近代1 近衛文麿と東亜新秩序

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近衛文麿と昭和の戦争
『日本近現代史』 小風秀雅

近衛文麿に鳩山総理との類似点を感じる。

プリンス近衛の登場

近衛文麿は、昭和戦前期を代表する政治家であり、日本の近代を象徴する政治家といってもよいであろう。その出自は五摂家筆頭で、皇族以外では天皇に最も近い人間であった。彼の父近衛篤麿も学習院院長・貴族院議長を務め、特に対外硬運動の指導者として有名な政治家であった。

近衛文麿は篤麿の長男として生まれ、12歳の若さで侯爵を継ぎ「殿様」「閣下」と呼ばれるようになった。しかし、父が政治活動のために使った借財の取り立てが厳しくて家は貧しくなり、そのため彼は取り立てをした富豪に対する不信感と、政治に対する失望を強めたという。その結果、青年近衛は哲学を志望して東京帝国大学哲学科に進学したが、次第に社会科学に対する興味を増し、特に社会主義的傾向を帯びるようになった河上肇に惹かれて京都帝国大学法科大学に転学した。

日本で最も恵まれている青年が、それゆえに社会の矛盾を感じ、正義感から反体制的な思想を持つのはある意味自然であり、当時の青年貴族にも共通してみられるものであった。(省略)

1916(大正5)年満二五歳で貴族院議員となった。貴族院内での彼の権威は高まる一方で、1931(昭和6)年に副議長、1933年には議長に就任した。

このような青年の正義感は、また国際社会にも向けられた。1918(大正7)年12月の雑誌『日本及日本人』に、近衛が執筆した「英米本意の平和主義を排す」が掲載された。第一次世界大戦は民主主義・平和主義を掲げた英米が軍国主義ドイツに勝利し、世界は英米の平和主義を賞賛したが、その平和とは領土などを持てる国が現状維持を主張したまでのことであり、ドイツや日本のような持たざる国が発展しようとすれば、どうしても現状打破的にならざるを得ない、その方法として積極的外交によって「正義人道」に基づき、植民地解放・人種平等を実現することによってのみ日本の活路が見出せる、というものであった。この論文も一つの契機になって、日本国内では人種平等論がにわかに高まった。特にインテリ青年層にその傾向が強かった。近衛はその先頭に立っていたといえよう。

近衛の時代感覚

「正義人道」のうえにたつ近衛は、それを軍国主義化によって達成するのではなく、英米以上に進歩的、革新的に「現状打破」を行うことを目指した。その実行には「現状維持」的な既成政党や特権階級の貴族院ではなく、新しい主体的積極的政治組織を考えていたのであろう。

しかし他方で、受け身の意識も強くなっていった。1910年代の社会主義革命に対する危機意識とは異なり、1930年代には右翼テロに対する危機感に変わった。近衛はしばしば軍部の先手を打って革新的政策を実行すべきであると主張していた。つまり、部分的に軍部の革新的主張を取り込み、それによって革新的政策を実行すると同時に、彼らをある程度満足させることで全面的軍国主義化を抑制しようとしたのである。この結果、近衛は軍部など「現状打破」勢力から首相候補に推されるようになった。また、西園寺公望を頂点とする英米派の「現状維持」勢力も、プリンス近衛に正面から反対しなかった。西園寺個人は、近衛が「現状打破」勢力に取り込まれることを強く懸念していた。彼は、主体的積極的な反面、受動的で敏感な近衛の言動に不安定さを感じていたのであろう

近衛と日中戦争

1937(昭和12)年、近衛が初めて内閣を組織した。

現内閣は各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命とす。是等対立の内最も深刻なるものは「持てるもの」と「持たざるもの」との対立なり。国際間にありては、所謂「持てる国」と「持たざる国」との対立あり。今日の世界不安は之に基づく。国内にありては「持てる者」と「持たざる者」との対立あり。社会不安多く之に因す。

是等の対立を緩和するには、国際間にありては国際正義、国内にありては社会主義を、指導精神とすべし。正義とは何か。結局分配の公平に帰す

多くの国民から歓迎されて誕生した近衛内閣を待ち受けていたものは、日中戦争の勃発であった。北京郊外で日中両軍が衝突して盧溝橋事件が起こり、戦果は上海から内陸へと広がり、ついに日本軍は首都南京を占領した。中国側では第二次国共合作が成立し、国民政府は強い民族意識や米英ソの援助に支えられて徹底抗戦し、日中戦争は次第に長期化の様相をほどこしていった。1938(昭和13)年1月16日近衛内閣は「爾後国民政府を相手とせず」という有名な言葉を発して、交渉打ち切りを通交した。

「東亜新秩序」声明

この過程で、近衛は陸軍を抑制することができなかったことへの反省として、1938(昭和13)年、陸軍に影響力を持つと思われる陸軍出身の有力者たちを入閣させた。しかし、ここでも近衛は指導力を発揮することができなかった。近衛は自らを陸軍のロボットと表現し、会議でも沈黙することが多くなり無気力になったといわれる。「各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命」として有力者を網羅したはずの近衛内閣であったが、実際の内閣は群雄割拠的状況となり、近衛の人気と政治力のギャップが目立った。そんな近衛を支えたのも陸軍だったのである。

近衛内閣は1938年末、いわゆる「東亜新秩序」声明を発した。これは王兆銘らに親日政権を作らせ、日・満・中三国連携による東アジアの新国際秩序を樹立しようというものであったが、結果的には日中間をますます引き離すことになった。そして、1939年1月第一次近衛内閣は総辞職した。

昭和14年(1939年)1月に発足した平沼内閣は、第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列 (無任所大臣) として残留してこれに協力した。最大の懸案である対中問題では、「自今国民党(蒋介石政権)を相手とせず」という近衛声名にもとづいて、汪兆銘政権を成立させてこれと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、天津の親日派海関監督がイギリス租界で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐってイギリスと対立した陸軍が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。

平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫し(ノモンハン事件)、また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結されるに至って、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としていた平沼は衝撃を受け、8月28日「欧州の天地は複雑怪奇」という珍声明とともに総辞職した。

近衛新体制

ところで、近衛内閣の「無気力」に反し、政界では近衛新党論が多方面から起こった。特に1940(昭和15)年5月ドイツ軍が電撃作戦に成功してフランスなどを占領したことが契機となって、日本国内でもドイツナチスをモデルにした一党体制を目指す動きが現れた。

ただし、そこにはさまざまな思惑が含まれていた。陸軍、あるいは親軍的でドイツ的な体制を目指す「革新派」と呼ばれるグループ以外にも、解党のうえで近衛新党に合流し、32年以来遠ざかっていた政権に復帰しようという既成政党グループもいた。また、平沼騏一郎(平沼赳夫衆議院議員・たちあがれ日本代表の義祖父)などの観念右翼や陸軍皇動派も、一国一党には警戒しつつも近衛内閣は支持した。同年6月に新体制運動に乗り出すことを声明した。この近衛の声明を契機に陸軍は米内光政内閣の倒閣に動き出し、各政党は解党へ動き出した。そして実際に7月22日第二次近衛内閣が成立した。

近衛の基本的発想は、地方名望家中心の既成政党とは異なり、国民をより深く取り込んだ国民組織(新体制)を背景に、陸軍を抑え込み日中戦争を解決しようというものであった。しかし、観念右翼や自由主義的政党人(民政党町田忠治、政友会鳩山一郎)、皇動派軍人らの、大政翼賛会はあたかも幕府のようなものであり、天皇の統治権を侵すものであるという批判によって、10月12日に発足した大政翼賛会では、公事結社として「臣道実践」のみを綱領とすることが宣言された。ここにおいても、近衛の構想は他権力の干渉によって大きく変質してしまうのであった

近衛と大東亜戦争(太平洋戦争)

欧米に対抗するため、外相松岡洋右は1940(昭和15)年9月に日独伊三国同盟を締結。西欧諸国の植民地であった東南アジアに進出して「大東亜共栄圏」を建設し資源の確保を図ると共に、アメリカから中国への援蒋ルートの遮断を狙った。こうして日米関係は危機的なものとなったのである。松岡だけを閣外に追い出す形で第三次内閣を組織し、日米交渉をやり直すことにしたが、独ソ開戦を契機に南部仏印進駐を望んでいた軍部が主導して7月末に実行された。アメリカは在米日本資産凍結、対日石油輸出禁止で対抗した。ここについに総辞職することになった。

終戦工作

自らの行動が、結果的にはことごとく意に反して戦争への拡大に向かっていったことに気づき、近衛および近衛周辺は拡大派である陸軍の背後には共産主義者の陰謀があるのではないか、という見方を強めていった(皇動派史観)。大政翼賛会=「幕府」論批判によって、自らが共産主義者ではないかと非難された近衛であったが、これらからも近衛やこの時代がいかに不安定であったかが分かろう。特に太平洋戦争の戦局が悪化し東条英機内閣が弾圧を強めるに従って、このままでは天皇制は崩壊し共産主義国になるだろうという強い危機感を持つようになった。

彼らは東条内閣打倒を目指した。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

1943(昭和18)年頃から近衛あるいは海軍の小林せい造を首相とし、皇動派将軍を陸相として終戦内閣を作ろうというのである。多くの重臣(平沼騏一郎・岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎ら)や陸軍の宇垣一成らも関与したといわれる。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

しかし、次の小磯国昭内閣も積極的に和平工作を行おうという気配はなかった。そこで、近衛たちは昭和天皇に状況を直訴しようと試みた。細川護貞(旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。初婚は近衛文麿の二女・温子とで、二人の間には護熙(元熊本県知事・元日本新党代表・元内閣総理大臣)を通じて高松宮宣仁親王と接触を深めたり、東久邇宮稔彦親王・賀陽宮恒憲親王と連絡を持ちつつ天皇への拝謁の機会を窺った。そして1945年2月14日にそれが実現した。しかし、天皇自身が政府要路者以外の政治関与を嫌ったため、この拝謁で状況が大きく変わることはなく、逆にこの後に吉田茂(孫に麻生太郎)らが拘束されたことによって近衛たちの動きは封じられてしまった。その後7月に天皇から、社会主義国家ソ連を訪問し和平工作の準備に当たるように命じられたが、訪ソの機会を得られないまま敗戦を迎えることになった。近衛はポツダム宣言受諾が決まり、A級戦犯容疑者として逮捕されることを知ると、その寸前に自殺した。
登場人物や時代背景に似た箇所があると思うのは私だけだろうか。

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=fvejDtRIrHQ&h=344] 心のこり 細川たかし
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近代-6 舞鶴

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

舞鶴(まいづる)

日本海に面し、東西に分かれた舞鶴湾(若狭湾)のリアス式海岸を臨む都市舞鶴は、天然の良港です。北近畿を代表する国際港湾都市であり、行政・経済面において中心的な立場を担っています。市内東部にある軍港のほか、造船や硝子といった重厚長大産業都市として発展し、舞鶴都市圏を形成しています。

古代~近世まで

舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、舞鶴は丹波(丹国)の領土に入っていた。ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹国は丹波国と丹後国に分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられました。

平安時代にまとめられた「和名抄」「延喜式」とも、国府は加佐郡、現在の舞鶴市内と思われます。ただし、易林本の節用集では、与謝郡とあり、現在の宮津市府中と推定されます。最初は加佐郡に置かれ、のちに与謝郡に遷されたのではないかとも思われます。与謝郡には丹後一の宮である籠神社、国分寺跡などがあって、山陰道の支道が通り駅家が置かれており、古代の政治、文化の中心がここにあったことは確実で、府中という地名から想像しても、丹後国府がこの地に営まれたことは間違いないようです。

南北朝時代には、醍醐寺の荘園が置かれました。室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり、田辺(舞鶴)を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれました。以後、丹後国は一色家の領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において西軍に属した一色氏は没落し、細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱します。

戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落しました。信長の命により丹後国は細川藤孝の領地となり、舞鶴が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治しました。
1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与しました。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。西軍の派遣部隊と対戦したが、後陽成天皇の勅命により、城を敵明け渡した(詳細については細川藤孝の項目を参照)。戦後細川家は、九州の豊前小倉藩に転封されました。

舞鶴藩

京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。

京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。[くわしくはこちら]
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明治から第二次世界大戦まで

明治維新翌年の1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称しました。1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となったが、同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入されました。1873年(明治6年)には舞鶴藩の家老であった河村真六によって、舞鶴藩の藩校であり多くの学者を輩出した明倫館が明倫小学校として開校し、1889年(明治22年)に市町村制が導入されると加佐郡舞鶴町(西舞鶴)が誕生しました。その後1901年(明治34年)10月には、舞鶴湾が日本海有数の軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。それに合わせ東舞鶴の浜村などでは大規模宅地開発が計画され、京都市に模して碁盤目状の市街地が形成され(南北に一条から九条、東西に軍艦の名前が使われる)、多くの海軍官署が設置されました。(現在でも舞鶴市内いたる所に海軍の遺跡が存在します。)

軍都として順調に発展を遂げた舞鶴でしたが、1923年(大正12年)2月のワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、舞鶴鎮守府は海軍要港部に格下げされ、同時に海軍工廠も工作部に縮小され、一時期人口が減少、市況は沈滞しました。同年9月には関東大震災で被災した横須賀市にあった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が移設されることになり、1936年(昭和11年)7月には、再び舞鶴要港部が鎮守府に格上げされると、活況を呈し、人口はピークに達しました。

1943年(昭和18年)になるといよいよ戦局が激化すると、舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり、東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになりました。また舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られ、両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く要請します。旧舞鶴市側は難色を示しますが、市役所の位置など諸条件を提示、東舞鶴市も了承したことから、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて京都府知事に一任し、舞鶴市海軍記念日にあたる同年5月27日に東西舞鶴両市は合併しました。市役所は東舞鶴市中舞鶴支所に置かれることとなり、人口は15万人を超え、日本海側有数の大都市として重要な地位を占めるに至りました。

戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が勃興し、人口も増加しましたが、1945年(昭和20年)7月29日、突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲しました。また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、多数の死傷者を出しました。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。終戦後はアメリカ進駐軍舞鶴分遣隊が駐屯、舞鶴港が政府の在外邦人引き揚げ港に指定され、大陸からの引き揚げの拠点となりました。1945年(昭和20年)から13年に渡って66万人余りの引揚者が舞鶴に降り立ち、懐かしの母国の土を踏みしめました。その頃の岸壁の母は有名です。現在は、当時の引揚桟橋があった平に、舞鶴引揚記念館が建てられています。

戦中からの東西分離運動

舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増しました。そこで1943年(昭和18年)に海軍は東西両舞鶴市に合併を要請し、それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日に合併。新しい舞鶴市が誕生しました。当時の人口は154,953人。

しかし、前述のように、城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化しました。同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至りました。1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議されました。京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決しました。舞鶴は(かつて明治の廃藩置県までは田辺と呼ばれていました)東西を分ける五老岳が峙えているため、市街地も東西で分かれて発展しています。東舞鶴はかつて1901年に舞鶴鎮守府が設置され、軍港として計画して造られ軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区でもあります。一方、西舞鶴は古代から丹国の中心として発展したかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区です。このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、旧舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っているとされています。

西舞鶴の市街地のさらに西側に位置する由良川を境に、天橋立で有名な宮津市などと接し、東舞鶴の東は福井県に接しています。西南部は福知山市、南部は綾部市に接しています。
市内をJR舞鶴線・小浜線が横断し、市西部には北近畿タンゴ鉄道宮津線が走っています。また舞鶴若狭自動車道があります。現在、東舞鶴駅と西舞鶴駅では駅前再開発が行われています。
日本海側気候に属し、冬季は北西の季節風の影響で気温が低く、雨や雪が多くなりやすいですが(代表的な格言:「弁当忘れても傘忘れるな」=北近畿共通)、盆地に位置する地域と比べると夏と冬の気温の差が比較的小さく、過ごしやすい気候でもあります。舞鶴市の年間平均気温は14.3℃、年間降水量1786.3mmは、全国152気象台の平均値に近い数値です。

現 在

1957年(昭和32年)に舞鶴市と関係の深かった加佐郡加佐町を編入して現在の舞鶴市が形成され、国政調査において初めて人口が10万人を超え、京都府内では京都市に次ぐ規模の都市になり、北近畿の中核都市としての地位を確立しました(舞鶴都市圏)。しかし、近年の人口は減少傾向が止まらず、現在では京都府南部の宇治市・亀岡市に追い抜かれています。

現在でも日本海最大の海上自衛隊舞鶴地方総監部(1952年設置)や第八管区海上保安本部(1948年設置)と海上保安学校(保安大学校は広島県呉市)があり、国防拠点都市としての性格と、舞鶴港が1951年(昭和27年)に重要港湾に指定、また1995年(平成7年)には日本海側港湾では初めてFAZ(輸入促進地域)の指定を受けるなど、中国や韓国、ロシアなど定期コンテナ航路を有する国際貿易港を持つ交流・物流都市としての性格、また中丹広域振興局や近畿財務局などが立地する行政都市として発展を続けています。

平成20年4月、海上自衛隊所属である南極観測船「しらせ」がユニバーサル造船にて新造され、進水式が執り行われました。

舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)

対ロシアの戦略上、日本海軍は日本海側へ海軍の軍事拠点を設置する事が悲願となっており、1889年(明治22年)に、湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に白羽の矢をたて、舞鶴に鎮守府を設置する事が閣議決定されました。

しかしながら、呉、佐世保の整備が優先され、舞鶴の軍港建設費用には日清戦争によって清国から支払われた賠償金があてられる事になりました。舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事には莫大な費用を要しましたが、1899年(明治32年)末には、土地造成工事がほぼ出来上がりました。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、1901年(明治34年)10月1日に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。

  • 1904年(明治37年):日露戦争勃発。鉄道舞鶴線開通。
  • 1923年(大正12年):ワシントン海軍軍縮条約により要港部に格下げ。同時に海軍工廠も工作部に格下げ。
  • 1936年(昭和11年):舞鶴海軍工作部が海軍工廠に昇格。
  • 1939年(昭和14年):鎮守府に格上げ。
  • 1943年(昭和18年):倉谷に第二造兵部を設置。
  • 1945年(昭和20年):太平洋戦争終戦。大陸からの引き揚げの拠点となりました。

周辺の名所・文化施設・祭事

赤れんが博物館(旧兵器廠魚形水雷庫)(国重要文化財


舞鶴赤レンガ倉庫群(国重要文化財および近代化産業遺産)

  1. * 舞鶴赤レンガ倉庫群(12棟の煉瓦倉庫群)7棟は海上自衛隊舞鶴総監部、近畿財務局、舞鶴倉庫などの倉庫として使用している。このような手付かずのものは、全国的に見て大変貴重で、近代化遺産として、映画やテレビドラマのロケに使用される事が数多い。
  1. o 赤れんが博物館
  2. o 舞鶴市政記念館
  3. o まいづる智恵蔵
  • 海軍記念館
  • * 赤れんがフェスタ(10月)
  • * 舞鶴引揚記念館

海上自衛隊護衛艦隊

護衛艦隊(ごえいかんたい、JMSDF Fleet Escort Force)とは、日本の海上自衛隊自衛艦隊に属する護衛艦[*1]によって編成された艦隊。潜水艦部隊や掃海部隊、航空部隊と共に、日本の海上防衛を担っています。

護衛艦隊は日本の自衛艦隊の中核となる艦隊で、司令部は横須賀基地(船越地区)におかれています。海将が務める護衛艦隊司令官が、総数47隻の護衛艦と多数の補助艦艇よりなる護衛艦隊を指揮し、これらの練度管理にあたります。2008年(平成20年)3月に護衛艦部隊の大規模な改編が行われ、それまでの12個護衛隊を8個護衛隊(DDH中心4個とDDG中心4個)に再編され、また6つの地方隊直轄護衛隊はすべて解隊されて地方隊直轄であった護衛隊は護衛艦隊に新編、編入されました。2008年現在では、4個護衛隊群(Escort Flotilla)が編成され有事に備えており、海将補が群司令を務めます。各護衛隊群は4隻ずつ、2つの護衛隊(Escort Squadron)より構成され、搭載するヘリコプター8機が含まれる。護衛隊の1つはヘリコプター搭載護衛艦(DDH)が旗艦となりミサイル護衛艦(DDG)1隻を含むDDHグループと呼ばれ、別の護衛隊はミサイル護衛艦1隻を含むDDGグループと呼ばれる。護衛艦隊の編成

  • 護衛艦隊
  • 護衛艦隊司令部
  • 護衛艦隊旗艦(DDG-170さわかぜ)
  • (機動運用部隊)
  • 第1護衛隊群(司令部:横須賀基地長浦地区)
    • 第1護衛隊 旗艦DDH-143 しらね、DDG-172 しまかぜ、DD-101 むらさめ、DD-108 あけぼの
    • 第5護衛隊 DDG-173 こんごう、DD-107 いかづち、DD-114 すずなみ、DD-157 さわぎり
  • 第2護衛隊群(司令部:佐世保基地)
    • 第2護衛隊 旗艦DDH-144 くらま、DDG-178 あしがら、DD-153 ゆうぎり、DD-154 あまぎり
    • 第6護衛隊 DDG-176 ちょうかい、DD-102 はるさめ、DD-110 たかなみ、DD-111 おおなみ
  • 第3護衛隊群(司令部:舞鶴基地)
    • 第3護衛隊、旗艦DDH-141 はるな[*2]、DDG-177 あたご[*3]、DD-112 まきなみ[*4]、DD-156 せとぎり
    • 第7護衛隊 DDG-175 みょうこう、DD-103 ゆうだち、DD-104 きりさめ、DD-109 ありあけ
  • 第4護衛隊群(司令部:呉基地)
    • 第4護衛隊 旗艦DDH-142 ひえい、DDG-171 はたかぜ、DD-155 はまぎり、DD-158 うみぎり
    • 第8護衛隊 DDG-174 きりしま、DD-105 いなづま、DD-106 さみだれ、DD-113 さざなみ

各護衛隊群の気質

各護衛隊群の気質の違いは以下の通り

  • 第1護衛隊群:「広報の1群」と呼ばれ、広報活動に従事することが多い。最新鋭艦の配備が早いことでも知られる。
  • 第2護衛隊群:「訓練の2群」と呼ばれ、練度の高さに定評がある。また地元九州出身者が多く、生活環境が比較的安定しているため士気も高い。韓国、中国と国境を接する精鋭部隊である。
  • 第3護衛隊群:「書類の3群」と呼ばれ、東郷平八郎元帥の伝統からか、上級指揮官クラスがさらに昇進するための登竜門と言われる。荒海の日本海を乗り越え、北朝鮮、ロシアとは正面から相対する最前線部隊である。
  • 第4護衛隊群:「だめだしの4群」と呼ばれ、温暖な瀬戸内海で戦略予備的な位置にある。
  • (地方配備部隊)
  • 第11護衛隊(横須賀基地)
    • DD-122はつゆき、DD-123しらゆき、DD-125さわゆき
  • 第12護衛隊(呉基地)
    • DD-129やまゆき、DD-130まつゆき、DD-131せとゆき
  • 第13護衛隊(佐世保基地)
    • DD-127いそゆき、DD-128はるゆき、DD-132あさゆき
  • 第14護衛隊(舞鶴基地)
    • DD-124みねゆき、DD-126はまゆき、DE-229あぶくま[*5]
  • 第15護衛隊(大湊基地)
    • DE-227ゆうばり、DE-228ゆうべつ、DE-230じんつう、DE-233ちくま
  • 第16護衛隊(佐世保基地)
    • DE-231おおよど、DE-232せんだい、DE-234とね
  • 海上訓練指導隊群
  • 第1海上補給隊
  • 第1輸送隊
  • 第1海上訓練支援隊
    • 訓練支援艦「くろべ」、「てんりゅう」

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海上自衛隊舞鶴地方隊

地方隊とは、海上自衛隊に置かれて、主として担当の区域(警備区)の防衛・警備及び自衛艦隊の支援に当たることを目的としている部隊です。機動運用が行われる外戦の基幹部隊である自衛艦隊の隷下ではありません。旧海軍の鎮守府、陸上自衛隊の方面隊に相当するものです。

  • 横須賀地方隊
  • 舞鶴地方隊
  • 大湊地方隊
  • 佐世保地方隊
  • 呉地方隊の5つが置かれています。舞鶴地方隊(JMSDF Maizuru District)は海上自衛隊の地方隊の一つ。主要部隊は京都府舞鶴市にある舞鶴基地に配備されています。 第44掃海隊及び第2ミサイル艇隊が配備されています。日本海中部海域の沿岸防備を担っています。
    1901年(明治34年)10月1日、海軍舞鶴鎮守府が置かれる。
    1952年(昭和27年):保安庁警備隊発足と同時に舞鶴地方隊が新編される。新編時の舞鶴地方隊には、舞鶴地方総監部、舞鶴、新潟各航路啓開隊が新編される。

