日本の政治と教育の基盤を作った但馬人

東大初代総理 加藤 弘之
天保7年6月23日生まれ。ドイツ文学の先駆者。幕府政治の改革を唱え、近代政治の基盤をつくりました。
日本で最初の博士号を取得。東京大学初代綜理をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。
文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官。
初代東京大学総長 1836年~1916年

出石藩主、兵学師範の家に生まれる。弘道館に学び17歳の時父親と共に出府。「書物も自分で書き写さなければならぬ」と、貧困と戦いながら勉学に励んだ。
特にドイツ学を極め、明治三年から八年まで明治天皇の進講役を務め、欧米の政体制度やドイツ語の講議をおこなっている。福沢諭吉とも親しかったが、好対照に幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになり、「政府はまず学校を多く建て、人材を育成して議会をつくるにふさわしい文明国にしなければならない」と、日本の大学制度の基礎づくりに貢献した。
1881年(明治14)、帝国大学の初代総長に就任。また官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥として頂点を極めた。
浜尾 新(はまお あらた)
江戸詰めの豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として生まれる。
1869年: 藩費遊学制度により慶應義塾および大学南校に学ぶ。
1872年(明治5年): 文部省に出仕、大学南校の中監事となる。
1873年(明治6年) – 1874年(明治7年): ヨーロッパに留学。
1874年(明治7年): 開成学校校長心得
1877年(明治10年)4月: 東京大学創立にあたり、法理文三学部綜理補として同郷の法理文3学部綜理(のちに東京大学総理)加藤弘之を補佐。1885年(明治18年): 学術制度取調のためヨーロッパに派遣される。東京美術大学(現芸大)を創立に際し、校長を拝命。幹事は岡倉天心。
1890年(明治23年): 文部省専門学務局長として、東京農林学校(農商務省主管)の帝国大学への合併を推進。東京大学第三代総長として東京大学のために尽くした。
1897年(明治30年)11月6日:蜂須賀茂韶に代わり第2次松方内閣の文部大臣となる。
1905年(明治38年)12月:東京帝国大学の第8代総長となる。
1924年(大正13年)1月13日: 枢密院議長。
1925年(大正14年)9月25日:東京府(現在の東京都)で死去。
彼の故郷中村の地に記念館として静思堂が建てられています。伊福部神社向かい。
天気予報の創始者 桜井 勉
天保14年9月13日生まれ。博学多才の行政家。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」著者・・・但馬郷土史研究の基礎。地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも大久保利通への桜井勉の進言によるといわれています。天気予報の創始者 1843年~1931年
出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。
一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天気予報の創始者で、測候所を設立しました。
晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。

憲政の神様 斎藤隆夫

兵庫県豊岡市出石町中村生まれ
明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。
明治27年(1894)7月、早稲田専門学校(今の早稲田大学)の首席優等で卒業。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。
明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
42歳で衆議院議員となり、「憲政の神様」といわれ、2.26事件直後の粛軍演説で有名。
斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。
その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説があり、
その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。

卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。

支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、  「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。 この事変の目的はどこにあるかわからない。」の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田茂内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。

1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(のち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。

『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。

  
明治館(旧郡役所)
館内では桜井勉をはじめ、出石の偉人展を常設しています。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください