第5回 姫路城の作事 

姫路城の作事

■作事(さくじ)とは

天守や櫓、門、御殿など建築工事及びその工事に付帯的な作業

・天守・櫓を上げる
・城門をつくる
・土塀を掛ける
・御殿を建てる
・土蔵、番所、馬屋を立てる

1.姫路城天守

・連立式天守
・白漆喰総塗籠
・後期望楼型天守
(大天守各層の理想的な逓減率)
・破風(はふ)と懸魚(げぎょ)の巧みな配合
・大通柱工法(大天守)

1)窓

■格子窓
・八角形の格子 漆喰塗
・土戸 外側漆喰塗・引き戸
・明障子・排水管(鉄製)
・柱を挟んで半間ごと

■華頭窓
・黒漆塗り、金属金具(乾・西小天守)

■鉄格子窓

■出格子窓

八角形の格子

2.大天守内部

■東大柱:樅の一本材 一部根継(檜)

■西大柱:3階床部分で2本継

・檜材(上部)・・・笠形神社(樹齢650年)
・檜材(下部)・・・木曽国有林(樹齢765年)


江戸時代の西大柱

3.小天守

■東小天守

3重 地上2階、地下1階
簡素な造り

■乾小天守

3重 地上4階、地下1階

■西小天守

3重 地上3階、地下2階

4.渡櫓と台所

■イ・ロ・ハの渡櫓 地上2階・地下1階
■ニの渡櫓 2重櫓門・水の御門
■渡櫓地下に籠城のための物資(塩・米)貯蔵
■台所と大天守地階、ロの渡櫓1階に出入口

5.櫓

■櫓とは

矢倉・矢蔵 弓矢を収納する倉庫、武器庫
矢の坐(くら) 弓矢を射る場所、陣地

■櫓の名称

・多聞櫓、渡櫓、付櫓
・平櫓、二重櫓、三重櫓
・鉄砲櫓、弓櫓、太鼓櫓、月見櫓など

■姫路城の櫓

27棟(重要文化財)
全国109棟現存の内、27棟

・櫓座敷(化粧櫓・帯の櫓)や武者櫓(帯郭櫓)を備える櫓
・櫓形式の井戸(ロの櫓、井郭櫓)
・長大な多聞櫓(西の丸櫓群)、二重の多聞櫓(りの一渡櫓)
・極端な変形平面を持つ櫓群(北腰曲輪櫓群)
・穴倉式(りのニ渡櫓・折廻り櫓)、半地下式(帯郭櫓)の櫓
・菱形の櫓(トの櫓)
・防御と華やかな雰囲気を合わせ持つ櫓(西の丸櫓群)

第4回 2.姫路城の普請 石垣

[catlist categorypage=”yes”] 2.姫路城の石垣

三つの異なる石積み形式

1)羽柴時代(野面積み)
2)池田時代(打込接ぎ)
3)本多時代(打込接ぎ・一部切込接ぎ)

秀吉時代の野面積み 上山里


秀吉時代(右)と池田時代の石組み(左) 二の丸
武蔵野御殿池護岸石垣


算木積み 扇の勾配(二の丸隅部)


打込接ぎ 武蔵野御殿池護岸石垣


人面石 ぬノ門前

第4回 姫路城の縄張り・普請

Ⅰ.選地

築城は四要素 選地・縄張・普請・作事

1。選地

城をどこに置くか
-城の防御と領国経営の要諦

山 城    →  平山城・平城
(防御主体)  (領国経営主体)

姫路城は、理想的な選地

・三方を山に囲まれ
・市川・夢前川が流れる平野の中央
・交通の要衝に恵まれた地

姫山と鷺山の高低差を生かした平山城

【四神相応】
中国儒書『礼記』(らいき)…都城の理想的な選地

(姫路城)  (平安京)
■東 青龍 <流水>  市川     鴨川

■南 朱雀 <窪地>  瀬戸内海   巨椋池

■西 白虎 <大道>  山陽道    山陽道

■北 玄武 <丘陵>  広嶺山系   船岡山

2.縄張

築城における曲輪や建物の配置、計画、城下町の地割すなわち築城の総合的な計画・設計

■縄張のタイプ

・輪郭式・・・大坂城、駿府城など
・梯郭式・・・岡山城、熊本城、萩城など
・連郭式・・・彦根城、水戸城など

■姫路城の縄張(全体)

