地方自治-1

日本の国家と地方自治

目 次

  1. 日本の国家としての歴史
  2. 日本の政府
  3. 君主制と共和制
  4. 連邦制と単一国家
  5. 立憲主義

3.君主制と共和制

君主制(英:Monarchy)は君主が支配する統治形態(政体)です。君主政とも言います。連邦は、複数の国家、またはそれに相当する強い行政上の権限を有する政府によって統治される州の集合であり、それらが1つの上位政府によって統治される国家様態です。中央政府から距離を取り連邦制を主張または擁護する立場を連邦主義といいます。
これに対して、共和制(英:republic)は、国家に君主を置かない政体。君主制に対置される概念です。共和政ともいいます。共和制を取る国家のことを共和国といいまう。また、共和制を国家のあるべき姿だとする思想のことを「共和主義」といいます。一般に共和制では、国家の元首は君主ではなく、国民により選出されます。

4.連邦制と単一国家

地域間の民族的相違や国家の大きさなどを考慮して権力を分立させる考え方であり、その現実の形が「連邦制」です。州(アメリカ合衆国)、ラント(ドイツ連邦共和国)、共和国(ロシア連邦)などと呼ばれるいくつかの支分国が集まり、一つの主権国家を構成しますが、その際に中央政府への過度の権力集中を防止するために、中央政府と地方政府との間の合意に基づいて、憲法において両者の間の権限分配に関して明確に規定しています。ただし中央政府と地方政府との間で権力の衝突があるような場合には、中央政府が優越するという原則があります。

主権が中央政府と政治的構成単位(州や地方など)との間に分割され、多くの場合連邦と呼ばれる体制を形作るような政体。とりわけ広大な国家や多民族国家など、地域的、民族的、また歴史的な多様性が見られる場合には、連邦制は対外的統一性と、国内的な分権性という両立させることができる制度であると考えられるため、採用されることが多いもの。対外的な、主として外交・国防部門での強固な統一性と、国内的な、主として民政部門での各構成単位の確固とした独立性の留保が、矛盾なく両立されることが目指されます。アメリカ合衆国、アラブ首長国連邦、ドイツ連邦共和国など、連邦制を敷いている国家は、地方分権的傾向が大きいとされています。また広義では現在のヨーロッパ連合(E.U.)の強い連邦政府(中央政府)と弱い国家政府を指します。

比較的領土の大きな国や、歴史的に数多くの君主国や都市国家が並立していた時代が長かった(ドイツなど)、革命の過程で誕生した多民族国家が統合したソビエト連邦などなどで(ソビエト連邦はロシア連邦に)、他には2つの主権国家が統合して1つの国家となったアラブ連合共和国、英国の植民地であった13州が統合したアメリカ合衆国など、連邦国家には幾多もの成り立ちがあります。ただし、国によっては連邦制が形骸化している場合があります(アルゼンチンなど)。このような連邦制では、基本的に国家としての立法権や執行権及び司法権はすべて中央政府に集中されており、それに対して、場合によっては中央政府の意志として国家機能の一部が地方政府に委譲されているような国家を「単一国家」と呼びます。例としてはイギリスやフランスであり、日本もそのような単一国家として分類されます。
歴史的には連邦国家においても中央政府の権力の拡大という現象が見られました。しかし今日では連邦国家か単一国家かに関わらず、参加民主主義への指向や各地方の住民のニーズの多様化、行政の効率化などに対応する形で、地方分権の流れが一般的となっています。

5.立憲主義

民主化の程度の高い国においては、統治に当たる者の権力行使を防止し、国民の権利と生活を守るための仕組みとして、代議制を駆動させる両輪として、選挙制度と政党があります。この他にも権力行使を抑制する制度としてまず、近代国家の最も基本的な仕組みが立憲主義です。憲法をはじめとした法による制限を通じて、統治者による権力行使を防止し、個人の権利や自由を擁護しようというものです。立憲主義の歴史は、1215年、イギリスで制定されたマグナカルタにはじまるとされています。それ以降、世界で最初の現代的民主国家であるアメリカ合衆国の独立宣言(1776年)や絶対王政を打倒したフランスの人権宣言(1789年)などによって、民衆によって選出された指導者によるワンマンな権力行使を抑制する近代的な立憲主義が確立していきました。

さらに、権力を分立させて相互に抑制と均衡の役割を担わせる仕組みが。いわゆる「三権分立」です。国家の主要な統治機構としての立法府、行政府、司法府の三つですが、それぞれ異なった人間や党派に担当させることによって、多数派による少数派に対する横暴を防ごうという狙いもあります。

立法府は国権の最高機関ですが、世界の多くの国は「一院制」であり、日本のように「二院制」を採用している国の2倍弱の約120ヶ国です。
フランス革命の指導者の一人であるアベ・シェイエスは、1789年に二院制を否定する言葉を残しています。

「第二院は何の役に立つか。もし第二院が第一院に一致するならば、それは無用な存在であり、第一院に反対するならば有害な存在である。」
というものです。平民である第三身分の立場を擁護するシェイエスにとって、第三身分こそがすべてであったのであり、人民主義を代表する議員に対しては何らかの抑制も加えられるべきではないと考えていたからです。

しかし、立法府を二つの院で構成することにも一定の合理性があります。モンテスキューも立法府を二院制で構成することを主張しました。優れた少数派としての貴族と多数派としての人民といった階級的な差異を反映した二院制によって、少数者に対する多数者による権力濫用に対して一定の抑制を施す仕組みということで、今日このイギリスの「貴族院型」と呼ばれる、選挙によって選ばれる代表によって構成される庶民院(下院)の方の権限が、王による勅撰で選ばれる議員によって構成される貴族院(上院)よりも強い。

この貴族院型に対して、権力の濫用防止といった観点だけでなく、慎重な審議や第二の見解の用意といった観点から第二院が存在している場合もあります。これを「参議院型」と呼び、両院の議員が国民の直接選挙で選ばれる場合には、その権限は比較的に対等です。日本がその例です。衆議院の優越がいわれていますが、予算案の決議、条約の批准、首班指名を除いて通常法案においては両院はほぼ対等な関係にあります。
二院制はさらに連邦制型と呼ばれる形態も存在します。アメリカがその典型で、国民を代表する院が下院であり、各州の利益を代表する院が上院です。

2.日本の政府

日本は天皇を君主とし議院内閣制の立憲君主国になります。国家に君主を置かず、国家の元首は国民から選ばれる(大統領など)政体である共和制国家とは異なります。対外的な、主として外交・国防部門での強固な統一性と、国内的な、主として民政部門での各構成単位の確固とした独立性の留保が、矛盾なく両立されることが目指されます。

