【但馬の歴史】 幕末の但馬(1) 池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)

池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)


文化10年7月23日、兵庫県養父市八鹿町宿南に生まれる。青谿書院を開き、子弟教育に励む。但馬聖人と呼ばれた。

●生い立ち

但馬の生んだ偉大な儒学者(中国の古典を研究する人)であり、教育者の池田草庵は養父市八鹿町宿南に文化10年(1813)7月23日に生まれました。池田家はもともと旧家で、村三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭の孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。
草庵10歳の時、母が亡くなり、兵庫県養父郡広谷十二所の満福寺にあずけ、僧侶としての修行を積ませることにしました。翌年には父も亡くなりました。住職の不虚上人(ふきょしょうにん)の熱心な指導により、草庵は寺一番の高弟と認められるようになりました。  しかし、天保2年草庵19歳の時、たまたま養父町を訪れた儒学者・相馬九方(そうまきゅうほう)の教えを受け、儒学を志す決心をし、不虚上人の許しのないまま寺を出てしまいました。のちにこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めとしたといいます。

京都へ行った草庵は相馬九方に入門。儒学の他、朱子学、陽明学の哲学を勉強し続けました。自信を得た草庵は、京都一条坊に塾を開きました。草庵の学問や人格の立派なことが故郷の人たちにも知られるようになり、そんな立派な先生ならはやく故郷に帰って、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなってきました。

但馬でも学習熱が高まり、但馬全体でも40くらいの寺子屋があったといわれます。草庵はこわれるままに故郷に帰ってきました。天保14年(1843)、満福寺を逃げ出して以来13年ぶり、草庵は31歳になっていました。

●青谿書院


故郷に帰った草庵は、八鹿町の「立誠舎」(りっせいしゃ)という建物を借り受け、弟子の教育を開始しました。最初の門人たちの中には、北垣国道、原六郎、安積理一郎など、のちに大成する人物がたくさんいました。

弘化4年(1847)、草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、「青谿書院」(せいけいしょいん)と名づけました。この年、草庵は八鹿町の医師・国屋松軒(くにやしょうけん)の妹・久子と結婚しました。


草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすもので、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕きました。門人たちは士族に限らず、農家の後継者としての働き手も多く、農繁期は帰宅して働くなど悪条件での勉学でした。のべ700人に達する但馬内外の子弟を教育しました。  草庵の名声は次第に広がり、遠い宇都宮藩の幼君の教育係としての要請もありましたが、動かず但馬の人材の育成につくしました。


「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」  草庵の門下生からは近代化をめざす明治・大正の日本のリーダーとしての人材を多数輩出しました。まさに草庵は但馬聖人でした。

主な門下生

北垣国道 生野の変、京都府知事、北海道庁長官
原六郎 銀行家、第百国立銀行・東京貯蓄銀行を設立、頭取、横浜正金銀行各頭取、日本、台湾勧業興業各銀行の創立委員を務め、富士製紙・横浜船渠各会社長、山陽・北越両鉄道、東洋汽船、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水田などの各重役を歴任、東武鉄道創立発起人・取締役。往時は渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに五人男と並び称されるほどの経済界の大物であった。
森周一郎 浜坂に私塾「味道館」設立者
北村 寛 八鹿に私塾「山陰義塾」を開く。
久保田精一 豊岡に私塾「宝林義塾」を開く。
安積楽之助 和田山に私塾「自成軒」を開く。
藤本市兵衛 生野に私塾「明徳館」を開く。
河本重次郎 日本近代眼科の父
浜尾新 豊岡藩士 文部大臣、東大総長
久保田 譲 広島大初代校長、文部大臣
吉村寅太郎 東北大初代校長

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【但馬の歴史】(39) 秀吉の但馬平定(2) 竹田城落城

