日中戦争の前後から、朝鮮国内での抵抗は散発的、象徴的なものに変質しました。1936年8月、ベルリン・オリンピックのマラソン競技で優勝した孫箕禎の写真を掲載する際に、『朝鮮中央日報』と『東亜日報』が日章旗を抹消し、当局から停刊処分受けました。また、労働強化が押しつけられるなか、労働争議や怠業、供出物資の隠匿など、戦争に対する非協力行為が多発しました。神社参拝の強要に対しては、各会派が参拝を容認した後も、各地の教会や牧師が独自に拒否を貫徹しました。さらに、42年10月、朝鮮語学会の研究活動が、総督府の推進する「国語」常用に反対し、民族意識を保存する抗日運動であるとして、弾圧されました(朝鮮語学会事件)。
そうしたなかで、一部の人々は解放後を視野に入れた活動を展開しました。42年12月、米国の海外向け放送である「ヴォイス・オヴ・アメリカ」の朝鮮語放送を密かに聴取した容疑で、京城放送局の職員らが検挙されました。また、朴憲永らは40年3月、京城コム・グループを結成し、共産党の再建工作に従事しました。さらに、44年8月、呂運享らが朝鮮建国同盟を結成しました。同盟は朝鮮の完全な自由独立、反動勢力の排除、民主主義の原則に立脚した建設などを行動綱領にかかげ、朝鮮の自力開放をめざして抗日軍事行動の準備を進めました。
国外の抵抗運動
中国東北では、「満州事変」を契機に反満抗日運動が高揚しました。民族主義者は、旧張学良軍など中国人の抗日義勇軍と連合作戦を展開しましたが、1934年ごろには弱体化しました。社会主義者は、中国共産党の指導下に赤色遊撃隊を組織しましたが、33年ごろから反帝統一戦線をめざす東北人民革命軍に改編されました。さらに、36年2月以降、人民革命軍は東北抗日連軍に再度改編されました。抗日連軍のなかには、のちに北朝鮮政府の最高指導者となった金日成、同じく北朝鮮の高級幹部となった崔石泉、金策ら朝鮮人幹部が含まれていました。同年6月には朝鮮独立を求める統一戦線組織として、在満韓人祖国光復会が結成されました。37年6月、金日成の指導下にかん鏡南道甲山郡普天ポに侵攻しました。この事件は、閉塞状況にあった国内民衆に独立の希望を与えました。しかし、日満軍の掃討作戦によって活動が困難になり、40年夏以降、小部隊に分散した抗日連軍は、ソ連領沿海州に移動しました。彼らは、ソ連軍の傘下で対日戦の準備を進めましたが、実践には参加しませんでした。
中国国内では、32年2月、上海事変が勃発して以来、日本軍の侵攻が強化されるなかで、独立運動団体の統合と分裂がくり返されました。右派の中心であった金九率いる大韓民国臨時政府(臨政)は、蒋介石政権との提携を深めて40年、重慶に定着し、9月には韓国光復軍を組織しました。臨政と光復軍は、米国戦略情報局(OSS)の支援を受けて対日戦の準備を進め、太平洋戦争勃発直後、日本に宣戦布告しました。しかし、臨政が「亡命政権」として国際的承認を受けることはありませんでした。
左派は、38年10月、朝鮮義勇隊を創設しましたが、その主力は40年から華北の中国共産党支配地域に移動し、朝鮮人社会主義者と提携しました。彼らは42年7月、延安において華北朝鮮独立同盟とその軍事組織である朝鮮義勇軍を結成し、中国共産党が指導する八路軍と共同作戦を展開しました。
朝鮮人の民族運動は日本の戦力を消耗させる役割を果たしましたが、解放戦争を準備しているうちに日本帝国主義の崩壊を迎えました。その結果、自力で民族解放を達成するという悲願はかないませんでした。
解放と分断
1945年8月15日、日本の降伏とともに、朝鮮は解放されました。それに先立ち、9日、ソ連軍が北部に侵攻しました。米国は、日本の降伏とともに急遽朝鮮進出の方針を打ち出し、朝鮮半島に最も近い沖縄駐屯の第10軍の派遣を決め、北緯38度線を境界に南北朝鮮を分割占領することで、ソ連と合意しました。
南朝鮮では、解放と同時に呂運享、安在鴻らが朝鮮建国準備委員会(建準)を結成しました。建準は、各地に結成された自治委員会や人民委員会を基盤に治安維持をはかるとともに、対日協力者を除く諸勢力を網羅する統一戦線の役割を果たしました。45年9月、建準は独立運動に関連する人士を総結集させた朝鮮人民共和国を樹立すべきことを宣言しましたが、進駐した米軍は軍政を宣布し、朝鮮人民共和国の存在を否認しました。米軍政は、左派主導の社会運動を抑制し治安維持を最優先する方針にしたがって、植民地期の官僚や警官、軍人を雇用し、韓国民主党など右派勢力を優遇しました。他方、再建された朝鮮共産党など左派勢力は、徐々に米軍政との対立を深めました。
北朝鮮では、45年8月末までにソ連軍の支配が開始されましたが、9月、金日成らが沿海州から帰国して主導権を握ると、10月、南朝鮮とは別個の朝鮮共産党北部朝鮮分局(46年4月北朝鮮共産党と改称)を設置し、独自の革命を追求しました。46年2月、実質的な政府である北朝鮮臨時人民委員会(委員長 金日成)が結成されました。無償没収、無償分配の土地改革や八時間労働制度、重要産業の国有化など、「民主改革」が推進されました。そして、まず北朝鮮の革命を完遂し、ここを「民主基地」として、次ぎに南朝鮮の解放に着手する、よいう戦略が樹立されました。46年8月には北朝鮮共産党は、北朝鮮新民党と合同して北朝鮮労働党となりました。
朝鮮の独立は、1943年11月カイロ宣言により、米国、ソ連の合意を得ていましたが、日本の敗戦まで具体的な進展はありませんでした。45年11月、米英ソ三国外相会談は、朝鮮に臨時民主政府を樹立し、米国、英国、中国、ソ連による五年間の信託統治を実施することを決定しました。会談の結果が南朝鮮に伝えられると、右派は信託統治反対運動を展開し、賛成を表明する左派との対立を深めました。46年3月、新政府樹立を援助するために、ソウルで米ソ共同委員会が開催されましたが、対立から5月に委員会は決裂しました。
48年5月、南部で単独選挙が強行され、8月15日、大韓民国(韓国 大統領李承晩)が樹立された(第一共和国)のに続き、9月9日、北部で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮 首相金日成)が創建されました。
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男