地方分権とは、特に政治や行政において、国家権力を地方自治体に移して分散させる体制を指す。政治・行政以外の組織体では、分権組織と呼ぶ場合もある。対義語は中央集権。

日本において中央集権国家が成立した時期は、律令制の時代や明治維新の時代が代表的です。
律令制によって朝廷は中央集権化を目指しましたが、荘園制度の崩壊から平安時代の終わりころには国府は衰えて守護大名が台頭支配しています。
江戸時代の日本は、幕府という中央政府は存在するが、藩という「地方王国」に権限が下ろされていました。ただし、藩の大名は、参勤交代による江戸への出張や、幕府の公共事業への強制的な出費や参加も命じられており、半ば中央統制的な面も有していました。明治維新で廃藩置県が実施されると、強固な中央集権体制を作り上げ、135年が経った現在も変わっていません。2000年施行の地方分権一括法では、機関委任事務が廃止され、国家と地方公共団体が名目上では対等な関係とされています。しかし、中央政府主導で基礎自治体を合併させるなど、上から強制する姿勢で、「地方自治」と相容れない現象も起きています。

たじまる 地方自治-INDEX

地方分権薄桜(うすざくら)#fdeff2最初のページ戻る次へ
1.日本の国家と地方自治
2.アメリカの地方分権
3.ヨーロッパの地方分権
4.日本の政治との比較
5.地方分権と市町村合併の歩み
6.日本の地方分権
7.北近畿の地方自治
8.北近畿地方の都市圏
9.政治と非政治のあいだ
 歴史を探る第一には、現在を考え、将来を見据えるためにある。経済のグローバル化や環境・災害の問題、戦争や生命の問題、家族の崩壊、人口問題など、今日、多くの問題に直面している。過去に遡って見てこそ現状が分かる。過去と現在と未来を結んでいるのが歴史である。
同じような問題や課題を、先人たちがどう考え、どう対処して生きてきたのかを探ることも極めて重要なことであって、生きるヒントが見出せることになる。歴史の事実が正しい評価によって必ずしも動いているわけではない。そこに多様な物の見方を養う必要がある。
歴史は人間が描くもの、歴史の転換点における人間の動きについて、さらに世界の歴史は、近代世界が形成されて大きく変化してきた。人と歴史がどうか変わってきたのかを考える。

北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

北近畿鉄道物語

北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道がさらに福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきた。ことは、山陰線を舞鶴から鳥取までどう通すかということを決める辺りから始まっている。

当初、山陰線は軍港舞鶴と豊岡を鉄道でつなぐという構想でスタートした(鉄道敷設法)。丹後地区が敏感に反応し、期成同盟などの取組みがあったが、どうやら海岸線は艦砲射撃にやられるというような発想があったらしく福知山経由となったようだ。しかし、平坦部が少ない山陰海岸は難工事ではあったが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた播但鉄道から、鳥取まで延伸する計画となった。当初は、豊岡駅から舞鶴までは峰豊線(現:北近畿タンゴ鉄道宮津線)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルート構想もあった。鳥取県郡家町郡家(こおげ)駅を起点として若桜町までは敷設できており(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)、海岸線は敵国艦隊から砲撃を受ける危険性があるため内陸を通す計画であった。
ここで注意すべきは、この時点では出石は沈黙していることだ。というより、当時の全国の鉄道新設で見られたように、鉄道を拒否していたのではないだろうか。それで結局、(思惑通り)出石に鉄道延伸はなかった。山陰線が開通し始めると、やっぱり鉄道が欲しいということになり、出石・日高で個別に鉄道敷設の行動が起る。

また別に、大正初期に宮津から若桜までの当初の山陰本線最短ルートを実現させようと考えた、とんでもない人物が、「大正の大風呂敷」と言われた日高町長(当時日高村)だった故藤本俊郎村長である。
彼はすでに営業されていた出石軽便鉄道の株主の一人であり、さらに江原駅から村岡へ抜ける鉄道敷設を計画して、江原駅を東西南北を走る交通の要所にしたいという構想を抱いていた。彼はこの事業以外にも銀行設立や阿瀬電力など事業家であった。実際に豊岡町や近隣町村の猛反対にも遭いながら、国会議員の支援も取り付けた。

但馬鉄道敷設工事跡(日高町久斗・現在は市道になっている)

軽便鉄道敷設工事(但馬鉄道)は三方鉱山(日高町十戸)から十戸あたりまで完成していく。また丹後山田から加悦まで鉄道は延びており、出石鉄道まで延長するという計画で、藤本村長は旗振り役となり自らも事業家として私財を投げ売り夢見た計画だった。

餘部(あまるべ)橋梁

ところが不運なことに大正の世界的な大恐慌が始まってしまう。藤本は鉄道敷設を町民の出資でまかなおうとしたが、藤本自らの政治失脚などもあり、結局は頓挫している。海岸ルートに決まったころ、鳥取まで開通した山陰西線と竹野まで開通していた山陰東線は、最大の難所である山陰海岸(浜坂・香住間)を残すのみとなった。そして餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、開通したのが現在のJR山陰本線である。


桃観トンネル

出石軽便鉄道

そしてその大ロマン但馬鉄道計画の面影を今に伝えているのが、京都府野田川町の丹後山田駅を起点として、加悦町加悦までを走る加悦鉄道(廃線)と、鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町わかさ駅を終点とする若桜鉄道(旧JR若桜線)、出石鉄道跡、但馬鉄道跡である。

出石軽便鉄道廃線跡(日高町上郷・現在は市道になっている)

出石鉄道(いずしてつどう)は、かつて兵庫県に存在した軽便鉄道路線およびその運営会社。路線距離(営業キロ):11.2km、軌間:1067mm、駅数:7駅(起終点駅含む)。但馬の小京都と呼ばれた出石町(現在の豊岡市出石町)と山陰本線の江原(JR江原)を結ぶべく1918(大正7)年7月20日 出石軽便鉄道敷設免許申請。発起人は、日高村長藤本俊郎、出石桜井勉以下78名連名。

1920年(大正9年)に会社が設立され、紆余曲折の末に昭和4年(1929年)、地元住民の出資により軽便鉄道(貨物には蒸気機関車・旅客車はガソリンカー)として開通したが、経済不況や自然災害などにより営業不振が続きた。

1938(昭和13)年、江原自動車を買収し、自動車運輸営業権を得る。

そして太平洋戦争下の昭和19年(1944年)に国により不要不急線として営業休止に追い込まれる。

終戦後、路線復活の動きもあったものの、結局昭和45年(1970年)に正式に廃線となった。事業会社としての出石鉄道では、バスの運行や、営業休止の賠償としてトラックを入手し、運輸事業等も行っていたが、全線運休後に全ての事業を停止した。

