【但馬の城ものがたり】 七美(ひつみ・美方郡東部)の古城ものがたり(美方郡香美町)

高堂(たかどう)城

香美町村岡区総合庁舎の裏山、観音山に大谷城主田公氏の一族の支城、高堂城がありました。天正五(1577)年十月、但馬征伐で羽柴秀吉の家臣宮部善祥房が攻略に向かいましたが、その後高堂城は落城しました。

祖岡(けびおか)城

祖岡村(けびおかむら)に鎌倉時代温泉庄の奈良宗光の弟の正員(まさかず)が築城したと伝えられる祖岡城があります。建久のころ(1190~1198)には養父郡八木氏の一族高茂の城となり、八木氏のあと康永年間(1342~1344)以後は中村氏の城となって、大谷城主田公氏の支城となりました。天正八年(1580)六月十八日、秀吉(実勢部隊は秀長)が因幡(鳥取県)に攻め込んだ時に、この城に休憩し、道案内までしたのですが、天正十年八月十五日夜、入浴しているところを刺され、その後絶えたといわれています。

長板(ながいた)城

祖岡城から川に沿って東に三キロほど行ったところ(国道9号線春来峠付近)、長板村に祖岡城の支城、長板城があり、これも田公氏の城です。天正五年(1577)十月、羽柴秀吉の家臣、藤堂孝虎が大谷城を攻めたとき、長板城を捨て大谷城とともに秀吉方に戦いをいどみましたが力つきて敗れ、それ以後廃城となりました。

丸味(まるみ)城

丸味は春来峠の長城近くの村ですが、延徳年間(1489~1491)、板倉兵庫源周利(みなもとのかねとし)が丸味城にいました。のちに中国地方の大内義弘が山陰攻めをし、但馬にも攻めてきました。そのとき丸味と、春来の境の生姜谷で戦いましたが、多勢に無勢、ついに討たれてしまい城も落ちました。丸味にある鎧神社は板倉兵庫源周利の人徳を讃えて、村人によって祭られたのだということです。

中山城

国号9号線但馬トンネルを出て左(南)に、頂上が平になった山が見えます。大谷川と大野川にはさまれたこの山に中山城のあとがあります。本丸、二の丸、三の丸を堀切で区切り、石垣を積み規模は小さいですが整った城で、堀切も十メートルに及ぶものが数カ所も残っています。

鎌倉時代は菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城になり、のち八木氏(養父市)の支城となり、天正五(1577)年、羽柴秀吉の家臣宮部善祥房の但馬攻めのよって落城し、因幡の国に逃げたのですが用瀬(鳥取県鳥取市)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ないのです。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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