二・二六事件
1936(昭和11)年、桂園時代以来久しぶりに任期満了選挙が翌年2月に20日行われ、民政党205議席、政友会174議席で民政党が第一党に返り咲いたほか、社会大衆党が22議席と躍進しますが、選挙結果に示された民意を反映する方向への変化はまったく起こりませんでした。
1936(昭和11)年、2月26日早朝、陸軍の青年将校の一派が1400余の兵士を率いて、首相官邸や警視庁などを襲撃しました。彼らは宮中をおさえる斉藤実内大臣、財政をおさえる高橋是清大蔵大臣の二人や警護の警官らを殺害し、政党・財閥・重臣らを打倒し、天皇をいただく軍部独裁政権の樹立をならい、東京の永田町周辺を占拠しました(二・二六事件)。
ところが、昭和天皇は重臣を殺害した反乱分子を許さない断固たる決意を示しました。反乱軍は3日で鎮圧され、識者らは死刑に処されました。しかし、こののち、陸軍大臣と海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し、陸海軍が支持しない内閣の成立は困難となりました。
軍部の存在感と影響力は以前とは比較にならない程増大しました。また「憲政常道論」との完全な決別を余儀なくされた元老西園寺は、後継首班選定の幅を広げ宮中グループの制度化と人的増員を図りました。自らの生物的寿命と政権交代ができなかった以上、それを制度と宮中の人材でまかなうしか方法はなかったのです。それは、元老機能代替機関として内大臣・宮内大臣をトップとする宮中の制度化を進め、それに枢密院議長と総理大臣経験者による重臣グループの形成にありました。
こうして、二・二六事件以降、軍部と宮中が政治的肥大化をとげることになります。それは政治のリーダーシップが確立されなかったことを意味しました。近衛文麿と東条英機の二人を除けば、リーダーシップをとれる首相はいませんでした。新体制と日独伊三国軍事同盟という内外の枠組みの確立を過大とした近衛、日米戦争の遂行のために内外の制度整備を課題とした東条だけが、首相指名のそれなりの必然性を有していたのです。
二・二六事件の後、外務大臣広田弘毅が首相となります。それは本命の近衛が断ったために次善の策としか言いようのない巡り合わせでした。勢力を増大した陸軍は、自らリーダーシップを発揮することなく、拒否権集団として自らの組織利益を擁護するだけでした。
たとえば、特定の国務大臣候補への拒否権の発動、政治性交渉能力のある軍人をすべて排除しました。陸軍は巨大な官僚集団と化し、軍事費だけで四割強を占める有様でした。広田は一年後、ハラキリ問答という議会におけるハプニングで倒れると、元老西園寺は陸軍のコントロールを考慮に入れて満を持して親英米派の本命宇垣一成を後継に選びました。しかし今や拒否と排除を旨とする官僚集団化した陸軍は、現役武官制を盾に、宇垣内閣を実現させませんでした。1937(昭和12)年、林内閣の後、西園寺は意を決して政界のホープ近衛を首班に推しました。もはや近衛以外に首相候補はいなかったのです。五摂家筆頭という名門、45歳という若さ、「英米本意の平和主義を排す」という革新的色彩の強い態度、いずれもが近衛に対する各方面からの強い期待を呼び起こしました。
第一次近衛内閣は、一ヶ月後の盧溝橋事件など発展した日中戦争の処理と運命を共にすることとなります。内閣は不拡大方針でしたが、下克上状況にあって軍のコントロールはもはや利きませんでした。
西安事件
同じころ中国では、蒋介石が率いる国民党政権と、中国共産党とがはげしく対立し、内戦状態にありました(国共内戦)。中国共産党は、抗日で国共両党が抗日で協力することを呼びかけました。しかし、蒋介石は、まず国内の共産党勢力を倒し、そののち、日本と戦うという方針を変えませんでした。共産党軍は圧倒的な兵力をもつ国民党軍に追いつめられました。
満州地方の軍閥で、関東軍に追い出された張学良は、蒋介石に共産党の討伐を命じられていましたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していました。張学良は、1936年、蒋介石を西安で監禁し、共産党との内戦をやめ、一致して日本と戦うことを認めさせました(西安事件)。
盧溝橋から日中戦争(支那事変)へ
一方、日本軍は満州国の維持や資源確保のために、隣接する華北地方に親日政権をつくるなどいsて、中国側との緊張が高まっていました。また日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5千人の軍隊を駐屯させていました。1937(昭和12)年7月7日22時40分頃、北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋、永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃する事件が起きました。翌日7月8日3時25分、竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けたと見られています。
この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していきました(盧溝橋事件)。事件そのものは小規模で、現地解決が図られましたが、日本側は大規模な派兵を決定し、国民党政府も直ちに動員令を出しました。同年8月、外国の権益が集中する上海で二人の日本人将兵が射殺される事件が起き、ここから、日中間の衝突が一挙に拡大しました。こうして日中戦争(支那事変)が始まりました。
日中戦争(事変)の用語ついて
「事変」とは本来「警察力でしずめることができない規模の事件、騒ぎ」という意味です。「事変」という呼称が選ばれたのは、「戦争とは国家観の戦闘を意味し、当時、大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず、公式には分裂政府の国民党軍や共産党軍は中華民国を代表するものではなく、国家間では戦争状態にない」という認識から、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間を事変と呼ぶことを双方が望んだからです。宣戦布告を避けたのは、両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためでした。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても、宣戦布告は不利とされたのです。
なお、日本軍が駐兵していた法的根拠は義和団の乱の講和条約である北京議定書に基づいています。
この戦争は日米を中心とした太平洋戦争のように、近代国家対近代国家の戦いではありませんでした。当時の中国大陸には、現在の中華人民共和国ような近代国家ではなく、清国が滅亡した後の主力勢力である国民政府(蒋介石の時代には国民政府も北京と南京に分列状態で北伐が行われていた)のほかに、共産党軍と複数の軍閥が各地を統治していました。いわば、日本の戦国時代のような戦国大名が群雄し覇を争っている様な地帯で、蒋介石の北伐などによって少しづつ統一され、ようやく祖国・愛国心というものが芽生えはじめていた時期でした。
日本はその頃満州国を建国し、建国まもない満州の安定を図ることを目的として北支駐衛権確保のため満洲と中国の国境に軍隊を移駐しました。現代的な感覚では、戦争とは主権国家同士の戦いですが、当時、中国には交渉できる主権国家がなく、「日本=近代国家」と「中国=前近代状態」の戦争と考えられ、日本が西欧的「近代ルール」の戦争をしても、講和など近代ルールに基づく目的を達成することは難しく、「近代」と「前近代」の埋めがたい価値観の違いが、結果的に戦争の泥沼化を招いた一要因であったと考えられています。
日本は日中戦争開始前、開始後、それぞれその地方を治めていた北京政府、南京政府と国際条約を結んで駐屯していましたが、最終的に太平洋戦争の敗戦によってそれらの存在が無効となり、そのような条約があったという事実も消滅してしまいました。
出典: 『日本人の歴史教科書』自由社
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