大江山の鬼退治~彦坐王と陸耳の御笠は大丹波平定だった

開化天皇の御子・彦坐王と陸耳の御笠の真相

 

『但馬故事記』は、郡ごとに八巻からなるが、ほとんどの巻は人皇十代崇神すじん天皇から、記載がにわかに詳細になるが、二方郡を除き、八郡のどの郡の故事記も「丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠くがみみのみかさ、(土蜘蛛つちぐもの匹女ひきめなど)盗賊を集め、民衆の物を略奪して…」についての記述に文面を費やしている。

冒頭に天火明命が丹波国から但馬に入った記述は数ページに及び、それに匹敵するページ数を丹波青葉山の賊、陸耳ノ御笠征伐についてさいていて、再び舞台は古代丹波の中心えあった加佐郡(いまの舞鶴市)へ移るのだ。

『第五巻・出石郡故事記』だけは、何故かこの下りをさらりと書いているのであるが、あらすじとしては分かりやすい。

人皇十代崇神(すじん)天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠群盗を集め、良民を害す。その党狂(いまの豊岡市来日くるい)ノ土蜘蛛[*1]、多遅麻(但馬)に入り、略奪を行う。
黄沼前県主きのさきあがたぬし穴目杵命あなめきのみことが使いを馳せて多遅麻国造・天日楢杵命あめのひならきのみことに報告し、天日楢杵命がこの由を開化天皇に伝えた。
天皇はその皇・彦坐命に、これを討てと命じる。
彦座命は丹波に下り、これ等の賊徒を多遅摩伊伎佐碕たぢまいぎさのみさき[*2]の海上において討ち、これを誅す。狂ノ土蜘蛛随したがって平らぐ。

これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。

*1 土蜘蛛とはこの時代の記述に度々登場するが、国家統一に抵抗する元々の豪族を侮蔑した名称

*2 伊伎佐碕…兵庫県美方郡香美町香住区御崎の古名。式内伊伎佐あり。

困難な時代の中興の祖 崇神天皇

その前に少し、第十代崇神天皇の時代背景について触れておきたい。十代崇神天皇はおおよそ三世紀終わり頃の天皇である。和風諡号しごう[*3]は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、国家体制を整えたことから御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、同じく所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と称えられる。

『日本書紀』における初代神武天皇の称号も、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)で、これを「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。安本美典氏は、どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで、天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている。要するに神武はヤマト建国の祖、崇神は中興の祖と解釈される。崇神天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進し、多くの社をたてて神をあがめ奉った事から「崇神天皇」の漢風諡号があたえられて以降呼ばれるようになったものである。

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まりで、

『日本書紀』によると、崇神朝の始めの頃は、困難な時代であったとする。疫病が多く多くの民が死亡し、また百姓が流亡したり背いたりする多難な幕開けだった。そこで崇神は、災いを鎮めるため神を祀るのである。その神の一つが、ヤマト朝廷の祖先神である天照大神である。

最初、天照大神は宮中に祀られるが、崇神は宮中で祀ることに不安を覚え、宮中以外のところで祀ることにする。そこで皇女の豊鍬入姫とよすきいりひめに天照大神を託し、倭(大和)の笠縫邑に祀る。その後、天照大神を祀る場所は転々と遷し替えられていくが、笠縫邑に続く場所が丹波である。丹波の籠神社、海部氏の『勘注系図』には次のように記されている。

「豊鍬入姫は、天照大神を戴き、大和国笠縫の里から、丹波の余社郡よさのこおり(与佐・与謝)久志比真名井原匏宮くしひのまないはらよさのみやに遷る。天照大神と豊受大神を同殿に祀り、日本得魂命やまとえたまのみこと等が仕える」

豊鍬入姫が天照大神を祀る場所を丹波に求めたのは、丹波は尾張氏[*4]の支配地で、尾張氏の当主、日本得魂命の孫であることによる。

豊鍬入姫は、丹波で天照大神を祀るが、再び大和に戻る。その後天照大神を祀る皇女は、垂仁天皇の時代になって、倭姫に替わる。倭姫は天照大神を祀る場所を求めて各地を巡る。最後は、伊勢に祀られ神宮(伊勢神宮内宮)となる。丹波では天照大神と豊受大神が同殿に祀られるのは、豊受大神は元々、丹波の神であったので一緒に祀ったのである。豊受大神は雄略天皇の時代になって、丹波から伊勢に迎えられ、外宮の主祭神として祀られことになる。

*3 和風諡号 主に帝王などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこと。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

*4 尾張氏は、 天火明命を祖とする葛木高尾張に居た豪族で ある。高尾張とは現在の奈良県御所市( ごせ し)あたりの事である。

丹波に派遣された丹波道主

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まり(3)陸国(くがこく)との戦いで、上述の「これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。」の謎が解けたのだ。

崇神朝の始めの頃である。

『古事記』は崇神時代の事として、「日子坐王を旦波国に遣わし、陸耳之御笠を殺すを命ず」とする。『日本書紀』には見られない伝承である。

丹波の系図『勘注系図』には、八世孫日本得魂命の注記で次のように記す。

「崇神の時代、当国の青葉山中に土蜘蛛あり。陸耳御笠の者、そのさま人民おおみたからぬすむ。ゆえに日子坐王、勅をたてまつりこれを討つ。余社ノ大山に至り遂にこれを誅す。」

『勘注系図』が記すこの伝承は、「丹後風土記」と同様で、日子坐王と日本得魂命が戦った相手は、陸耳御笠と匹女と呼ばれる一党で、場所は現在の福井県の西部から京都府の北部、若狭と丹後との境でもある。

大和朝廷はここ若狭から東の勢力と対峙していたのである。

陸(くが)というのは今の北陸地方の名前である。したがって陸耳御笠は陸国くがのくにの王である。

この陸(玖賀)国こそ『魏志倭人伝』が伝える、邪馬台国と激しく争っていた狗奴国くなこくに他ならない。卑弥呼の時代から続いていた狗奴国との戦いはおおよそ三世紀後半の半ばに、大和朝廷側の勝利で決着がつくのである。その後丹波には、丹波道主が派遣されることになる(拙者註-日子坐王ではなく、その子丹波道主が派遣されたとする記述もある)。

『第一巻・気多郡故事記』『第ニ巻・朝来郡故事記』『第三巻・養父郡故事記』『第四巻・城崎郡故事記』『第六巻・美含郡故事記』を現代文風に要約すると、以下の通りである。

人皇十代崇神(すじん)天皇の十年秋(紀元前87)九月、
丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠(くがみみのみかさ)、土蜘蛛の匹女など盗賊を集め、民衆の物を略奪していた。
その党(やから)で、狂(クルヒ、豊岡市来日)の土蜘蛛に入り、盗みを行う。甚だ猖けつを極め、気多県主・櫛竜命を殺し、瑞宝を奪う。

多遅摩国造・天日楢杵命あめのひならきのみことは、それを崇神天皇にこもごも奏した。天皇は、(9代開化天皇の皇子)彦坐命(ひこいますのみこと)に命じて、これを討つようにと命じられ、

御子の将軍丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直あさこのあたえの上祖 天刀米命あめのとめのみこと
〃 若倭部連の上祖 武額明命たけぬかがのみこと
〃 竹野別の上祖 当芸利彦命たぎりひこのみこと
丹波六人部連むとべのむらじの上祖 武刀米命たけのとめのみこと(今の福知山市六人部)
丹波国造 倭得玉命やまとのえたまのみこと
大伴宿祢命の上祖 天靭負部命あめのゆきえべのみこと
佐伯宿祢命の上祖 国靭負部命くにのゆきえべのみこと
多遅麻黄沼前県主きのさきのあがたむし 穴目杵命あなめきのみことの子・来日足尼命くるいのすくねのみことら丹波に降り、土蜘蛛匹女を蟻道ありじ川(福知山市大江町有路)に殺し、陸耳を追い、白糸浜(由良川河口)に至る。陸耳は船に乗り多遅麻の黄沼前きのさきの海(円山川河口)に逃げる。
(中略)
時に狂の土蜘蛛は陸耳に加わり、賊勢再び振るう。時に水前大神教えて曰く、

