【新説丹後史】 丹後の巨大前方後円墳と前方後円墳国家

ヤマト政権が統一に向かうまで、旧石器、縄文、弥生時代といっても1万年以上にも及ぶ、記紀編纂から今日までの約千四百年をはるかに上回る膨大な年月である。

弥生時代、日本海に面した出雲、伯耆、丹後などに諸勢力が形成されていった。それはどのように半島南部との交易を行っていたのだろうか。近年、青森の三内丸山遺跡、出雲一か所でこれまでの全国で見つかった総数を上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかり、吉野ヶ里遺跡を上回る規模の伯耆・妻木晩田遺跡、因幡・青谷上寺地遺跡の倭国乱のようすを示す発見など、これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

かれらは韓半島と日本海を交易を通じて東アジア共同体を形成していたのだ。丹後としているが、かつては丹波が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心が日本海に面した丹後地域だった。なぜ水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に巨大な前方後円墳が多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

『前方後円墳国家』 著者: 広瀬和雄

弥生・古墳時代には縄文時代以来の伝統をもった丸木船を底板とし、その両側面に板材を組み合わせて大型化をはかった準構造船しかなかったから、特定の勢力による制海権などはとても考えがたい時代であった。しかがって、海外の文物を入手するための航路は、いうならば誰に対しても公平に開かれていた。

筑紫などの諸勢力に加えて、日本海に面した出雲、伯耆、丹後など、諸地域の首長層が南部朝鮮各地の諸勢力と個々に交易していた。つまり、前一世紀ごろを境として時期が下がるとともに徐々に増えながら、複数の政治勢力(首長層)がそれぞれ独自に南部朝鮮のどこかの勢力、もしくは漢王朝と交渉していた。そして、それらに連なって吉備、讃岐、播磨、畿内など各地の首長層が交錯しながら合従連合していた、というのがこのころの実態ではなかろうか。

そうした自体を直接的に誘因せしめたのは、鉄器とその政策技術の普及に伴う獲得要求であった。南部朝鮮における複数の首長層や日本列島のいくつかの首長層は、鉄をめぐっての互酬システム的交易関係を結んでいたが、いっぽうで高次元の政治的権威を求めて各々が個別に漢王朝に朝貢していた。つまり漢王朝を中核にし、そこに日本列島や朝鮮半島の各地に誕生した各支配共同体(首長層)が放射状に連なった関係と、それらが相互に対等に結んだ関係との重層的な構造をもった「東アジア世界」が、前一世紀ごろ四郡設置を直接的契機として形成されていった。

そしてそうした構造は、四~六世紀には高句麗が中国北朝に、倭、新羅、百済が中国南朝に朝貢するという二元的な状態を施しながらも連綿と続いていたのである。
東アジア世界とは、西嶋定生氏によれば、律令、仏教、儒教、文字などを共通した世界を示す。

丹後の巨大前方後円墳

網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)


画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

「大きな平野は可耕地が広いからコメの生産性が高い。だから人口支持力が高くて、余剰も多く生み出され、王権も育つ」というのが王権誕生の言説であった。奈良盆地や大阪平野のような広大な平地に、箸墓古墳や大山古墳などの巨大前方後円墳が多数築かれているのがその根拠であった。そこには生産力発展史観とでもいうべき歴史観が強く作用していて、それはそれで動かしがたい事実ではあるけれども、丹後地域では従来の巨大古墳の存在に加えて「弥生王墓」のあいつぐ発見が、いまそうした通説的解釈に一石を投じている(広瀬編2000)。


神明山古墳(京都府京丹後市丹後町竹野)
画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

日本海沿岸の京都府北部、丹後半島にはまとまった平野はまったくない。ここには幅員が広くても2~3kmほどの谷底平野が、西から川上谷川、佐濃谷川、福田川、竹野川、野田川流域の五か所に分散するに過ぎないのに、かねてより「日本海三大古墳」とよばててきた墳長198mの網野銚子山古墳、190mの神明山古墳、145mの蛭子山古墳の日本海沿岸では群を抜いた大きさのものに加えて、数多くの古墳が見つかっている。


蛭子山古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦明石)

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釧(くしろ:腕輪) 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

コバルト・ブルーの色調をもったガラス製の釧(くしろ:腕輪)や貝輪の腕輪類をはじめ、じつに11本もの鉄剣などを副葬していた弥生後期後半の大風呂敷南1号墳、後期末で一辺40mの方形墳墓、赤坂今井墳墓などは「王墓」とひろく認められている。このほか後期初頭になって丘陵尾根に営まれだした首長墓は、かならずといっていいほど剣・刀・鏃(やじり)の鉄製武器を副葬していた。三坂神社3号墓では、後漢王朝からの下賜品かと推測される素環頭太刀に鉄鏃やヤリガンナが加わるし、浅後谷南墳墓でも、中心主体に2本の鉄剣がヤリガンナとともに副葬されていた。

(大風呂敷南1号墳の釧は、奈良国立文化財研究所が行った成分分析の結果から、中国製のアルカリ珪酸塩ガラス(カリガラス)製である可能性が高い。鉄で着色したカリガラス製品は、奈良県・藤ノ木古墳で見つかった「なつめ玉」などわずかしか確認されていない。)

