ペリー来航と開港 学校で教えてくれなかった近現代史(10)

日本では江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩などの攘夷派を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになります。日本は開国により帝国主義時代の欧米列強と国際関係を持つこととなります。

こうして、東アジア(朝鮮・日本を含む中国の周囲の諸国)では近代の開国前後、万国公法という概念との葛藤を経験することになります。 長きに渡り鎖国政策をとってきた日本において、ペリーの来航(1853年にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件)によって、日本史上だけでなく世界史的にもきわめて重要な転機となりました。慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令によって、新政府樹立。日本では一般に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいます。

日本は開国するとすぐに欧米諸国の実情視察と西洋の政治、法律、軍事、科学などの学問を学ぶため、代表団(岩倉使節団)と学生たちを派遣すると共に欧米列強に侵略されない国づくりの指針を定め、富国強兵、近代産業の興業、思想改革(封建制・身分制の撤廃などを推し進めました。同時にウラジオストックを拠点に北樺太・北千島、中国東北部に勢力を広げてきたロシア([南下政策])を自国の安全保障上、直接の脅威になると捉え、日本本土への南部の玄関口にあたり、清国の強い影響力にあった朝鮮半島([李氏朝鮮])の自主を回復させ、日朝の強い協力関係を構築し安全を確保しようと画策しました。

アメリカ合衆国

アメリカはイギリスから植民地 13 州を割譲されて1776年に独立しました。当時珍しい民主主義国家ですが、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を割譲、または買収して、自国の領土を西へと拡大しました。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになりました。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、1867年には、アラスカをロシアから買収し、1898年にはハワイ王国の併合し、スペインとの米西戦争に勝利してスペインの統治下にあったグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定しました。もっとも、キューバはすぐに独立させましたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においていました。

アメリカは建国の成り立ちからして、他国の領土を支配するという考えに反対する人々が多いこともあり、植民地を直接経営するよりも独立した国家を間接的に支配することを好みました。例として、米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置きました。これは直接には植民地としていませんが、「経済植民地」とでもいえる事実上の植民地下に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送り、傀儡政権となる軍事独裁政権を樹立させるなど、主権を無視した内政干渉を繰り返しました。この体制は、中米や中東において現在も変わっていません。また、フィリピンは第二次世界大戦後に独立させたものの、同じく政治、経済、軍事すべてにおいて完全にアメリカの支配下に置いた他、戦後に日本から獲得した南洋諸島も北マリアナ諸島を除いて独立したものの同様の状況下にあります。

なお、中米にはプエルトリコが、アメリカ自治領として存続しています。プエルトリコも北マリアナ諸島も、アメリカからの独立の勧告を無視し、実利を取ってアメリカの治下にとどまっているのです。

1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守りましたが、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦しました。

イギリス・アメリカの接近

19世紀にはいると、イギリスとアメリカの船も、しばしば日本近海に出没するようになりました。1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、当時対立していたオランダの長崎商館の引き渡しを求め、オランダ人2人を捕らえるなどの乱暴をはたらきました(フェートン号事件

一方、北太平洋では、アメリカの捕鯨船の活動が盛んになり、日本の太平洋岸に接近して水や燃料を求めるようになりました。幕府は海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、1825(文政8)年、異国船打払令を出しました。1837(天保8)年、浦賀(神奈川県)に日本の漂流民を届けに来たアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払う事件が起きました(モリソン号事件)。

これに対して蘭学者の渡辺崋山は、西洋の強大な軍事力を知って、幕府の処置を批判しました。しかし、幕府は彼らを厳しく処罰しました(蕃社の獄)。

ロシアの接近

18世紀の末頃から、日本の周囲にも欧米諸国の船が出没するようになりました。とくにロシアは、16世紀後半からシベリアの征服を開始しましたが、その勢力は17世紀末にはカムチャッカ半島まで達しました。ロシアは、極寒のシベリアを経営するための食料など生活必需品の供給先を日本に求めようと考えました。そこで、1792(寛政4)年、最初の使節ラックスマンを日本に派遣し、日本人漂流民を送り届け幕府に通称を求めました。

鎖国下の幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したので、ロシアに対する恐怖感が高まりました。幕府は松前藩の領地である東蝦夷を直轄地にしてロシアに備え、近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太も含む蝦夷地の大がかりな実地調査を命じました。そして間宮林蔵は樺太が島であることを発見しました。樺太と大陸を隔てる海峡は間宮海峡と名づけられました。

出典: 『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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