但馬にある前方後円墳は、現時点で朝来市平野にある池田古墳とその次に大きい朝来市桑市の船宮古墳円墳の2基のみである。
池田古墳
墳形:前方後円形
前方部を北東に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は約136メートル。築造時期は古墳時代中期の5世紀初頭とされている。
後円部 – 3段築成。直径:約76メートル
前方部 – 3段築成。幅:約72メートル
前方後円墳では但馬地方では最大規模、兵庫県内では第4位の規模になる。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみになる。また池田古墳からは水鳥形埴輪が23体分確認されており、全国最多の出土数を誇る。
墳丘長はかつて141メートルとされていたが、2007年(平成19年)の後円部の調査で約136メートル程度と見積り直されている。前方部の調査が不十分なため、正確な値は未だ明らかでない。池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(Wikipedia)
現地説明会 2008.3
池田古墳は誰の墳墓なのか?
四道将軍 彦坐命と丹波道主命
そもそも彦坐命とは一体誰なのかに触れておきたい。ひこいますのみこ、あるいはひこいますのおうと読む。『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」、他文献では「彦坐命」とも表記される。第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である。
『日本書紀』では子の丹波道主命が四道将軍の1人として丹波に派遣されたとしている。
『古事記』崇神天皇段では、日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討ったという。
『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、
第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。
その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居した。
天皇は彦坐名に日下部足泥(宿祢)という姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。丹波国造 倭得玉命、多遅麻国造 天日楢杵命、二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。
前方が東北を向いているので、兆域の東とは前方部、西は後円部、北9間はわからないが、造出(つくりだし)というくびれ部裾付近に作られた墳頂へ登ったり祭祀を行うところだろうか。1間は約1.818メートル。東28間=50.9メートル、西11間=約20メートル、北9間=約16.4メートルを西11間に合わせると36.4メートルとなる。
禾鹿宮の禾とは訓読みでイネ、ノギと読む。穀物の総称。特に、イネ・アワことをさす。『但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記では禾鹿と粟鹿を同じ文中に混同して使用しており、
禾鹿(粟鹿)の鴨ノ端(加茂端)という呼称から、鴨がたくさんいたようだ。今の但馬では川にいるとしたらサギで鴨がいたとは今では想像しにくいのであるが、そのような川幅が広い場所を南但で探すとすれば、古墳の前に円山川が流れ、但馬最大の前方後円墳であるこの古墳となる。粟鹿神社の前を流れる円山川の支流である粟鹿川は小さい川であり、鴨や水鳥がたくさんたわむれていたような場所だったとは想像しにくい。
*(日子坐命墓の別の説)墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。
彦坐命を葬った「禾鹿の鴨ノ端ノ丘」が今のどこになるかだが、粟鹿神社から池田古墳までは直線距離で7.1kmもあり、池田古墳よりも茶すり山古墳の方がまだ近いが円墳である。彦坐王を祀る粟鹿神社のある朝来山の東麓で、池田古墳や城の山古墳より濃厚だ。
また茶すり山古墳も円墳で、豊岡自動車道の道の駅「但馬のまほろば」の反対側にあり、豊岡自動車道は春日ICで舞鶴若狭自動車道につながり、丹後や篠山方面へつながる。禾(粟)鹿宮である粟鹿神社から茶すり山古墳までは約4kmである。巨大な円墳で、大量の武器・武具が副葬されていたこと、粟鹿神社に近いことから、彦坐命が葬られた禾鹿の鴨ノ端ノ丘とはこの場所をさすのではないかと思うのである。この時期で日本海側最大の前方後円墳、池田古墳がふさわしいのだが、禾鹿の鴨ノ端ノ丘は粟賀地区でなければなら
船宮古墳
兵庫県朝来市桑市
5世紀代 全長約80 m 日本最古の牛形埴輪
船穂足尼命の墳墓ではないかと朝来市(旧朝来町)の案内板にはあるが、おそらく船宮古墳という名称か但馬国造船穂足尼命との連想によるのであろうが、これは単なる連想であって、何の根拠もないものと思われるのは以下の『国史文書 但馬故事記』である。
息長宿祢命の子・大多牟阪命を以って、朝来県主と為す。
