全国的に有名な山城 竹田城


兵庫県朝来市竹田 国史蹟(昭和18年)

JR播但線竹田駅の西方、古城山(標高353.7m)の山頂部
中世山城で全国的にも有名な竹田城は、山陰道と播但道が分岐する交通の要所にそびえ立ち三方が見渡せる。

竹田城門

【竹田城趾の概要】

縄張りが虎が臥せているように見えることから別名「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」と呼ばれる。
また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。

天守台と高見殿(本丸)

標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。
春は東に立雲峡の紅葉を望み、夏は天空に輝く幾千の星を眺め、秋は雲海に浮かび上がる舟の上で、冬は一面雪景色の中で、古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。


南千畳

竹田城の縄張りは、中央の最高峰を天守台とし、周囲に高見殿(本丸)、平殿、奥殿、天守台北西部に花殿を配し、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、さらに鳥が両翼を広げたように、その南北の端をそれぞれ南千畳、北千畳が置かれている。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。


北千畳

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
天と地と(1990年公開の映画)- 城をセットとして春日山城を再現した上、ロケ地として使われた。
魔界転生(2003年公開の映画)- 城をセットとして原城再現した上、ロケ地として使われた。

歴史・沿革


二の丸

但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設された。 築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441 – 43年)と伝えられる。当初は土塁造りの城郭であったが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となった。

修復には13年の年月を要し、賦役のため農民は「田に松が生えた」ほどの困窮に陥ったり、村中が夜逃げするところもあったと伝えられる。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。

山名氏のもとでは山名四天王の太田垣氏が配された。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に撃退した。しかし、羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により落城。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえた。

その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となるが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となる。

最後の城主である赤松広秀(斎村政広)は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。


三の丸と櫓
安土城、姫路城と同じ穴太流(あのうりゅう)石積み
石垣は、織田信長がしばしば採である用した安土城と同じ技術穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。山城としての美しさとともに、その縄張り(平面構成)の見事さは全国でも屈指の城郭といえるでしょう。

歴代城主
太田垣光景(1443年(嘉吉3年)~1465年(寛正6年))
太田垣景近(1465年(寛正6年)~1479年(文明11年))
太田垣宗朝(1479年(文明11年)~1521年(大永元年))
太田垣宗寿(1521年(大永元年)~1538年(天文7年))
太田垣朝延(1538年(天文7年)~1570年(元亀元年))
太田垣輝延(1570年(元亀元年)~1577年(天正5年)?)
城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6年)~1580年(天正8年))
桑山重晴(1580年(天正8年)~1585年(天正13年))
赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年)~1600年(慶長5年))

【斎村 政広(さいむら まさひろ)】

永禄5年(1562年)- 慶長5年10月28日(1600年12月3日)

安土桃山時代の武将。父は赤松政秀、母は赤松晴政の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広通・広秀・広英といった。播磨国龍野城、のち但馬国竹田城を居城とした。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。室は宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の妹)。子に次郎右衛門、善右衛門。

1570年に父、その後、兄赤松広貞も相次いで早逝したため家督を継承した。政広の家系の赤松氏は、血統上は本家である赤松義祐の家系(七条流)よりも、むしろ本流の赤松氏であった。織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となった。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられた。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、また、儒学者藤原惺窩に教えを受けるなど、文学人としての一面もあった。姜沆とも交友を持ち、彼の帰国も支援している。
不運な最後

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、細川藤孝の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原で西軍が敗れると東軍に寝返って、西軍に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めた。しかし、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。ただし、この焼き討ちは政広に寝返り促し、鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策(焦土戦術)であり、実行した政広一人に罪を擦り付けたとする説が強い。また西軍から東軍に寝返った大名では唯一の死亡者である。

因みに斎村姓は、父の政秀の死後、一時避難をしていた才村(又は佐江村)に由来する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水嶋 元 『残月―竹田城最後の城主、赤松広英』東洋出版(拙者の小学校の恩師です)
火坂 雅志『壮心の夢 』(文春文庫)
和田山町観光協会

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください