第5章 2.豊岡盆地は朝鮮半島へのヤマトの軍事拠点

不自然なアメノヒボコの出現と但馬分国

『日本書紀』では、アメノヒボコは、垂仁天皇3年3月条において新羅の皇子の天日槍が渡来したとして7つの神宝を携えてきてたと記す。

ところが、唯一詳細に記しているのが『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記である。

『国司文書 但馬故事記』は、但馬国の旧郡ごとに全八巻に分かれる。いずれもが「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命が、田庭(タニワ)の真名井に降り、稲や五穀を植えて豊かにしてのちに、国作大巳貴命は天火明命に谿間(但馬)を開かせる。」という書き出しがほぼ一致しているのに対し、

ところが第五巻 出石郡故事記だけは、国作大巳貴命は、東に田庭(丹波)からではなく、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県国(二方国)を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・籔・水石の県を開くことになっている。西から順に国作りしたことになっている(伊曾布はのちの七美郡、黄沼前は城崎郡、気多はほぼ旧日高町域、津は狭津のことで、美含郡、今の美方郡香美町佐津、籔は養父郡、水石は出石郡)

国作大巳貴命は八上姫の間に御出石櫛甕玉命を生む。
御出石櫛甕玉命は、天火明命の娘、天香山刀売命を娶り、国知彦命を生む。

人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子、天国知彦命を以って、御出石県主と為す。
6年春3月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称し祀る。

御出石県主

御代御出石県主続柄続柄
人皇一代神武天皇1代天国知彦命御出石櫛甕玉命の子饒石耳命小田井県主 生石饒穂命の娘
〃二代綏靖天皇6年2代天多他知命天国知彦命の子福井毘売命美伊県主 武饒穂命の娘
〃四代懿徳天皇7年3代天波賀麻命天多他知命の子幸世毘売命丹波国造の祖 真太玉命の娘
〃五代孝昭天皇40年4代天太耳命天波賀麻命の子佐依毘売命小田井県主 佐努命の娘
タニハから多遅麻国分立
〃六代孝安天皇61年初代国造天日槍麻多烏命天太耳命の娘

天日槍が但馬を治めたのは偶然ではない?!

縄文海進期の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより

上の図を見ていただきたい。これはMutsu Nakanishi さんが作成された縄文時代の豊岡盆地(左)を拙者が修正・加筆したものである。

当時の豊岡盆地は黄沼前海キノサキノウミと呼ばれる日本海の入江湖であった。黄沼前県キノサキノアガタ、で後に小田井オダイ県と呼ばれるようになり→城崎郡キノサキグンとなり、現在の豊岡市。

JR山陰本線は豊岡から城崎温泉まで円山川に沿って北上し、城崎温泉を過ぎると西の鳥取までは、リアス式海岸で高低差に富んだ地形が長く続く。いくつものトンネルと日本一高い余部橋梁あまるべきょうりょうといった地形は、山陰本線最大の難工事で全開通が最後まで遅くなった箇所だ。車社会になり道路が整備される一昔前まで隣の村へは歩いて行くのは大変で船で行き来していたと聞く。これは出雲・因幡の西側から陸路で攻めようと思っても大軍が海岸線を東の豊岡盆地に向かうことは不可能だったからではないだろうか。豊岡盆地の東も久美浜湾まで三原峠があり、南方も播磨からは生野峠、丹波とは遠阪峠に阻まれている。円山川河口は両側が急峻な断崖で狭い。要塞としては敵からの攻撃を防ぐには最適な地形なのである。

ヤマトはまだヤマト政権下にない出雲圏や朝鮮半島の前線基地として但馬に注目し、半島情勢や朝鮮語(当時大和言葉と似ていたらしいが)と日本語が話せるヒボコを初代の多遅麻国造にして丹波からも分立させヤマト政権の権限を強化したのではないか。出石神社のすぐ近くにある古墳時代前期(四世紀初頭)の袴狭遺跡から、「大船団の線刻画」が出土している。長さ197cm、幅16cm、厚さ2cmの杉材に15隻の外洋船(準構造線)が巨大な船を守る陣形を作っているような絵が刻まれているのだ。

