弥生.徐福と兵主神社

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が日本列島外から渡来して、北部九州に移住することによって始まった時代です。

紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、縄文時代に日本列島にはいなかった多くの人々が大陸から流入したことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っていますが、これによると、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡していますから整合性はとれます。

福岡板付遺跡のように、縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、侵略による拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな弥生人と中国大陸の渡来人との混合が弥生人だったのです。

秦から斉の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で常世の国に仙薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。

『出雲と大和のあけぼの: 丹後風土記の世界』斎木雲州氏(元日本大学教授)にアメノヒボコと製鉄集団についての興味深い内容があった。

兵主(ヒョウズ)とは、中国の山東半島方面の古代信仰であった。戦国時代の中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の斉(セイ)国では、八神を崇拝した。徐福の家系は斉国の出身であったので、八神の信仰を倭国(日本)に伝えた。

八神について『史記』の「封禅書」には、「八神の第一は天主である(これはユダヤ教の信仰に基づくという)。兵主は八神のうちの第三で、蚩尤(しゆう)を祀る。蚩尤は、西方を守る神だとされる。(戦の神と考えられている。また戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。)

徐福の息子イタケの時代には、ハタ(秦)族は出雲のおもに太田(市)の東に住んでいた。その西を守るために建てられた社が、五十猛神社になった。

丹後の地に移ってからは、ハタ(秦)族は漁民になった者が多かった。その宮津湾(あそ海)の漁村を守る西の位置に、カゴヤマは真名井神社(宮津市)を建てた。カゴヤマ(香具山)は『書紀』に一書として、天火明命の子で、尾張連らの遠祖とある。

射楯兵主神社は播磨国にも祭られた。「播磨風土記」に飾磨の郡因達(いだて)の里の記事がある。

因達というのは…伊太代(いだて)の神がここに鎮座しています。それで神の名前より、里の名前になった。

射楯兵主神社は今は姫路市に鎮座するが古くは八丈岩山に祭られていた。因達の里のとなりに昔は安師の里があった。
大和に住まわれた天村雲命は、三輪山の神奈備を守るために、その西麓の穴師で兵主の神を祀った。

イタケの発音から、イダテやイタチにもなった。戦国大名の伊達氏は、因達の神を拝む家系であった、といわれる。伊達藩の支倉常長がローマ法王に書いた書状には、ローマ字で「イタチ藩」と書かれている。
カツラギ王家のタタラ五十鈴姫の御子に八井耳がおられたが、出雲王の血を引くので、臣の名称を使い多(おお)臣の祖となった。多家では、苗字に「太」の字も使った。

その一族は磯城郡田原本町の南端・多の地を本拠としたので、そこに多神社が鎮座する。そこには八井耳命とともに、子孫の太安万侶もまつられている。太安万侶は、古事記を書いたことで知られる。かれは晩年に、出雲国庁の脇(松江市竹矢町)に住んだと伝わる。その屋敷跡が「オウ(太)の杜」といばれる。

ヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

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