出雲-6 出雲大社

出雲大社

1.出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)

くわしくは出雲大社 http://www.izumooyashiro.or.jp/をご覧ください。

画像:丹後広域観光キャンペーン協議会


島根県出雲市大社町杵築東195

式内社(名神大) 出雲国一宮 旧社格は官幣大社

近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。

御祭神 「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」
古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評されました。もともとは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていましたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しました。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列しています。
出雲大社は「天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)、杵築大社(きずきのおおやしろ)ともいわれています。

祭神大国主命は「大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)」などの別名で呼ばれています。

わが国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきました。神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。

「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。


巨大な注連縄

オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから「縁結びの神」と讃えられています。
むかしから大地が秘めている生成の力を「ムスビ」という言葉であらわし「産霊」という文字をこれにあてています。この神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える「えにし」を結んでいただけるのです。

「オオクニヌシノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。」

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。


【国宝】 本殿

陰暦の10月を神無(かんな)月という。全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。

創建伝承

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。以下はその主なものでありますが、

  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
  • 垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)


古代本殿 島根県立古代出雲歴史博物館展示物

これは豊岡市久々久比(ククヒ)神社や鳥取部の伝承と同じです。

  • 斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)
    o 注:熊野大社のことであるとの説もある。伝承の内容や大社の呼び名は様々ですが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。


島根県立古代出雲歴史博物館展示物

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られました。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられています。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。平安時代の「口遊」(源為憲著、天禄元年・970成立)には、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで「一番出雲大社、二番東大寺大仏、三番京太極殿」を意味し、その巨大性を示す有力な証となっています。

16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もありますが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ないそうです。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もあります。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まりました。

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出雲大社

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

出雲大社

目 次

  1. 出雲大社
  2. 相撲と埴輪(はにわ)の起源

1.出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)

くわしくは出雲大社 http://www.izumooyashiro.or.jp/をご覧ください。


島根県出雲市大社町杵築東195

式内社(名神大) 出雲国一宮 旧社格は官幣大社

近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。

御祭神 「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」
古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評されました。もともとは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていましたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しました。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列しています。
出雲大社は「天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)、杵築大社(きずきのおおやしろ)ともいわれています。

祭神大国主命は「大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)」などの別名で呼ばれています。

わが国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきました。神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。

「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。

巨大な注連縄
オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから「縁結びの神」と讃えられています。
むかしから大地が秘めている生成の力を「ムスビ」という言葉であらわし「産霊」という文字をこれにあてています。この神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える「えにし」を結んでいただけるのです。

「オオクニヌシノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。」

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。


【国宝】 本殿

陰暦の10月を神無(かんな)月という。全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。


創建伝承

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。以下はその主なものでありますが、

  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
  • 垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)


古代本殿 島根県立古代出雲歴史博物館展示物

これは豊岡市久々久比(ククヒ)神社や鳥取部の伝承と同じです。

  • 斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)
    o 注:熊野大社のことであるとの説もある。伝承の内容や大社の呼び名は様々ですが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。


島根県立古代出雲歴史博物館展示物

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られました。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられています。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。平安時代の「口遊」(源為憲著、天禄元年・970成立)には、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで「一番出雲大社、二番東大寺大仏、三番京太極殿」を意味し、その巨大性を示す有力な証となっています。

16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もありますが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ないそうです。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もあります。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まりました。

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たじまる 出雲-5

神話に隠された謎

1.神話に隠された謎

『古代史 秘められた謎と真相』関 裕二氏によると、
「因幡の白ウサギ」「ヤマタノオロチ」はどれもこれも、牧歌的な昔話のようにみえる。
ところが、ここに大きな落とし穴があった。

権力者が歴史書を記す、ということは、実に政治的な行動で、その目的はただ一つ。自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流すことにある。そのためには、詭弁、曲解、矮小化、改ざん、捏造と、ありとあらゆる手段を駆使して、政敵を避難し、自らの正義を主張した。
つまり、歴史書とは、権力者の「弁明の書」であり、「正当性(正統性)の証明」の書に他ならなかった。また「神話」は、彼らの「原罪」を振り払うに格好の材料となったわけである。それは神の世界にまでさかのぼり、権力者は正当性の証明にチャレンジしたのだ。

『日本書紀』編纂に政治的圧力を加えた人物は、具体的に特定できる。それが藤原不比等だった。
この人物は、女帝持統に大抜擢され、めきめきと頭角を現した。やがて、誰も逆らえないほどの体制を確立し、また藤原千年の繁栄の基礎を築いたことで知られている。藤原氏がもっと早く没落していれば、本当の歴史は復元されていたかも知れないが、千年はちょっと長すぎた。

伊勢神宮の祭神アマテラス(天照大神)は日本で最も尊い神と信じられているが、ネタばらしをすれば、これは、藤原不比等を重用した女帝持統をそのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものに他ならない。
神話のなかでアマテラスは、子ではなく、孫を地上界に降ろして王にしようと企てたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統の生涯に当てはまってしまう。このアマテラスの天孫降臨を手助けしたのがタカムスヒという神だが、この神の行動も、藤原不比等そっくりで、なんのことはない、神話には、七世紀から八世紀にかけての、持統天皇と藤原不比等が新体制を確立したその様子と、これを正当化するための物語がちりばめられているわけである。
そう考えると、何ともアホらしくなってくるのだが、歴史なんて、所詮そんなものだ。

2.神話に秘められた二重構造

伊勢神宮の祭神アマテラスが持統天皇そのものとしても、この話にはもう一つ裏がある。
伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が、アマテラスとトヨウケ(豊受大神)という。伝承によれば、はじめアマテラスが祀られていたが、「独り身で寂しい」という神託が降って、それならばと、丹後半島からもう一柱の女神トヨウケが連れてこられた、というのだ。
どうにも不審なのは、出来すぎた話ながら、伊勢神宮の二柱の女神は、邪馬台国の二人の女王とそっくりなことなのだ。

なぜそうといえるのかというと、まず重要なのは、アマテラスの別名がヒミコに通じていることだ。『日本書紀』には、大日霎貴(おおひるめのむち)と記されていて、この「日霎」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、「ヒノミコ」は「ヒミコ」そのものとなる。一方、外宮のトヨウケも、邪馬台国のヒミコの宗女で、やはり女王として君臨したトヨ(台与)の名を冠していたことになる。こんな偶然、ありうるだろうか。

ヤマト建国と邪馬台国の時代は重なっている。日本を代表する神社に、ヤマト建国前後の女傑が祀られていたとしても、何ら不思議ではない。
逆に不思議なのは、『日本書紀』のほうだ。

アマテラス(ヒミコ)とトヨウケ(トヨ)が伊勢神宮で祀られているほどの古代の有名人だったのであるならば、なぜ「歴史」に二人を登場させなかったのだろう。少なくとも、正式に魏から「倭国王」のお墨付きをもらった二人であるならば、ヤマトの王家の正統性を証明するのにうってつけの人物だったはずなのだ。

ところが『日本書紀』は、ヒミコを神格化してアマテラスとし、かたやトヨ(トヨウケ)にいたっては、まったく無視してしまった。さらに『日本書紀』は、アマテラスに持統天皇の姿もだぶらせ、神話のなかに二重構造をつくり出してしまっている。邪馬台国のヒミコを丁重に祀らねばならないが、その正体を後世に伝えられない、というジレンマが『日本書紀』にはあるかのようだ。

3.出雲は祟る?

つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。

ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。

「実在したのに神話の世界に封印されてしまったのなら、出雲は『日本書紀』を編纂した八世紀の朝廷にとって邪魔だったのではないか?…そうであるなら、なぜ出雲に関する神話が多く取り上げられているんだろう?」

出雲は三世紀のヤマト朝廷建国に一肌脱いでいて、『日本書紀』もこの辺りの事情をしぶしぶ認めている経緯が感じられます。

たとえば、実在した初代天皇とされる崇神(すじん)天皇の時代、ヤマト最大の聖地、三輪山に祀られる出雲神・大物主神を、「倭(ヤマト)を造成した神」と讃えています。
『日本書紀』のなかで、これ以降も出雲神はたびたび登場し、しかもよく祟っています。朝廷はそのたびに、出雲神を丁寧に祀っていました。
いったい、出雲のどこに、秘密が隠されているのでしょう。

4.「神」と「鬼」の二面性

日本では八百万(やおよろず)の神といい、それはキリスト教世界ではありえないのです。神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。これに対し、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。

日本人はなんの抵抗もなく、総指揮を仏式で、お盆を日本の土着の風習(先祖の霊を招くというのは仏教ではない)で過ごし、クリスマスはキリスト教と、まったく節操なく数々の宗教行事を行っています。この様子をキリスト教やイスラム教徒からみれば、目を丸くするに違いありません。
しかし、多神教的風土にどっぷり浸かっている日本人にとって、仏陀もキリストも、どれもその他大勢の神々の中の一つに過ぎません。日本人の新し物好きの根源も、このあたりに原因がありそうです。

多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

しかし、多神教にも長所はあるのです。物事を善悪という単純な物差しで測るのではなく、すべてには二つの側面があるという発想は、自分たちの主張だけが正しい、という一神教的発想とは隔絶しています。また、神が世界を創造し、その神の教えに従う人間がこの世界を支配できるという発想が一神教なのです。これに対し多神教は、宇宙、大自然との共存を考えます。

このようにみてくれば、多神教は野蛮なのではなく、むしろ、これからの世界に必要な考えなのではないかと思えてきます。

神話の多くは荒唐無稽で取るに足らない話ですが、だからといって、すべての話に意味がないというわけではないようです。それどころか、多くの謎かけとカラクリが隠されています。天皇家の祖神が高天原から地上界に舞い降りたという「天孫降臨」がそのいい例です。

だいたい、ヤマトに直接飛び降りてくればいいのに、わざわざ南部九州に舞い降りたこと自体がどうにもうさん臭いのです。皇祖神は日向の地でしばらく過ごし、そしてニニギの末裔の神武天皇がここからヤマトに向かった話が、「神武東征」です。一般に、これら天孫降臨から神武東征にいたるストーリーは、まったくでたらめだ、と考えられています。天皇家の歴史を古く偉大に見せかけたものに過ぎない、というのです。

どうにも腑に落ちないのが、『日本書紀』が天皇家の歴史を誇示しようとしたのなら、なぜ天孫降臨の地を南部九州に決めたのか、ということです。ヤマト朝廷が誕生する以前、日本列島でもっとも繁栄していたのは、なんといっても北部九州でした。朝鮮半島に近いという地の利を生かし、交易によって富を蓄えていました。このため、ヤマト朝廷は北部九州の勢力が東に移って完成したのだろうという考えが強いです。だから、皇祖神が天孫降臨したという話なら、むしろ北部九州や出雲の方がふさわしいのです。

しかも、『日本書紀』は、南部九州に「熊蘇(くまそ)の盤踞する未開の地」というレッテルを貼っています。熊蘇(隼人)はたびたび朝廷に逆らい、討伐される者どもとして描かれています。したがって、皇祖神は的のまっただ中に降臨していたことになります。天皇家は隼人を身辺においていたし、南部九州には、かなり早い段階で、ヤマト朝廷のシンボル・前方後円墳が伝わっています。天皇家と隼人は、同族としても描かれています。史実だからこそ、南部九州が舞台になったのではないでしょうか。

出雲-5

神話に隠された謎


『古代史 秘められた謎と真相』関 裕二氏によると、

1.神話に隠された謎

「因幡の白ウサギ」「ヤマタノオロチ」はどれもこれも、牧歌的な昔話のようにみえる。
ところが、ここに大きな落とし穴があった。

権力者が歴史書を記す、ということは、実に政治的な行動で、その目的はただ一つ。自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流すことにある。そのためには、詭弁、曲解、矮小化、改ざん、捏造と、ありとあらゆる手段を駆使して、政敵を避難し、自らの正義を主張した。

つまり、歴史書とは、権力者の「弁明の書」であり、「正当性(正統性)の証明」の書に他ならなかった。また「神話」は、彼らの「原罪」を振り払うに格好の材料となったわけである。それは神の世界にまでさかのぼり、権力者は正当性の証明にチャレンジしたのだ。

『日本書紀』編纂に政治的圧力を加えた人物は、具体的に特定できる。それが藤原不比等だった。
この人物は、女帝持統に大抜擢され、めきめきと頭角を現した。やがて、誰も逆らえないほどの体制を確立し、また藤原千年の繁栄の基礎を築いたことで知られている。藤原氏がもっと早く没落していれば、本当の歴史は復元されていたかも知れないが、千年はちょっと長すぎた。
伊勢神宮の祭神アマテラス(天照大神)は日本で最も尊い神と信じられているが、ネタばらしをすれば、これは、藤原不比等を重用した女帝持統をそのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものに他ならない。