高生田城(たこうだじょう)落城

朝来市和田山町糸井の寺内と高生田の境の山に、中世戦国時代の山城の跡があります。この城を高生田城または福富城と呼んでいます。
この城は山名宗全が全盛のころの山城のひとつで、規模は小さいですが、豊臣勢に滅ぼされるまでは、堅固な城として栄えていました。この城に登る道が、南山のすそから大手門道、寺内の前谷というところから登る道、東の方からの道、北の城ヶ谷から登る道の四つがありました。
寺内の前谷というところも狭い谷間ですが、この奥に「奥市のだん」または地元の人々が「市場」というところがあって、昔は商家も建ち並び、城へのまかないも受け持っていたと言い伝えられています。そしてそこから一ノ段、二ノ段、三ノ段があり、その奥に城の館があったといわれていますが、いまはそのあともはっきりとは残っていません。
この城の城主は、出石・桐野の出身である福富甲斐守であるといわれています。弘安のころ(1278~1287)出石の桐野に、土野源太家茂という人があり、その子孫である福富氏は、山名宗全が但馬の守護になったころに、太田垣氏(竹田城主)や八木氏(八木城主)らとともにその家来となり、代々桐野の城にいたのですが、応仁の乱によって天下が乱れ、大名たちが相争うようになると、山名宗全もそれぞれの要地に城を築いて守りを固めたのでした。その中で、八鹿の浅間坂には佐々木近江守を、糸井の坂には福富甲斐守をつけて守らせたのです。
福富甲斐守は武勇の誉れ高く、淡くて元気盛りでしたので、秀吉が但馬を攻撃するにあたり、竹田城を滅ぼす前にこの高生田城を攻め落としたのだといわれています。この時、小さい城ながらなかなか落ちませんでした。そこで秀吉軍は易者に占いをたてさせたところ、「この城には東と西に二つの道があり、あたかも巨人が両足を踏ん張って建っているようだ。つまり、この城は生きている。だから、その片方の足を切れば必ず城は落と落ちるであろう。」ということでした。そこで、一方の道を切り落とさせたところ、占いの通り、さしもの堅城もとうとう落城したといわれています。今もこの地を「片刈り」と呼び、そのいい伝えを残しています。
城主はこの戦いに討ち死にしましたが、その子孫は逃れて糸井の庄で暮らしていました。その後沢庵和尚の知人であった福富紹意という人が、出石の桐野に移り住んで代々庄屋を務めていたといわれています。
城主はこの城の出城として、和田城や土田城(遠見が城または鳶が城ともいう)を併せ持ったといわれます。この遠見が城との間の通信を、弓矢をもってしていたと語り伝えられており、たまたま矢のぶつかりあって落ちた所を今も林垣の「落ち矢」と呼んでいましたが、近年の耕地整理でこの地名もなくなったようで、またひとつ古い伝説が消えていくような基がします。
秀吉軍は、この高生田城を攻め落としたのち、竹田城を攻めるために、竹田城が一目で見える室尾山に本陣を置き、その攻略の策を練ったと伝えられ、そのとき村人たちにふれ札を立てて知らせたといわれますが、その所在がはっきりしていないのは残念です。(記事は昭和48:1972)
一方、藤堂孝虎も小代谷には小代大膳、塩谷(えんや)左衛門、上月悪四郎、富安源内兵衛ら、いわゆる「小代一揆」とよばれる武士とも農民ともとられる勇士百二十騎ばかりがたてこもっていました。彼らはゲリラ戦が得意で、容易に高虎に屈しませんでした。ある日、高虎は「こんな田舎侍、今にいたい目に遭わせてくれようぞ。」と、征伐に向かいました。ところが、反対に小代勢の計略にひっかかって大敗し、命からがらたった一騎で大屋谷へ逃げ帰るという有様でした。
大屋に向かった高虎は、加保村の栃尾加賀守、その子源左衛門を頼って隠れ、体制の立て直しをはかりました。このことを隣の瓜原村瓜原新左衛門が小代へ知らせました。知らせを聞いて一揆の連中は天滝を越え、大屋谷へ攻め込んだのです。自分らの本拠を離れてまで攻めていこうとは、なかなか剛の者たちです。高虎は栃尾親子の助けを借りて蔵垣村にまで出て防戦しました。戦いはなかなか決着がつかず、疲れてきた一揆の連中は横行(よこいき)村に引きこもり、ここに砦を築きました。そして隙をみて攻めてくるゲリラ戦に変えたのです。横行村は平家の落人の伝説で有名な山奥の村です。この間に瓜原新左衛門は一揆の連中と連絡をとり、ある晩、百人余りで栃尾の邸を囲みました。しかし、源左衛門や刈鈷(かりなた)新兵衛らの活躍により、反対に瓜原新左衛門の方が首をうたれてしまいました。
こうしている間に高虎は次の作戦を進めました。夜陰にまぎれて密かに行動を起こし、一挙に、一揆の本拠横行砦を襲ったのです。一揆勢は不意をつかれてびっくり仰天、体制を立て直す暇もなく、散々にうちのめされ、おもな大将のほとんどは討ち取られてしまいました。しかし、高虎もこの夜は、あやうく命を失うところでした。源左衛門が駆けつけてうち払い、九死に一生を得たのでした。 藤堂家はこのときの恩義を忘れず、栃尾家に対して代々厚く報いています。天正八年(1580)、秀吉が再び但馬に攻めてきた時、完全に息の根を止められてしまいました。

竹田城落城

羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により天下の山城竹田城はついに落城します。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえました。
その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となりますが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となりました。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となりました。嘉吉の乱以降、たびたび山名氏との死闘を繰り返した赤松氏が山名氏が築いた城を任されるということはなんとも皮肉なことです
赤松広秀(斎村政広)は、羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となりました。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられました。因縁の宿敵赤松氏が山名氏の築いた竹田城最後の城主となったのは、これも因縁だろうか。
赤松広秀は、関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めますが、西軍は敗戦しました。広秀は徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させましたが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は無城となりました。
竹田城は築城後約150年間存続しましたが、関ヶ原の合戦が終わり世の中が平和になると、江戸幕府の一国一城令により、竹田城は廃城となりました。
現在も頑強な石垣が残る山城の名城です。

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【但馬の歴史】(38) 秀吉の但馬平定(1)

中国地方攻略

織田信長に中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従えていきます。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高・官兵衛)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とします。一部の勢力は秀吉に従いませんでしたが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼします。

天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防(上月城の戦い)の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされます。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃、途上において竹中半兵衛や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降しました(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏におきました。

天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻しましたが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させました(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続きました。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置きました。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込みました(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請しています。
このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮しています。

但馬征伐

秀吉の第一次但馬平定は、天正五年(1577)十一月上旬より播磨を起点として開始されました(ただし、それより先の永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長が羽柴秀吉を但馬に派遣しています)。但馬征伐ともいいます。

しかし、播磨上月城主木器政範が叛したため秀吉は但馬を撤兵し、上月城攻撃に向かいました。上月城はわずか七日間で鎮圧しますが、戦線が播磨と但馬の両方に拡大することを避けたので、八木豊信はそのまま八木城に留まることができました。しかし、翌六年には、秀吉は竹田城を拠点に、但馬奪取を企画しており、養父郡の八木氏領あたりが織田氏と毛利氏の境界線となりました。