突如、よそ者で、しかも新羅の渡来人であるアメノヒボコが、大丹波のしかもその丹波の中心から離れた西の但馬に入っていて、但馬国の初代国造としてタニハ(大丹波)から分立する。そのような作為的なことが出来るのは、ヤマト政権が関与しているからに他ならないと思えてならない。

不便だから価値があった!?但馬・出石

そんなことを『アメノヒボコ、謎の真相』関裕二で、豊岡について記述している。

門脇禎二氏は但馬について、出雲を陸路で攻略するための重要なポイントだったと指摘している(『日本海域の古代史』東京大学出版会)。

(中略)

おそらく古代の人々は、因幡国と但馬国を徒歩では移動していなかったはずだ。

(中略)但馬も西から見れば陸の孤島だ。但馬から見ても、出雲への道のりは、険しく骨が折れる。山陰本線は城崎温泉(豊岡)から海岸線に沿って走るが、トンネルと鉄橋ばかりなのは、地形が複雑で高低差があるからだ。

(中略)豊岡の「不便さ」に気付いたとき、豊岡盆地の意味を再確認できた。

豊岡市は、西側から陸路で攻めようと思っても、大軍が海岸線を東に向かうことは不可能だったのだ。そして豊岡は、門脇禎二のいうような「陸路で出雲につながっているから拠点になった」わけではなかったのだ。

ならばなぜ、ヒボコは天皇から下賜かしされた土地を拒んでまでして、但馬・出石(豊岡市出石町)に固執したのだろう。もちろん、アメノヒボコがヤマト建国直前に日本にやって来たと筆者は考えるから、この時代には日本国としての「天皇」はまだ誕生していなかったし*2、ヤマトに強い王が立っていた可能性は低い。

(中略)

豊岡盆地は、女性に例えると、円山川が「産道」で、奥座敷の豊岡盆地中央部が子宮のようになっている。円山川河口部分が最も狭く、川を遡るにしたがって広大な平野が姿を現すのだ。そして、周囲を小高い山が囲んでいて、西側はリアス式海岸と起伏の激しい山並みが続き、豊岡(出石)を攻撃することは困難だ。当然西から攻めるなら、海から侵入するほかはない。ところが、「河口付近の左右が急峻な断崖」で、ここで両側から襲われる恐れがあり、されにそこを越しても、(川の)両側から矢を射かけられ、先には進めなかっただろう。だから、豊岡盆地は、海の民の止まり木であるとともに根城であり、要塞の役目を果たしたのである。

また、関裕二氏は『地形で読み解く古代史』で次の様の述べている。

アメノヒボコが日本列島に「戻って」きて豊岡(但馬)に棲みついたのは、一帯が先祖伝来の土地だったからにちがいない。
無視できない伝説が豊岡( 出石(いずし))に残されている。豊岡盆地はかつて泥海で、アメノヒボコが円山川の河口部の「瀬戸と津居(つい)山」の間の岩をくり抜き、水路を造って水を外に流し、豊岡を肥沃な土地に変えたというのだ。実際、瀬戸の切戸は、人工物としか思えない。
豊岡の郷土史家宮下豊氏は、アメノヒボコは農業発展以上に、港を整備するために干拓事業を推し進めたと指摘している(『但馬国から邪馬台国へ』新人物往来社)。

