気多郡道場・久斗の市場

気多郡(今の豊岡市日高町)は但馬国の国府が置かれた場所で、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「高田郷に遷す」という記述が残っており、気多郡のおそらく国府地区周辺から高田郷に移転したのは、袮布ガ森遺跡から多量の木簡などが見つかり間違いないこととなった。現在豊岡自動車道八鹿日高道路建設に伴う南構遺跡調査が行われており、古墳や但馬国府の役人らの居館跡ではないかと思われる遺構が見つかった。

律令制が布かれるもっと前に遡ると、『国司文書・但馬故事記』第一巻・気多郡故事記に最初に登場するのは、
天照国照櫛玉饒速日天火明命あまてるくにてるくしだまにぎはやひあめのほあかりのみことは、
国造大己貴命くにつくりおおなむちのみことに勅(命令が書いてある文書)を奉じ、両槻天物部命なみつきのあまつもののべのみことの子 佐久津彦命に佐々原を開かしむ」から始まっている。

つまり。『国司文書・但馬故事記』は但馬の郡ごとに第一巻・気多郡から第八巻・二方郡まで全八巻に分けられている。第一巻・気多郡の最初に登場するのは佐々原という地名なのだ。

『国司文書・但馬故事記』第一巻・気多郡故事記に、

天照国照櫛玉饒速日天火明命は、
国造大己貴命に勅(命令が書いてある文書)を奉じ、両槻天物部命の子 佐久津彦命に佐々原*1を開かしむ。

佐久津彦命は篠生原しのいくはら*2に御津井を掘り、水をそそぎ、御田を作る。後の世に、その地を名づけて、佐田稲生原さたいないはら*3と云う。いまの佐田伊原*3と称す。気多郡佐々前ささのくま村これなり。

佐久津彦命は、佐久宮*4に坐す(住まわれました)。
天火明命の供奉(グブ)*5の神、天磐船長命あめのいわふねのおさのみことは、磐船宮*6に坐す。

天磐船長命は、天磐樟船命あめのいわくすふねのみことの御子なり。
佐久津彦命は、鳴戸天物部命の娘、佐々宇良姫命を妻にし、佐伎津彦命・佐久田彦命*7を生む。
佐伎津彦命は佐々前*8の県主あがたぬし*9となり。

人皇一代神武天皇(紀元前660年1月1日- 紀元前585年3月11日)の九年冬十月、
佐久津彦命の子・佐久田彦命を以って、佐々前県主ささのくまあがたぬし*1と為す。

国司文書別記・第一巻「気多郡郷名記抄」に、
佐々前郷
佐々前郷は、いま楽前郷と書す。献神の義なり。この故に名づく。
伊府・篠民部・佐田・伊原・野中

国司文書別記・第一巻「気多郡神社系譜伝」に、
楽前郷 佐久神社
一 佐久神社 気多郡佐多稲飯原鎮座
祭神 佐久津彦命

人皇一代神武天皇の御世、佐々前県主佐々宇良彦これを祀る。
佐久津彦命は、両槻天物部命御子なり。

豊岡市日高町佐田は、中世但馬国の領主山名氏の四天王といわれ気多郡を領した垣屋氏の居城、楽々前城が築かれた場所である。

 

庄境区域                 野区域

 

 

久田谷区域                道場どうじょう

静修小学校区がある。学区は久田谷・夏栗・道場の三区で旧日高町内の小学校で生徒数の少ない小学校だったが、近年宅地化が進み、微増している。それは別として、面白いことは、この東西に狭い谷は旧気多郡太多庄(郷)・楽前庄(郷)・高田郷西下(西気)道が集まって一本になり、湯島街道へ交わる狭く細長い交通の要所であることだ。西下谷は、明治の市町村合併まで、

  • 野区は気多郡三方庄(郷)の最東端
  • 久田谷区は気多郡太多庄(郷)の最東端
  • 道場区は楽前城のある気多郡楽前庄(郷)の最東端
  • 夏栗区は気多郡高田郷の最西端

