古朝鮮
朝鮮古代の最初の国家は古朝鮮といいます。これは檀君朝鮮・箕子(キシ)朝鮮・衛氏朝鮮の三朝鮮を近世の朝鮮王朝と区別して、三朝鮮を総称する際に一般的に用いられています。
しかし、檀君朝鮮は、資料の成立は紀元後10世紀以上をさかのぼることができず、後世につくられた神話としての性格が強いので、初期国家を語るに対象にはしがたいものです。
また箕子朝鮮についても、後世の史家によって少なからず手が加えられており、その実像はとらえにくいものです。
三世紀末の『魏略』は、紀元前四~三世紀ごろに、中国の戦国七雄の燕(エン)が朝鮮の西方に攻め込んで満潘汗(マンバンカン)を境界としたときに朝鮮王を称する者がいたこと、さらに紀元前三世紀末に秦(シン)が燕を滅ぼし遼東に万里の長城を築くと、朝鮮王・否(ヒ)が秦に服属したこと、その後、否の子・準へと王位が受け継がれたことを記しています。一方同じ頃に記された『魏志』は、準のことを箕子の40余世と記しています。ここに矛盾があり、確かな根拠は今のところありません。
いずれにしても、紀元前二世紀から三世紀ごろに、朝鮮王・準の時代には、中国の秦漢交代期の動乱を避けて、燕・斉・趙などの国々から、多数の人々が朝鮮付近に流入したとみられます。その中に、燕から千余人の配下とともに亡命してきた衛満がいました。朝鮮王・準は、その衛満を受け入れて西方国境の守備に当たらせるなど重用しましたが、衛満は王倹城(平壌)を都と定め、半島の南部や東岸をも支配下に収めました。これが衛氏朝鮮の成立です。
衛氏朝鮮は、衛満から孫の右渠(ウキョ)へと三代にわたって引き継がれました。王のもとには有力者が結集して支配層を形成しました。衛氏朝鮮の国家の性格は、亡命中国人のほかに領地内の土着の首長も支配層に吸収して組織した連合国家であったとみられています。
漢の四郡
このころ、中国の漢王朝は、衛氏朝鮮に対して、周辺の諸民族が漢王朝へ行くことを妨げないことを条件に、衛氏朝鮮の王を「外臣」として重んじました。しかし、右渠の代になると、朝鮮王の朝貢も途絶えがちになり、しだいに漢王朝に強硬な姿勢を取ったために、漢の武帝は大軍を遣わして王倹城を攻撃しました。激しい攻防ののち、王倹城は陥落し、三代80年余り続いた衛氏朝鮮は滅亡しました。
衛氏朝鮮を滅ぼした漢王朝は、紀元前108年に、その故地に楽浪(平壌)・真番(慶州か)・臨屯(江陵)の三郡を、翌年には玄菟郡(げんとぐん・感興)を設置し、郡県制度を通じて、これらの地域に対する直接支配に乗り出しました。これを漢の四郡といいます。
漢の郡県支配は、朝鮮半島をはじめ北東アジアに多大な影響を及ぼしながら、紀元後313年までの約420年間続きました。しかし各地域の諸民族の抵抗にあって名実ともに直接支配とよべるような地域と時期は限られていました。まず20年後の紀元前82年には、真番・臨屯の二郡が廃止され、ついで紀元前75年には、玄菟郡も西方に後退し、朝鮮半島では楽浪郡を残すのみでした。
楽浪郡は、三郡の一部を吸収して、平壌地方を中心に半島に影響力を及ぼし続けました。大陸から移ってきた漢人やその子孫が居住した楽浪郡治(郡役所所在地)の平壌を中心に中国文化が流入しました。諸族の有力な首長たちは、このような郡との交渉を通じて、しだいに成長を遂げていきました。
日本はそのころ弥生時代で、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中国文明受容に大きな役割を果たしました。
壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるといわれています。より直接的な例としては、弥生後期(2世紀前半)の田和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明しています。楽浪郡には中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味します。
3世紀初頭には楽浪郡南部の荒地を分離して再開発し、帯方郡(たいほうぐん)を設置しています。『魏書』倭人伝には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて中国王朝と通交しています。
日本列島への渡来は、以上のように先史時代から続いてきたもので、一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられています。また、そのルーツに関しても、黄河流域~山東半島、揚子江流域、満州~朝鮮半島、北方・南方など様々で、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっています(最近の遺伝子研究ではおおむね渡来人は北東アジア起源が有力です)。
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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