初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

天日槍伝説

『日本書紀』では、以下のように記している。

日本書紀垂仁天皇三年の条

《垂仁天皇三年(甲午前二七)三月》三年春三月。新羅王子日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則蔵于但馬国。常為神物也。〈 一云。初日槍。乗艇泊于播磨国。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問日槍曰。汝也誰人。且何国人也。日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古而化帰之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。并八物。仍詔日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。時ヒボコ啓之曰。臣将住処。若垂天恩。聴臣情願地者。臣親歴視諸国。則合于臣心欲被給。乃聴之。於是。日槍自菟道河泝之。北入近江国吾名邑、而暫住。復更自近江。経若狭国、西到但馬国、則定住処也。是以近江国鏡谷陶人。則日槍之従人也。故ヒボコ娶但馬国出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。 〉

垂仁天皇3年(紀元前31年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが謁見してきた。
持参してきた物は羽太(はふと)の玉を一つ、足高(あしたか)の玉を一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉を一つ、出石(いずし)の小刀を一つ、出石の桙(ほこ)を一つ、日鏡(ひかがみ)を一つ、熊の神籬(ひもろぎ)[*1]を一揃え、胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類[*2]であった。

一説によると、ヒボコは船に泊まっていたが播磨国宍粟邑にいた。ヒボコの噂を聞いた天皇は、三輪君の祖先にあたる大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖先にあたる長尾市(ながおち)を遣わした。初めは、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古(ちこ)に譲ってやって来ました。」

天皇はこれを受けて言った。「播磨国穴栗村(しそうむら)[*3]か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)[*4]に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、北に入り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋(イズシ・出石)[*5]の人、太耳の娘で麻多烏(またお)を娶り、但馬諸助(もろすく)をもうけた。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田道間守(たじまもり)を生んだという。

阿加流比売神(アカルヒメノカミ)

阿加流比売神は、『古事記』では、以下のように記しています。

古事記 「昔、新羅の阿具奴摩、阿具沼(アグヌマ:大韓民国慶州市)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、ヒボコと出会った。天日槍は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。」

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国である倭国(日本)に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾(ヒメコソ)神社[*6]に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見(マエツミ)と結婚した。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島(ヒメジマ)」と名附けた。
『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が渡来し、この説話の前半部分、阿加流比売神が日本に渡りそれを追いかける部分の主人公。都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したとされています。

[註]

*1 神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2 八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*4 出浅邑 (いでさのむら) 「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*5 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。
*6 比売碁曾(ヒメコソ)神社 大阪市東成区にある式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社の論社の一つ。(もうひとつは高津宮摂社・比売古曽神社)下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀する。ただし、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。

但馬国の成立

丹波国から但馬国、丹後国が分国した記録は、7世紀、丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。しかし、国名がみえる最も古い記録が天武天皇4年(675年)であって、その頃誕生したかどうかではない。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)は天日槍命についてくわしい。
第六代孝安天皇の61年春2月、天日槍を以って、多遅摩国造と為す。
これが但馬国8郡全8巻中、県主の上に多遅摩国造が置かれた最初の記録となる。初代の多遅摩国造が天日槍である。第六代孝安天皇の実年は、BC392-291とすると、紀元前300年頃に但馬国が丹波国から分国されたことになるので、675年より約千年前である。

自ブログに「天日槍(あめのひぼこ)の謎」として載せています。

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