飛鳥時代
概 要 | |
飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終末期と重なりますが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つです。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期がありましたが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的です。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもあります。 また、この頃には文字の発生と記録を残すことが行われるようになりました。つまり「有史時代」の誕生です。日本の歴史の飛鳥時代の始まりはいつなのか諸説ありますが、推古天皇の即位を基準にするのが一般的です。日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代であり、これを飛鳥文化といいます。現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来します。 推古天皇(すいこてんのう)推古天皇は、欽明天皇15年(554年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝です。 第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。別名は、『古事記』では豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、『日本書紀』では豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめ)。菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけました。用明元年夏5月(586年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたましが、逆の方は殺されるはめとなってしまいました。 天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着しています。ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっています。『古事記』ではこの天皇までを記しています。 やがて時代は移り、ヤマト王権が諸国を統治する時代に入ります。統一日本の誕生です。崇峻天皇5年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させました。女性天皇が祭祀の責務を行い行政の責務を男性摂政が行う共同統治で、卑弥呼が立つと乱れていた国内が治まったとされるのと似ています。 推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかったとされています。公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣しました(遣隋使)。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていましたが、初めて日本の独立性を強調する目的で使節が派遣されました。 翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。 推古天皇28年(620年)、聖徳太子と蘇我馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上しましたが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなってしまいました。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いありません。 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようです。わが国にも仏教が伝わると、ヤマトの豪族にならって但馬の豪族たちも次第に寺院を築きはじめます。これは、海人族(=物部氏?)の勢力下を平定し、統一国家に組み入れていく過程ではないかと思われます。やがて、ヤマトから但馬を管理する人が派遣され、ヤマト朝廷の直接の地方支配が始まるとともに、古墳時代も終わりを迎えます。弥生時代の日本列島の人口は5万9千人でしたが、この頃、約十倍の450万人になったと推定されています。 大和(やまと)国大和(やまと)・倭(やまと)は、狭義では奈良県の南部、次いで奈良県全部、広義では日本全体を指します。 ここでは律令制下の奈良県の地域を指す国名として検討します。 大和(やまと)国は、夜麻登(『古事記』、『万葉集』)、夜萬止(『和名抄』)、耶魔等・夜麻等・野麻登・山門・大日本など(『日本書紀』)、日本(『日本書紀』、『万葉集』)、倭(『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』)、大養徳(『続日本紀』)、和(『万葉集』、『続日本紀』)、大倭(『古事記』、『日本書紀』)、大和(『続日本後紀』、『和名抄』、『万葉集』)などと多様に書かれています。 その語源については、 (1) 「ヤマ(山)・ト(門)」で山間地帯への入り口の意、 とする説があります。 大和三山 ■まほろば 『古事記』は、倭建命が薨去される前に この「まほろば」は、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「まほら」に同じ(『万葉集』巻5・800、巻18・4089には「まほら」とあります)とあり、「まほら」の「ら」は接尾語で、その意味は「すぐれたよい所。ひいでた国土」とあります。 欽明天皇と蘇我氏のヤマト王権による中央の支配体制についてです。 一方、五世紀末の雄略朝から六世紀前半の欽明朝にかけて、朝鮮半島からの人々の渡来がさらに活発になり、大陸の新しい文化と技術が伝えられました。渡来人は、「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田・須恵器・錦の技術などを伝えました。鉄の国内生産がようやく本格化したことは、朝鮮半島への鉄の依存度が低くなったことを意味し、中国王朝の冊封体制から離脱する重要な背景となりました。原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となっていました。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にありましたが、それが国家の政治制度として編成し直されました。同族のなかの特定の者が、臣(おみ)、 連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主(あがたぬし)などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色があります。各姓(かばね)は以下の通りです。臣(おみ)葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏(ウヂ)の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族で。連(むらじ)大伴氏、物部氏、中臣氏(なかとみ)、忌部氏(いんべ)、土師氏(はじ)のように、ヤマト王権での職務を氏(ウヂ)の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。 伴造(とものみやつこ) 連(むらじ)とも重なり合いますが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)などの代表的な帰化氏族、それに弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏(ウヂ)がある。連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(カバネ)を称しました。 百八十部(ももあまりやそのとも) さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。 ▲ページTOPへ 代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民(べみん)を率(ひき)いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓(カバネ)が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。 大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造の例
律令国が整備される前の行政区分は判明しませんが、但馬・丹後はその後丹波から分割された律令国なので、8世紀の但馬成立後の9世紀にも二方国造が記されており、但馬北西部(美方郡(旧二方郡・旧七美郡)は、同じ但馬でも広範なために二人の国造が置かれていたのかもわかりません。出雲国造の同祖とあるので、因幡から出雲の勢力範囲(今でも鳥取に近い生活圏)にあった可能性が高いと推測できます。県主(あがたぬし)これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏(ウヂ)の名とする。このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれました。そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及びました。部民などの私有民氏姓は元来はヤマト王権を構成する臣・連・伴造・国造などの支配階級が称したものである(王とその一族を除く)。しかし、6世紀には一般の民にも及んだ。これらの一般の民は、朝廷すなわち、天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、さらに臣、連らの豪族に領有・支配されていた。そのため、一般の民の中から、朝廷に出仕して、職務の名を負う品部(しなべ)、王名、宮号を負う名代(なしろ)・子代(こしろ)、屯倉(みやけ)の耕作民である田部(たべ)などが必然的に生まれた。彼らは先進的な部民共同体の中で戸を単位に編成され、6世紀には籍帳に登載されて、正式に氏姓をもちました。これに対し、地方豪族の支配下にあった民部(かきべ)は、在地の族長を介して、共同体のまま部(べ)に編入し、族長をへて貢納させる形のものが多くありました。そのため、地方豪族の支配下にあった一般の民にまで6世紀の段階で氏姓が及んでいたかどうかは定かではありません。 ヤマト政権は、百済の二十に部司の制度を摂取して、渡来人を部(べ)に組織しました。錦(にしこり)部・衣縫(きぬぬい)部・鍛冶(かぬち)部・陶(すえつくり)部・鞍(くらつくり)部・馬飼(うまかい)部などの宮廷工房的な伴(とも)が新たに組織され、王権の政治機構が再編されたのです。これらの伴は、伴造の統率の下、百八十部として配置された下級氏族、その下部にあった渡来系技術者としての品部(しなべ)によって構成されました。 姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化していきましたので、代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられました。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの氏族の姓(カバネ)が朝臣(あそん)になってしまい、八色の姓も甚だ形式的なものに変質してしまいます。 地方官制のはじまり地方官制(ちほうかんせい)は、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されたのが公的には最初のようです。 4世紀~6世紀頃?、『古事記』成務段に、「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺(境)、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」とあります。 郡(コホリ・コオリ、あがた) 6世紀後半~7世紀中?、『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉(みやけ)の大量設置の記事がみられますが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できます。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられますが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)のだということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察されています。 この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられています。 地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは天武朝においてであったと思われます。その基礎となる戸(コ)は、正丁(セイテイ)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になりました。註:県は縣、郡は群が旧使用漢字 |