・らせん状(左巻き)に三重の堀
・三つの曲輪
内曲輪(内堀内)・・・城郭と居館
中曲輪(中掘内)・・・侍屋敷
外曲輪(外堀内)・・・町家、寺町、侍、組屋敷

・総構えの縄張
城と城下町全体を土塁と堀で囲んだ縄張

■姫路城の縄張(内曲輪)

・二つのタイプの縄張が共存
姫山・・・小さな曲輪・ひな壇状に集合 迷路のように複雑に分かれた古いタイプの縄張(秀吉時代の曲輪利用)
鷺山・・・一つの大きな曲輪(西の丸)

Ⅱ.普請(ふしん)

■普請とは・・・築城における土木工事または土木工事を伴う建築工事

・石垣  石垣を築く
・堀   堀をうがつ
・土塁  土塁を盛る

第3回 姫路城の歴史と人物

[catlist categorypage=”yes”] 姫路城の歴史を人物でたどる。

1.最初の築城説

赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある。

■赤松貞範築城説
『赤松播磨録』(延享4年(1747))
『播磨鑑』(宝暦12年(1762))典拠
貞和2年(1346)築城の根拠…正明寺板碑

■黒田重隆・職隆(もとたか)築城説
天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間
根拠…姫道御構(ひめじおんかまえ)の存在確認
(姫道村助太夫の畠地売券(正明寺文書))
※永禄4年(1561)12月に、姫道村助太夫が、母屋藤兵衛尉に畠地を直銭弐貫七百文で売った。土地の場所は「姫道御構東門之口、妙楽寺の西」にあったという。

2.中世の姫路城  ※「姫路城史」橋本政次著説

■1代 初代城主 赤松貞範(貞和2年(1346))
-その後、貞範が庄山城へ(1349)

■2~5代 第一次小寺氏
頼季(よりすえ)-景治ー景重-職治(もとはる)
-貞和5年(1349)~嘉吉元年(1419)

■6代 山名持豊(宗全) 嘉吉の変後赤松氏滅亡後、播磨守護職として姫路城主 嘉吉元年(1441)

■7代 赤松政則 赤松宗家を再興し、姫路城主に 応仁元年(1467)
-その後置塩城へ(文明元年(1469))

■8~10代 第2次小寺氏
小寺豊職(とよもと) 文明元年(1469) 応仁の乱に遭遇
小寺政隆     延徳三年(1491) 御着城を築く
小寺則職(のりもと) 永正16年(1519) 御着城主に転ず

■11代 八代道慶(小寺家家老)姫路城を預かる
享禄4年(1531)~天文14年(1545)

——————————————-

■12~14代 黒田氏三代(約35年間)
小寺氏家臣であった黒田重隆 小寺氏の命により、御着城から姫路城へ移る。
重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている。

12 黒田重隆 天文14年(1545)
-職隆 永禄7年(1564)
-孫の孝高(官兵衛、如水) 永禄10年

・天正8年(1580)
黒田孝高 秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し、国府山城へ移る。

■15~17代 秀吉三代(約20年)

・天正5年(1577) 羽柴秀吉 播磨へ侵攻
天正8年(1580)秀吉 播磨平定
天正9年(1581)三重の天守完成

・天正11年(1583)羽柴秀長
・天正13年(1585)木下家定

3.近世の姫路城

■18~20代 池田氏三代(約17年)

・慶長5年(1600)
池田輝政 三河吉田15万2千石から関ヶ原の戦いの戦功により52万石に加増入封
三木、明石、平福、龍野、赤穂、高砂に支城

・慶長6年(1601)~慶長14年(1609)
白亜の姫路城築造 総構えの城下町
8年掛けた大改修で広大な城郭を築いた。
普請奉行 池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛
作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 – 5千万人であろうと推定されている。

・慶長5年(1600) 池田輝政
・慶長18年(1614) 池田利隆
・元和2年(1616年)池田光政 →元和3年(1617)因幡鳥取へ転封

4.譜代・親藩大名の入・転封

■21~23代 本多家三代(第一次本多氏22年間)

・元和3年(1617) 本多忠政 伊勢桑名10万石から15万石に加増され入城
・元和4年(1618) 千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸造営、御殿群築造

本多忠政-政朝-正勝 寛永16年(1639)大和郡山へ

■24・25代 奥平松平家 忠明 寛永16年(1639)大和郡山より
忠弘 正保元年(1644)出羽山形へ

■26・27代 越前松平家(結城) 直基 慶安元年(1648)出羽山形より
直矩 慶安元年(1648)越後村上へ

■28・29代 榊原家 忠次 慶安2年(1649)陸奥白河より
政房 寛文5年(1648)

■30代 再度越前松平家 直矩 豊後日田へ

■31・32代 再度本多家 忠国 天和2年(1682)陸奥福島より
忠孝 宝永元年(1704)越後村上へ

■33~36代 再度榊原家 政邦 宝永元年(1704)越後村上より
政祐 享保11年(1726)
政岺(まさみね) 享保17年(1732)
政永 寛保元年(1735)越後高田へ

■37・38代 再々度越前松平家 明矩(あきのり) 陸奥白河より
朝矩(とものり) 上野前橋へ

■39~48代 酒井家十代

39 酒井忠恭(ただずみ) 寛延2年(1749)松平朝矩と入れ替わり前橋城より入城する。
40 酒井忠以(ただざね) 安永元年(1772)
41 酒井忠道(ただひろ) 寛政2年(1790)
42 酒井忠実(ただみつ) 文化11年(1814)
43 酒井忠学(ただのり) 天保6年(1835)
44 酒井忠宝(ただとみ) 弘化元年(1844)
45 酒井忠顕(ただてる) 嘉永6年(1853)
46 酒井忠績(ただしげ) 万延元年(1860)
47 酒井忠惇(ただとう) 慶応3年(1867)
48 酒井忠邦(ただくに) 明治元年(1868)

第2回 城郭の歴史と姫路城

姫路城築造には、赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある(後に記述する)。

1.戦国時代の姫路城■天文14年(1545)
黒田重隆、小寺氏の命により御着城から姫路城に移る(御着城の出城(支城)としての姫路城)■永禄4年(1561)
黒田重隆・職隆、城を改修する永禄4年12月・「姫路御構」の存在確認■天正8年(1580)
黒田孝高(官兵衛)、羽柴秀吉に姫路城を勧める
(黒田職隆・孝高父子は、妻鹿国府山城へ)2.羽柴秀吉

姫路城築城

三重の天守築造 天正9年(1581)
中国攻めの拠点としての姫路城…『豊鑑』『播磨鑑』

拙者付記 但馬征伐もおこなう

3.築城最盛期の築城(池田輝政の大改修)

■慶長6年(1601)~14年(1609)
池田輝政が白亜の姫路城を完成(播磨の国主を誇示する姫路城)
・連立式天守構造
5重7階(地上6階・地下1階)の大天守
東・乾・西小天守をイロハニの渡櫓
・総構えの城下町造営

4.姫路城・総構えの城下町

  
■らせん状に三重の堀
■三つの曲輪
・内曲輪(内堀内)…城郭と居館
・中曲輪(中掘内)…侍屋敷
・外曲輪(外堀内)…町家、寺町、侍屋敷・組屋敷

■総構え…城と城下町全体を堀と土塁で囲む
■山陽道を城下町に引き込む

5.武家諸法度下の築城

■本多忠政の御殿築造
元和4年(1618)
西国の藩鎮、西国探題職、幕府を守る姫路城
・西の丸櫓群、中書丸御殿
・御殿群構造
居城(本城)、武蔵野御殿、向屋敷、樹木屋敷(西屋敷)、東屋敷築造

「姫路侍屋敷図」姫路市立城郭研究室蔵

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)

[catlist categorypage=”yes”]

※放送大学兵庫学習センター(姫路)第2学期面接授業
「城郭の歴史と姫路城を学ぶ」

1.城郭とは?

■「城」とは、
「土に成る」
地面を掘り、土を盛って囲った区画

■「郭」とは、
「囲いのある所」
「物の外まわり」

『古事記』…「稲城(いなぎ)」、『日本書紀』…「城(き)」

2.城郭の主な系譜

■古代山城
7世紀後期(飛鳥時代末期)約30
■中世城館
13世紀~16世紀
(鎌倉・南北朝・室町時代)
約40,000
■近世城郭
16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)
約200~300