大多牟阪命は、墨坂大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足尼命を生む。
人皇13第成務天皇5年、竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼命は多遅麻国造となり、大夜夫宮に遷る。(中略)神功皇后元年、多遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜夫船丘山に葬る。
物部連大売布命の子・物部多遅麻連公武を以って、多遅麻国造と為す。
とある。物部多遅麻連公武から以降は北但馬の気多郡に多遅麻連→但馬国の国府は固定される。
前方後円墳はヤマト政権に近い皇統の連合体国造である
物部多遅麻連公武は気多郡高田郷に府を置き、それ以降但馬国府まで気多郡に遷るので、円山川を挟んだ対岸にある大藪古墳群は古墳時代後期で、大夜夫宮が大藪にあるとしたら、船穂足尼命の古墳は大藪古墳群にあるということにほぼ間違いない。
『但馬故事記』に
人皇3代成務天皇の御世に竹野君同祖の彦坐王五世孫の船穂足尼が多遅麻国造となる。人皇15代神功皇后からは気多郡に府が遷り、物部連大売布命の子・公武が多遅麻国造となり府を気多郡高田邑に置いた。父・物部連大売布命は伊香色男命の子で、人皇12代景行天皇の御世に戦功により多遅麻の摂津の川奈辺と気多・黄沼前三県を与えられ、多遅麻の気多に下ったが、成務天皇の御世は景行天皇の東国遠征に随行し、大売布命の子・公武から多遅麻国造になっているので、ほとんど多遅麻の政は行っていなかったと思われる朝来市山口と船宮古墳のある朝来市桑市は、直線で4.4kmとわりと近距離にある。大多牟阪命の墳墓かも知れない。
長浜浩明氏は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』で、古代の歴代天皇在位年の実年を計算している。前代の天皇崩御年を起点として若干の誤差が生じる御代のあることを承知していただきたいと述べている。
これによると、池田古墳の築造年代は5世紀前半となっているが、3世紀後半ではないかと思うのだ。
前方後円墳は、古墳時代3世紀中頃から7世紀初頭頃というのが定説で、畿内の大王墓は6世紀中頃までで終わり、6世紀後半になると全国各地で造られないようになっていく。
『但馬故事記』の朝来郡故事記は、神功皇后まではくわしいが、古墳時代に相当する第15代応神天皇、第17代履中天皇、第27代安閑天皇(531-535)の朝来県主を淡々と記すのみであり、18代から20代、22代から26代まで記載なく、また、第27代安閑天皇以降は用明天皇まで記載がない。
したがって、巨大古墳にふさわしい但馬王は、彦坐命、その子・丹波道主命以外に見当たらないのである。その頃の朝来郡では三国の大国主であった地位から、第13代成務天皇(131-190)に、多遅麻国のみを治める多遅麻国国造となって、養父郡1代を経て、気多郡に遷っていることである。
全くもって素人が、築造推定年が正しいのかどうか失礼ではあるが、古墳の築造年代の推定は約100年遡っての誤差があるのではないかと思えるに至るのである。
『但馬故事記』は偽書だといえるのかどうかは、別としてこれほど詳細な記録はない。但馬風土記が焼失したことで、平安初期、残念に思った国衙・国学寮の地元出身ではない中央からの国司(役人)たちが長い年月をかけて公正に調べあげた全国にもあまり類がない国司文書である。
名称 | 所在地 | 築造年代 | 形式 | 外形 | 主な埋蔵品 |
赤坂今井墳墓 | 京都府京丹後市峰山町赤坂 | 弥生時代終末期前後(3世紀前半頃) | 方墳 | 南北51m、東西45m、高さ3.5m | |
粟鹿神社方形貼り石墓 | 兵庫県朝来市山東町粟鹿 | 弥生時代中期末~後期初頭 | 方形貼り石墓 | 南北1辺20m以上、 東西15m以上 | 但馬地方では今回初めて |
銚子山古墳 | 京都府京丹後市網野町 | 4世紀末 | 前方後円墳 | 全長198m | |
神明山古墳 | 京都府京丹後市丹後町 | 4世紀末 | 前方後円墳 | 全長190m | |
蛭子山古墳 | 京都府与謝郡与謝野町加悦 | 4世紀末 | 前方後円墳 | 全長145m | |
城ノ山古墳 | 兵庫県朝来市和田山町東谷 | 4世紀後半 | 円墳 | 南北径30m、東西径36m、高さ5m | 銅鏡三面 三角縁獣文帯三神三獣鏡・唐草文帯重圏文鏡 |
船宮古墳 | 兵庫県朝来市桑市 | 5世紀代 | 前方後円墳 | 全長約80m | 日本最古の牛形埴輪 |
池田古墳 | 兵庫県朝来市和田山町平野 | 5世紀前半 | 前方後円墳 | 全長約141m | 水鳥型埴輪23体 |
茶すり山古墳 | 兵庫県朝来市和田山町筒江 | 5世紀前葉 | 円墳 | 東西約35m、南北約30mの楕円形 | 近畿地方最大級の円墳、大量の鉄製品を副葬 |
禁裡塚古墳 | 兵庫県養父市大藪 | 6世紀後半~7世紀代 | 円墳 | 32m | 装飾付須恵器の破片 |
西の岡古墳 | 兵庫県養父市大藪 | 6世紀後半から7世紀代 | 円墳 | 13.6m | |
箕谷古墳群 | 兵庫県養父市八鹿町小山 | 7世紀前半(630年ごろ) | 円墳 | 2号墳から出土した戊辰年銘大刀 |