692(元禄5)年:鬱陵島(当時日本では「竹島」と呼ばれていた)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
      • 1696(元禄9)年:江戸幕府が鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が鬱陵島・于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
      • 1849(嘉永2)年:フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩とも呼ばれる)。
      • 1877(明治10)年3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
      • 1900(明治33)年10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道の郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
      • 1904(明治37)年2月6日:日露戦争が勃発。
      • 1904年8月23日:第一次日韓協約が締結。
      • 1904年9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
      • 1905(明治38)年1月28日:本項で詳述されている島について、日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
      • 1905年5月27日-5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
      • 1905年11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
      • 1910(明治43)年8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
      • 1914(明治47)年:鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
      • 1940(昭和15)年8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
      • 1945(昭和20)年9月2日:日本政府がポツダム宣言を受諾。
      • 1945年11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管。
      • 1946(昭和21)年1月29日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN(SCAP Institutions)677号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」)により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された。
      • 1946年6月22日:連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」)によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた。
      • 1948(昭和23)年8月13日:大韓民国建国。初代大統領に李承晩就任。
      • 1951(昭和26)年8月10日:ラスク書簡により「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された。
      • 1952(昭和27)年1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言。
      • 1952年4月28日午後10時30分(日本時間):サンフランシスコ平和条約が発効
      • 1953(昭和28)年1月12日:韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
      • 1953年2月4日:第一大邦丸事件。済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。この竹島問題によって、日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。
      • 1953年4月20日:韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯した。
      • 1953年6月27日:日本国海上保安庁と島根県が竹島の調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建てる。難破後、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
      • 1953年7月12日:竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船に発砲。以後、韓国は竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近を認めていない。日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、韓国側は「内政干渉」として退けている。
      • 1954(昭和29)年8月15日:朝鮮戦争を共に戦ったジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として使節団を率いて極東各国を歴訪し、ヴァン・フリート特命報告書を作成。竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を、非公式に韓国に伝達した等の事を大統領に報告した。
      • 1954年9月25日:日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案したが、韓国政府はこれに応じず。
      • 1954年11月30日:韓国側が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃をくわえる。
      • 1956(昭和31)年4月:韓国警察鬱陵警察署警官8名が島に常駐。
      • 1956年12月25日:独島義勇守備隊解散
      • 1965(昭和40)年:日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が調印され、李承晩ラインが廃止された。竹島問題は紛争処理事項であるとされたが、その後韓国は竹島の領有問題は紛争処理事項でないとの立場を取り、交渉のテーブルに着いていない。
      • 1977(昭和52)年2月5日:福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と発言。
      • 1982(昭和62)年11月16日:韓国、竹島を天然保護区域に指定(独島天然保護区域)。
      • 1997(平成9)年11月:韓国、500トン級船舶が利用できる接岸施設設置。日本政府は抗議。
      • 1998(平成10)年12月:韓国、有人灯台設置。日本政府は抗議。
      • 2004(平成16)年1月:韓国、竹島を図柄にした切手を発行。日本政府は抗議。
      • 2004年2月17日:日本郵政公社、竹島の写真付き切手の発行を拒否。
      • 2004年3月1日:「我が国最東端の領土」と韓国側がテレビ中継を実施。
      • 2005(平成17)年3月16日:島根県議会が、竹島の日条例を可決。
      • 2005年6月9日:慶尚北道議会が島根県に対抗して10月を独島の月とし、日本との交流を制限する条例を制定。
      • 2006年4月6日:ヨルリン・ウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員がラジオ放送にて国際法上で領土紛争地域化する戦略を発表。

        日本国外務省
        サンフランシスコ講話条約における竹島の扱い1.1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。2.この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。3.この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答し、韓国側の主張を明確に否定しました。「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。4.また、ヴァン・フリート大使の帰国報告にも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の結論であると記されています。
        以上

      3.尖閣諸島

      尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

      同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

      従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。

      なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。

      また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

      出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他