3.その他の城郭

■都城…外郭ラインに城壁は築かれず、築地塀や区画溝で囲む
7世紀~8世紀はじまり
藤原京、平城京など

■城柵…古代朝廷の東北地方計略の拠点 8世紀
多賀城、秋田城、志波城など

■チャシ…物見や祭祀の場としても利用されたアイヌの砦

■グスク…琉球(沖縄)で地方領主が地域支配のために築く 14世紀
中城城、勝連城、今帰仁城など

4.古代山城 7世紀後期

■朝鮮式山城
大野城、基肄(きい)城、屋島城、高安城、金田城など6城

■神籠石系山城
城山城、鬼ノ城、大廻小廻山城、石城山城、高良山城、女山城、雷山城など

西日本中心に30ヶ所があるといわれ、現在23ヶ所確認

5.中世城館 13世紀~16世紀(鎌倉・南北朝・室町時代)

■在地領主(土豪や国人など)による私的な城
■山上には詰めの城、普段は麓の居館に居住
■居館
方形、周囲に土塁・堀
■詰城
山上の尾根伝いに段々畑状の小さな曲輪を連ね、要所に空堀や土塁を配置
堀切(尾根を切断)、堅堀(山の斜面を竪に区画)、切岸など

詰城例…浅井氏小谷城、北条氏小田原城、尼子氏月山冨田城、六角氏観音寺城、毛利氏吉田郡山城、上杉氏春日山城など
居館例…足利氏館、一乗谷朝倉氏館など

6.近世城郭 16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)

■安土城築城(織田信長)天正4年(1576)
・天主を持つ城(5重7階)…熱田の宮大工、岡部友右衛門
・総石垣の城…穴太衆の存在
・瓦の使用(金箔瓦)…奈良の瓦工集団
・御殿の築造
・城下町の出現(楽市・楽座)

7.豊臣秀吉の天下統一(天正18年(1590))

■近世城郭は全国に普及
秀吉配下の大名たちが大城郭を築造
・羽柴秀長 大和郡山城 天正13年(1585)
・毛利輝元 広島城 天正17年(1589)
・宇喜多秀家 岡山城 天正18年(1590)

■秀吉による天下普請
・大坂城  天正11年(1583)
・聚楽第  天正14年(1586)
・肥前名護屋城 天正19年(1591)
・伏見城 文禄元年(1592)

8.築城ラッシュ(慶長の築城最盛期)

■関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))の後
・大名たちの全国的な配置換え

■加増された広大な領地を与えられた外様大名たち
(中国・四国・九州中心)

・加増に見合う大城郭を新築・大改修

■一方、徳川幕府は、外様大名たちを動員して天下普請の城を築造
(豊臣包囲網・外様大名の財力消耗)

9.築城最盛期の城

■外様大名による築城
熊本城(加藤清正)、福岡城(黒田孝高・長政)
小倉城(細川忠興)、伊予松山城(加藤嘉明)
高知城(山内一豊)、萩城(毛利輝元)
松江城(堀尾吉晴)、津山城(森忠政)
姫路城(池田輝政)、伊賀上野城(藤堂高虎)
仙台城(伊達政宗)など

■徳川家康による天下普請
彦根城、江戸城、駿府城、篠山城、名古屋城
丹波亀山城(再築)、高田城、伏見城(再築)など

10.幕府による城の規制

■大坂の陣(慶長20年(1615))後の幕藩体制の強化

・一国一城令(元和元年(1615)6月)
一つの国に一つだけの城を認め他は廃止

・武家御法度(元和元年(1615)7月)
「諸国の居城、修復を為すと言えども必ず言上すべし、況んや新儀の構営、堅く停止せしむる事」
・居城修復に事前に幕府に届け、許可を受ける
・新城の築城や修復以外の新たな工事は一切禁止

11.天守代用櫓と天主がない城

■天守代用櫓(御三階櫓)…新発田城、丸亀城

■天守台はあるが天主がない城…赤穂城、篠山城

12.城の規制下での築城

■幕府の政略上
・明石城 小笠原忠真 元和3年(1617)
・福山城 水野勝成 元和6年(1620)

■幕府の天下普請
・徳川大坂城再築 元和6年、寛永元年、5年(1628)
・二条城     寛永元年(1624)

■外様大名の転封による
・赤穂城 浅野長直 慶安元年(1648)
・丸亀城再築 山崎家治 寛永19年(1642)

13.幕末の築城

■海防の強化
・新城の築城(砲台を設置)
福山(松前)城 松前崇広 嘉永2年(1849)
石田城  五島盛正 嘉永2年( 〃)

