兵庫県豊岡市日高町は、2005年(平成17年)、豊岡市周辺の城崎郡城崎町・竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併し、兵庫県で面積が一番大きい市となった。それまでは城崎郡日高町であった。さらに、1896年(明治29年)に郡の統合があり、美含郡とともに城崎郡に編入される以前は、「気多(けた)郡」と呼ばれていた。豊岡市合併前の城崎郡日高町全域(浅倉・赤崎は昭和30年に養父郡宿南村から編入)と・中筋地区(賀陽郷)・上佐野・納屋・床瀬・椒(狭沼郷)に該当する。
■郡名の由来と変遷
紀元前660) 神武即位
神武9年(紀元前652) 佐久田彦命 佐々前県主となる。
『国司文書 但馬故事記-気多郡故事記・上』に記載される但馬最初の県主(1)である。
天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこほあかり…)は国造大己貴命(くにつくりおおなむち…)に勅を奉じ、両槻天物部命(なみつきのあまつもののべ…)の子 佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原に御津井を掘り、水を灌(そそ)ぎ、御田を作る。後世その地を名づけて、佐田稲生原と云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前(ささのくま)邑これなり。
佐久津彦命は佐久宮(佐久神社)に坐す。
天火明命の供奉(ぐぶ)の神、天磐船長命は磐船宮(豊岡市日高町道場山田10-2 白鳥上290)に坐す。(…磐船神社)
天磐船長命は天磐樟船命(あめのいわくすふね…)の御子なり。
佐久津彦命は、鳴戸天物部命の女(娘)佐々宇良姫命を娶り、佐伎津彦命・佐久田彦命を生む。(佐久田は現在の久田谷の語源か?)
佐伎津彦命は佐々前県主なり。
人皇一代神武天皇九年冬十月、佐久津彦命の子 佐久田彦命を以って佐々前県主と為す。(…現在の佐田)
佐々前県主 佐久田彦命が国作大己貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称えしまつる。(…気多神社)
また佐久津彦命を佐久宮に斎き祀る。(…佐久神社)
御井比咩命を比遅井丘に斎き祀り(比遅井は霊異井の義)、御井の湧き栄えを祈るなり。
御井比咩命の祖 稲葉八上姫は天珂森宮(日高町山本)に在す。
(中略)
人皇八代孝元天皇三十二年秋七月、建磐竜命の子 櫛磐竜命を以って、佐々前県主と為す。
当県の西北に気吹戸主命の釜在り。常に物気(もののけ・物の怪)を噴く。故にその地を名づけて、気立原と云う。その釜は神鍋山を云うなり。
依って佐々前県を改めて、気立県と云う。
『国司文書別記 気多郡郷名記抄』に、
気多は古くは気多津県(けたつあがた)1なり。
この郡の西北に気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)の釜あり。常に烟2(を噴く。この故に其の地を名付けて気立原と云う。その釜は『神鍋山』を云うなり。
「常に烟を噴く」とあるので、神鍋山はすでに死火山のはずなので、昔の伝承を書いているのか、どうなのかと思っていたところ、『国司文書 但馬故事記-気多郡故事記・下』には、それが地震であったことが記されている。
人皇四十代天武天皇十三年十月十四日、地震(ナヰ)、気多郡火を噴き、人畜多(さわ)に死し、止美神社(日高町十戸)・太多神社(日高町太田)・矢作神社・栗栖神社等震災に羅る。
依って佐々前県を改めて、気立県と云う。
天武天皇在位は、天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。この間に大きな地震が起こり、佐々前県から気立県へ改められたのも、神奈備とされたであろう神鍋山の神の祟り(たたり)だと恐れてのことではないだろうか。
*1 気多津は気立とも書く。気立(ケタツ)が気多(ケタ)に短縮された。
*2「烟」は、「煙」の旧字体
■もうひとつの気になる記述
人皇十一代垂仁天皇四十五年冬十月、当芸利彦命の子 国鎮剣主命を以って、気多県主と為す。母は伊曾志姫命にして、伊許波夜別命(いこばやわけ…)の女なり。
国鎮剣主命は国鎮御剣を剣宮に奉安す。
十五代神功皇后の二年五月二十一日 気多の
人皇十六代仁徳天皇元年四月 物部多遅麻公武命の子 物部多遅麻毘古を以って、多遅麻国造と為し、府を日置邑に移す。
人皇十六代仁徳天皇二年春三月 物部多遅麻毘古は、物部但馬連公武命の霊を気多神社に合祀する。
佐々前県主から物部多遅麻毘古が但馬国造へ飛躍すると、場所的に気多郡一帯なら佐々前(佐田)でよいが、但馬全体からすると円山川に近い場所がふさわしい。ここまでは理解できる。
しかし、佐々前県主から物部多遅麻毘古が但馬国造と飛躍し、日置村へ府を遷したのは300年あとである。『国司文書 但馬故事記-第一巻・気多郡故事記』にある、佐々前県主 佐久田彦命が国作大己貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称えしまつる。また佐久津彦命を佐久宮に斎祀る。これは佐田の佐久神社でまちがいなさそうだ。気多神社の祭神は最初、国作大己貴命一神であったが、気立神社の気立丘が上ノ郷の頼光寺付近とされるならば、遠すぎはしないか。
人皇二十九代宣化天皇三年夏六月、能登臣気多命を以って、多遅麻国造と為す。
能登臣命は、その祖 大入杵命(またの名を大色来命)を気多神社に合わせ祀る。
とあるからである。能登一宮といえば気多大社があるからだ。偶然に同じ気多神社だけなのか?「気立丘に斎き祀る。これを気立神社称えしまつる」。気立丘はの勧請ではなく、
仁徳天皇在位:仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日) – 同87年1月16日(399年2月7日))
宣化天皇の在位は、宣化天皇元年12月18日(536年1月26日) – 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日)の4年間で、ざっと200年のちである。
気立を気多に替えた理由が、単なる「ケタツ→ケタ」への短縮過程だけなのだろうか?