永禄12年(1569年)、山名祐豊(すけとよ)の時、羽柴秀吉に攻められ落城。天正二年(1574)ごろに祐豊は残った勢力を集めて、出石の此隅城から有子(こあり)山に「有子城」を築いて移りました。築城間もない翌年の天正三年十月、隣国の丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めました。隠居した山名祐豊と城主になった氏政には、これを抑える力はなく、助けを信長に求めました。部下の明智光秀を派遣して荻野直正を討たせました。光秀軍は奪われていた竹田城を取り返し、丹波に敗走して黒井城に入った直正を攻め、山名はやっとこの難から逃れることが出来たのでした。

但馬国は、織田信長が中国平定のために秀吉(実質は弟の秀長)による侵攻を二度受けることになりました。この侵攻を受けて山名祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地出石に復帰しています。

秀吉→山陽方面・山陰方面
光秀→畿内・丹波・山陰方面
第一次 但馬征伐(平定 1577)
第二次 但馬征伐(平定 1580)
弟の秀長軍…養父・出石・気多・美含・城崎の郡
藤堂孝虎軍…朝来・七美・二方の郡

天正五年(1577)秋、織田信長が中国の毛利氏を攻略するため、その先発隊を家臣の羽柴秀吉に命じました。秀吉は播磨国に兵を進め、姫路に本拠を構えることになるのですが、それには側面の敵でもある山名氏を討伐する必要があるので、北上して但馬国に入って太田垣氏の占領している生野城をはじめ山口の岩州城を落とし、高生田(たこうだ)城を攻め落とし、進んで太田垣朝延の竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに、秀長に但馬の各城を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、有子城(出石城)をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。宿南城を焼き払い、浅倉ほうきから水生城を攻めてくると思いきや、出石城へ向かいました。出石へ攻め込んだ秀長軍は、思わぬ苦戦に悩まされました。有子城は山名氏の本拠だけあって、たやすく落ちません。

そのうちに近くの城主たちの反撃体制が整って、一世に立ち向かってきましたから、秀長は散々に敗北し、米地山(めいじやま)を越え、播磨へ逃げていきました。
記録によれば、秀吉の但馬平定によって但馬の城18が落ち去ったとあり、新しい装備をした秀吉軍のまえに山名勢はその敵ではなかったようです。こうして山名の名城 有子山城も名実ともに消え去りました。

第二次但馬征伐

天正七年(1580)、吉川元春は毛利派の垣屋豊続らの要請で、七月但馬に出陣し、美含郡(みぐみぐん)竹野まで進出しますが、背後で東伯耆の南条氏が織田方に離反したため急遽撤兵しました。これにより、但馬の毛利派は孤立してしまい、八木氏はこれを機に織田方につき、秀吉傘下に入ったものと思われます。

翌年(1580)一月、別所長治の播磨三木城を落とした秀吉は、三月に再び但馬征伐の兵を進めました。但馬の平定は弟の秀長に任せ、自らは因幡に侵攻しました。五月に山名豊国の籠もる鳥取城の攻撃を開始します。この時、八木豊信は秀吉に従って因幡攻めに参戦しています。

秀吉は鳥取城に対する城を築くと、攻撃を宮部継潤(善祥房)に任せて自身は播磨に転戦していきました。この時、豊信は若桜鬼ヶ城の守備に当たり、山名氏政は私部城、岩常城には垣谷光政が入り、但馬出身の武将を登用していることが注目されます。

同年九月、秀吉は再び因幡に入りますが、山名豊国は鳥取籠城を続けていました。秀吉は長期戦を覚悟して、周辺の地盤固めを行っただけで再び撤退しています。この時、豊信は智頭郡の半分を知行することを許され、若桜鬼ヶ城に在城しました。翌年の春ごろ、豊国は鳥取城を追放され、代わって毛利の武将・吉川経家が鳥取城に入城しました。 これとともに吉川軍の巻き返し攻撃があり、八木豊信は城を支えきれずに但馬に退去し、以後、豊信の消息は不明となります。おそらく、因幡に与えられた領地を守ることができなかったため、禄を失ったものと思われています。

のちに、豊信の子で垣屋氏の養子となっていた(異説あり)信貞の子の光政が再び八木姓を名乗っています。そして、光政は関ヶ原の合戦で徳川家康に味方したことで、拝領し徳川旗本となりました。八木守直は二代将軍徳川秀忠の近侍となり、四千石の知行を得て、子孫は徳川旗本家として続きました。

さらに、朝倉氏が但馬から越前に移った際に、行動を共にした八木氏もあり、その後裔が越前に広まっています。また別に、戦国時代の播磨国寺内城主に八木石見守がいました。ことらは代々赤松家の家臣であったといわれています。

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【但馬の城ものがたり】 明智光秀と水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったようです。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。

この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。

ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城(山名氏は有子山城に移っていた)であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん・八鹿町側)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。
ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。

大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

秀吉の第二次但馬平定

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。その後、天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の歴史】(35) 但馬山名氏 その他の家臣