    1999年(平成11年):舞鶴警備区内で不審船事案が発生する。防衛庁設置法に基づく「調査・研究」として、舞鶴地方隊の護衛艦「あぶくま」(DE-229)が、舞鶴基地を主たる母港とする護衛艦隊第3護衛隊群の「はるな」及び「みょうこう」とともに出動したが、「あぶくま」は地方隊配備護衛艦であって比較的低速だったため、充分に活躍できなかった(能登半島沖不審船事件)。2001年(平成13年)3月22日:舞鶴市長浜地区に舞鶴飛行場が完成し、今まで館山航空基地から飛来していた哨戒ヘリSH-60Jも舞鶴に常駐とする事ができるようになった。DE型護衛艦[*2]が配備され、日本海側の警備を担当することが主任務です。 北朝鮮への工作船の暗躍などに備えるためミサイル艇、高速警備艇の配備や特別警備隊なども順次配備され、島根県・山口県県境から秋田県・青森県県境までという広大な守備範囲を持ち、日本海側唯一の海上自衛隊の基地として増強が図られています。機動運用が行われる上記の自衛艦隊と異なり、警備区内での運用が中心であることからから旧型のDD護衛艦や、あぶくま型護衛艦などの小型のDE護衛艦や、さらに小型で高速のミサイル艇などを運用しています。

    編制

    • 舞鶴地方総監部(舞鶴基地:京都府舞鶴市)
      • 第44掃海隊
        • 掃海艇「あわしま」 はつしま型
        • 掃海艇「とびしま」 うわじま型
        • 掃海艇「ながしま」 うわじま型
      • 舞鶴警備隊
        • 舞鶴陸警隊
        • 舞鶴港務隊
        • 舞鶴水中処分隊
          • 「水中処分母船1号」
        • 新潟基地分遣隊(新潟基地:新潟県新潟市)
        • 第2ミサイル艇隊
          • ミサイル艇PG-824「はやぶさ」 はやぶさ型
          • ミサイル艇 PG-828「うみたか」 はやぶさ型
          • 輸送艦「のと」
          • 多用途支援艦「ひうち」
      • 第23航空隊(平成20年3月26日舞鶴航空基地隊から新編)
      • 舞鶴教育隊
        • 1939年(昭和14年)4月に海軍舞鶴第1海兵団が編成される。1952年(昭和27年)12月27日に舞鶴練習隊が新編される。1957年(昭和32年)5月10日に舞鶴教育隊となる。
      • 舞鶴弾薬整備補給所
      • 舞鶴造修補給所
      • 舞鶴基地業務隊
      • 舞鶴衛生隊
      • 舞鶴音楽隊

    第八管区海上保安本部

    海上保安庁は、海上の安全及び治安の確保を図ることを任務とする行政機関であり、国土交通省の外局となっています。主に、海難救助・交通安全・防災及び環境保全・治安維持が任務の内訳となりますが、現実には海洋権益の保全(領海警備・海洋調査)をも任務としています。

    諸外国では沿岸警備隊(コーストガード)、国境警備隊等と呼ばれる準軍事組織に相当し、戦争の際は軍隊の一部として参戦することが国際法では認められていますが、日本はこれを否定しています。有事の際に防衛大臣の指揮下に組み込まれる可能性はありますが、自衛隊には編入されず常に警察任務と海難救助に徹することが目的とされています。英称は1948年の開庁以来 Maritime Safety Agency of Japan(略称:MSA または JMSA 「日本国海上保安庁」の直訳)を用いてきました。しかし、諸外国の船員等の間で「海上警備機関か海事サービス機関か不明瞭」との声が多かったため、2000年から Japan Coast Guard(略称: JCG 「日本国沿岸警備隊」の意)に改められました。第八管区海上保安本部とは、海上保安庁の管区海上保安本部の一つで、北近畿と山陰地方の日本海沿岸、列びに京都府・福井県・兵庫県・鳥取県・島根県・竹島を管轄範囲とします。略称は八管。英語表記は8th Regional Coast Guard Headquarters。本部は京都府舞鶴市字下福井にあり、下部組織として4つの海上保安部、6つの海上保安署、航空基地1カ所、情報通信管理センター1箇所を有します。

    第八管区は、山口県・島根県境から石川県・福井県境までの広い海岸線に特徴を持っており、日本海でも山陰地方の沖合には、日本以外にも中華人民共和国・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」と記述)・ロシアの多くの船が行き交っています。第八管区管内では、日本海中部海域不審船事件やナホトカ号重油流出事故などが発生しており、その反省から警備業務、海難救助業務、災害防除業務を拡充しています。その他、日本海最大の好漁場である「大和堆」等における大韓民国の不法漁民による排他的経済水域内の密漁の摘発、北朝鮮工作員の不法入国や北朝鮮工作員や暴力団による麻薬・偽紙幣の密輸の阻止、海上自衛隊舞鶴基地周辺海域や若狭湾の原子力関連施設群、島根原子力発電所の警備業務、韓国が不法占拠を行っている竹島周辺海域で、韓国海洋警察庁による日本漁船拿捕を阻止するための警戒等も大きな仕事であります。組織第八管区海上保安本部

    • 第八管区海上保安本部(京都府舞鶴市)
      • 敦賀海上保安部(福井県敦賀市)
        • 小浜海上保安署(福井県小浜市)
        • 福井海上保安署(福井県坂井市)
      • 舞鶴海上保安部(京都府舞鶴市)
        • 宮津海上保安署(京都府宮津市)
        • 香住海上保安署(兵庫県美方郡香美町)
      • 境海上保安部(鳥取県境港市)
        • 鳥取海上保安署(鳥取県鳥取市)
        • 隠岐海上保安署(島根県隠岐郡隠岐の島町)
      • 浜田海上保安部(島根県浜田市)
      • 第八管区情報通信管理センター(京都府舞鶴市)
      • 美保航空基地(鳥取県境港市)
      • 舞鶴海上保安航空支援センター(京都府舞鶴市)

    海上保安庁は、1948年(昭和23年)、芦田内閣の下で設立されました。これは第二次世界大戦後、それまで日本周辺海域における法秩序の維持にあたってきた日本海軍が掃海部隊を除いて解体され、日本の海上における救難・治安の維持および海上交通を担当する世界初の海上警察・救難総合機関として、運輸省(現国土交通省)外局に設立されたものです。

    1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊が海上保安庁附属機関として組織されましたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となりました。保安庁創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて、保安庁の下に置かれることになっていました(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により結局、保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま、それに代わる自衛隊法の制定によって廃止となります。そのため、海上保安庁は改組を免れてそのまま存続することとなりました。

    海上保安庁は、戦後にアメリカ沿岸警備隊をモデルに誕生した組織であり、一方の海上自衛隊地方隊は、独立した沿岸警備組織がなかった戦前に沿岸警備を行っていた「海軍鎮守府」の伝統を受け継いだ組織である。創立時から、それぞれの職域が大きく重複していた。近年、不審船事件の発生などを受けて海上保安庁の体制が拡充しており、地方隊と海上保安庁との線引きが曖昧になってきている。海上警備任務では、日本近海で続発した不審船事件のうち能登半島沖不審船事件では、自衛艦隊の護衛艦隊の第3護衛隊群所属護衛艦と共に舞鶴地方隊所属護衛艦も出動したが速力不足で十分な活躍はできなかった。

    脚注

    • [*1]…護衛艦(ごえいかん)とは、日本の海上自衛隊が保有する自衛艦の分類の1つ。国際法上は、自衛艦旗を掲揚し、自衛官が運用しているため、軍艦として見なされる。
    • [*2]…ヘリコプター搭載護衛艦 Helicopter Defense Destroyer(略称:DDH)。はるな型・しらね型はヘリコプター搭載駆逐艦、最新のひゅうが型はヘリ空母に相当する。対潜・対空の各種武装も持つが、主な任務は回転翼機の母艦として補給や整備などを行う事である。181 ひゅうが(はるな後継艦・艤装中)。
    • [*3]…対空誘導弾(ミサイル)護衛艦 Guided Missile Defense Destroyer(略称:DDG)。他国ではミサイル駆逐艦や大型のこんごう型やあたご型はミサイル巡洋艦に分類される。主な任務は航空機やそこから発射されるミサイルを長射程の艦対空ミサイルで撃墜して、自艦のみならず艦隊を守る事である。その他、近年では弾道ミサイルの監視任務に就くケースが増え、弾道ミサイル迎撃能力を持たせる事も計画されている。あたごはイージス艦、イージスシステムを搭載した艦艇。アメリカ国外では、
      日本がこんごう型護衛艦(ベースライン5)4隻(DDG-175 みょうこう 所属:第3護衛隊群・第7護衛隊 母港:舞鶴)、およびベースライン7(2007年1月現在最新のもの)があたご型護衛艦2隻(DDG-177 あたご 所属:第3護衛隊群・第3護衛隊 母港:舞鶴、DDG-178 あしがら 所属:第2護衛隊群・第2護衛隊 母港:佐世保)、
      スペインがアルバロ・デ・バサン級フリゲート5隻を建造し、また韓国が世宗大王級駆逐艦3隻の建造を計画しているが、これらはいずれもアーレイバーク級をベースとしたイージス・システムを装備する。また、アルバロ・デ・バサン級をベースとしてノルウェーが建造を進めているフリチョフ・ナンセン級フリゲートにおいては、SPY-1Fレーダーを使用した、簡易型のイージス・システムが装備される。
    • こんごう型護衛艦…日本の海上自衛隊に配備された初のイージス艦(イージスシステム搭載護衛艦)。アメリカ海軍以外が初めて保有したイージス艦でもある。後継艦であるあたご型護衛艦が就役するまでは、海上自衛隊が保有する戦闘艦の中で最大の排水量を持っていた。1隻あたりの価格は約1223億円。
    • あたご型護衛艦…こんごう型護衛艦とは異なり最初からステルス性を考慮した設計が行われており、艦体や上部構造物側面の傾斜がそのために最適化されている。煙突の角の丸みが廃されており、ヘリコプター格納庫も複雑な形態になっている。マスト形状がはしご状の組み合わせで構成される在来型のラティスマストから、5000トン型護衛艦予想図にも取り入れられている日本独自の設計のステルス性能を高めた平面構成マストへ変更されている。さらに煙突の形状の変更や舷梯を上構内への収納型にすることによりステルス性能の強化が図られている。予算規模は14DDGと呼ばれていた1番艦「あたご」が1,453億円で、15DDGと呼ばれていた2番艦「あしがら」が1,389億円。
    • [*4]…汎用護衛艦 Defense Destroyer(略称:DD)他国では駆逐艦、フリゲートに分類される場合が多い艦種。潜水艦を探知・攻撃する事を主たる任務とするほか、一定の対空・対水上攻撃力を有する。かつては地方隊用の乙型護衛艦と区別するため「甲型護衛艦」とも呼ばれた。なお、DDA、DDKという艦種がかつて存在したが現在は廃止されており、それらも全てDDに統合されている。
    • [*5]…護衛艦 Destroyer Escoat(略称:DE) 、アメリカ海軍が船団護衛用に生み出した護衛駆逐艦に該当する艦種。護衛艦隊に所属するが事態対処においては各地方隊で運用され、おもに沿海域における対潜水艦哨戒、迎撃を任務とする。予算削減のため1993年以降は新造艦が建造されていない。2桁番号の護衛隊において旧式化したはつゆき型護衛艦と併用されている。
      映画「亡国のイージス」 主役艦の護衛艦「いそかぜ」の役を務めた。弾道ミサイル探知1998年にみょうこう(舞鶴)が、北朝鮮によるミサイル発射実験で発射されたテポドン1号の探知・追尾に成功した。2006年の発射実験では、日本海に展開していたこんごう(佐世保)とみょうこうがテポドン2号とみられる噴射熱の探知・追尾を行った。これらは実戦で初めて弾道ミサイルの探知・追尾に成功した例となった。
      ▲ページTOPへ参考:ウィキペディア、舞鶴市

近代-5

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日露戦争

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目 次

  1. 日露の対立
  2. 日露戦争
  3. 日本海海戦
  4. 講和へ
  5. 東郷 平八郎と肉じゃが
  6. 日本の台湾統治

1.日露の対立

大韓帝国成立後、朝鮮における日本の勢力は後退し、ロシアの勢力が強まりました。日本はロシアと妥協しながら経済的優位を確保しつつ、韓国に対する支配の強化と中国東北の満州への経済的進出を試みました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。
ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、満州全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図り、さらに韓国への進出を試みました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

2.日露戦争

日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日 – 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争。

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。

各国の思惑と戦費調達

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。


日本海海戦

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。旅順攻略、奉天会戦へ。戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

講和へ

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。

さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。

ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。

しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。

当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がりました。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もあります。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになりました。

3.東郷 平八郎と肉じゃが

弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

肉じゃが

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。
海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。

  • 1. 油入れ送気
  • 2. 3分後生牛肉入れ
  • 3. 7分後砂糖入れ
  • 4. 10分後醤油入れ
  • 5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
  • 6. 31分後玉葱入れ
  • 7. 34分後終了

発祥の地論争
京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
根拠は、

  • 舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
  • 呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。としています。
    なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    たじまる 近代-4

    tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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    日清戦争

