ナチスドイツとヨーロッパの戦争
第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、1933年ナチス党のヒトラーが政権の座につき、ゲルマン民族血統主義によるユダヤ人を迫害する一方で、武力による領土回復と拡張を進めました。ドイツはソ連と不可侵条約を結んだうえで、1939年9月、ポーランドに電撃的に侵攻し、これをソ連との密約により両国で分割しました。イギリスとフランスは、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。1940年、ドイツ軍は西ヨーロッパに侵攻し、パリに入城してフランスを降伏させました。
日独伊三国軍事同盟の失敗
日本はヨーロッパにおけるドイツの勝利に目を奪われました。1940(昭和15)年、日本はアジアにおける日本の立場を有利にするために、イタリアを加えた日独伊三国軍事同盟を締結しました。しかし、遠いヨーロッパの2国との軍事同盟には実質的な効用はなかったばかりか、イギリスを支援するアメリカとの関係を決定的に悪化させる要因となりました。
1941(昭和16)年4月、日本はソ連との間にも日ソ中立条約を結び、二つの条約の圧力でアメリカから譲歩を引き出そうと考えました。しかし、同年6月、ドイツがソ連に侵攻し、このねらいは破綻しました。
追いつめられる日本
日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉しましたが断られました。こうして、米英中蘭の4国が日本を経済的に追いつめる状況が生まれました。日本の新聞はこれをABCD包囲網と呼んで国民の反発を誘いました。
1941(昭和16)年4月、悪化した日米関係を打開するための日米交渉がワシントンで始まりましたが、交渉はまとまりませんでした。7月、日本の陸海軍はフランス領インドシナの首都サイゴン(現在のホーチミン)に入りました(南部仏印進駐)。サイゴンは、日本が南進の拠点にできる軍事上の重要地点だったので、危機感を募らせたアメリカは、すぐに在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で報復しました。8月、米英両国は大西洋上で会談を開き、大西洋憲章を発表して、領土不拡大、国境線不変更、民族自決など、領国の戦争目的をうたいました。
日米交渉は続けられていましたが、進展はありませんでした。11月、アメリカは、日本が中国・インドシナから無条件で全面的に撤退することを求める提案(ハル・ノート)をつきつけました。これを最後通告と受け止めた日本政府は、対米開戦を決意しました。
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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