山名氏
家紋:二つ引両
清和源氏新田氏流
山名氏 守護大名に成長
室町幕府は、地方の守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分を取り立てる権限を与え、守護の力を強めて全国の武士をまとめようとしました。守護は荘園や公領を自分の領地に組み入れ、地元の武士を家来にしました。さらに、国司の権限も吸収して、それぞれの国を支配する守護大名に成長しました。
1337(建武四)年、山名時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、山名時氏は、山名氏発展の端緒をつかんだのです。
1341(暦応四)年、室町幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国の出雲に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、山名時氏は、伯耆・因幡・出雲・隠岐を支配下におきました。
1363(貞治2)年、将軍義詮からの誘いもあって幕府に帰参し、義詮から切り取った領国の安堵を条件に、伯耆国・因幡国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護職補任を認められ、子供たちを各国の守護とし、自身は丹波守護となりました。
山名氏はこののち幕政で重きをなすことになるが、その基礎は時氏によって作られた。二代将軍足利義詮の時代に、出雲国・隠岐国の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。
その後、出雲・隠岐守護職は塩冶高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられました。そして、時氏は貞和二年(1345)に将軍を補佐する管領には細川氏、斯波氏、畠山氏の三管とよばれる有力守護大名が交替で、幕府を警護する武士の筆頭である侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました。
南北朝時代と但馬
このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名氏の支配下に置かれたようです。
1336(延元元)年、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。
その翌年の1337(延元二)年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の豊岡盆地中央部東縁の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。
観応の擾乱と守護職安堵
擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息しましたが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ山名時氏は北朝の尊氏に味方していましたが、のちに時氏の長子、山名師義は、観応の擾乱では父時氏とともに直義方で戦い南朝に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。
時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。山名氏の勢力拡大に貢献しました。
やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、1350(観応元)年、観応の擾乱が勃発しました。
一時、山名時氏、師義の父子が三開山城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して1353(文和二)年には京に攻め入り、京を一時は支配下におきました。
その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の1358(延文三)年に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。
そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、1363(貞治二)年、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、周防の大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。
山名時氏の5人息子と「六分一殿」
時氏の父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など、 嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。時氏死後は、師義が家督を継ぎましたが、わずか5年で師義も死去する。49歳の若さでした。
1363(貞和2)年、時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、師義も丹後・伯耆の守護に任じられました。いつごろからか定かではありませんが、但馬国もこの頃守護になったと思われます。
1370(応安三)年、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、1372年~1376年、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。
1376(永和二)年、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、
惣領の師義 | 丹後国・伯耆国 |
次男の義理 | 紀伊国 |
三男の氏冬 | 因幡国 |
四男の氏清 | 丹波国・山城国・和泉国 |
五男の時義 | 美作国・但馬国・備後国 |
の守護となりました。
その後、師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。
但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
時義は父時氏が亡くなったあと、わずか5年で師義も死去し、時義は惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代として但馬に送っていた記録もあります。城崎城(のちの豊岡城)主に上野国時代以来の重臣、垣屋氏を城代にあてているので、垣屋氏ではないかと思います。
時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。
山名家臣団
四職:侍所頭人 但馬国守護 山名氏
重臣(四天王):垣屋氏(気多郡)、太田垣氏(朝来郡)、八木氏(養父郡)、田結庄氏(城崎郡)
山名一族 磯部氏(夜久野城主)、海老名氏、宮田氏、犬橋氏、村尾氏、馬来氏
守護代 荻野氏、小林氏〈一部関東公方家収録〉、高山氏、土屋(垣屋)氏、古志氏、内藤氏、蓮池氏、大葦氏、入沢氏、石原氏
日下部氏族 八木氏(養父郡)、太田垣氏(朝来郡竹田城主)、田公氏(二方郡)、宿南氏(養父郡宿南城主)、七美氏、朝倉氏(養父郡朝倉庄)、長氏(美含郡訓谷城主)、奈佐氏(城崎郡奈佐庄)、山本氏、西村氏(気多郡水生城)、
但馬国人 三上氏、田結庄氏(城崎郡田結郷)、佐々木氏(養父郡浅間城主)、丹生氏(美含郡養山城主)、塩冶氏(美含郡無南垣城主)、高岡氏、野間氏、小野木氏、篠部氏(美含郡)、福富氏(朝来郡高生田城主)、上道氏(東河城主)
因幡国人 伊田氏、武田氏、草刈氏、中村氏、加陽(かや)氏、佐治氏、吉岡氏、福田氏、毛利氏
伯耆国人 金持氏、南条氏、小鴨氏、山田氏、相見氏
首藤一族 備後山内氏、多賀山氏、湯川氏、懸田氏、滑氏、河北氏
宮一族 宮氏、有地氏、久代氏、小奴可氏、高尾氏
杉原一族 本郷氏、木梨氏、目崎氏、三谷氏
波多野一族 広沢氏、江田氏、和智氏、上村氏、尾越氏、安田氏、上原氏
備後国人 三吉氏、有福氏、長谷部氏、馬屋原氏、吉原氏、上山氏、渡辺氏、宮地氏