大江山の鬼伝説(その二)

麻呂子親王(まろこしんのう)の鬼退治

 用明天皇の時、河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)という三鬼を首領とする悪鬼が集まり庶民を苦しめたので、天皇は麻呂子親王(まろこしんのう) に征伐を命じた。

 命をうけた親王は、七仏薬師の法を修め、兵をひきいて征伐にむかった。その途中、篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、親王が「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓をたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇った。掘り出してみると俊足の竜馬であった。(ここを名づけて馬堀という。)親王はこの馬に乗り、生野の里を通りすぎようとしたとき、老翁があらわれ、白い犬を献上した。この犬は頭に明鏡をつけていた。

 親王はこの犬を道案内として雲原村に至り、ここで自ら薬師像七躰を彫刻した。この地を仏谷という。 そして親王は鬼賊を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓した。それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ちとったが、土熊を見失ってしまった。そこで、さきの鏡で照らしたところ、土熊の姿がその鏡にうつり、これも退治することができた。末世の証にと土 熊を岩窟に封じこめた。これが今の鬼が窟である。(土熊は逃れて竹野郡に至りここで討たれたというものもある。)鬼退治を終えた親王は、神徳の加護に感謝して天照大神の神殿を営み、そのかたわらに親王の宮殿を造営した。鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬鏡大明神と号した。(かつて大虫神社の境内にあったという。)また、仏徳の加護 に報いるため、宿願のとおり丹後国に七か寺を造立し七仏薬師を安置した。この七か寺については、享保二年(1717)の「多禰寺縁起」によれば加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・竹野郡神宮寺・溝谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多禰寺の諸寺とされるが諸説のあるところである。

 麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたり、この伝説を書きとめた最古のものと考えられている「清園寺古縁起」には麻呂子親王は17 歳のとき、二丹の大王の嗣子となったとある。この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似性も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立にかなりの影響を与えていることがうかがえる。

 この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ヶ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原因となった怨霊=三上ヶ嶽の鬼神の崇りを鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。

 この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。

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