山名氏宗家但馬山名氏(出石町)のお膝元豊岡市の住民としては、鳥取にたびたび行く機会があれば因幡山名氏について辿ってみたい思ってた。2月19日にかねてから一度目指したかった久松山(鳥取山城)を登るとどうしても布勢天神山城を訪ねてみたかった。
城山(天神山と卯山)を南東から眺める
『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、布勢天神山城は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった丘城で、戦国期の因幡国守護所とされる。当時は布勢ではなく布施と表記された。つまり布施という地名は全国に多いが、政治の中心が置かれていた場所という意味であろう。
湖山の県立緑風高校のそばだと地図で確認し国道53号から県道181号へ進む。橋を渡ると同じような小山が乱立していてそばまで来ているのだが、近道をしようと脇道に入ってしまうと新興住宅地が多くて袋小路でなかなか分かりにくい。最初から国道9号バイパスか県道181号など主道路を通った方が良かったと後から思う。
『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれている。
『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。1466年(文正元)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城(岩美町)より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。確実な史料による初見は1513年(永正10年)である。一説に『応仁記』にみえる布施左衛門佐は山名豊氏を指すのはないか考えられており、豊氏の築城との指摘もある。(平凡社『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』)
第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立、敗れて敗死した。誠豊の死後、守護職は豊定、棟豊と但馬山名家から送り込まれた人物が継承した。棟豊が若くして死去した後に家督を継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。1563年末(永禄6年)に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。この時、天神山城に聳えていた3層の天守櫓も鳥取城に移築されたという。ただし、山名豊数が武田高信の攻撃によって鹿野城に退いた1563年以後は確実な史料に天神山城の名前が出てくることはない。廃城時期については今後の検証が必要である。
1617年(元和3年)に備前岡山の池田光政が鳥取に転封された際、手狭な鳥取城に替わる新城候補地として、城地の要害と城下町を作る利便性から布勢天神山城が新城として検討されたことがあった。しかし半世紀近く前に廃城となっているため整備に時間がかかることから、布勢天神山城が再び因幡の首府になることはなかった。
公園内に建てられた見取り図
『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。
守護館は天神山麓に築かれていたようで、古地図や伝承によると3層の天守櫓も存在していたとされる。天神山周辺には湖山池の湖水を引き込んだ内堀が巡り、卯山周辺にも水堀が設けられていた。
公園から湖山池を望む。
卯山の丘陵北側には布勢1号墳がある。古代の古墳を城域に取り込んで砦として利用した例として興味深い。
布勢1号墳(前方後円墳、国指定史跡)
日吉神社(布勢の山王さん)
広い道路脇にそびえる鳥居から一直線に天神山城跡のある卯山まで参道が通っている。まだ補修されたのが新しく立派な社です。瓦などの家紋は因幡池田家の家紋揚羽蝶である。天神山城と因幡山名氏亡きあとも池田家や布勢村の人びとによって大切に護られてきたことが伝わります。
「布勢の山王さん」と親しまれているらしいが、但馬山名氏の豊岡城のある神武山近くにも山王山に山王神社があり但馬山名氏から一族共通のものであることは興味深かい。
拝殿と本殿
より大きな地図で 因幡・伯耆の式内社 を表示