    目 次

    1. 清国の半植民地化と滅亡
    2. 朝鮮をめぐる日清の抗争
    3. 日清戦争の経緯
    4. 日清戦争
    5. 下関条約
    6. 日清戦争と三国干渉
    7. 辛亥革命
    8. 三国干渉とその後
    19世紀なかばから東アジアの中国・日本・朝鮮は、相次いで欧米列強による開国を迫られていました。

    アヘン戦争、清仏戦争(1884年 – 1885年)、日清戦争(1894年 – 1895年)、義和団の乱(19世紀末 – 20世紀初頭)といった事件が起こっていき、帝国主義列強に侵略されていくことになります。イギリスに香港島を割譲、九竜・新界租借地、威海衛租借地を与え、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権を与え、ドイツに膠州湾(こうしゅうわん)租借地を、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲しました。上海に共同租界やフランス租界が設置され、半植民地となっていきます。

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    1.清国の半植民地化と滅亡

    19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳(かげ)った時代です。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということでした。

    伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。

    まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。琉球につづいて、1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争(- 1885年)が起きたが、これによってもう一つの朝貢国越南(ベトナム)がフランスの支配下に入りました。アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。

    ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻した(ヤクブ・ベクの乱)。その中で、ロシアが1871年中央アジアからウイグルに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

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    2.朝鮮をめぐる日清の抗争

    日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊の制度改革を援助しました。ところが1882(明治15)年、改革に取り残され、冷遇された事に不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が起きました(壬午事変)。清はこれに数千の軍隊を派遣し、ただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めました。
    1884(明治17)年には、日本の明治維新に倣って近代化を進めようとした金玉均らのクーデターが起きましたが、このときも清の軍隊がこれを鎮圧しました(甲申事変)。
    朝鮮における清朝との勢力争いに二度敗北した日本は、清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、ほぼ対等な軍事力を蓄えるようになりました。

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    3.日清戦争の経緯

    大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われました。
    李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で「日清修好条規結」が結ばれました。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。平等条約でしたが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていました。
    その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示しました。ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。
    さらに同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。日本側の感情を逆撫でする効果は十分にあり、「征韓論」が巻き起こるに至りました。

    1875年(明治8年)9月20日、日本側が測量等のために朝鮮側の官僚と面会しようとして武装端艇でその陣営近くまで遡航し、さらに朝鮮側に断ることなく奥(ソウル方面)へと進もうとして江華島付近でで砲台から砲撃されたと記されていました。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は挑発だったと考えられています。
    朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦隊と海兵隊を上陸させて第2砲台を放火し、3日目には第1砲台も放火し、朝鮮側の35名を殺害しています。一方日本側の死傷者は雲揚の2名でした。
    この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されました。
    江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきました。
    1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになりました。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗しました。

    1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられました。
    1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなりました。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化しました。
    甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化しました。

    日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まりました。なお、宣戦布告は8月1日です。なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していました。

    日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものでした。

    「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結し、平和を回復させたいと思う。」
    7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破りました。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧しました。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始しました。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領しました。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かいました。

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    4.日清戦争

     日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と、1860年代から洋務運動による近代化を進める清朝(中国)との間で行われた、日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国では甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)。

    日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。
    大日本帝国と清国殿戦争で、支持勢力として、日本側は李氏朝鮮 独立党(開化派)、清国側は李氏朝鮮 事大党(保守派)。
    1894年(明治27年)、朝鮮南部に甲午農民戦争とよばれる暴動が起きました。農民軍は、外国人と腐敗した役人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどでした。わずかな兵力しか持たない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めましたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まりました。

    戦場は朝鮮の他、満州南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利しました。日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、軍隊の規律・訓練に勝っていた事があげられますが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがあります。

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    5.下関条約

    1895(明治28)年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれました。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意しました。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行いました。

    条約の主な内容は次の通り

    • 1. 清は朝鮮が独立国であることを認める。
    • 2. 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
    • 3. 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
      清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の約3倍に当たる賠償金3億円あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本に譲り渡しました。このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子があります。
      当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
      また同年には、日英通商航海条約を結び、イギリスに日本国内での治外法権の撤廃(領事裁判権の撤廃)を認めさせます。

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    6.日清戦争と三国干渉

    日清戦争は、欧米流の近代国家として出発した日本と伝統的な中華秩序との対決でした。結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなりました。他方、「眠れる獅子」とよばれてその底力を恐れられていた清は、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊しました。
    「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏としました。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点としました。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しました。これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって、清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃されました。

    1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ北京に進出しました。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進みました。

    その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置きました。しかし、清朝は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げていた。1911年、武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えました。

    翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡しました。

    戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速され、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

    下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えることになりました(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立)。
    しかし、ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求しました(三国干渉)。独力で3国に対抗する力を持たない日本は、やむを得ず代償として3000万両と引き替えに、返還させられました。

    結果、国民に屈辱感を与え、中国の故事「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に、官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになりました。
    以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と、次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用しました。

    加えて、1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、戦果は経済的にも影響を与えました。

    台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北しました。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始しました。
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    2.辛亥革命(しんがいかくめい)

     1911(明治44)年に起こった辛亥革命は、日本の東アジア政策に大きな影響を与えました。日本はいくつかの選択肢が考えられました。

    • 清朝を援助して満蒙権益を強化する
    • 革命派を援助して権益強化を図る
      しかし、日本は権益強化の視点にとらわれすぎたために、何を選択すべきかの政策判断を明確に下すことを躊躇せざるをえませんでした。
      辛亥革命そのものは、袁世凱が臨時大総統となり、中華民国の成立という一つの着地点を1912(明治45)年に迎えます。しかし、翌13(大正2)年には第二革命が勃発し、袁一派と国民党との対立は激しさを増し、中国の保全を願うイギリスのプレゼンスがある限り、日本も国民党も袁世凱に付け入ることはできませんでした。
      この状況を一気に変えたのは、またしても1914(大正3)年の第一次世界大戦でした。ヨーロッパ各国を本土で釘付けにし、そのためヨーロッパ各国はアジアを留守にせざるをえず、戦前よりはるかに日本の動向を気にかける有様となりました。日本にとってはまさに「大正の天佑」、千載一遇のチャンス到来と思われました。
      時の第二次大隈内閣は、外相加藤高明の強力な指導の下、東アジア情勢を変えるべく参戦しました。1915(大正4)年1月の中国に対する21ヶ条要求の主な内容としては、山東省のドイツ権益の譲渡、満蒙権益の強化、中国沿岸部の不割譲宣言などがあります。
      しかし、ポイントはあくまでも満蒙権益の強化に絞られました。明文化を求める日本とさらなる譲歩を恐れる中国との間に摩擦が続いたものの、最終的に半年後、中国は日本の要求を受け入れました。後発帝国主義国家日本のやや強引なこの外交手法は、中国そしてアメリカの強い批判を浴び、後まで日本の悪いイメージを残す結果となってしまいました。
      戦争は革命を育みました。1917(大正6)年、ロシアに十月革命が勃発。帝政を打倒したボルシェヴィキ政権は、帝国主義戦争を悪と見なし、直ちに講和の姿勢を示しました。帝政ロシアから一挙に共産主義ロシアへの大転換の前に、日本はまたもなす術を持ちませんでした。ここで二十世紀への遺産として残された恐露論は、緩和されるどころか、共産主義という「赤色」イデオロギーによって一層強化されることになりました。
      寺内内閣はロシアへの対抗上、日中提携強化を図り、西原借款という巨額の借款供与に踏み切りました。またボルシェヴィキ政権がアジアへ進出するのを抑止するため、1918(大正7)年にはシベリア出兵に踏み切りましたが、この二つの政策はいずれも失敗を運命付けられていました。▲ページTOPへ