説得力のある指摘だ。ただし、豊岡は日本海を代表する「海の城」であった。穀倉地帯だから、というわけではない。

平成16年(2004)、台風23号によって、円山川とその支流出石川、稲葉川などが増水し、旧日高町内、旧出石町、旧但東町、旧城崎町で流域の民家が浸水し、市街地の円山川右岸立野大橋付近の堤防や出石川でも堤防が決壊し、市街の広い地域が浸水した。すでに1987年には建設省(現国土交通省)によってひのそ島の全面掘削に向けた調査が開始され、1995年や1997年の調査で希少な植物が生育していることが明らかとなったため、2001年9月、国土交通省は全面掘削の計画を変更し、島の左岸側1/2を除去して右岸側の1/2に希少植物を移植し、また右岸には湿地を整備することで治水効果と環境保全の両立を目指す方針を策定した。2004年の台風23号により、2003年に始まった島の掘削工事は激甚災害事業の一環としても進められ、2007年7月に掘削工事が完成した円山川河口近くのひのそという中洲を取り除く浚渫工事が行われた。島の直上流では水位が29cm低下した。パワーショベルであっても浚渫工事に数年もかかっている。川底や中洲は土砂であるが、ダイナマイトでも使用しないと急峻な硬い岩盤を人力で切り開くなど不可能なことは、誰でも分かるはずだ。どこが説得力のある指摘だというのだろう。

縄文時代から弥生時代に入り、寒冷化によって円山川の水位が下がり、いまの豊岡盆地が出来上がったのが真相だ。
説話として円山川の河口を切り開いたのはアメノヒボコだが、肝心の『出石郡故事記』には、一切触れていないのに、『城崎郡故事記』は、城崎郡司、海部直命が子の西刀宿禰命に瀬戸水門を浚渫さけたという。

但馬国は朝鮮半島南部と都を結ぶ最短ルートだった?!

『日本書紀』では、天日槍が新羅から下関海峡を通り、播磨に上陸する。宇治川を遡って近江・若狭・丹波と回って最終的に但馬・出石を選んだ。これはヤマト政権がヒボコに西国や半島との攻防基地としてどこが適しているかを視察させていたこと物語っているのかも知れない。ヤマト(大和)から山陰地方や半島へ日本海からの最短ルートは、大和川を難波へ出て加古川から由良川という日本一低い分水界の水分れを通って、由良湊から但馬の黄沼前海(豊岡)へ向かうルートだった。これは現代人でも地理にかなった政策だったとしたら頷ける話であろう。

半島へ本州の最前線基地として、由良川から丹後半島を迂回するのは時間がかかる。当初大和朝廷は、敦賀や若狭、あるいは丹波(のちの丹後)から大和から進んでいったが、琵琶湖を経由して敦賀・若狭、丹波へ出るより、大和から加古川・由良川を通り海から円山川を基地として但馬が重要になったのではなかろうか。半島に精通している天日槍はその特使として適任である。

丹波の氷上(いまの丹波市)には水分れという、95.45mの本州一低い分水嶺がある。この地点は南の瀬戸内海に注ぐ加古川と北東に流れ日本海に注ぐ由良川の源流に位置する。さらに北に進むと加古川の源流にあたる青垣川から円山川へは丹波と但馬の国境にある遠坂峠を越えれば粟鹿川が円山川に合流するが、標高380mあり、水分れから由良川へ進み、日本海を西に進み、円山川河口から出石川へ入る方が楽である。

但馬・丹後・若狭敦賀にかけての日本海が、大和から新羅への出港地として重要度が増したからではないだろうか。縄文時代から江戸期の北前船まで、日本海の季節風を利用し、日本海と沿海州、半島など大陸との表玄関で、朝鮮半島や沿海州と本州の人々・物資を運ぶ海上交通を担っていた。

また、但馬国は朝廷の奉幣を受ける官社である延喜式内社数が全国で五番目に多いことの不思議である。都や畿内周辺の大和286社、伊勢253社、近江155社、また神話の国出雲187社に次いで但馬は131社と5番目に多い。都に近い畿内でもなく、平野部が少なく陸の孤島というべきほとんど山間地帯の国であるのに異常な数だ。次いで越前の126社、延喜式の時代に平安京の置かれた山城で122社、尾張121社、河内113社である。隣国では丹後65社、丹波71社、因幡50社であり、但馬と越前が異常に多いことが分かる。

