村岡山名氏ゆかりの兵庫県香美町村岡区に行って来ました。
村岡陣屋が置かれた御殿山
あいにく雪で断念しました。また別の機会に行きたいと思います。
武家屋敷
住んでおられ、手入れが行き届いています。
村岡山名氏菩提寺の法雲寺
平安会館に2泊しました。御所の西側でKBSの隣の閑静な場所。向かいは蛤御門があります。
もともと公卿の屋敷跡だったそうです。
レストランにて中庭を眺めながら夕食
これまで一人旅っていっても、いろいろな団体や会に所属していたから最近になってのこと(といいても放送大学試験で来ているからだが)。わいわい賑やかに食事していた思い出が多すぎて、隣のカップルと私一人だけのフロアはせつない、とおもいつつこれもいいかと。
平安会館は御所の禁門の変前のKBS京都の隣りの烏丸通りの静かな場所に位置する。試験会場は堀川通りのリーガロイヤル京都前なのだけど、御所に行きたくてここをとった。(楽天トラベルでたまたまその日が格安だったからこともある…)
お風呂は部屋以外にも別に和風浴場がある。たまたま2人しか入っていなかった。湯船は広いしなかなかいい。
平安会館ページより
○平安時代
天皇の台所を預かる内膳司に勤務する役人の宿舎である内膳町が置かれる。昭和53年の発掘調査により、井戸、掘立柱建物、陶器等数万点に及ぶ出土品あり。
○戦国時代
織田信長の築城による旧二条城に関係あり。
旧二条城は、当館の南方にあったと推定されているが、当館の敷地からも石仏を転用した石室や織田家の紋所である木瓜文等が出土した事から、関係していたことがうかがえる。
○安土桃山時代~江戸時代
糸商人松屋三郎右衛門が居住。
「慶長九年白糸六十斤入」等と書かれた木札が出土。
○江戸時代~明治時代
公家屋敷が置かれる。
宝永二年1705年京町絵図によると「九条大納言御連中」とある―御連中とは御婦人の意。
慶応四年1868年京町絵図によると「醍醐殿」とあり、醍醐家は清華家(摂政、関白にもなれる家柄の総称)の家柄であり、公家の中では上の下に位置する。
○明治以降
日の出新聞(戦後京都日々新聞と合併し、今日の京都新聞となる)社長→長瀬産業社長→昭和27年支部買収
http://www.heian-kaikan.com/J/heian.html
付近にコンビニがなく、同志社大学がある今出川までいかないとないから、歩くとつらかった。
まあ昔は草莽崛起の志士たちもそのような思いでこの御所通りを歩いていたのかどうかしらないが、そんな距離以上に京都市中を夜ごと歩いていたのだから、なんて、ロマンにチックに考えるほどの年でもないのですが。
県道から森尾地区を望む
豊岡市森尾字市尾
この古墳の発見は、但馬地方でもっとも早く大正年間の工事中に発見されて以来、地元研究者や大学の研究者が何回となく取りあげていました。その時すでにいくつかの遺物が発掘されています。そして但馬地方が考古学的に論及されるのは、ほとんどこの森尾古墳だけであったのが最近までの状況でした。1墳丘3石室となっており、埋葬施設は3基の竪穴式石室です。
また、昭和51年8月~平成6年3月30日に行われた「森尾古墳確認調査概要報告」(豊岡市教育委員会)で、古墳の構成や出土遺品などを考慮すると、この古墳自体が新旧で使われていたものであろうと考えられています。~森尾古墳を但馬最古の古墳と位置づけ、県下でも最古の一群に入れられるものとして考えられてきました。
ところが、近年森浩一氏が消滅したとされる森尾古墳の墳形について、ひとつの可能性として長方形説を打ち出し基底部が残存しているのではないかとの指摘もあわせて行ない、さらに本村豪章氏も「前期古墳の諸様相」を著して森尾古墳の再検討をも行ない、今後の発掘調査等によらなくてはならないとしながらも、大胆に方墳あるいは前方後方墳の可能性を指摘していました。
三角縁神獣鏡の謎
画像:「三角縁神獣鏡」雲南市 神原神社古墳-島根県立古代出雲歴史博物館蔵
※画像:島根県立古代出雲歴史博物館は見学いたしましたが、館内撮影禁止のため、古代出雲歴史博物館HPからお借りしています。
森尾古墳が全国的に有名になったのは、発掘された二面の青銅鏡で、「三角緑神獣鏡」で卑弥呼の鏡ともいわれており、北近畿で最古の鏡であることが分かり、北部九州並みの大陸との関係が指摘されました。
神獣鏡(しんじゅうきょう)とは、古鏡の銅鏡の区分のひとつで神仙界の理想郷を図文化した鏡。鏡の裏の文様が神像と獣像とを半肉彫にしたものを主として組み合わせた文様を持つものがこう呼ばれています。鏡の縁の断面が、平たくなっている平縁(ひらぶち、へいえん)式と、三角形になっている三角縁式(さんかくぶち、さんかくえん)とに大別され、特に三角縁式のものは、魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼に下賜した銅鏡にあたると言う説があることで知られています。
三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された銅鏡は四面あります。
島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡
群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳
兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳
山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳
神原神社古墳出土の「景初三年」鏡以外の三古墳から出土したものは同型の「正始元年」鏡です。これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式。