神話のなかでアマテラスは、子ではなく、孫を地上界に降ろして王にしようと企てたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統の生涯に当てはまってしまう。このアマテラスの天孫降臨を手助けしたのがタカムスヒという神だが、この神の行動も、藤原不比等そっくりで、なんのことはない、神話には、七世紀から八世紀にかけての、持統天皇と藤原不比等が新体制を確立したその様子と、これを正当化するための物語がちりばめられているわけである。

そう考えると、何ともアホらしくなってくるのだが、歴史なんて、所詮そんなものだ。

2.神話に秘められた二重構造

伊勢神宮の祭神アマテラスが持統天皇そのものとしても、この話にはもう一つ裏がある。

伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が、アマテラスとトヨウケ(豊受大神)という。伝承によれば、はじめアマテラスが祀られていたが、「独り身で寂しい」という神託が降って、それならばと、丹後半島からもう一柱の女神トヨウケが連れてこられた、というのだ。

どうにも不審なのは、出来すぎた話ながら、伊勢神宮の二柱の女神は、邪馬台国の二人の女王とそっくりなことなのだ。

なぜそうといえるのかというと、まず重要なのは、アマテラスの別名がヒミコに通じていることだ。『日本書紀』には、大日霎貴(おおひるめのむち)と記されていて、この「日霎」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、「ヒノミコ」は「ヒミコ」そのものとなる。一方、外宮のトヨウケも、邪馬台国のヒミコの宗女で、やはり女王として君臨したトヨ(台与)の名を冠していたことになる。こんな偶然、ありうるだろうか。

ヤマト建国と邪馬台国の時代は重なっている。日本を代表する神社に、ヤマト建国前後の女傑が祀られていたとしても、何ら不思議ではない。
逆に不思議なのは、『日本書紀』のほうだ。

アマテラス(ヒミコ)とトヨウケ(トヨ)が伊勢神宮で祀られているほどの古代の有名人だったのであるならば、なぜ「歴史」に二人を登場させなかったのだろう。少なくとも、正式に魏から「倭国王」のお墨付きをもらった二人であるならば、ヤマトの王家の正統性を証明するのにうってつけの人物だったはずなのだ。

ところが『日本書紀』は、ヒミコを神格化してアマテラスとし、かたやトヨ(トヨウケ)にいたっては、まったく無視してしまった。さらに『日本書紀』は、アマテラスに持統天皇の姿もだぶらせ、神話のなかに二重構造をつくり出してしまっている。邪馬台国のヒミコを丁重に祀らねばならないが、その正体を後世に伝えられない、というジレンマが『日本書紀』にはあるかのようだ。

3.出雲は祟る?

つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。

ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。

「実在したのに神話の世界に封印されてしまったのなら、出雲は『日本書紀』を編纂した八世紀の朝廷にとって邪魔だったのではないか?…そうであるなら、なぜ出雲に関する神話が多く取り上げられているんだろう?」

出雲は三世紀のヤマト朝廷建国に一肌脱いでいて、『日本書紀』もこの辺りの事情をしぶしぶ認めている経緯が感じられます。

たとえば、実在した初代天皇とされる崇神(すじん)天皇の時代、ヤマト最大の聖地、三輪山に祀られる出雲神・大物主神を、「倭(ヤマト)を造成した神」と讃えています。
『日本書紀』のなかで、これ以降も出雲神はたびたび登場し、しかもよく祟っています。朝廷はそのたびに、出雲神を丁寧に祀っていました。
いったい、出雲のどこに、秘密が隠されているのでしょう。

4.「神」と「鬼」の二面性

日本では八百万(やおよろず)の神といい、それはキリスト教世界ではありえないのです。神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。これに対し、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。

日本人はなんの抵抗もなく、総指揮を仏式で、お盆を日本の土着の風習(先祖の霊を招くというのは仏教ではない)で過ごし、クリスマスはキリスト教と、まったく節操なく数々の宗教行事を行っています。この様子をキリスト教やイスラム教徒からみれば、目を丸くするに違いありません。

しかし、多神教的風土にどっぷり浸かっている日本人にとって、仏陀もキリストも、どれもその他大勢の神々の中の一つに過ぎません。日本人の新し物好きの根源も、このあたりに原因がありそうです。
多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。
しかし、多神教にも長所はあるのです。物事を善悪という単純な物差しで測るのではなく、すべてには二つの側面があるという発想は、自分たちの主張だけが正しい、という一神教的発想とは隔絶しています。また、神が世界を創造し、その神の教えに従う人間がこの世界を支配できるという発想が一神教なのです。これに対し多神教は、宇宙、大自然との共存を考えます。
このようにみてくれば、多神教は野蛮なのではなく、むしろ、これからの世界に必要な考えなのではないかと思えてきます。

5.神話に隠された嘘と本当

神話の多くは荒唐無稽で取るに足らない話ですが、だからといって、すべての話に意味がないというわけではないようです。それどころか、多くの謎かけとカラクリが隠されています。天皇家の祖神が高天原から地上界に舞い降りたという「天孫降臨」がそのいい例です。

だいたい、ヤマトに直接飛び降りてくればいいのに、わざわざ南部九州に舞い降りたこと自体がどうにもうさん臭いのです。皇祖神は日向の地でしばらく過ごし、そしてニニギの末裔の神武天皇がここからヤマトに向かった話が、「神武東征」です。一般に、これら天孫降臨から神武東征にいたるストーリーは、まったくでたらめだ、と考えられています。天皇家の歴史を古く偉大に見せかけたものに過ぎない、というのです。

どうにも腑に落ちないのが、『日本書紀』が天皇家の歴史を誇示しようとしたのなら、なぜ天孫降臨の地を南部九州に決めたのか、ということです。ヤマト朝廷が誕生する以前、日本列島でもっとも繁栄していたのは、なんといっても北部九州でした。朝鮮半島に近いという地の利を生かし、交易によって富を蓄えていました。このため、ヤマト朝廷は北部九州の勢力が東に移って完成したのだろうという考えが強いです。だから、皇祖神が天孫降臨したという話なら、むしろ北部九州や出雲の方がふさわしいのです。

しかも、『日本書紀』は、南部九州に「熊蘇(くまそ)の盤踞する未開の地」というレッテルを貼っています。熊蘇(隼人)はたびたび朝廷に逆らい、討伐される者どもとして描かれています。したがって、皇祖神は的のまっただ中に降臨していたことになります。天皇家は隼人を身辺においていたし、南部九州には、かなり早い段階で、ヤマト朝廷のシンボル・前方後円墳が伝わっています。天皇家と隼人は、同族としても描かれています。史実だからこそ、南部九州が舞台になったのではないでしょうか。

