最初の但馬人

 

最初の但馬人(たじまじん)

但馬で最も古くから人がいたのはどこだろう。
現時点では、兵庫県と鳥取県境で氷ノ山の北、扇の山の東、兵庫県美方郡新温泉町畑ヶ平旧石器遺跡である。旧石器時代後期、同じく新温泉町海上東尾の上山旧石器遺跡と家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの集落跡複合遺跡)である。

2カ所は同じ中国山脈の山岳地帯で尾根でつながっている。人類は最初、山岳地帯から住み着いていたといえる。畑ヶ平(はたがなる)遺跡では、火山灰の下から約2万5,000年前の旧石器時代のナイフ形石器が発見された。見つかった石器や石材の種類はさまざまなので、人々が継続的に活動していた証だといわれる。ただし、ここは標高1,000mの高地であり、当時の気候は分からないが、季節を選んだ一時的な居住場所であったのではともいわれている。

家野遺跡(養父市別宮字家野 海抜6~700m)は、旧石器~縄文までの複合遺跡で、約8千年前の縄文時代早期の平地式住居跡・屋外炉跡・貯蔵穴・焼土抗・配石遺構が見つかっている。

兵庫県立考古博物館の遺跡データベースを調べてきた。その後、但馬の旧石器時代の遺跡の発見は増えている。

杉ケ沢遺跡第13地点 養父市関宮出合甲字轟野
西谷遺跡 養父市三宅字西谷
円光寺林遺跡 〃 古井字奥山
八木西宮遺跡 養父市八鹿町八木字西宮
大山田遺跡 〃

養父町と但東町で尖頭器が発見されている。、大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。

また、養父市関宮(せきのみや)町や豊岡市但東(たんとう)町で尖頭器が発見されています。また、上山高原遺跡(養父市大屋町上山字峯山、標高773mの御祓山から北東にのびる尾根の、標高480~520mの緩やかな斜面にで、一片の土器破片(縄文時代早期)が採集され、神鍋(かんなべ)遺跡(豊岡市日高町神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で爪型文土器が発見され、
鉢伏高原遺跡(養父市関宮町丹戸(たんど))で縄文時代前期前半の竪穴式住居跡、土坑、集積遺跡を検出した。尖頭器なども出土しました。

高柳ナベ遺跡(養父市八鹿町高柳)で発掘された遺跡は、縄文時代早期に土を掘った穴が1か所、古墳時代の竪穴住居跡が8棟、奈良時代の掘立柱建物跡が21棟、古墳時代から平安時代にかけて粘土を掘った採掘坑等で、早い時期から連続した遺跡です。

兵庫県神戸市や瀬戸内側では旧石器時代の遺跡がかなり発見されいる。これは道路工事や開発により偶然見つかるケースからで、但馬に人が住み着くようになったのが比較的に遅いということにはならない。山岳地帯の多い但馬には、手付かずの旧石器人の足跡がまだまだ眠っているだろう。

但馬人のルーツと思われる旧石器人は、まだ日本列島が大陸と陸続きだった頃、獲物を求めて北からやってきたのか?地形的には兵庫県西部まで続く中国山地を、氷ノ山、鉢伏や神鍋を尾根づたいに西の方から獲物を追って移住してきたとも考えられる。

豊岡市で考古学の先駆者として知られている但馬考古学研究会の故瀬戸谷晧氏は、HP「但馬最古の遺物を求めて」で、

「ひと昔前は但馬には本格的な旧石器時代の遺物はないと考えられていた。旧石器時代、すなわち土器製作を未だ知らない一万数千年以上も前のことを本格的に調査・研究しようとする人は但馬にはほとんどいなかった。

そんな実態を、たとえば一九七四年に刊行された『兵庫県史』本編のなかに探ってみよう。その一巻によると、県下の遺跡分布図に三八箇所に点が落とされているなかで、わずかに二点が記されていたのみである。それも、もっとも新しい時期の「尖頭器」出土地として、但東と養父の二町の遺跡が紹介されているだけである。」

しかしここに疑問が湧いていた。なぜ最初に住み着いた原始人は山深い但馬にあってもさらに標高が高い豪雪地帯ばかりなのか?

たしかに、縄文時代以前は、今より気候は亜熱帯に近く、雪が積もる状態ではなかったのかも知れない。だから冬場でも住みやすかっただろうか。獲物や木の実、果実などを採集するのには、平地より山岳地帯の方が豊富だ。また平地は敵から狙われやすい。

それにしろ、こうした奥深い山岳地帯からのみ旧石器時代の遺跡がみつかるからといって、未開発だったから残っていただけではないかと。もっと住みやすい低地に人はいなかったのだろうか?低地になるほど後世に人が手を加え、棲家や耕作地にし、縄文以前の遺跡遺物を破壊してしまい、痕跡が残っていないだけかも知れない。山岳地帯からしか旧石器時代の遺跡が発掘されないからといって、原始人はかならず山岳地帯のみに暮らし、これを但馬人のルーツと断言することは無理だ。

日本人はどこから来たのか

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日本人はどこから来たのか

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最初の日本人

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。地球的規模でみても、古くから人類がいたことがわかってきた。人類と人(ヒト)の区別は難しいが、猿人が石器を使い始めたのが大体200万年前と考えられており、我々現代人と同じグループの、代表としてはクロマニョン人と上洞人など新人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられている。

道具については、猿人のころから石で石を叩いて、割れて尖った石を道具として使っていたようで、石で出来た道具である石器を使っていた時代のことを石器時代と言う。石器時代は石器の発達に応じて旧石器時代・新石器時代に分けられ、旧石器時代は200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまで、それ以降は新石器時代といい、旧石器時代との違いは、旧石器時代は前出のとおり石を叩いて作る打製石器を使っていたのであるが、これだと思う通りの形のはならないので、割れた石を磨くことで思い通りの形に仕上げて使うようになる。これを磨製石器と言い、これが使われていることが新石器時代の特徴である。

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