下津屋新三郎

山名四天王といわれる垣屋・太田垣・田結庄・八木氏などに比べると、一段と格が下がる武将です。しかし、垣屋・八木氏らが自立化を進めようとしている時、山名が本当に信頼していたのは、この下津屋級の武士団だったのではないかと思われる点があります。
下津屋安芸守は、伊巾矢(巾矢で一字)美作守、宮下野守らと共に、泉州堺に亡命していた山名祐豊が、織田信長の了解の下に永禄十三年(1570)の冬、再び但馬入りをしようとした時、居城たる有子山城(出石)を占拠していた垣屋を放遂しようと、有子山城攻めを行った武将です。それだから、気多郡から下流の城崎郡にかけて垣屋の勢力が張り出してくるようになり、垣屋が強勢な姿を見せると、これに対功するために祐豊は、自分の信頼する武将を気多郡に配置させる必要が感じられたものではないでしょうか。その目付役として、伊福城主(但馬気多郷)にし、円山川対岸の垣屋を監視させたであろうことは想像できる話です。
さらにその50年くらい前に、既に下津屋新三郎という山名の武士の名前が記録に残っいます。永正五年(1508)、山名致豊は、下津屋新三郎を、但馬所々知行、清冷寺(豊岡市)分代官及び備後・播磨・伯耆の諸知行所地を安堵しています。

磯部氏と夜久野城

朝来市山東町金浦の西北、城山の上に夜久野城があります。元亀年間(1570~1572)に山名祐豊の遠い親戚にあたる山名上野介豊次の子の豊直がいました。豊直は地名の磯部をとって磯部兵部大輔と名乗りました。上野介豊次がここに城を築いたのは、山東町金浦は国道9号線の丹波と但馬の国境に位置する山陰道の峠で、竹田城とともに丹波の敵に備えるためであり、また生野銀山を守るために大事なところだと思ったからでしょう。また、弟の磯部豊次を此処に封じて野間館(磯部氏館)を建てて館主に据えて依命を果たし
また、別の話では、寛喜年間(1229~1233)に佐々木左衛門という人が築いた城で、のちに山名時義のものとなったともいわれています。
山名氏が滅んだあと、竹田の赤松広秀のものとなり、広秀は家来の泥(なずみ)宗右衛門に守らせていましたが、慶長五年(1600)に竹田城が廃城となると同時に、この城も廃城となり、今は跡形もない有様となっています。

その他の家臣

加陽(かや)国親 但馬山名氏家臣。官途は美濃守。加陽郷(庄)から名乗ったのでしょう。但馬朝来郡物部城に拠る。
西村丹後守 水生(みずのお)城主。秀吉但馬征伐で戦う。
大坪又四郎 国分寺城主。秀吉但馬征伐で戦う。
佐々木近江守 浅倉砦。秀吉但馬征伐で戦う。
三方正秀 但馬の国人。但馬養父郡三方城主。官途は大蔵丞。山名、豊臣に仕える。
奈佐、上山・赤木・三宅・藤井・橋本・家木…

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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【但馬の城ものがたり】 篠部氏と志馬比城(美方郡香美町香住区香住)

[catlist categorypage=”yes”] 昭和42年五月二十日の各新聞の但馬地方版は「香住町月岡公園で、有馬(有間)皇子の墓が発見された。」と報じています。

有馬皇子とは、日本書紀に、斉明天皇の四年十一月五日に謀反が発覚し、捕らえられて、同年十五日には紀伊国藤白坂(和歌山県)で処刑されたと書かれておりますが、孝徳天皇第一の宮、有馬皇子のことです。

この事件は、有馬皇子が十九才のとき、大化改新の立て役者であった中大兄皇子ら改新派によって、天皇の位につけられた孝徳天皇のたた一人の遺児、有間皇子が、父天皇と同じように改新派の計略にもてあそばれ、非業の最期をとげられたことに同情してか、香住町には有間皇子の変の後日談を、次のように伝えているのです。

日本書紀では、このとき討たれたことになっているのですが、実は皇子の家来が身代わりとなって処刑され、皇子は追討に向かった者の好意によって、ひそかに丹波まで逃げのびたのです。ところが、皇子の弟宮である表米王[*1]が但馬の国に住んでいるのを聞き、ふたたび舟で但馬をめざしました。

香住に浜に上陸した皇子は、志馬比山(しまひやま:香住駅の裏山)のあたりに隠れ住み、海部の比佐を妻にして、平和な日々を過ごしていたのです。その後も表米王と会う機会もなくこの地で亡くなり、入江大向こうの岡の上(月岡)に手厚く葬られました。

ところで、二人の間に男の子が生まれ、志乃武王と名づけました。やがて成人した志乃武王は、出石小坂の美しい娘を妻にし、天武天皇七年(678)志馬比山の山頂を切り開いて城塞を造りました。

やがて、幾年かの時が流れ、志乃武王の子孫、志乃武有徳が領主のとき、有徳は姓を篠部と改め、山頂にあった屋敷を山のふもと東方の台地に移したのです。そして、対岸の矢谷に川港を開いて、物資交易の設備を整え、中心地としたのです。

そればかりか、篠部氏の菩提寺として長見寺を建立し、要害の地としましたが、交通の便はともかくいろいろと不便なことが多かったので、当時としては前代未聞の大事業である、河川改修や耕地拡張の大工事を計画しました。

二十九年という長い年月を経て、ようやく完成しました。
この大工事によって、一日市の柳池をはじめ湿地は全部埋め立てられ、約70㌶という新しい耕地ができたのです。

このようにして、有間皇子在住以来、約五百年という長い間徳政を施し、領地内の人々から尊敬されてきた篠部氏ですが、延元元年(1336)に、篠部有信公が、祖先の法要のために長見寺に参詣されていたところを、かねてから領地のことで不和であった長井庄の釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりにあらかじめ示し合わせてあった一日市の塔の尾城に合図し、一手は長見寺に、他の一手は留守で手勢の少ない館へと攻め寄せました。