■様式築城
・五稜郭 安政4年(1857)

■砲台
・品川台場、和田岬砲台

14.明治維新後の城郭

■存城・廃城令 太政官布達 明治6年(1873)1月14日

全国の城郭に対し、「存続」と「廃城」の線引き
旧城郭の管轄の二分化

存城・・・56城(姫路城、名古屋城など)陸軍省の管轄
廃城・・・190の城・陣屋など 大蔵省の管轄

世界遺産 姫路城の歴史と見学

[catlist categorypage=”yes”]

12月3・4日 放送大学面接授業において、平成の大修理が行われている国宝姫路城を見学してきた。

城郭の歴史と姫路城を学ぶ
兵庫学習センター(姫路)

授業内容

長い築上の歴史の中で、現存最大、また芸術上も最高傑作と言われ世界遺産にも登録された姫路城が何故建てられたのか。その歴史的背景を探るほか、現地見学を交えながら姫路城の縄張りや普請(石垣、堀、土塁)、作事(天守、櫓、門等)、歴史や人物など姫路城の構造や歴史を学び、また、平成の大修理を踏まえ遺産を守る大切さも学ぶ。

【授業テーマ】

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)
第2回 城郭の歴史と姫路城
第3回 姫路城の歴史と人物
第4回 姫路城の縄張り・普請(石垣、堀、土塁など)
第5回 姫路城の作事(天守、櫓、門、御殿など)
第6回 世界遺産姫路城を守る(姫路城修理の系譜と平成の大修理の概要)
第7・8回 姫路城見学

【韓国朝鮮の歴史と社会】(29) 韓国の現代社会と人間関係

[catlist id=8] 1960年代以降、韓国社会は急激な社会変化を経験してきました。都市への人口集中と農村の過疎化、それによる血縁関係の結束の弱体化がある一方で、国民文化として伝統の強調もおこなわれています。

家族関係の変化

伝統的に理想とされてきたのは、三世代同居の家族形態でした。しかし1960年代からの産業化と都市化の進展はアパートでの核家族の居住を一般化させました。地方の小さな町にもアパートが建ち、近隣の村の若い夫婦たちが居住しています。1980年代までは都市に出た人でも祭祀(チェサ)などの際には故郷に帰るのが一般的であり、都市に暮らす人と農村に暮らす人との間の交流がみられ、常に関係が確認されました。

しかし最近では、祭祀の場に参加する人々は減少しており、門中などの親族の結束も弱体化してきています。しかし人間関係自体が希薄化しているかというとそうは言い切れないのです。かえって携帯電話をはじめとする通信機器の発達は、人間関係の維持にも大きな役割を果たしており、世界中のどこにいても身近にいることを確認できます。

核家族化は、家族の人数の減少ももたらしています。1995年には家族の人数は3.3人にまで減少しています。この背景には女性の社会進出があります。また近年では離婚率が高くなっており、さまざまな問題が引き起こされています。

家族観のゆらぎ

韓国では、男性の側により重心をおく構造に変わりはないようにみえました。しかし女性側から要求として出されていた「戸主制」廃止論が力を持つようになってきており、変化がみられます。

「戸主制」は日本の植民地期に日本の家をモデルとして制度化されたもので、数度の改編を経ながら存続してきています。「戸主制」では戸主の地位の景勝が男系優位であること、家族の範囲を戸主の戸籍の範囲内としていること、子供の姓は父親の姓であることなどの特徴がみられます。離婚の急増で問題となっているのは子供は実父の姓を受け継ぎ、犠牲を名乗ることができないため、さまざまな不利益をこうむる点です。子供に実父以外の姓を名乗らせようとする運動は父系主義を真っ向から対立するものです。

「戸主制」廃止については、保守勢力からの反発は強いですが、若い世代を中心に楊ミンする雰囲気があり、近い将来改編される可能性が高いです。廃止されると、朝鮮王朝以来続いてきた父系主義が否定されることになります。その結果多くの問題が引き起こされるのか、逆に社会が変化したために制度が変えられただけのことで大きな問題とならないかは興味深いところです。