「天神・地祀の擁護有り。すべからく美保大神・八千矛大神を祀れ」と。

再び王軍勢いを得て、陸耳を御崎に攻撃す。時に彦坐命の甲冑鳴動し、光輝を発す。故にその地を鎧浦と云う。(兵庫県美方郡香美町鎧)

当芸利彦命は進んで陸耳に迫り、これを刺し殺す。故にその地を勢刺いきさしの御崎と云い、また勇割の御崎と云う。

彦坐命は賊の滅ぶのをもって美保大神(美保神社:松江市美保関町)・八千矛大神の加護となし、戦功の賽をなさんと、出雲に至り、二神に詣でる。

大江山の鬼退治

大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠たんごふどきざんけつ」[*2]に記された陸耳御笠[*3]の伝説である。『但馬故事記』と見事に一致しているのだ。

青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*4]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。

崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*5]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。
この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察]

陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。(加佐郡?)陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

陸耳ノ御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。

一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。

「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。

土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称である。また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。四道(北陸、東海、西道、丹波『日本書紀』)以外のまだ平定されていない地方豪族をさすのだろう。

陸耳ノ御笠も大江山の鬼退治の伝承も、同じく朝廷の丹波平定の過程である。陸耳の御笠とは加佐を中心にした丹後・但馬を含む古代丹波国であり、大和に従った戦いを伝説として残しているのだ。

『第ニ巻・朝来郡故事記』が彦座命について詳細だ。

天皇はその功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居しました。アワビは、塩ケ渕(のり味沢)に放ちました。水がかれたのち、枚田(ひらた)の高山の麓の穴渕に放ちました(のち赤渕神社に祀ると云う)。
のちに彦坐命は(天皇から)勅を奉じて、諸国(三国)を巡察し、平定を奏しました。

天皇は勅して、姓を日下部足泥(宿祢)と賜い、諸国に日下部を定め、これを彦坐命に賜いました。

十一年夏四月、(粟鹿)宮に還り、諸将を各地に置き、鎮護(まもり)としました。
丹波国造 倭得玉命
多遅摩国造 天日楢杵命
二方国造 宇都野真若命
その下に、
当芸利彦命の功を賞し、気多県主と
武額明命をもって、美伊県主としました。
同じく、
比地県主・美保津彦命
夜夫県主・美津玉彦命
黄沼前県主・穴目杵命
伊曾布県主・黒田大彦命
みな、刀我禾鹿宮に朝して、その徳を頒ました。
朝来の名は、ここに始まります。

(中略)

第十一代垂仁天皇八十四年九月、
丹波・多遅摩・二方三国の大国主・日下部宿祢の遠祖・彦坐命は、刀我禾鹿宮に薨ず。寿二百八歳。禾鹿の鴨の端の丘に葬りました。(兆域28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部ニ烟(けむり)を置き、これを守る。

息長宿祢の子。大多牟阪(おおたむさか)命をもって、朝来県主としました。大多牟阪命は、墨阪大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足泥(すくね)命を生みました。
大多牟阪命は、山口宮にあり、彦坐命を禾鹿宮に祀りました。(名神大 粟鹿神社)

第十三代成務天皇五年秋九月、
大多牟阪命の子・船穂足泥命をもって、多遅摩国造と定めました。船穂足泥命は大夜夫宮に還りました。(名神大 養父神社)

船穂足泥命の子・当勝足泥(まさかつすくね)命をもって、朝来県主としました。

[解説]*1
『天日槍』の著者今井啓一郎は、出石の郷土史家桜井勉が『国司文書 但馬故事記』を偽書説などを牙歯にもかけず、人或いは荒唐無稽の徒事なりと笑わば笑えと堂々の論れんを張り、天日槍研究に自信の程を示した。すなわち彼は、桜井とは見解をことにし、この但馬国司文書を大いに活用している。

「この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。」とするならば、その朝来山の由来はどう説明するのだろう。

[*2]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*3]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*4]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。

[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹

以上

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