ヤマト王権に組み入れられたタニハ

ヒボコから数代あとに彦坐王がいた。彼は人皇9代開化天皇の第三皇子で、第三妃に日矛の流れを汲む近江の息長水依比売がいる。彼女との間に生まれたのが、四道将軍・丹波道主王命である。妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命ひばすひめのみこと(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛ぬはたのにいりひめ(同妃)、真砥野媛まとのひめ(同妃)、薊瓊入媛あざみにいりひめ(同妃)、竹野媛たかのひめ朝廷別王みかどわけのみこ(三川穂別の祖)。

丹後三大古墳や但馬の池田古墳など、日本海側では巨大な前方後円墳が造られたのは、この辺りの話ではないだろうか。

『但馬故事記』には、第10代崇神天皇の御代、彦座王が丹波青葉山の陸耳・土蜘蛛と多遅麻の狂の土蜘蛛を退治した話が克明に記されている。これは大丹波を大和朝廷が完全に平定しなければならない理由によるものだと考えられる。

神功皇后は、『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后(おおたらしひめのみこと)。父は開化天皇の玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日槍の裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)、彦坐王(ひこいますのきみ)の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母しょうもとも呼ばれる。

ヒボコに似た神功皇后と新羅

初代多遅麻国造 天日槍から2代天諸杉命ー3代天日根命-4代天日楢杵命ー5代天清彦命ー6代多遅麻毛理命(田道間守命)ー7代多遅麻日高命(多遅麻毛理命の弟)と続く。

代々天日槍の子孫が代々多遅麻国造を命じられてきたが、6代多遅麻毛理命(田道間守命)のあと、子ではなく弟の多遅麻日高命になったかについては、次のように推察できる。

人皇11代垂仁天皇89年夏4月、多遅麻毛理命は多遅麻国造となる。黄沼前県主久流比命の娘、佐津毘売命を娶り、橘守命という子がいた。

90年春2月、垂仁天皇は多遅麻毛理命を常世国に遣わし、非時の香果(橘)を求めさせた。多遅麻毛理命は常世国に至り、9年経った。
人皇12代景行天皇元年春3月、多遅麻毛理命は常世国より帰ると、垂仁天皇は既に崩御された後であった。多遅麻毛理命は哀悼に堪えられず、天皇の御陵に至り、号泣して死んでしまった。
余りに突然のことで、まだ幼い子の橘守命ではなく、多遅麻毛理命の弟である多遅麻日高命が多遅麻国造となったのであろう。

多遅麻日高命は、多遅麻毛理命の娘、由良度売命を娶り、葛城高額姫命を生む。葛城高額姫命は、息長宿祢命に嫁ぎ、息長帯姫命・虚空津姫命・息長彦命を生む。
この息長帯姫命は、いわゆる神功皇后である。
多遅麻毛理命の2番めの弟に、須賀諸男命が、多遅麻日高命のあと、初代出石県主と為る。
多遅麻日高命を最後に多遅麻の府は気多へ遷る。但馬は大きな変化が見られる。

出石から気多へ

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)に、
人皇12代景行天皇32年夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐したことを賞し、摂津の川奈辺(大阪府河辺郡)・多遅麻の気多・黄沼前の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮(豊岡市日高町国分寺)に在り。多遅麻物部氏の祖となる。

人皇15代神功皇后の2年、大県主・物部連大売布命もののべのむらじおおめふのみことの子・多遅麻国造たぢまのくにのみやつこ物部多遅麻連公武もののべたぢまのむらじきみたけ、府を気多県高田邑に置く。(今の久斗・東構境あたり・南構遺跡か?)

45年、新羅が朝貢せず。将軍・荒田別命あらたわけのみこと(豊城入彦命4世孫)・鹿我別命しかがわけのみこと(大彦命の末裔)*1は往きてこれを破る。

(*1  将軍・荒田別命・鹿我別命  この両臣は神功皇后摂政期に、新羅鎮撫のため、征討将軍となって新羅に赴いた。この命が平定した比自[火本]ヒシホ他六国の名称は『日本書紀』と全く同じ)

比自[火本]ヒシホ南加羅アリシヒノカラ啄国トクノクニ安羅アラ多羅タラ卓淳トクジュ加羅カラの七国を平むける。兵を移して西に回り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラを屠はふり、もって百済クダラに賜う。