この不意打ちに驚いた篠部方は、必死になって防いだのですが、何分にも敵は多勢の上に充分な戦備を整えて攻めてきたのですから、そのうち寺に火を放たれたのを見て、もはやこれまでと、有信公をはじめ主従ことごとく火の中に身を投じ、悲痛な最期をとげたのです。

留守館でも寺に火がかかったのを見て、形勢は味方に不利であることを知り、一族の北村七郎は若君を、そして日下部新九郎は姫を連れて兵火の中を脱出したのですが、姫は逃亡の途中、姫路山のふもとで敵の矢に当たって倒れ、若君もまた、乱戦の内に行方不明となり、さすが名門を誇った篠部氏もついにその力を失いました。その後、行方不明であった若君は首尾良く落ちのび、奈佐(豊岡市)宮井城主・篠部伊賀守のところに身を寄せていたのですが、お家再興の望みもうまくいかず、のちに京都に移り住んだと伝えられています。

[*1] 表米王…但馬国の古豪族、日下部氏の祖とされている。

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【但馬の城ものがたり】 長(ちょう)氏と林甫城(美方郡香美町香住区訓谷)

[catlist categorypage=”yes”] むかし、山名右衛門督祐豊(うえもんのかみすけとよ)が但馬国の守護として、出石城にいたとき、古い記録によると、天文九年(1540)、訓谷林甫城(りんぽうじょう)の城主は長越前守信行でした。香住郷の無南垣(むながい)のお城に、塩冶左右衛門尉(やんやさえもんのじょう)がいました。無南垣の殿様はとっても欲が深くて、いつも訓谷のお殿さんと領地のことで争っていたのですが、無南垣のお殿さんは出石のお殿様に、正月の御祝いの挨拶に行ったときに、訓谷のお殿さんは、山名殿に弓を引くようなことをたくらんでいると告げ口したのです。ところが、いっしょにいた太田垣とか田結庄というお殿さんは、無南垣のお殿さんの仲間だったので、祐豊公に

「ただいま、無南垣城主・塩冶左衛門尉殿が申し上げたことは、誠でございます。みな大殿の家来として忠誠を励んでおりますのに、訓谷林甫城主・長越前守信行だけが、何やらよからぬたくらみをいたしております。私どもの手の者を使わしまして探らせましたところ、塩冶殿の申されたとおりでございます。」

と。誠しやかに申したので、祐豊公は、まさかと思ったものの、重臣である太田垣や田結庄までがよもや嘘をつくまいと思い、

「その方までもが申すのなら、間違いあるまいが、越前守にも、言い分があるやも知しれん。まず越前守を呼べ、もし呼んでも来ないようなら、その時は、その方たちが申したように、野心ありと見て、軍兵を使わして討ち取れ。」

と申したのです。

そんなこととは少しも知らない訓谷のお殿さんは、今ごろ急のお呼び出しとは何事だろうと思いながらも、何の備えもせずに出石へと急ぎました。そして、出石城を目の前にした鳥居村まで来たところ、塩冶の軍勢が出迎えだといって現れたので、訓谷のお殿さんが礼を言おうとしたところ、

「越前守殿、上意討ちでござる。覚悟めされ!」

といって、多数の軍勢が斬りかかり、越前守は刀を抜く暇もなく斬り殺されたのです。このとき、お殿さんのそばについていた家臣の宿院雅楽之介(しゅくいんうたのすけ)は、なんとかしてお殿さんを助けようと思い、刀をふりまわし奮戦したのですが、多勢に無勢ではどうすることもできず、力つきて討ち死にしたのです。

ところで、越前守には二人の男の子がいました。兄は亀若(七才)、弟は亀石で五才になっていましたが、不意打ちで越前守を殺した塩冶勢は、その足で林甫城へ攻め寄せ城を奪い取り、二人の若君までも殺してしまったのです。

ところがこの時、越前守の奥方は身ごもっておられたのですが、家臣の滝本三郎兵衛という者が奥方を連れだし力戦し、敵兵四、五人をたたき斬って囲みを破り、奥方を無事因幡の国へ送ったのです。塩冶の手から無事逃げ延びた奥方は、追っ手の心配のない因幡で、やがて元気な男の子を産みました。塩冶の不意打ちによって、一度に二人の若君を亡くされていた奥方は、ようやく喜びを取り戻しこの若君を弥次郎と名づけました。

弥次郎様は、塩冶に見つけられないようにということで、出雲の国(島根県)まで逃げのび、そこで成長したのですが、十三才の時ひそかに但馬に帰って、宵田城(豊岡市日高町)の垣屋筑後守に会い、父の長越前守信行が、塩冶の陰謀によって非業の最期をとげた一部始終を涙ながらに話しました。筑後守は、あまりにもむごい塩冶のやり口にびっくりされ、さっそく弥次郎様を連れて出石城へ行き、祐豊公に事の次第を弥次郎様が話されたとおり申し上げたのです。 ところで、この時すでに塩冶左衛門尉は死んでしまっており、豊岡市奈佐にあった宮井城の城主である篠部伊賀守の弟が左衛門の養子となり、塩冶周防守と名乗って林甫城の城主になっていたのです。やがて、元服を済まされ、今はもうすっかり立派な若武者になられた弥次郎様は、左衛門尉はもうこの世にはいないものの、周防守が父のかたきの養子として林甫城城主であり、なんとかして周防守を討って父の恨みを晴らすとともに、長氏代々の城である林甫城を取り返したいと考えていました。そして、このことを竹野町の轟の城主・垣屋駿河守に話し助けを頼んでみました。

