【新説丹後史】 丹後の巨大前方後円墳と前方後円墳国家

ヤマト政権が統一に向かうまで、旧石器、縄文、弥生時代といっても1万年以上にも及ぶ、記紀編纂から今日までの約千四百年をはるかに上回る膨大な年月である。

弥生時代、日本海に面した出雲、伯耆、丹後などに諸勢力が形成されていった。それはどのように半島南部との交易を行っていたのだろうか。近年、青森の三内丸山遺跡、出雲一か所でこれまでの全国で見つかった総数を上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかり、吉野ヶ里遺跡を上回る規模の伯耆・妻木晩田遺跡、因幡・青谷上寺地遺跡の倭国乱のようすを示す発見など、これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

かれらは韓半島と日本海を交易を通じて東アジア共同体を形成していたのだ。丹後としているが、かつては丹波が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に巨大な前方後円墳が多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

『前方後円墳国家』 著者: 広瀬和雄

弥生・古墳時代には縄文時代以来の伝統をもった丸木船を底板とし、その両側面に板材を組み合わせて大型化をはかった準構造船しかなかったから、特定の勢力による制海権などはとても考えがたい時代であった。しかがって、海外の文物を入手するための航路は、いうならば誰に対しても公平に開かれていた。

筑紫などの諸勢力に加えて、日本海に面した出雲、伯耆、丹後など、諸地域の首長層が南部朝鮮各地の諸勢力と個々に交易していた。つまり、前一世紀ごろを境として時期が下がるとともに徐々に増えながら、複数の政治勢力(首長層)がそれぞれ独自に南部朝鮮のどこかの勢力、もしくは漢王朝と交渉していた。そして、それらに連なって吉備、讃岐、播磨、畿内など各地の首長層が交錯しながら合従連合していた、というのがこのころの実態ではなかろうか。

そうした自体を直接的に誘因せしめたのは、鉄器とその政策技術の普及に伴う獲得要求であった。南部朝鮮における複数の首長層や日本列島のいくつかの首長層は、鉄をめぐっての互酬システム的交易関係を結んでいたが、いっぽうで高次元の政治的権威を求めて各々が個別に漢王朝に朝貢していた。つまり漢王朝を中核にし、そこに日本列島や朝鮮半島の各地に誕生した各支配共同体(首長層)が放射状に連なった関係と、それらが相互に対等に結んだ関係との重層的な構造をもった「東アジア世界」が、前一世紀ごろ四郡設置を直接的契機として形成されていった。

そしてそうした構造は、四~六世紀には高句麗が中国北朝に、倭、新羅、百済が中国南朝に朝貢するという二元的な状態を施しながらも連綿と続いていたのである。
東アジア世界とは、西嶋定生氏によれば、律令、仏教、儒教、文字などを共通した世界を示す。

丹後の巨大前方後円墳

網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)


画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

「大きな平野は可耕地が広いからコメの生産性が高い。だから人口支持力が高くて、余剰も多く生み出され、王権も育つ」というのが王権誕生の言説であった。奈良盆地や大阪平野のような広大な平地に、箸墓古墳や大山古墳などの巨大前方後円墳が多数築かれているのがその根拠であった。そこには生産力発展史観とでもいうべき歴史観が強く作用していて、それはそれで動かしがたい事実ではあるけれども、丹後地域では従来の巨大古墳の存在に加えて「弥生王墓」のあいつぐ発見が、いまそうした通説的解釈に一石を投じている(広瀬編2000)。


神明山古墳(京都府京丹後市丹後町竹野)
画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

日本海沿岸の京都府北部、丹後半島にはまとまった平野はまったくない。ここには幅員が広くても2~3kmほどの谷底平野が、西から川上谷川、佐濃谷川、福田川、竹野川、野田川流域の五か所に分散するに過ぎないのに、かねてより「日本海三大古墳」とよばててきた墳長198mの網野銚子山古墳、190mの神明山古墳、145mの蛭子山古墳の日本海沿岸では群を抜いた大きさのものに加えて、数多くの古墳が見つかっている。


蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦明石)

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釧(くしろ:腕輪) 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

コバルト・ブルーの色調をもったガラス製の釧(くしろ:腕輪)や貝輪の腕輪類をはじめ、じつに11本もの鉄剣などを副葬していた弥生後期後半の大風呂敷南1号墳、後期末で一辺40mの方形墳墓、赤坂今井墳墓などは「王墓」とひろく認められている。このほか後期初頭になって丘陵尾根に営まれだした首長墓は、かならずといっていいほど剣・刀・鏃(やじり)の鉄製武器を副葬していた。三坂神社3号墓では、後漢王朝からの下賜品かと推測される素環頭太刀に鉄鏃やヤリガンナが加わるし、浅後谷南墳墓でも、中心主体に2本の鉄剣がヤリガンナとともに副葬されていた。

(大風呂敷南1号墳の釧は、奈良国立文化財研究所が行った成分分析の結果から、中国製のアルカリ珪酸塩ガラス(カリガラス)製である可能性が高い。鉄で着色したカリガラス製品は、奈良県・藤ノ木古墳で見つかった「なつめ玉」などわずかしか確認されていない。)

弥生時代後期の墳墓に副葬されていた鉄剣・鉄刀などの大型武器はいまや50本の多さに達していて、旧国単位
では丹後地域が一頭抜きんでて堂々の第一位を占めている(野島2000)。多量の鉄製品副葬という事実は、南部朝鮮からの鉄素材の獲得、鉄器を加工する技術の保持、製作された鉄器の流通機構など、それを補完しうる鉄器武器の再生産システムがはやくもこの時期に完備されていたことを想定させる。
谷底平野しかないにも関わらず首長墓や「王墓」がみられ、多量の鉄器や漢王朝からのガラス管玉などの副葬に加えて、日本海に面しているという立地を考慮すれば、南部朝鮮首長層を相手にした鉄資源の交易という共通の利益によって、丹後各地の首長層が政治同盟を結んでいた可能性が高い。
もしそうだとすれば、交易で得られた富をテコに王権を確立していった、という王権形成のひとつのコース、農業生産を基盤にしたものとは違ったプロセスをみることができるのではないか。『魏志倭人伝』に描かれた三世紀の国々には含まれなかった丹後においても、そのころの北部九州や畿内などに何ら遜色のない「王墓」が築造されていたわけだが、そうした時代状況とはいったいどのようなものだったのか。
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玉の生産と「輸出」

弥生時代中期末の奈具岡遺跡での玉生産が注目される。ここでは碧玉や緑色凝灰岩製の管玉や勾玉(まがたま)、水晶製の勾玉、なつめ玉、そろばん玉、小玉、ガラス製の小玉などが多量に生産されていた。なかでも水晶の玉生産が注意を惹く。この時期の水晶製玉類の製作は、島根県西高江遺跡、同平所遺跡、富山県江上A遺跡で知られているが、奈具岡遺跡では数キログラムもの未製品や生産残滓が出土していて、まさしく突出した生産量を誇っている。さらに、玉つくりのための鉄製道具を製作した四基の鍛冶炉と10kgもの鉄素材は、漢代に盛行した鋳鉄脱炭鋼であることが分析されており、(野島2000)、その輸入先には設置されて間もない楽浪郡の可能性が示唆されている。

さて個々で生産された玉類、なかでも水晶でつくられた玉類はいったいどこへ供給されたのであろうか。長野県の再葬墓で水晶玉の副葬例が二例ほどみられるだけで、後期にいたってもまだ日本列島においては一般的ではなかったし、地元丹後の首長墓にもみられない。ここで候補地として登場してくるのが楽浪郡に派遣されて客死した官人の墳墓、や朝鮮原三国時代の首長墓である。しかし若干年代的に新しい墳墓が多い。今後の十分な検証が必要だが、有力な候補にあげたい。