出雲5 神話に隠された謎

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

神話に隠された謎


『古代史 秘められた謎と真相』関 裕二氏によると、

1.神話に隠された謎

「因幡の白ウサギ」「ヤマタノオロチ」はどれもこれも、牧歌的な昔話のようにみえる。
ところが、ここに大きな落とし穴があった。
権力者が歴史書を記す、ということは、実に政治的な行動で、その目的はただ一つ。自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流すことにある。そのためには、詭弁、曲解、矮小化、改ざん、捏造と、ありとあらゆる手段を駆使して、政敵を避難し、自らの正義を主張した。
つまり、歴史書とは、権力者の「弁明の書」であり、「正当性(正統性)の証明」の書に他ならなかった。また「神話」は、彼らの「原罪」を振り払うに格好の材料となったわけである。それは神の世界にまでさかのぼり、権力者は正当性の証明にチャレンジしたのだ。
『日本書紀』編纂に政治的圧力を加えた人物は、具体的に特定できる。それが藤原不比等だった。
この人物は、女帝持統に大抜擢され、めきめきと頭角を現した。やがて、誰も逆らえないほどの体制を確立し、また藤原千年の繁栄の基礎を築いたことで知られている。藤原氏がもっと早く没落していれば、本当の歴史は復元されていたかも知れないが、千年はちょっと長すぎた。
伊勢神宮の祭神アマテラス(天照大神)は日本で最も尊い神と信じられているが、ネタばらしをすれば、これは、藤原不比等を重用した女帝持統をそのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものに他ならない。
神話のなかでアマテラスは、子ではなく、孫を地上界に降ろして王にしようと企てたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統の生涯に当てはまってしまう。このアマテラスの天孫降臨を手助けしたのがタカムスヒという神だが、この神の行動も、藤原不比等そっくりで、なんのことはない、神話には、七世紀から八世紀にかけての、持統天皇と藤原不比等が新体制を確立したその様子と、これを正当化するための物語がちりばめられているわけである。
そう考えると、何ともアホらしくなってくるのだが、歴史なんて、所詮そんなものだ。
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伊勢神宮の祭神アマテラスが持統天皇そのものとしても、この話にはもう一つ裏がある。
2.神話に秘められた二重構造

伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が、アマテラスとトヨウケ(豊受大神)という。伝承によれば、はじめアマテラスが祀られていたが、「独り身で寂しい」という神託が降って、それならばと、丹後半島からもう一柱の女神トヨウケが連れてこられた、というのだ。
どうにも不審なのは、出来すぎた話ながら、伊勢神宮の二柱の女神は、邪馬台国の二人の女王とそっくりなことなのだ。
なぜそうといえるのかというと、まず重要なのは、アマテラスの別名がヒミコに通じていることだ。『日本書紀』には、大日霎貴(おおひるめのむち)と記されていて、この「日霎」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、「ヒノミコ」は「ヒミコ」そのものとなる。一方、外宮のトヨウケも、邪馬台国のヒミコの宗女で、やはり女王として君臨したトヨ(台与)の名を冠していたことになる。こんな偶然、ありうるだろうか。
ヤマト建国と邪馬台国の時代は重なっている。日本を代表する神社に、ヤマト建国前後の女傑が祀られていたとしても、何ら不思議ではない。
逆に不思議なのは、『日本書紀』のほうだ。
アマテラス(ヒミコ)とトヨウケ(トヨ)が伊勢神宮で祀られているほどの古代の有名人だったのであるならば、なぜ「歴史」に二人を登場させなかったのだろう。少なくとも、正式に魏から「倭国王」のお墨付きをもらった二人であるならば、ヤマトの王家の正統性を証明するのにうってつけの人物だったはずなのだ。
ところが『日本書紀』は、ヒミコを神格化してアマテラスとし、かたやトヨ(トヨウケ)にいたっては、まったく無視してしまった。さらに『日本書紀』は、アマテラスに持統天皇の姿もだぶらせ、神話のなかに二重構造をつくり出してしまっている。邪馬台国のヒミコを丁重に祀らねばならないが、その正体を後世に伝えられない、というジレンマが『日本書紀』にはあるかのようだ。


つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。
3.出雲は祟る?

出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。
ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。
「実在したのに神話の世界に封印されてしまったのなら、出雲は『日本書紀』を編纂した八世紀の朝廷にとって邪魔だったのではないか?…そうであるなら、なぜ出雲に関する神話が多く取り上げられているんだろう?」
出雲は三世紀のヤマト朝廷建国に一肌脱いでいて、『日本書紀』もこの辺りの事情をしぶしぶ認めている経緯が感じられます。
たとえば、実在した初代天皇とされる崇神(すじん)天皇の時代、ヤマト最大の聖地、三輪山に祀られる出雲神・大物主神を、「倭(ヤマト)を造成した神」と讃えています。
『日本書紀』のなかで、これ以降も出雲神はたびたび登場し、しかもよく祟っています。朝廷はそのたびに、出雲神を丁寧に祀っていました。
いったい、出雲のどこに、秘密が隠されているのでしょう。


日本では八百万(やおよろず)の神といい、それはキリスト教世界ではありえないのです。神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。これに対し、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。
4.「神」と「鬼」の二面性

日本人はなんの抵抗もなく、総指揮を仏式で、お盆を日本の土着の風習(先祖の霊を招くというのは仏教ではない)で過ごし、クリスマスはキリスト教と、まったく節操なく数々の宗教行事を行っています。この様子をキリスト教やイスラム教徒からみれば、目を丸くするに違いありません。
しかし、多神教的風土にどっぷり浸かっている日本人にとって、仏陀もキリストも、どれもその他大勢の神々の中の一つに過ぎません。日本人の新し物好きの根源も、このあたりに原因がありそうです。
多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。
つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。
しかし、多神教にも長所はあるのです。物事を善悪という単純な物差しで測るのではなく、すべてには二つの側面があるという発想は、自分たちの主張だけが正しい、という一神教的発想とは隔絶しています。また、神が世界を創造し、その神の教えに従う人間がこの世界を支配できるという発想が一神教なのです。これに対し多神教は、宇宙、大自然との共存を考えます。
このようにみてくれば、多神教は野蛮なのではなく、むしろ、これからの世界に必要な考えなのではないかと思えてきます。

