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江戸時代後期の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きました。「生野の乱」、「生野義挙」とも言います。
1716年(享保元)、生野奉行を生野代官と改称します。但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くありました。
1735年(享保20)、久美浜に代官所が置かれ、丹後西部(京都府北部)・但馬(兵庫県北部)の大半は久美浜代官所の管轄で幕府直轄領(天領)でした。久美浜湾は、船見番所が置かれ諸国の廻船や御城米入津のときの改めなどを行っていました。享保16年(1731)より、湊宮陣屋での仕事が始まり、さらに京や大坂への陸上輸送に便利なところが必要となり、海を生かしながら陸上輸送に便利な久美浜に代官所が移されました。(久美浜小学校付近)。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めました。
文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄されます。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と天皇の大和行幸を画策します。大和国での天誅組の制止を命じられますが、その前日、天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵。さらに八月十八日の政変で会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのです。
平野は急ぎ京へ戻りますが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていました。国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張すますが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切りました。
文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めました(天誅組の変)。
天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣(福岡脱藩)を五条へ送りました。その直後の8月18日、政局は一変します。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまいます(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放されました(七卿落ち)。
変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合しますが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知り、平野は巻き返しを図るべく大和国を去りました。天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になりますが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅しました。
攘夷派による天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生しました。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となりました。天誅組の挙兵は失敗しましたが、この事件は明治維新の導火線になったと評価されています。
但馬の国は、小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていました。同国の生野銀山は佐渡、石見とともに当時三大鉱山として有名でした。
しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していました。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていきました。明治維新期の日本の人口は、3330万人。
生野天領では豪農の北垣晋太郎(のちの国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていました。
平野国臣は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。 28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入りました。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めますが、藩首脳部は消極的でした。
10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(元奇兵隊総管)ら尊攘浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かいました。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置きました。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張しますが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになりました。播磨口の番所は彼らを穏便に通し、12日未明に生野に入りました。生野代官所は彼らの動きを当然察知していましたが、代官の川上猪太郎が出張中なこともあり、代官所を無抵抗で平野らへ明け渡しました。藩と違い、天領の代官所は広い地域を支配している割には軍備が手薄であり、天誅組の挙兵の際も五条代官所は40人程の浪士に占領されています。
平野、北垣らは「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が生野の町に群集しました。しかし、天誅組の変の直後とあって、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動しています。諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がりました。強硬論の平野、河上らに圧されて解散は思いとどまりますが、13日夜に肝心の主将の沢宣嘉が解散派とともに本陣から脱走してしまいました。集まった農民たちは動揺します。<
妙見山(養父市)に布陣していた河上は生野の町で闘死しようとしますますが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかりました。河上ら13人の浪士は妙見山に戻って自刃して果ています。美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃され射殺されました。平野は兵を解散させると鳥取へ向かったが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られます。その他の浪士たちも戦死、逃亡、捕縛されました。
生野での挙兵はあっけなく失敗しましたが、この挙兵は天誅組の挙兵(天誅組の変)とともに明治維新の導火線となったと評価されています。
10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2000人が集まり意気を挙げました。しかし、幕府の対応は早く、翌日には豊岡藩・姫路藩など周辺諸藩が兵を出動させました。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまいました。農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図りますが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎に預けられていましたが、禁門の変の際に生じた火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。他の30名以上の囚人とともに斬首されました。享年37。
平野国臣は明治24年(1891年)、正四位を贈られています。福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されています<
北垣は、青谿書院で同期の原六郎(初名は進藤俊三郎。但馬国佐曩村(現・兵庫県朝来市)出身)とともに生野の変に参戦するが長州へ亡命。進藤は鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。1863年、時代は明治へ入る。
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