国臣 北垣晋太郎との出会い
北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)は、養父郡能座村(養父市)の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれた。父・三郎左衛門は、鳥取藩郷士で儒学を修めまわりの農民から信頼されていた人だった。
天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、宿南村の池田草庵の青溪書院で原六郎(朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門の子。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎)らとともに論語など漢学を学びました。勉強も大変良くできたという。
長く続いた徳川の幕藩体制が揺らぎ、近代国家に生まれ変わろうとする幕末。北垣国道は尊皇攘夷派の活動にのめり込んでいった。師である池田草庵の反対を押し切って、慶応元年(1865)原六郎たちといっしょに生野義挙に参加するが、生野挙兵は失敗に終わる。
寺田屋騒動
その頃、京では伏見において、薩摩藩内による藩士同士による騒乱があった。文久2年4月に起こった寺田屋騒動である。この事件により藩邸の中に監禁されていた美玉三平という人物がいた。彼は、今自刃するのは犬死にと薩摩藩を脱藩。その後、江戸に三ヶ月ほど潜伏し、年が変わって文久3年2月に京に戻っている。
一方、2月23日北垣晋太郎は、浪士隊と共に入洛していた千葉道場出身の山岡鉄太郎(鉄舟)、清河八郎(出羽国庄内藩)と親戚である西村敬蔵(但馬八鹿の郷士・池田草庵に学んだ蘭法医)邸で会見し、農兵組立ての建白を老中板倉勝静に提出を依頼していた。
文久3年3月、京では依然薩摩藩の探索は厳重であったために七卿と同じく京を落ちた美玉三平はこの日に但馬に入り、近江膳所藩(滋賀県)藩士で京都明暗寺に入り虚無僧となり、但馬養父村の明暗寺出張所を拠点として尊王攘夷運動を進めた本多素行と会い、養父市場で止宿した。
8月21日に養父市場で止宿した美玉は、翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島(城崎)の温泉宿田井屋鯰江(なまずえ)伝左衛門方に投宿した。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。
この鯰江伝左衛門は北垣晋太郎と同じ青渓書院(養父市八鹿町宿南)の池田草庵の徒であり、鯰江の紹介により、美玉三平は但馬の有志と会い、その後農兵組立に関与していくことになった。
平野釈放
国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く牢屋へ入れられてしまった。
平野釈放について黒田公に勅命があったのは、文久三年10月のことであった。それが藩主不在の理由で延び延びになっていた。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。文久三(1863)年3月にほぼ一年ぶりに釈放された。平野の感激はいうまでもない。
国事参政
情勢が再び勤王派に有利となった。文久三(1863)年の頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。
文久二年以前の朝廷機構は、伝奏(朝廷・幕府間の諸事項に付き天皇への御伺とその処理)・議奏(典礼と任免に付き天皇の御裁下を仰ぐこと)が重要な仕事であった。
文久二(1863)年12月、朝廷機構を改革し、国事係を設けられ、少壮有為な公卿等二十余名が任命された。このころ姉小路公知卿は国事参政、沢主水正は国事寄人、京へ上っていた国臣は、孝明天皇の大和行幸決定(文久三年八月十三日)と共に八月十六日、学習院出任を命ぜられた。
国事参政の実質的働きは、攘夷断行臨時職務であった。、この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。
そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
大和行幸・農兵組立
この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
幕府側に農兵組立ての建議した北垣らに対して、今度は美玉三平が朝廷側に農兵組立ての勅許を拝するために北垣晋太郎を伴って7月下旬に上洛し、平野國臣や真木和泉に拝受方の斡旋を依頼した。それから、美玉は朝廷から農兵組立ての指令を拝受したあとに但馬に戻ることを約束し、北垣は8月13日に但馬に戻った。
農兵組立の指令は、はからずともほとんど同日に、朝廷と幕府より発令があった。
翌14日、生野及び久美浜代官所に幕府から農兵組立ての指令が下された。また、16日は朝廷から農兵組立ての指令も下りこの日から平野國臣は学習院出仕を仰せ使わされている。
文久三(1863)年8月14日、攘夷祈願のため孝明天皇から大和行幸の勅許が下され、その先鋒として浪士たちが集結し、まず手始めに幕府の直轄地である大和五條をめざして京を出発し、伏見から淀川を下り堺へと向かった。また、この日に生野、久美浜両代官所に農兵組立ての公文が幕府より下された。
8月16日、三条中納言実美より、美玉三平に対し御用御召の報あり、農兵組立の御書が渡された。その文面は要約すると次の通りである。また、平野国臣が公式に学習院出仕を命せられたのもこの日からであった。こうして、美玉による表向きの外警防備の手筈は整ったのである。
但馬の国は要地に当たり、まことに京都よりわずかに三、四十里の地、きっと兵備するのに適している。農民等忠孝に厚きようであるから、農兵の組立、切迫した時勢により、速やかに出来るように。もちろん、その功績により必ず沙汰あり。帯刀は許す。以上、心得て置くべし。
八月十四日 勘定奉行より、生野、久美浜代官へ
八月 参政 美玉三平へ
八月十八日の政変
文久三(1863)年、三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策する。十七日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五條天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。十九日、国臣は五條に到着するが、その前日の八月十八日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩の公武合体派が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派七公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
朝廷及び幕府から農兵組立の命が出されたが、大和義挙は壊滅し、八月十八日の政変で、生野義挙の拠り所であった国事参政は解体されてしまい、三条ら攘夷派七卿をはじめ、尊攘派は一婦されてしまった。
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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