百済王は「もし草を敷いて座れば、おそらく火で焼かれ、木を取って座れば、おそらくは水で流されるであろう。もって、盟を表し、永久に臣を称する信条なり。」

新羅親征(征韓)となり、出石県主・須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功を上げ、皇后は特に竃遇を加えている。(第五巻・出石郡故事記)

なんとしても日本を守らねばならない国家的危機意識があったのではなろうか?袴狭遺跡の大船団を描いた木版画は、のちの神功皇后の新羅征伐を描いたものかも知れない。

兵主神社が但馬に特に多いわけは?

軍団設置と兵主神社

『国司文書 但馬故事記』には、神功皇后よりずっとのちにも、新羅が登場する。

これ以降、但馬に気多郡・朝来郡に兵庫(やぐら)が設けられ、軍団が設置される。次いで出石郡・城崎郡・養父郡にも軍団が設けられていく。

兵庫を高橋村(豊岡市但東町)に設け、兵器を納め、大兵主神を祀る(式内大生部兵主神社 豊岡市但東町薬王寺)。

このように耐えず半島南部の情勢は、神功皇后の時代になると、倭国にとって緊々の重大事であったことが分かる。新羅の王子天日槍は、大和言葉と朝鮮語に精通していただろうし、その子孫が代々多遅麻国造に置いた時代が暫く続いている。皇統であれば信用度はあり、倭国と半島南部の外交官として適任であろう。

人皇37代孝徳天皇の大化三年、朝来郡朝来村*3と、気多郡高田郷に兵庫やぐらを造り、軍団を置く。(朝来軍団・気多軍団)

(式内兵主神社:兵庫県朝来市山東町柿坪、式内久斗寸兵主神社:兵庫県豊岡市日高町久斗)

人皇40代天武天皇白凰12年、城崎郡赤石原に兵庫を設け、兵主神を赤石原に祀る(式内兵主神社 祭神:スサノオ 兵庫県豊岡市赤石)

同年 兵庫を出石郡高橋村に設け、兵器を蔵(オサ)む。(式内大生部兵主神社:兵庫県豊岡市但東町薬王寺字宮内848)

同年 美含郡 兵庫を伊久刀丘に設け、兵主神を祀る。(兵主神社:兵庫県美方郡香美町九斗)

人皇40代天武天皇4年秋7月朔(1日)、小錦上 大伴連国麿おおとものむらじくにまろを以て大使と為し、小錦下三宅吉士入石を以て副使と為し、新羅に差遣した。

人皇41代持統天皇2年、養父郡更杵さらきね村に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村兵主神社 祭神:スサノオ(式内更杵兵主神社 いまの兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷)

人皇44代元正天皇の養老三年(719) 養父郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所コンデイショを置く。判官・伊久刀首武雄いくとのおびとたけおは、浅倉に兵主神を祀り、その祖雷大臣命を赤坂丘に祀る。兵主神社(式内兵主神社:兵庫県豊岡市日高町浅倉)・伊久刀神社(式内伊久刀神社:兵庫県豊岡市日高町赤崎)是れなり。

*3朝来村 式内兵主神社(祭神: 大己貴命オオナムチ)を兵庫の側に祀るとあるので、兵庫は朝来村(今の朝来市山東町柿坪)

以上のように、円山川流域にまず朝来郡・気多郡に軍団を配置し、ついで城崎郡・出石郡、翌年に養父郡で、糸井から浅間へと円山川下流へ移している。

また但馬ではないが、氷上の水分れからすぐの重要だと思われる地に兵主神社がある。

  • 加古川・由良川につながる氷上の水分れ 兵庫県丹波市春日町黒井に式内兵主神社
  • 播磨国だが、加古川上流氷上に近い。式内兵主神社:兵庫県西脇市黒田庄町岡372-2
  • 但馬のすぐ西、同じ山陰海岸線に、鳥取県岩美郡岩美町に佐弥乃兵主神社・許野乃兵主神社がある。

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