たじまる 弥生4 集落(ムラ)の誕生

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

2.弥生文化のルーツは中国亡命人たち

亡命(あるいは新天地を求めて)のために渡来してきた中国の人たちは、大量に一度に日本に渡ってきたのではなく、その後も長い年月に渡って渡来したとされていますが、縄文人に稲作の水田技術と土器に変わる金属器の情報を提供して同化していきました。 もちろん、日本の古代文化は朝鮮半島からの影響や移住があったことは、地形的にも、鉄器の輸入、漢字(文字)の導入などで明らかです。しかし、まず、日本列島の弥生人の骨格が朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨と極めてよく似た形質を持っていることが確認されたこと、稲作の導入の点と日本酒の誕生について、どうしても朝鮮半島説は不自然に思う点があります。また、前出のDNA研究のように日本人の遺伝子はなんと16種類ものDNA研究のように2つパターンを持っていたことが分かってきました。少なくとも2つの民族同士の対立という単純な構図ではないので各地から渡ってきた人々によって日本人独自のDNAを持っていることが分かってきました。

そのような研究から、秦が国家統一を果たす以前には朝鮮半島も倭国(日本)もまだクニと言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が伝わった時代は大差がないと考えられますし、東アジアという朝鮮半島のみ日本人のルーツとこだわるのは生産的ではありません。

上記の弥生人の特徴は北部九州に高い比率で分布し、北部九州以東、中部、関東まで点々と発見されています。福岡県板付遺跡では、朝鮮半島系の煮炊き具が他の集落よりも多く使用しています。この頃板付式土器を使わない環濠集落は廃絶するものが多かったのですが、板付遺跡は一層栄えていきます。

板付遺跡は、従来なかった水田適地に、縄文系の人々と渡来系の人々が共同して営んだ進出型環濠集落です。長い時間をかけて混血して、新しい形質をもつ人々の人口とその影響力が増加していき、「渡来系弥生人」になった可能性が高いとされています。

このようなシナリオが実情に近いなら、弥生時代の始まり頃の渡来人は、当時の縄文総人口に比べてごく少数であったものが、その知識と遺伝子は再生産されて、弥生時代は東アジア交流に基づいて、文化の多くの分野において大きな変革がなされた大変革時代です。その契機は、おそらく中国からの少数の人々の渡来にあり、日本列島の歴史に大きな影響を与えることになりました。その変革は一気に達成されたのではなく、北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。

4.集落(ムラ)の誕生

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がみつかっています。 弥生時代中期前半には、北九州一帯の人口が急増し、「邑(ムラ)」単位から共同体になり、いくつかの共同体がさらに地域国家が形成されるようになります。「ムラ」は群れ(ムレ)から派生したといわれています。初めて王が生まれたのは、九州北部の奴国と伊都国の2カ所とみられています。最初の弥生人が列島に降りたってから約900年後の紀元前50年ごろのようです。最初の王になったのはその最初の弥生人の子孫かというと、どうもそうではないようです。弥生の王は、農具はもたらしましたが、自衛のために武装するという発送はあまりなかった。しかし、弥生の王は、青銅器の武器で身を飾っっていたことが墓の発掘調査から浮かび上がります。第一次弥生人が運んできたものは、ほとんどが朝鮮半島製なのに対して、王の手元には鏡など中国製の物品が目立ちます。

5.王の誕生

弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」

しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。

血筋など関係のない実力主義だから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。

リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。

首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。

6.政 治

弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。 しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。

また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。

「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信

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