また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」と同じであることがわかりました。
もう一面は、1917年に出土した「方格規矩四神鏡」は、約二千年前の紀元前後、中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれています。
森尾古墳の三角緑神獣鏡は、北近畿最古の鏡で、山口県竹島御家老屋敷古墳で出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」や蟹沢古墳(群馬県高崎市)と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年(240)は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。それらが遠い距離を隔てて別の地点で出土していることから、ある政治的な意志で1か所から配布されたのではないかとも説明されています。
従来、三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、銘文に「景初三年(239)」「正始元年(240)」などの魏の年号や「陳氏」「張氏」「王氏」など中国人の作者名があり、図像文様からみても明らかに中国鏡の特徴を持っています。このため、三角縁神獣鏡は3世紀中葉の魏で作られ、卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」にあたると考えられ邪馬台国畿内大和説の有力な根拠とされてきました。
しかし、三角縁神獣鏡は中国本土ではいまだ1枚も出土していないことや、魏の元号が改元されて存在しなかった「景初四年」銘の鏡が見つかったことから、最近ではこの三角縁神獣鏡は日本製との見方が強まっています。しかも、これまで中国で出土した神獣鏡は、魏が支配した北中国に少なく、呉の領域とした南中国に多いことから、三角縁神獣鏡は神獣鏡をつくる伝統のない魏の製作ではなく、呉の鏡工人が日本に渡来して製作した説を、中国考古学者の王仲殊は唱えたのです。
しかし、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(239)に画文帯神獣鏡をモデルとして三角縁神獣鏡がつくりだされたことは確かであり、「銅鏡百枚」のなかにそれが含まれていたであろうことも容易に推測できます。
三角緑神獣鏡は倭王権の誕生を示すものなのか
したがって、卑弥呼が若い頃に入手した画文帯神獣鏡は、近隣の首長に分配しただけですが、晩年に入手した三角縁神獣鏡は、分配域が九州から関東まで大きく拡大しました。それは邪馬台国を盟主とした倭王権の誕生を意味するものでしょう。
1953年、鉄道工事中に京都府椿井大塚山古墳で32面以上の三角縁神獣鏡が出土しました。調査に関係した小林行雄氏は、4組9面の同笵(どうはん)鏡があることを見つけ、もし鏡は一枚ずつバラバラの状態で入手されたのなら、偶然が重ならない限り起こりえないから、それがセットにまとまった状態でもたらされたと考えました。そして、日本全国の三角縁神獣鏡に42個の同笵(どうはん)鏡であることを確かめ、それが九州から関東まで広がっていること、椿井大塚山古墳を中心に畿内と地方の間で分有され、地方だけの分有関係はほとんどないことを明らかにしました。そこから、三角縁神獣鏡は畿内の倭王のもとに一括保管されたのち、椿井大塚山の首長が各地の首長にたいして分配したと考えました。さらに4つの違う形式ごとに分布の偏りがあることから、数回に分けて配布され、倭王権と地域首長との政治的関係が成り立つことによって各地に古墳が出現したと論じました。
1998年には奈良盆地東南部の黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土しました。7組15面も同笵(どうはん)鏡がみつかり、九州から関東にわたる39古墳と同笵(どうはん)鏡を分有しています。倭の中枢部から多数の同笵(どうはん)鏡が出土したことにより、小林行雄氏の同笵(どうはん)鏡論は揺るぎないものとなりました。
しかし、椿井大塚山の首長が同笵(どうはん)鏡を配布したという考え方は、加茂岩倉から39個の銅鐸に15組26個の同笵(どうはん)関係が確かめられたように、出度数か多くなれば、それだけ同笵(どうはん)関係の中心になるのは当然で、椿井大塚山と黒塚の被葬者は、倭王から相当の数の銅鏡を下賜された有力者であったのでしょう。
神仙と霊獣の図像の外縁に「景初三年」を含む銘文41文字が鋳出されています。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の年号「景初三年(239年)」という銘のある銅鏡は、大阪の和泉黄金塚古墳とともに全国でわずかに二例が知られるのみです。
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豊岡市引野
90墓近い円墳が造られています。2008年11月29日に訪ねました。
大師山は標高100mほどの細長い丘陵で、円山川と出石川に挟まれた豊岡平野が見渡せる見晴らしの良い場所で、すぐ近くに葦田神社があります。しかも気多神社や楯縫古墳と出石神社を結ぶ中間にあるのが意味深いです。
竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、半島南部の伽耶(かや)地方にみられ、引野がかつて加陽(カヤ)郷と呼ばれる地であったことと考えあわせて興味深い。
古墳時代に朝鮮半島から渡来した人たちが、ここに墓を造り、故国の基制をまねたと考えると想像がふくらんでいく。