駿河守は塩冶とは領地問題などで、常日頃から腹の立つことが積み重なっていたので、「弥次郎殿のいわれることは、いちいちごもっともでござる。それがしも塩冶の汚いやり方には、腹が煮えくり返る思いでござる。弥次郎殿にお味方いたそう。」と、これ幸いと弥次郎様の味方になってくれたのです。

こうして塩冶を討つ機会をうかがっていたところ、永禄十一年(1568)七月十三日、塩冶周防守がお盆法要を無南垣の長谷寺(ちょうこくじ)で営み、それに参詣するために城を留守にするという知らせが届きました。そこで、弥次郎様はすぐに垣屋のお殿さんにお願いして、富森一本之助という家臣とその軍兵を借りて林甫城へ攻め込みました。

塩冶周防守は、長谷寺で法要の真っ最中でしたが、弥次郎様の急襲を聞くと、わずかの家臣を連れて奈佐谷に逃げ、兄篠部伊賀守に援軍を頼みました。伊賀守は、これは一大事と大軍を率いて林甫城を取り囲みました。しかし、城中に攻め入ろうとすると、城から矢を射かけられ、容易に近づくことができず、伊賀守は、

「弥次郎ごとき小童(こわっぱ)に、何をぐずぐずしているのだ。いっきに攻め落としてしまえ!」

と、鬼のような顔をして兵どもを叱りつけたので、西村丹後守が、

「敵は死にものぐるいで城を守ろうとしていますので、今攻めても味方の軍兵を数多く失うばかりでございます。幸いそれがしは、城のようすについてはよく存じておりますので、それがしの手勢を引き連れて、搦め手から城中に攻め入り、弥次郎殿の首(しるし)を討ってまいりましょうほどに、なにとぞ、それがしにお任せくだされ。」

といったところ、

「ええい!だれでもよい、早よう弥次郎を討ち取れ!」

との伊賀守の下知なので、西村丹後守はさっそく城に攻め入りました。

ところで、西村丹後守は、かねてから伊賀守や今は亡き塩冶左衛門のあくどいやり方にいや気がさし、弥次郎殿に万一の時はお味方すると約束していましたので、やすやすと城内に入り、弥次郎殿に、

「せっかく取り返されたお城ですが、相手は何分にも大軍でございます。このまま戦われましては、味方の全滅は火を見るより明らかでございます。この場はなにとぞ、それがしのいうようにしてくだされ。」

といって、赤絹に物を包み、伊賀守の軍勢に向かって、

「弥次郎が首は、今この西村丹後守が討ち取ったぞ!」

と、赤絹の包みを、高々と差し上げて見せたので、周防守は喜びいさんで城に入ってきました。この時、丹後守と示し合わせて草むらに隠れていた弥次郎殿がおどり出て、

「周防守見参!われこそは、先の長越前守信行の忘れ形見、弥次郎なるぞ。今こそ父のご無念をお晴らし申さん。覚悟めされ!」

と名乗りをあげ、周防守に斬りかかって行きました。弥次郎殿を討ち取ったとばかり信じて、城に入ってきた周防守ですから、刀を抜く間もなく弥次郎殿に討ち取られてしまいました。

「伊賀守、よーく聞け、その方が弟周防守は、このとおり長弥次郎が討ち取ったぞ!」

と大音声で、伊賀守の軍勢めがけて、弥次郎殿が叫んだので、伊賀守の軍勢は、急に浮き足立って戦意を失い、ワァーとばかりに城からおどり出た垣屋の軍勢に蹴散らされ、命からがら宮井の城へと逃げ帰ったのでした。

激しい攻防戦の末、父の仇を討って、林甫城を取り返した弥次郎殿は、父と同じように越前守を名乗り林甫城の城主となりました。

一方篠部伊賀守は、なんとしても弥次郎殿を滅ぼさんものと考え、田結庄の殿さんに援軍を求めたのですが、田結庄は、垣屋駿河守が弥次郎殿の味方をしているのを知って、伊賀守の頼みを断ったため、再び林甫城を攻めることができなかったとのことです。

天正八年(1580)、秀吉が但馬に攻め入ったとき、山名の家臣は、水生城(豊岡市日高町)に集まって軍議を開いたのですが、篠部伊賀守の寝返りによって計略が秀吉方にもれ、山名の家臣の城は次々に攻め落とされ、弥次郎殿もこの戦いで討ち死にされたということです。

長(ちょう)弥次郎 但馬山名氏家臣。長信行の男。官途は越前守。但馬美方郡林甫城主(美方郡香美町香住区訓谷)。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の城ものがたり】 丹生氏(にゅうし)と上計養山城(美方郡香美町香住区上計)

[catlist categorypage=”yes”]「上計(あげ)のお殿さんは、四十二の祝いの餅をのどにつめて死んだのだそうな。」
この話は、柴山地区の人ならみんな物心がついたころから聞かされる話です。日本海有数の避難港であり、カニ漁港としても知られる柴山港を、朝に夕に見下ろしている上計の城山にはこんな話が残されています。

丹生美作守長近は、養山城の城主でした。養山城は上計・浦上の二つの村を望み、北には柴山港から日本海を望む景色の美しい土地です。城主長近は、出石城山名誠豊の家老の一人であり、慈悲深い人でもありました。領地は、丹生地・浦上・上計・沖の浦・境の五つの村で、村民たちも長近の人徳になびき、戦国争乱の時代にもかかわらず、平和な明け暮れを楽しんでいました。