察するに、気多都県は煙が立つ山のある県(神鍋山はその頃には、すでに死火山だったとされるので、火を噴くは考えにくい。)、で省略して気多都が気多になった。
(1)県(アガタ)を郡(コホリ)と改める
■気多郡の郷
奈良時代
奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された倭名類聚抄「倭(和)名抄」によると、気多郡は下記の八つの郷と国府の場所は、他国の記載でも国府郷とは記載しないようである。
(国府)、狭沼(サノ)郷、太多(タダ)郷、三方(ミカタ)郷、楽前(ササノクマ)郷、高田(タカダ)郷、高生(タカウ)郷、日置(ヒオキ)郷、賀陽(カヤ)郷
平安時代
平安時代中期に作られた日本語辞書である「倭名類聚抄」などを江戸期のものまで集成した『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編に、
「気多郡」…因幡にも気多郡有り、遠江に気多郷有り、本郡には大己貴神(オオナムヂ)を祀る気多神社…、高田、日置、高生、気多、狭沼の五郷、多太、三方、楽前、八代、賀陽、伊福(鶴岡)の六荘、今の八十村を領し、出石郡出石町に在し気多郡を治める。…
と記し、 「気多(郷)」が四角い枠で囲まれて気多郡の筆頭に記されています。国府地区とされます。
また、式内社の思往(おもいやり)神社、但馬国分寺木簡の「思往郷」の新たな発見により、当時の気多郡の郷名は一つ加わり思往郷が存在していたことが分かる。新たな郷名が増えたのではない。八代小学校(豊岡市日高町中)のあたりは、古くは大炊山代村と言い、八代谷の中心部であったので、やがて(八代の)中村と呼ばれるようになり、村の神社が大炊山代神社から訛って思往神社と呼ばれるようになり、通称の思往郷と云うようになったのではなかろうか。
また、同郡内にも、餘部郷もあったことがわかる(正倉院文書)。
私は、この意味不明な気多というかつての郡名に、縄文人がケタ(:奇妙な)山があると叫んだからケタとなったのではないかと、想像したり、、、関西弁で「けったいな…」ということもある。
気多という地名
日本に初めて伝わった文字が漢字であり、気多という地名は、カタカナでケは漢字の「気」を崩したカナ、タは「多」を崩してできたカナなので、元々のケタにポピュラーなカナ用の漢字を充てたに過ぎないかも知れない。
したがって、日本海の海に近い場所に気多という地名や気多神社が多いからといって、つながりがあると断言できない。しかし、大宝律令などは、好い字二字を用いて地名を付けさせたので、本来の漢字の意味を充てたということはあるかも知れない。
気多の「気」とは、正字は「氣」で、中国思想および中医学(漢方医学)の用語でもあります。目に見えないが作用をおこし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなるものをさします。本来は、中国哲学の意味ですが、日本では「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主であり、「病は気から」の「気」は、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解されているそうです。
気多は、気が多いと、漢字が伝わる以前からケタという地名はあったでしょうし、「和妙抄」の中でも例えばタジマなど、地名や人名を表すのに様々な漢字の好い字を当てて使用されていることからも、漢字の意味にばかりこだわるというのは、狭い解釈だと思えるのですが。。。
やや無理があるかもしれないが、古代の日本語はニュージーランド先住民マオリ族のマオリ語に似ているという方がおられ、そのマオリ語の意味がなるほどなぁと思う部分が多いのである。
日本列島の旧石器人や縄文人が、朝鮮半島南部から東シナ海沿岸、北部九州や八丈島まで移動していた海洋民族だったことがわかっているが、東はハワイから西はフィリピン、南にニューギニア、ポリネシア・ミクロネシアからニュージーランド、オーストラリアにかけて太平洋の島々を往来していた海洋民族として捉えれば、あながち、ことばのルーツは全く無関係とは言えないからだ。ケタはもちろん、但馬では最古から人が住んでいた旧石器時代の遺跡が見つかっている氷ノ山・扇ノ山に近い新温泉町畑ケ平(ハタガナル)から鉢伏、神鍋の山岳地帯には、神鍋…稲葉(イナンバ)、万却(マンゴウ)、名色(ナシキ)、万場(マンバ)、太田(タダ・古くは太多(太多郷)と書く。タタと濁らなかったと思われる)を始め、鉢伏高原近郊には別宮(ベックウ)などの初めての人ならまず読めない意味不明な地名が多いのも、旧石器から縄文人が名付けたものがそのまま残っているのではないか考えられるからだ。