5.神話に隠された嘘と本当

神話の多くは荒唐無稽で取るに足らない話ですが、だからといって、すべての話に意味がないというわけではないようです。それどころか、多くの謎かけとカラクリが隠されています。天皇家の祖神が高天原から地上界に舞い降りたという「天孫降臨」がそのいい例です。
だいたい、ヤマトに直接飛び降りてくればいいのに、わざわざ南部九州に舞い降りたこと自体がどうにもうさん臭いのです。皇祖神は日向の地でしばらく過ごし、そしてニニギの末裔の神武天皇がここからヤマトに向かった話が、「神武東征」です。一般に、これら天孫降臨から神武東征にいたるストーリーは、まったくでたらめだ、と考えられています。天皇家の歴史を古く偉大に見せかけたものに過ぎない、というのです。
どうにも腑に落ちないのが、『日本書紀』が天皇家の歴史を誇示しようとしたのなら、なぜ天孫降臨の地を南部九州に決めたのか、ということです。ヤマト朝廷が誕生する以前、日本列島でもっとも繁栄していたのは、なんといっても北部九州でした。朝鮮半島に近いという地の利を生かし、交易によって富を蓄えていました。このため、ヤマト朝廷は北部九州の勢力が東に移って完成したのだろうという考えが強いです。だから、皇祖神が天孫降臨したという話なら、むしろ北部九州や出雲の方がふさわしいのです。
しかも、『日本書紀』は、南部九州に「熊蘇(くまそ)の盤踞する未開の地」というレッテルを貼っています。熊蘇(隼人)はたびたび朝廷に逆らい、討伐される者どもとして描かれています。したがって、皇祖神は的のまっただ中に降臨していたことになります。天皇家は隼人を身辺においていたし、南部九州には、かなり早い段階で、ヤマト朝廷のシンボル・前方後円墳が伝わっています。天皇家と隼人は、同族としても描かれています。史実だからこそ、南部九州が舞台になったのではないでしょうか。

出雲-4

『古事記』『日本書紀』については「奈良時代」でくわしく書きますが、『古事記』が献上されたのは712(和銅4)年、『日本書紀』がその八年後の720(養老4)年です。大化改新以来の新たな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。しかし、『古事記』と『日本書紀』との関係には分からない点が多く、たとえば、『日本書紀』に『古事記』編纂の記録が残っていないなど、多くの謎があります。江戸時代に『古事記』を解明してその功績が今に残る本居宣長は『日本書紀』を漢意の書として中国風の思惟の影響を受けたものとして低く見ています。「日本」という呼称自体が他者(中国大陸)を意識したものであることをその理由の一つとしますが、『古事記』よりも八年も後に編纂されたにも関わらず、時代に逆行するように漢文体の表記であり、明らかに中国の人々が読みやすいように対外的に工夫したねらいが感じ取れます。『記紀』とは違う出雲神話

1.『古事記』

それに対して『古事記』は変体漢文(漢字の意味を借りてやまと言葉として分かりやすいように表記する方法)で書かれ、文字を持たない段階で、ことばの意味を残そうとしているとみえます。死のとらえ方や、他界、生と死、いわば人生のとらえ方という問題にも関わっているようです。大らかな日本人の生き方を見るという見方は、自己意識の発生の場面で、大きく異なる二つの書物をもったことはその後の思想史に大きな意味を持つことになったのは確かです。

高天原(たかまがはら)の神の降臨から、突然のように話が飛び、この国土はすでにオオクニヌシ(大国主)のものであり、そうなった経緯が描かれています。高天原のアマテラスはその葦原中国(あしはらのなかつくに)を支配することを望んで、使者を送り、服属を促します。何度かの失敗のあと、オオクニヌシは国を譲ることに同意しますが、同意しない二人の息子と天つ神との戦いのあと、結局は天孫ニニギノミコトが天降り、国土の支配者となります。後の天皇はアマテラスの血縁的な直系であることをしめしています。国土としての葦原中国の安定までの過程が、天上的なものと地上的なものとの二重の起源をもつとされ、津田左右吉は「政治的作為が痕跡として残っている」といっています。

以上のように、冒頭の神話は、この国土の支配者はだれかという神話的説明となっています。このあとは、海彦山彦神話、されに続いてアマテラスの子孫の、海の族との親密な関係が神話として語られます。

『古事記』には、高天原、葦原中国にかぎらず、さまざまな異なる世界が描かれています。そこには多様な対称軸が見られます。高天原、中国(なかつくに)、根の国を上中下の三層構造と見る見方があります。しかし、それ以外の他界も描かれています。『古事記』は、現実を複層的にとらえる神話的思想を根底に、秩序の生成が同時に反秩序によって支えられていることをしめしています。最も奥にある神が何者であるかは明らかにされていません。

なぜか『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても、官人に教養として記憶されています。『古事記』と『日本書紀』とはその叙述の仕方に大きな差がみられます。『古事記』は本文が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋をもった本文を掲げてはいますが、それに続き複数の異なる伝承を「一書曰く」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。記紀神話といってもそれぞれの神話は、その叙述態度・様相がかなり異にしています。『古事記』の八年後に複数の異なる伝承を「一書曰く」」として並列しているのは、どうも『古事記』に掲げられた内容には異論や諸説があることが各国に命じた『風土記』の提出によって分かってきて、各地に残された神話の部分を並列することで国同士の言い分に収拾をつけようとしたのではないかと、そう勝手に想像します。そうであれば、大和朝廷の権威は中央集権国家とはいいつつも、絶対君主的なものでもないように思います。
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2.出雲風土記

天平5年成立時出雲国風土記 上(R)/島根県立古代出雲歴史博物館
『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。

『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

  1. 郡郷の名(好字を用いて)
  2. 産物
  3. 土地の肥沃の状態
  4. 地名の起源
  5. 伝えられている旧聞異事

が挙げられています。

完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

風土記は60の国々にその由来や地名、産物などを朝廷に報告させるために国司に命じて記されたものですが、現存しているわずか5つの風土記の中でも、出雲風土記だけが写本の際に省かれたりせず唯一完全な状態で記録が残っています。現存する写本は70種程ありますが、その中で最も古いと考えられるのは慶長2年(1597年)に細川幽斎が書写したとされるもの(通称:細川本)です。また倉野憲司が所蔵していた写本(通称:倉野本)も、奥付を欠いてはいますがほぼ同時期に書写されたと考えられています。尾張徳川家により寄進されたと伝えられる日御碕神社所蔵の写本(寛永11年(1634年)書写、通称:日御碕本)は島根県の文化財に指定されています。
その中で、すでに出雲が朝鮮半島の百済や北陸の越の国と交易していたと記されています。また、青森県三内丸山遺跡で、富山県の糸魚川で採れるものとされる黒曜石[*1]の飾り物が見つかりました。


  • [*1]…黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約60ヶ所が産地として知られているが、良質な産地はさらに限られている。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城(上多賀や鍛冶屋)、神奈川県箱根(箱塚や畑宿)、東京都伊豆七島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼が知られ、太平洋や日本海を丸木舟で渡って原石を求めたのであろう。
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因幡の白うさぎ

1.因幡の白うさぎの意味は?