ところが、隣の無南垣の館山城主・塩冶左衛門尉秀国は、同じ山名家の家老の一人でしたが、野心満々たる人物であり、恵まれた漁獲と、避難する大小の舟で賑わう柴山を、なんとかして領地にしたいと考え、主君山名公に養山城主長近は避難にことよせて入港する他国の船と密輸して、私腹を肥やしているばかりか、ひそかに武器弾薬を蓄えつつあると報告し、みずから長近討伐の大将を引き受けました。

享禄二年(1529)十一月二十三日は、長近初老祝賀の日でありました。養山城内は、めでたい延寿を祝う声に満ちあふれていました。ところが、この機会を狙っていた塩冶左衛門尉は、日もとっぷり暮れたころ、数十人の手勢を引き連れて、沖の浦から山伝いに攻め込んできました。

これより少し前に、丹生地の大江田五郎兵衛という人が、たまたま用事があって無南垣に出たところ、塩冶勢が養山城を攻める準備をしている最中と聞いて、用事はそっちのけで取るものも取らず、大急ぎで養山城のこのことを知らせてきました。
急を聞いた養山城では、祝賀の席は一瞬にして上を下への大騒ぎとなり、油断して不意を付かれた酔いどれ兵士どもは物の役に立たず、城は火を吹き、美作守もついに自刃して果てました。

そうこうしているうちに、天下は織田氏から豊臣氏へと移り、秀吉の但馬征伐によって、山名氏の勢力も次第に衰えていきました。

鳥取城攻撃に勝ち誇った軍勢が、引き上げていく中で、海岸づたいに帰っていく軍の一隊が、無南垣の塩冶秀国の城をめざして、ときの声を上げつつ攻撃し始めました。いまは丹生三左衛門長宗と名を改めて旗頭となった熊之丞が、主君秀吉の許しを得て父の仇を討ったのです。戦いに慣れきった熊之丞にとっては、塩冶勢など物の数ではなく、一時間も経たない間に塩冶の城を攻め落とし、見事に父の敵を討ったのでした。

このときから、柴山地区では、かつての城主・丹生美作守長近の仁徳を慕い、四十二の歳を厄年として、初老を祝うことをやめ、八月二十四日の地蔵盆には、かつての城跡に建てられたお堂に集まって、供養回向をしているということです。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の城ものがたり】 塩冶(えんや)氏と芦屋城(美方郡新温泉町芦屋)

塩冶(えんや)周防守

但馬山名氏家臣。但馬美方郡(浜坂町)芦屋城主。

播磨屋さんの武家家伝によりますと、

近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉・南北朝時代の守護大名。宇多源氏の成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に住み、子孫は佐々木氏を称しました。成頼の玄孫秀義は源頼朝を援けて活躍。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となり、四男?氏信は京極氏の祖となりました。

秀義の五男が義清で、出雲・隠岐の守護に補せられて、子孫は同地方に繁栄しました。  義清の孫出雲守護頼泰は、惣領として塩冶郡を根拠とし、塩冶左衛門尉と称しました。これが塩冶氏の祖であるとされています。貞清を経て、南北朝初期に名をあらわしたのが塩冶判官高貞です。

高貞は、父のあとを継いで出雲守護となり、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆国船上山に挙兵すると、その召しに応じて千余騎の兵を率いて馳せ参じ、六月には供奉して入京。建武政権成立ののち、高貞は千里の天馬を献上し、その吉凶について洞院公賢・万里小路藤房らが議論したといいます。

建武二年十一月、足利尊氏が鎌倉に叛すると、高貞は新田義貞軍に属して足利軍と箱根竹ノ下に戦いましたが、敗れて尊氏に降り、やがて出雲・隠岐守護に補任されました。

暦応四年(1341)三月、高貞は京都を出奔、幕府は高貞に陰謀ありとして、山名時氏・桃井直常らに命じて追跡させ、数日後高貞は播磨国影山において自害しました。一説には、出雲国宍道郷において自害したともいわれています。

高貞の妻は後醍醐天皇より賜った女官で、美人の聞こえが高かったため、尊氏の執事高師直が想いを寄せ、叶わず尊氏、直義に高貞の謀叛を告げ口したので、高貞は本国の出雲に帰って挙兵しようとしたのであるといわれています。

高貞没後、弟時綱の子孫から室町幕府近習衆が出ています。また京極・山名氏の被官人となったものもあるらしいです。この一族が塩冶周防守ではないかと思われます。尼子時代に尼子経久の三男興久が塩冶氏を継ぎましたが、父に背いて自刃しました。

但馬国の塩冶氏は高貞の甥・塩冶通清の四男・周防守の子・某を祖とします。但馬塩冶氏は山名氏に仕え、各文献・古文書にも「塩冶周防守」「塩冶左衛門尉」「塩冶肥前守」「塩冶前野州太守」「塩冶彦五郎」などの名が散見します。戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。

高清は、もと出雲発祥の塩冶氏の一族で、のち但馬に移り芦屋城(新温泉町)を本拠地とし、山陰の複雑な山岳の地形を熟知し神出鬼没に兵を動かしたため、海賊の将と呼ばれた奈佐日本之介に対比して「山賊衆」と羽柴秀吉に言わしめましたが、もちろん山賊ではありません。