縄文時代から「ケタ」といっていた地名を漢字で気多に宛てたとすれば、
気多(けた)
「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛とする。
それは噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を見つけたことではないだろうかと想像すると思えなくもない。
太田(ただ)
「タタ」、TATA(stalk,stem,fence)、または「タ・タ」、TA-TA(ta=the…of;ta=dash,beat,lay,sprinkle by means of a branch or bunch of leaves dipped in water)
「垣根のような(長く延びている。岬)」
神鍋山の形状の事ではないか。
稲葉(いなんば)
「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside;na=belonging to;pa=block up,prevent,screen,stockade)、「交通の障害となっているもの(蘇武岳と三川山)の付近の地域」 、または 「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside,past tense;na=satisfied,belonging to;pa=stockade)、「ゆったりとした巨大な集落のそば(の地域)」
山田(やまた)
「イア・マタ」、IA-MATA(ia=indeed,current;mata=face,eye,flint,obsidiam)、「実に・眼がある(溜め池がある。地域)」または「実に・(火打ち石や石器に使える)堅い石(サヌカイトなど)がある(地域)」
補足すると、気吹戸主神の釜、すなわち神鍋山を祀ったのが名神大 山神社、気吹戸主神を祀った名神大 戸神社(御祭神:大戸比賣命、奧津彦命) であろう。「人里近く、姿優美な山、神々が降臨され、鎮まる山を神奈備というから、神鍋山は神奈備山の転訛であろう。
■沿革
◯旧気多郡
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行(7村)
中筋村(豊岡市)
日高村・国府村・八代村・三方村・西気村(日高町 → 豊岡市)
三椒村(竹野村 → 竹野町 → 豊岡市)
1894年(明治27年)12月15日 – 清滝村(日高町 → 豊岡市)が西気村より分立。
1896年(明治29)4月1日 – 気多郡7村、美含郡8村が城崎郡に編入。両郡は消滅。
但馬国の県・郡名変遷表(「『国司文書 但馬故事記』訳注」)
国 名 | 順 | 県 名 | 郡 名 文武四年(700) | 摘 要 | ||
一次 | 二次 | |||||
多遅麻国 (但馬国) | 1 | 佐々前(ササクマ)県 | 気多県 | 気多郡 | 城崎郡日高町 | 豊岡市 |
2 | 大屋県 | 麻布県 (朝来県) | 朝来郡 | 和田山町・山東町 ・朝来町・生野町 | 朝来市 | |
3 | 比地県 | |||||
4 | 屋岡県 | 夜夫県 | 夜夫郡 (養父郡) | 八鹿町・養父町・関宮町・大屋町 | 養父市 | |
5 | 石禾(イサワ)県 | 和田山町・養父町 | 朝来市・養父市 | |||
6 | 小田井県 | 黄沼前県 | 城崎郡 | 城崎町・豊岡市 | 豊岡市 | |
7 | 御出石(ミイズシ)県 | 出石県 | 出石郡 | 出石町・但東町 | ||
8 | 竹野県 | 美含県 | 美含郡 | 城崎郡竹野町 | ||
9 | 美伊県 | 城崎郡香住町 | 美方郡香美町 | |||
10 | 伊曾布県 | 志都美県 | 志都美郡 (七美郡) | 美方郡村岡町・美方町 | ||
布多県国 (二方国) | 1 | 大庭県 | 二方郡 | 美方郡浜坂町 | 美方郡新温泉町 | |
2 | 端山県 | 美方郡温泉町 |
一部誤記があるので訂正し、現在まで付記した。