つまり、明治までは久田谷・道場・夏栗の三区は、それぞれ異なる郷の境であった。道場は剣道等武術の道場を連想し、拙者も長い間そうだろうと思っていた。しかし、そうではない。私見だが、西下(西気)道の市場が簡素に道場(みちば)となり、うつからか「どうじょう」と読むようになったのではないだろうか。道場区に隣接する久斗区の東端にも市場という字名が残る。市場という小字がそのまま訛って道場になったかどうかは不明であるが、と思われる。道場の字に市場があり、今の道場区の稲葉川南岸は「佐田飯原」、のち分かれて「佐田」、「伊原」という楽前郷であった。ともに山名四天王で気多郡を治めていた垣屋氏の居城となった楽前城の裾にある。その東に接する久斗は高田郷となる。従って三つの郷の道が集まるここら辺りに市が開かれたと思うのは自然である。

宵田城の北構・南構の小字名(今の東構区)に隣接して久斗にも市場の小字名がある。郷は異なるが街道でつながる細長い市場の小字名が久斗区の両端に存在するのである。垣屋氏の居城が楽前城から宵田城へ重点が移って、道場から宵田城下の久斗区へと移っていったとも考えるのは可能である。中世に久田谷は元は太多庄の最東端、道場は楽前庄、高田(今の久斗)は高田庄の最西端で、郷(庄)は異なるが円山川方面へ通じる細長くの西下(西気)道の細長い谷で三方庄も含めて4つの郷が必ず通過しなければならない一本道で交通の要所だったことは地形的にも明らかである。市場が置かれ最も栄えていた地域であっただろう。久田谷・道場・夏栗はそれぞれ別々の庄(郷)の村でありながら隣接し、それぞれの庄のなかでも中心的なウエイトを備えていたようだ。

 

庄境に太刀宮神社がある。上記Google Zenrinの行政区分では、野は国道482号線をまたいで北部までだが、そうすると太多郷久田谷が楽前郷の野村をまたいだ飛び地となってしまう。それは考えにくいから、古くは太刀宮で今の庄境内だったと考えられる。

また久田谷と夏栗のほ場整備の際に粉々に砕かれた久田谷銅鐸が発見されて話題となったのもここである。ミステリアスなトライアングルが三区だと思っている。
(夏栗の古名は矢集村(ヤヅメ))

楽々前郷(ささのくまごう)佐田稲飯原

「但馬郷名記抄」
伊布・篠民部・佐田・伊原・野中

伊府・篠垣・佐田・野村・伊原(今の道場)

*民部は「みんぶ」・「かきべ」とも読む。古語は訶支部。三方郷亥猪民部は猪子垣、楽々前郷篠民部はしのかきべが篠垣と転訛したものだろう。頃垣も古語は己呂訶支村。

「校補但馬考」

太田文曰く、
村数五
伊府・篠垣・佐田 右北庄と云う
野村・伊原 右東方(ひがしがた)と云う。太田文には南北と分けたり。

佐久神社は佐田稲飯原に鎮座すとあるので、現在は同じ佐田になっているが、集落から向道場までが同じ稲飯原で、西半分は佐田に東半分はのち伊原となり今の道場、今の道場の稲葉川南岸で、通称向道場だろう。佐田稲飯原は、元々三方平野の稲葉川以東の墾田部をさすのではないだろうか。

[註]私の解釈

*1 佐々原・馬方原・三方原(同じ) いまの三方平野。佐田から観音寺の古名馬方原あたり
*2 篠生原 いまの篠垣から野村台地(植村直己公園周辺)
*3 佐田稲生原・佐田伊原 いまの楽々前城山周辺(佐田から向道場)
*4 式内佐久神社 豊岡市日高町佐田
*5 供奉(グブ) 行幸や祭礼などのときのお供をされる神
*6 磐舩神社 豊岡市日高町道場山田10-2 白鳥上290
*7 佐久田は現在の久田谷の久田の語源でないか?
*8 佐々前(ささくま) のちの楽々前郷(ささのくまごう)。今の伊府・篠垣・佐田・野村・伊原(道場)
*9 県主(あがたぬし) 古代大和王権における郡県制。初めは直轄地を県(あがた)、辺境地域を郡(こおり)としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。

参考:宿南保「但馬の中世史」・桜井勉「校補但馬考」・国司文書気多郡故事記

市場の地名

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