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    近代憲法色(けんぽういろ)#543f32戻る次へ

    たじまる 現代-1 戦時国際法と戦争犯罪

    今ようやく本当の近現代史が生まれつつある

    >目次

    1. 戦時国際法と戦争犯罪
    2. 戦勝国は不利な公文書を秘匿する
    3. 欧米のアジア植民地支配
    4. 対日戦に触れるな
    5. 皇国史観という言葉はなかった
    6. 自虐史観と自由主義史観
    7. 侵略国家にされた日本
    8. 補 足

    日本においていちばん近い国は、中国・韓国・北朝鮮。同じアジアで漢字を使用し、古来から深く関わりを持ってきた国家ですが、それぞれ歴史感の問題などまだまだ多くの問題があります。

    1.戦時国際法と戦争犯罪

    人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。

    戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています

    1.戦勝国は不利な公文書を秘匿する

    国際政治学、国際関係史、文明史の中西輝政氏はこのように書いています。
    かつて留学した西欧の大学で、指導教官から「現代史というような学問は本当はないのですよ。最低50~60年経たないと大切な資料は出てこないからです。つまりそれは、本当の歴史ではないのです。」と言われたことがあると。とくに、このことは二十世紀の世界大戦や冷戦といった世界史的な出来事についてあてはまると思います。

    良く近代史の書き換えということが言われますが、そもそも、まだ本当の意味で「書かれた歴史」というものはないのです。従って「書き換え」ということもあり得ないわけです。少なくとも、二十世紀の戦争や第二次大戦をめぐる歴史は、本当は今ようやく書かれ始めている時期を迎えているのです。

    歴史は資料によって書かれるものです。「近現代史」といわれるものについては、その重要な資料は各国の政府が作成した公文書ということになります。しかしどの交戦国の政府も、戦争ではみな当事者ですから、自国に不利になるような文書の公開は可能な限り先に延ばそうとします。先の戦間期のフランスや日本、ドイツのように外国部隊に占領され押収されない限り、容易には自国の国益んい大きなマイナスとなる資料の公開はしないものなのです。

    戦勝国というのは、自国に有利な戦後の国際秩序(その中には当然、歴史観も含まれる)を、どれほど必死になって守ろうとするのか、そのためには、いかに手の込んだ工作やトリックを使うものであるか、ということが如実にわかるのです。空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。

    二つの全体主義の犠牲者

    ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。

    共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。

    二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。

    3.欧米のアジア植民地支配

    高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。

    しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。

    共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。

    しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。

    インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。

    フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。

    アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。

    そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。

    4.対日戦に触れるな

    中西輝政氏は、こう記しています。

    第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。

    たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。

    そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。

    情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。

    おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。

    いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。

    5.皇国史観という言葉はなかった

    皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。

    南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。

    しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。

    しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。

    ところが、『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の伝統ある歴史を貶める「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。

    6.自虐史観と自由主義史観

    自虐史観(じぎゃくしかん)とは、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。自由主義史観研究会を主宰した藤岡信勝によって唱えられた。

    第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合(日教組)に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。アメリカに比べて日本の近代化の遅れ、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼし、その発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。
    しかしその反動が行き過ぎたため、日本の伝統・文化などの世界に誇るべき歴史の再評価の気運が生じ、「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、日本の誇るべき歴史を貶める歴史認識を「自虐史観」とし、「戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となった。」と主張する。「自虐史観教育を受けた結果、自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識を植え付けられ、「いわゆる戦後民主主義教育によって誤った歴史観(自虐史観)が蔓延した」として、「暗黒史観」「土下座教育」の改善を主張している。

    これに対して、自由主義史観は、藤岡信勝・東大教授(当時)の唱えた歴史検証法。歴史を動かす要因として「人物」を重視し、「『偉大な人物』が歴史を切り開く」との歴史観に立っている。

    7.侵略国家にされた日本

    欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのがわが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。

    中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があり、最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。

    ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。

    満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。

    「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。

    8.補 足

    アジア圏は欧米諸国に植民地化されていた歴史を持ち、日本がこの体制を解放する立場なのか、それとも新たな支配者として居座ることを目差したものかという、相反する見方があるのは当然です。

    たとえば、台湾現総督の馬英九氏は、国民党主席就任後の2005年8月には、「南京大虐殺や尖閣諸島での日本の言動は、大陸、台湾双方の人々の心を逆なでする」、「国民党は将来、尖閣諸島の問題解決に注力する。私は尖閣諸島についての専門的知識を持っている」 と発言し、また、日本の植民地統治にも厳しい態度をとっています。
    しかし、総統候補になってからは、「許せるが、歴史は忘れない」、日本を訪問した2007年11月21日、同志社大学での講演では「19世紀、20世紀の亡霊はもう過去のことだ」、「過去は白と黒以外にグレーもある」などと述べるなど、日台関係を強化する必要を強調しました。また、2006年には一度否定的な意見を述べた日米安保条約も支持すると立場を転換させました。

    われわれは、歴史のなかで過去を葬り消すことはできないし、客観的な史実と研究を行いつつ、国家のために政治的に利用するのではなく、学びながら相互の発展につなげていかなければならないと思います。引用:『靖国問題と中国』岡崎久彦引用:『中国・韓国反日歴史教育の暴走』黄文雄(台湾出身。早稲田大学商学部卒、明治大学大学院卒、拓殖大学日本文化研究所客員教授、評論家)

    参考:『日本人の歴史教科書』自由社出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』