3 百済の成立・発展

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半島の国家
高句麗(0年? – 668年)
百済(346年 – 660年)
新羅(4世紀? – 935年)
伽耶諸国(? – 562年)
耽羅(済州島)(? – 476年)
于山国(鬱陵島)(? – 512年)

高句麗が国家発展を遂げていたころ、南部の韓族社会にも大きな変化がみられました。313年に楽浪・帯方の二郡が滅びましたが、それより前に西部の馬韓諸国の北部に伯済国が頭角をあらわし、周辺の小国を統合して、四世紀中ごろまでには周辺諸国を統合する実力をもつようになりました。
百済ははじめ都を漢山城(のちのソウル)に置きましたが、ここはかつて帯方郡に近く、その滅亡時には土着化した中国系の人々が初期の百済勃興に少なからず寄与しました。百済は北から攻めてくる高句麗と対抗するため、いち早く半島南部の伽耶諸国に接近し日本列島の倭との戦力的な連携を模索しました。
371年に百済は、高句麗の故国原王を戦死させるという大勝利をあげましたが、翌年には百済の近肖古王は中国の東晋王朝に朝貢して冊封を受けました。
こうして百済は、高句麗に対抗するために伽耶の国々や、倭と緊密に結びながら中国南朝と通交関係をもつという外交政策は、長く百済の基本的な外交戦略となりました。しかし高句麗との対決姿勢は、その後の百済に苦難の道を歩ませ、ついに475年には都の漢山城は、長寿王の攻撃によって陥落し、蓋ろ王は殺害され百済は一次滅亡しました。
しかし、能津城(公州)に逃れた百済の支配者たちは、文周王を立てて百済を再興させ、たがて支配層内部の混乱も収まり、国政は安定に向かいました。高句麗の百済への圧力はその後も続きましたが、それをしのぎながら武寧王のころには半島の西南部に領域を広げました。やがて538年には、聖王が都を南の泗比城(扶余)に移しました。
そのころには、中央の官僚制度が整備され、官僚制度を支える個人的な身分制度、十六等の官位制が完備しました。さらに国内を五つに分割して統治する地方制度が施行されるなど、国家体制の充実を図りました。

百済文化

百済は四世紀頃からソウル地方で急成長をとげました。中国南朝としきりに外交を展開し、積極的に中国の文物を取り入れ、洗練された百済独自の文化をつくり上げていきました。
積石塚古墳などに初期国家の痕跡がみられます。とりわけ百済文化の精華を今日に伝えるのは、百済第二の都・能津城(公州)付近の宋山里古墳群で発見された武寧王陵です。1971年に偶然に発見された王陵は、アーチ状の天井をもつ横穴式の古墳で、内部からは「百済王斯麻王(武寧王)が62歳で523年五月七日に亡くなった」と記した誌石(墓誌)がみつかり、武寧王と王妃の冠飾りや華麗な装身具、武器など、その遺物は三千点に達しました。
また、扶余の陵山里古墳群の一角から発見された金銅香炉は、百済芸術の白眉といわれるものです。

百済仏教

384年に東晋から胡僧・摩羅難陀が訪れ、仏寺が創建されたといいます。六世紀になって百済が日本に仏教を伝えたことはよく知られていますが、最後の都が所在した扶余には、「寺院甚だ多し」と中国にも伝わっていました。扶余の中心部には定林寺址の石塔がたたずみ、軍守里廃寺も一塔一金堂式の伽藍を今に伝えています。また、扶余の南。益山に造営された弥勒寺は、三つの塔とそれぞれに金堂を配した三塔三院式の巨大な寺院であり、半壊したまま残った西塔は現存最古の石塔です。
渡来した百済王氏には、八世紀に敬福(きょうふく)が、陸奥守として黄金を発見し、東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍しました。
大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社です。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残ります。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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