ナショナリズムと移民

2002年、日本と韓国とで共催されたサッカーのワールドカップ大会は、韓国チームの活躍もあり韓国では街中に応援の人々があふれました。そこでは「大韓民国(テハーン・ミングック)」が合唱され、熱烈な応援とナショナリズムが世界の人々の関心をよびました。韓国はナショナリズムがよく表明される社会でもあります。また近年の若い世代の反米感情の高まりのなかでは、北朝鮮と一体化した民族というナショナリズムもみられ、2001年末の大統領選挙では、北朝鮮との宥和政策をかかげた盧武鉉(ノ・ムヒョン)を大統領としました。

一方でその同じ世代が国を離れて移民を希望したり、また実際に移民していったりしています。理由は子供の教育問題のためで、韓国内の苛烈な受験競争を避けての移民です。韓国では移民は特別珍しいことではありません。父系血縁意識が強かったので、どこにいても自分自身のアイデンティティは変わらないと思われてきました。しかし、社会の変化とともに薄らぎつつある父系血縁意識は、韓国人のアイデンティティをどう変えていくのか注目されます。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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【韓国朝鮮の歴史と社会】(28) 韓国の社会関係

[catlist id=8] 伝統的な社会関係

日本人にもっとも近しい国はどこかといえば、地理的にも同じ島国という国民性からも台湾(中華民国)です。

そしてもっとも歴史・文化・交流・言葉が近いのは韓国です。韓国にはこれまで2度行ったことがあります。韓国も台湾もそうですが、世界中でもっとも日本人と近い隣人であることが体験できます。

しかし、唯一異なるのは、過去に二国間で争いがおきましたが、日本列島は第二次世界大戦で米国に占領されたことがありますが、幸いにも言葉や習慣自体を奪われることはありませんでした。したがって、一度も他国から植民地化されたことがないのですが、朝鮮半島は何度も同じ民族同士や他国から侵略を受けてきた歴史だということです。

韓国社会は儒教によって高度に秩序化された社会であり、父系血縁関係を基盤とした家族・親族関係が形成されている点では日本と大きく異なります。これは中華の伝統を受容し、それをもとに朝鮮の社会関係を組み直した結果でもあります。このような伝統的な家族・親族関係は、現在では社会の変化とともに大きく変わってきています。

父系血縁関係

韓国では朝鮮王朝時代に国教とされた儒教(朱子学)によって、父・子関係を基本とする父系血縁関係が社会に浸透していきました。およそ17世紀後半から18世紀にかけて定着したといわれています。

韓国人にとってもっとも基本的なアイデンティティは父系血縁です。そしてその関係は生涯変わることはありません。父系の血を継承したことによって、自分自身の所属が明らかとなります。女性にとっても生涯この父系血縁関係は変わることはありません。

家族

韓国では家族というときに「チップ」という言葉を良く使います。日本語の「家・いえ」という言葉によく似ていて、家族とともに家屋の意味でも使われます。このチップは日常生活の基本単位であり、伝統的には長男夫婦が老後の親を扶養します。三世代同居の姿が理想型とされてきました。ただしチップはより範囲が広く、次三男以下が独立した後やその子孫たちも、同じ血を持つ者として考えられ、同じチップのメンバーとなります。とくに農村部では、近くに住むことが多く、日常的に緊密な繋がりをもっており、また相互に助け合う関係でもあります。日本では家族であっても遠くに離れてしまうと心情的に距離感をもつことが少なくありませんが、韓国では日常的関係がさほど緊密でなくとも、常に関心をもっていて心情的には近いのです。血縁関係を軽視することは、倫理に反するとみなされて批判されることになります。

父親と子どもの関係が基本とされるため、とくに父と息子の関係は厳格で形式的なものとなります。とくに儒教に忠実であろうとする人々の間ではそうです。一方、逆に母親と子供の関係は打ち解けた親しみのあるものです。また祖父母との関係は、子供にとっては何でも許される関係となります。

また四代前までの祖先を祀る忌祭祀(キジェサ)を祀る子孫たち、つまり高祖父を共通の祖先とする八親等の関係をチップの内側という意味でチバンといい、このチバンが親族のなかでも近い関係です。

親族

父系血縁の原理はチバンのように親子兄弟関係をこえて拡大して考えられます。親族組織を門中(ムンジュン)といいます。門中は、ある祖先からの系譜が明確な人々によって構成され、元来はある特定の地域に集中して居住することが多く、村全体が同じ門中というような村落も存在しました。門中は祖先祭祀のために組織化されたので、そのための土地や財産を所有することも多い。門中はその系譜関係を明らかにするためのものとして族譜(チョッポ)を編纂します。