永禄12年(1569年)、但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に帰順の意を示します。 同年8月、山名豊国と通じたことに激怒した武田高信らの軍勢によって攻撃されるもこれを撃退、その後は毛利氏の傘下に入ります。

天正2年(1574年)~4年(1576年)にかけてはかつて自身を攻撃した武田高信を保護し、高信の復権と助命を毛利氏に嘆願していました。しかし、高清らの願いもむなしく武田高信は山名豊国によって謀殺されます。 後には高清自身も織田氏の侵攻には抗すべくもなく芦屋城を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国攻めを担当していた羽柴秀吉と対峙することになります。高清は鳥取城の北方に位置する雁金山に雁金山城を築き、奈佐日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を担当しました。

鳥取城に対する兵糧攻めを行っていた羽柴秀吉は、鳥取城-雁金山城-丸山城のラインを遮断することが鳥取城の落城を早めることに気づき、宮部継潤に命じて雁金山城を攻撃させました。塩冶高清は宮部の手勢をよく防ぎましたが、兵糧の欠乏による兵の消耗はいかんともし難く、雁金山城は織田方の手に落ち、高清は奈佐の守る丸山城に逃れました。

天正9年(1581年)10月、鳥取城中の飢餓地獄を見かねた吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出ます。これに対し秀吉は、経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、高清および奈佐の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲りませんでした。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、高清は奈佐とともに陣所で切腹して果てました。法名は節叟廣忠居士。

丸山城の西麓に、塩冶高清と奈佐日本之介それに佐々木三郎左衛門の3名の供養塔があります。
高清の子の塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は、吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移りました。

芦屋城

北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城です。

築城年代はわかりませんが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられています。城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城でした。

いつ果てるとも知れぬ争乱に明け暮れていた元亀三年八月(1572)、鳥取城にいた山名の家来、武田又五郎高信が、布施城の山名豊国を攻めようとしました。それを知った豊国は、井土城主・河越大和守、温泉(ゆの)城主・奈良左近、七釜城主・田公氏、芦屋城主・塩冶周防守らに早馬を出し、戦いにそなえました。兵八百騎をもってまず芦屋城に攻め込んだ武田又五郎高信は、急を知ってかけつけた付近の大名、豪族のことごとくを敵に回す結果となり、庭中(ばんなか)での戦いで戦死、因幡武田氏の滅びる原因となりました。

天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬を平定しようとしたとき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せましたが、塩冶周防守の守りはかたく城はなかなか落ちませんでした。その話を、芦屋の方が話してくださいました。

芦屋の城はむかし亀が城といって、とても立派な城だったそうだ。
元亀年間に因幡の武田が攻めてきた時は、近くの大名もいっしょになって戦い、武田の軍勢を破ったそうだ。

塩冶の殿さんに近くの大名が味方したのは、よい大名だったからでしょう。
天正年間、秀吉の部下によって攻め落とされたが、秀吉の軍も芦屋攻めには苦労したそうだ。

大勢で城を取り囲み、いろいろの方法で攻めたが、城の中の何本もの旗が浜風になびき、それに夏だったそうで、日の光は強いし、秀吉軍は木の影や、民家の軒先に攻めるのをあきらめて、三人、四人集まり長期戦の構えをし出す有様、何回となく作戦も考えてみたがどうにもならない。本当に困り果てたそうだ。  そういう日が続いたある日のこと、何人かのお侍が坂の茶屋で相談していると、奥で聞いていたおばあさんが、「おさむらいさん、この城は亀が城といって亀が主だから、何年かかっても、どうしてもこの城を落とすことは無理ですよ。」それを聞いた何人かの侍は、この茶屋のおばあさんが城を落とす急所を知っているな、と感ずきました。それから毎日、おばあさんに聞きに来ますが話してくれません。そんな日が続いたある日、あまりにも気の毒に思ったのでしょうか、

「おさむらいさん、この城を落とすのに急所が一つだけあるのですよ。」

と、話してくれましたが、それ以上どうしても話してくれない。また何日もおばあさんにお願いして、侍の熱心さに負けたのでしょう。

「この話はしてよいものか、悪いことか、わからなくなりました。その急所は、『亀の首を刀で切らなければ落ちない』」

と話してくれました。その亀の首は『坂の上』とも教えてくれました。そのおばあさんの話で秀吉の軍は、芦屋城を落とすことができたそうだ。

そのたたりでか、それ以後その茶店には男の子が生まれなくなり、そしてとうとう家も絶えてしもうたそうな。

たぶん、おばあさんが亀の首といった坂の上を通って、今でいうサイホンのようにして南の山から水を取っており、その水源を切られて水攻めにあったのでしょう。

そして宮部善祥房の手に落ちてしまいました。城主塩冶は城を捨てて因幡に逃れました。あくる天正九年、秀吉が鳥取城を攻めたとき、芦屋城主塩冶は丸山の出城で自害して果てました。

宮部善祥房が鳥取城主となってからは、芦屋城には但州(但馬)奉行がおかれましたが、関ヶ原で宮部氏が自害し、山崎家盛が摂津三田から因幡若狭に入り、弟の宮城右京進頼久に二方郡六千石を分け、芦屋城に住まわせました。それから二十年あまり宮城氏による支配が行われました。寛永四年、三代宮城主膳正豊嗣のとき、陣屋を清富に移しています。そのため芦屋城は廃城となってしまいました。

現在城下には、殿町・やかた・馬場などの小字名が残っており、芦屋の松原には塩冶周防守の碑も建っています。

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塩冶周防守の碑 城山東方の旅館入り口にある。(撮影:2011.8.8)

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