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオノミコトの孫の孫、つまりスサノオノミコトから数えて6代目にオオクニヌシノカミが誕生しました。

たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシは出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。 しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシは心やさしき神として成長していきました。-隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思って、海岸にいたサメに、自分の仲間とサメの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。そして、サメの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 サメをだましたことをしゃべってしまいサメにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまいます。

これは、隠岐の島を治めていた白兎に例えられる豪族が、因幡を攻めようとして失敗し、オオクニヌシが助けて隠岐の島を穏やかに平定したのち、プロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシノカミを夫に選んだ因幡の八上比売(やかみひめ)はウサギが予言したとおりオオクニヌシはヤガミヒメを得ます。これは隠岐の豪族が穏やかに因幡にオオクニヌシと協力せよと伝え、隠岐・因幡を平定したということではないでしょうか。

『出雲国風土記』には、『記紀』とはまったく違う国引き神話があります。

2.『記紀』とはまったく違う国引き神話

「八束水臣津野命」(やつかみずおみつぬのみこと、以下、ヤツカミズオミツヌ)が、「新羅」と「北門」や「越」の岬から引っ張ってきた土地によって、小さな「出雲」が大きく縫い広められたといいます。これらの国は高句麗族の支配していた土地なのでした。

この後、さらに東出雲地方から、「越」まで軍を進め、高句麗族を制圧したスサノオ(実は、オオナムチ命を軍師に任命している)は、故郷である南朝鮮の鉄資源を求めて、渡航していったのだと思います。スサノオの武勇は、海を渡り朝鮮半島にまで、伝わっていたことでしょう。

スサノオ族を、日本列島に追いやった、朝鮮半島の高句麗族は、大した抵抗もみせずに分散していったのでしょう。こうして、北九州から「越」にかけてと、朝鮮南部との日本海文化圏を形成していったのだろうと思われます。
国引き神話は、出雲国に伝わる神話の一つです。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれています。なぜその部分を省いて記されなかったのか分かりませんが、オオクニヌシに国を譲らせたことはしっかりと記します。

出雲の神様、ヤツカミヅオミヅヌノミコト(八束水臣津野命)は
「この国は幅の狭い若い国だ。 初めに小さくつくりすぎた。 縫い合わせてもう少し大きな国にしよう」
と他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうと言いました。
そこで、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「朝鮮半島の新羅の岬を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が小津(こづ)の切れ目からの支豆支の御埼(きづきのみさき)[*1]で、引いてきた綱が薗の長浜、そして綱の杭にしたのが三瓶山です。

次に、「北方の佐伎の国(さきのくに)[*2]を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が多久川の切れ目からの狭田の国(さだのくに)です。

その次に、「北方の良波の国(よなみのくに)[*3]を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。その土地が宇波(うなみ)の切れ目からの闇見の国(くらみのくに)です。

最後に、「北陸の都都(つつ)の岬[*4]を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が三穂の埼(みほのさき)で、引いてきた綱が弓ヶ浜半島、そして綱の杭にしたのが大山です。

4度の国引きで大事業を終えたヤツカミヅオミヅヌノミコトは、「おゑ」という叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し、意宇(おう)の杜になりました。そのときからこの地を「意宇(おう)」と呼ぶようになりました。

こうしてできたのが現在の島根半島であるといいます。

オオクニヌシノカミは、にぎやかになった出雲で、高天原(たかまがはら)から降りて来たスクナヒコナノミコトとともに、国づくりに励みました。 山に植林したり、堤防をつくったり、橋を架けたりと、人々が住みやすい国にしていったのです。 また、馬や牛も増え、アワもよく実るようになり、出雲は豊かな国へと発展していきました。


[*1]杵築崎(きづきざき)、出雲市大社町日御碕
[*2]佐伎の国(さきのくに)…宍道湖北側平田市付近とされる
[*3]東は松江市手角町から、西は 松江市鹿島町東部とされる
[*4]北陸の都都(つつ)…能登半島珠洲とされる
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3.大国主と出雲神話

 高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」

出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。
『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシの事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。

この部分は、すでにオオクニヌシの支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。オオクニヌシの物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。

支配者としてのオオクニヌシは、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシは国土の未完であることを嘆きます。

さて、このオオクニヌシは多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。

しかし、オオクニヌシ神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。

このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシの姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。

4.大国主(オオクニヌシ)

大国主の神話では、スサノオの子孫であるオオナムヂが、根の国のスサノオの家までやって来ると、スサノオの娘であるスセリビメに一目惚れするが、スサノオはオオナムヂに様々な試練を与える。オオナムヂはそれを克服し、スサノオはオオナムヂがスセリビメを妻とすることを認め、オオナムヂに大国主という名を贈った。

『古事記』ではヌナカワヒメへの妻問いの話とされている。正妻であるスサノオの娘のスセリビメについては、記述がない。オオナムヂは、スサノオの後にスクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など、一寸法師のモデルとも、他多数。)と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させます。国土を天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となります。『古事記』によれば、オホクニヌシの国土造成に際し、アメノカガミノフネに乗って波間より来訪したスクナビコナが、オホナムヂの命によって葦原中国の国づくりに参加しました。『古事記』では、「越八口(オロチ)」を退治したのはスサノヲとなっていますが、『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口(オロチ)」をオホナムヂ(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとあります。大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

  • 大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 – 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(オウ=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。
  • 大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) -大国主の若い頃の名前
  • 大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称
  • 大名持神(オオナムチノミコト)
  • 八千矛神(ヤチホコノカミ) – 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
  • 葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) – 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す
  • 大物主神(オオモノヌシ)
  • 大國魂大神(オホクニタマ)
  • 顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)
  • 国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
  • 所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰されている

また、「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透している。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、他に大神神社(奈良県桜井市)、気多大社(石川県羽咋市)、気多本宮(同七尾市)、大國魂神社(東京都府中市)のほか、全国の出雲神社で祀られています。大嘗祭(天皇が即位後、最初に行う新嘗祭)の時、物部氏が宮門の威儀に立ち、大楯を楯、弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い、悪霊を追放する役目を務めました。この呪術にたけ、部門の棟梁であった物部氏が、のちの“モノノフ=武士”の原型でもあるといいます。スサノオの後に少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させます。国土を天孫・瓊瓊杵尊に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となります。因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に大きく記載されています。『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口(オロチ)」を大穴持(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとある。

山陰はもともと出雲の大国主命が開いた国でありました。

大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。
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5.「大国主」となった「大己貴命」

『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。

それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。
『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。

軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。
これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。

この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。

通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。

オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。

この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。

オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。

スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。

これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。

「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。

この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。

『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。

「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。
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