親族

族譜は父系の系譜関係を明示するものとして存在するので、父系の血の概念が浸透し、それにともなって親族組織がつくられるようになってから一般化しました。王朝時代には族譜を編纂し所有することがステータスの証しでもありました。族譜の記述形式は定まっていて、最初に一族の歴史が語られ、始祖からの系譜を親子関係を上下に、兄弟関係を横に並べて記載されます。個人についての記載内容も現在ではほぼ一定で、名、生年月日、官職や事跡、配偶者の父親の姓名と本貫、本人と配偶者の没年月日、墓の位置などです。

現代の韓国でも族譜はステータスと大きく関連していて、族譜を出版する出版社や族譜を集めた図書館などが存在します(日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。族譜は一世代(約三十年)ごとに改訂されるのが通常で、死者や新しい成員の情報が付け加えられます。また過去にさかのぼって見直しが行われます。

最近では刊行される族譜に女性の名前が記載されることが多くなり、また漢字を読めない人々が増えてきたためハングルでの表示もなされています。また多くの門中で族譜がインターネットを通じて公開されていることも、伝統と新技術の結合として特徴的なものでしょう(出版同様、日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。

姓氏

韓国には姓が270あまりしかありません(ちなみに日本は姓は正式には氏ともいい、名字・苗字ともいう。十数万もの種類の名字がある)。またその内の少数の姓に集中しています。金・李・朴が三大姓といわれ、この三つの姓で全人口の45%を占めます。しかしながら金姓の人々は同じ一族かというとそうではありません。姓に本貫という地名をプラスすることによって区別をします。金姓では本貫の数は300近くあります。本貫は始祖とよばれる祖先と関連する地名である場合が多い(金海金氏・慶州金氏など)です。また始祖は必ずしも実在の人物とは限らず、神話的な存在である場合もあります。このように本貫と姓を同じくする人々を、同姓同本といいます。同姓同本の人々は明確な系譜関係で結ばれているわけではないし、共同で何かをやることは少ないです。

しかし、この同姓同本が明確な区分として使われるのが婚姻の場合です。同姓同本の間での婚姻は、つい最近まで、ある少数の例外は除いて、「同姓不婚」の原則に該当するため法的に禁止されてきました。そのため多くの問題が発生することとなりました。

それは、同姓同本である男女による事実上の婚姻生活です。法的には認められない婚姻のため、生まれてくる子供は法的に男性の子供とは認められず、私生児とならざるを得ませんでした。厳格な父系血縁の社会で父親の存在がないことは多くの不利益を子供にもたらすことになります。そのため例外的に婚姻を認める期間が設けられたことがありましたが、現在では同姓同本の婚姻を禁じた民法の条文は効力停止となっており、同姓同本の婚姻は自由となっています。

民族

朝鮮半島は半島というコンパクトな地域に、王朝交代の少ない比較的に安定した社会を長年にわたって維持してきたため、社会や文化の均質性が高いのが特徴です。もちろん地域差や階層の差による違いがないではありませんが、今日では比較的に小さいものです。そのため民族意識がつくられやすく、近代になると外部からの圧力もあり、自分たちを同じ血をもつ民族としてみなすことがおこなわれました。この民族の血の概念は架空のものでありますが、対外的にも、また自らのアイデンティティを確認するときにも重要な働きをしています。

北朝鮮との関係においても、金泳三大統領以降の政権では、同じ民族としての面を強調し、和解の雰囲気をつくり出してきているようです。このように、同じ血をもつ民族という概念は、政治的なものでもあります。

両班意識

父系血縁観念が広く行き渡り、親族意識を組み直していったのには、朝鮮王朝の支配層であった士大夫(したいふ)層の役割が大きかったのです。士大夫層のことを士族といいます。士族は科挙に合格し官職に就いた人物を指し、一般的に文官と武官を総称して両班(ヤンバン)と称されたのですが、時代をへるにしたがって両班の適応範囲は広がっていきました。その際に必要とされた両班らしさのなかには、儒学の素養や儒教的規範の実践のほか、父系血縁意識による祖先祭祀、族譜の所有、親族意識などがありました。両班の生活様式を実践することによって、自らのステータスを上昇させようという人々が存在し、それがまた父系意識の浸透にも影響したと考えられます。そして現在では、韓国人の多くが自分たちは両班の子孫であると認識しています。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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