北部九州だけではなかった弥生時代の王


大田南5号墳 「青龍三年」銅鏡 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

弥栄町と峰山町の境にある古墳時代前期に築かれた方墳。納められていた銅鏡には、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235年)が記されていた。卑弥呼が魏に遣いを送ったとされる239年の4年前にあたり、魏が卑弥呼に贈った鏡の候補とされている。銅鏡は、現在、宮津市の丹後郷土資料館に展示されている。
後期初め頃からの丹後首長墓で顕著になってくる鉄製武器・工具の素材の問題がある。奈具岡遺跡で鍛冶炉が見つかったように、鉄器製作は丹後で行われていたが、六世紀後半ごろまでの間、鉄生産は一部を除くと日本列島では実施されず、資源としての鉄は「輸入」せざるを得なかった。多くは弁韓や辰韓から入手したようだ。それが互酬システムでまかなわれたとすれば、いったいなにが見返りとして提供されたのか。中期後半は水晶玉が候補の一つだったと推奨されるが、後期になると不明である。

しかし、鉄素材交易の一分野を丹後首長層が掌握していたことは、墳墓への副葬量の多さからみても否定しがたい。南部朝鮮首長層から独自に獲得した鉄資源を、他地域首長層、たとえばヤマト首長層などと交易することで、丹後首長層は富を蓄えていったのではないか。武器はいうまでもなく、農具や工具の材料として、鉄素材は権力の実質的基盤となったがために、それを媒介した首長層の政治的地位が上昇したことは推測に難くない。

弥生時代中期の「王」といえば、これまでは北部九州首長層の専売特許のようなものであった。『漢書』や『後漢書』などへの再登場などが相乗して、さらには志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印などが相まって、王権成立の先がけとしての地位を独占していた。しかし、古代の王権を考えるとき、その時々の特産物の生産と交易を視野におさめないと、食糧生産力の強弱だけでは説明がつかない事態に今や立ち至っている。広い平野などなくとも、南部朝鮮との鉄素材の交易をテコにした王権誕生のコースがあった、という仮説を提起しておきたい。そもそもコメはいくら増産されようとも、人口増にはつながっていくが、他の物資と交換されない限り富にはならない。分業生産と交易が社会システムの要になっているのだから、最も高度な交換価値の高い物資をどれだけ確保しているか、それが富の集積につながっていくのは当然のことであった。

首長層の利益共同体が前方後円墳国家

領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、ヤマト王権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家を提唱したい。前方後円墳の成立をもって国家形成期とみなす意見には同意するし、異論はないが、ただ私は首長層が政治的にまとまって形成した利益団体が国家である、という視点をもつ。
つまり、「もの・人・情報の再分配システム」の保持という共通の利益に基づいて、その絶えることのない再生産を目的に結合し、ほかの政治的統合体から利益を侵害されないため領域を定め、軍事と外交でそれを防衛していく共通の価値観を持った政治団体、それを国家とよぶ。(拙者は関裕二氏の神政国家連合というのが適当に思う)

すなわち、分業生産と交易の再配分という共通利益を保持した人びとがつくりあげた共同体、その秩序を堅持していくための権力-内的には国家の成員たる首長層の利害対立時に、外的には朝鮮半島での利益保持に際して、主に武力として発動された-と、自己利益を他者から守っていくための軍事権と外交権とイデオロギー装置をもつ団体を国家とよぶならば、三世紀中ごろに形成されたヤマト政権を中軸に据えた列島首長層の支配共同体は、まさしく国家というべき結合体であった。それは魏王朝や朝鮮半島の政治集団に対して、自らの社会の再生産のために不可欠な「もの・人・情報」の獲得をめぐっての一個の利益共同体に仕上げ、続縄文文化や貝塚後期文化の集団との交易に際しても、統一した政治勢力として対峙し始めたのである。

最大で岩手県南部から鹿児島県までと、国家フロンティアが時期によって多少の出入りがあるファジーな国境概念=近代国家のように国境は線引きされてはいない-をもち、民衆支配のためだけというには膨大すぎる量の鉄製武器を所有し、「倭の五王」に象徴されるような外交権を確立した政治的共同体が「前方後円墳国家」である。

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