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大化改新
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大化の改新 |
622年に聖徳太子が没し、ついで628年には推古天皇も逝去しました。その皇位継承をめぐる対立に乗じて、蘇我氏はさらに勢力を拡大していきます。その過程で太子の一家も滅ぼされてしまいました。蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)でありました。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにしました。 孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握りました。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させました(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たりました(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。 皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、その父で大臣の蘇我蝦夷(えびす・えみし)を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼしました(乙巳の変(いっしのへん)。こうして蘇我氏は急速に没落、新たに即位した孝徳天皇は中大兄皇子を中心に、律令制度に基礎を置く「大化の改新」が断行されます。ちなみに「大化」は日本において初めて立てられた年号です。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月に新しい難波宮(大阪市)で改新の詔を宣して、着々と中央集権的な統一国家が形づくられていくのです。(大化の改新) その後も、これまでの蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めました。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとあります。 663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなりました。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置きました。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進みました。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移されました。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれています。 ところで、国家にとって仏教界の統制が重要な問題の一つになったということは、裏返せば、その大きさと力が無視できない、放ってはおけないものになってきたということなのです。ある記録によれば、例えば寺院の数は、推古天皇三十二年(624)に46であったものが、持統天皇六年(692)には545に達したとされます。約七十年の間に約十二倍に増加しているのです。 |
天皇という称号 |
天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていました。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称しました。 「天皇」号をはじめて採用したのは、推古天皇という説も根強いですが、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とされていますが、近年の研究では、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されたことにより、それまでの「大王」から「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力です。天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなります。伝統的に「てんおう」と訓じられていました。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされています。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一されました。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」「大日本帝国皇帝」が多く用いられていました。完全に「天皇」で統一されていたのではないようです。 ▲ページTOPへ |
白村江の戦い |
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。戦いは唐・新羅連合軍の勝利に終わりました。大陸に超大国唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、その後の倭国(日本)にも大きく影響しました。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多いですが、中国・朝鮮側では「白江」と表記されます。 668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進しました。また、東国に柵を造りました。白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来しました。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されています。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていました。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになりましたが、日本はこれを認めませんでした。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれました。 737年には新羅征討が議論に上りますが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなりませんでした。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備しています(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったのですが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなりました。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされています。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しています。 ▲ページTOPへ |
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