弥生時代後期の墳墓に副葬されていた鉄剣・鉄刀などの大型武器はいまや50本の多さに達していて、旧国単位
では丹後地域が一頭抜きんでて堂々の第一位を占めている(野島2000)。多量の鉄製品副葬という事実は、南部朝鮮からの鉄素材の獲得、鉄器を加工する技術の保持、製作された鉄器の流通機構など、それを補完しうる鉄器武器の再生産システムがはやくもこの時期に完備されていたことを想定させる。
谷底平野しかないにも関わらず首長墓や「王墓」がみられ、多量の鉄器や漢王朝からのガラス管玉などの副葬に加えて、日本海に面しているという立地を考慮すれば、南部朝鮮首長層を相手にした鉄資源の交易という共通の利益によって、丹後各地の首長層が政治同盟を結んでいた可能性が高い。
もしそうだとすれば、交易で得られた富をテコに王権を確立していった、という王権形成のひとつのコース、農業生産を基盤にしたものとは違ったプロセスをみることができるのではないか。『魏志倭人伝』に描かれた三世紀の国々には含まれなかった丹後においても、そのころの北部九州や畿内などに何ら遜色のない「王墓」が築造されていたわけだが、そうした時代状況とはいったいどのようなものだったのか。
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玉の生産と「輸出」

弥生時代中期末の奈具岡遺跡での玉生産が注目される。ここでは碧玉や緑色凝灰岩製の管玉や勾玉(まがたま)、水晶製の勾玉、なつめ玉、そろばん玉、小玉、ガラス製の小玉などが多量に生産されていた。なかでも水晶の玉生産が注意を惹く。この時期の水晶製玉類の製作は、島根県西高江遺跡、同平所遺跡、富山県江上A遺跡で知られているが、奈具岡遺跡では数キログラムもの未製品や生産残滓が出土していて、まさしく突出した生産量を誇っている。さらに、玉つくりのための鉄製道具を製作した四基の鍛冶炉と10kgもの鉄素材は、漢代に盛行した鋳鉄脱炭鋼であることが分析されており、(野島2000)、その輸入先には設置されて間もない楽浪郡の可能性が示唆されている。

さて個々で生産された玉類、なかでも水晶でつくられた玉類はいったいどこへ供給されたのであろうか。長野県の再葬墓で水晶玉の副葬例が二例ほどみられるだけで、後期にいたってもまだ日本列島においては一般的ではなかったし、地元丹後の首長墓にもみられない。ここで候補地として登場してくるのが楽浪郡に派遣されて客死した官人の墳墓、や朝鮮原三国時代の首長墓である。しかし若干年代的に新しい墳墓が多い。今後の十分な検証が必要だが、有力な候補にあげたい。

北部九州だけではなかった弥生時代の王


大田南5号墳 「青龍三年」銅鏡 画像:丹後広域観光キャンペーン協議会

弥栄町と峰山町の境にある古墳時代前期に築かれた方墳。納められていた銅鏡には、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235年)が記されていた。卑弥呼が魏に遣いを送ったとされる239年の4年前にあたり、魏が卑弥呼に贈った鏡の候補とされている。銅鏡は、現在、宮津市の丹後郷土資料館に展示されている。
後期初め頃からの丹後首長墓で顕著になってくる鉄製武器・工具の素材の問題がある。奈具岡遺跡で鍛冶炉が見つかったように、鉄器製作は丹後で行われていたが、六世紀後半ごろまでの間、鉄生産は一部を除くと日本列島では実施されず、資源としての鉄は「輸入」せざるを得なかった。多くは弁韓や辰韓から入手したようだ。それが互酬システムでまかなわれたとすれば、いったいなにが見返りとして提供されたのか。中期後半は水晶玉が候補の一つだったと推奨されるが、後期になると不明である。

しかし、鉄素材交易の一分野を丹後首長層が掌握していたことは、墳墓への副葬量の多さからみても否定しがたい。南部朝鮮首長層から独自に獲得した鉄資源を、他地域首長層、たとえばヤマト首長層などと交易することで、丹後首長層は富を蓄えていったのではないか。武器はいうまでもなく、農具や工具の材料として、鉄素材は権力の実質的基盤となったがために、それを媒介した首長層の政治的地位が上昇したことは推測に難くない。

弥生時代中期の「王」といえば、これまでは北部九州首長層の専売特許のようなものであった。『漢書』や『後漢書』などへの再登場などが相乗して、さらには志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印などが相まって、王権成立の先がけとしての地位を独占していた。しかし、古代の王権を考えるとき、その時々の特産物の生産と交易を視野におさめないと、食糧生産力の強弱だけでは説明がつかない事態に今や立ち至っている。広い平野などなくとも、南部朝鮮との鉄素材の交易をテコにした王権誕生のコースがあった、という仮説を提起しておきたい。そもそもコメはいくら増産されようとも、人口増にはつながっていくが、他の物資と交換されない限り富にはならない。分業生産と交易が社会システムの要になっているのだから、最も高度な交換価値の高い物資をどれだけ確保しているか、それが富の集積につながっていくのは当然のことであった。

首長層の利益共同体が前方後円墳国家

領域と軍事権と外交権とイデオロギー的共通性をもち、ヤマト王権に運営された首長層の利益共同体を前方後円墳国家を提唱したい。前方後円墳の成立をもって国家形成期とみなす意見には同意するし、異論はないが、ただ私は首長層が政治的にまとまって形成した利益団体が国家である、という視点をもつ。
つまり、「もの・人・情報の再分配システム」の保持という共通の利益に基づいて、その絶えることのない再生産を目的に結合し、ほかの政治的統合体から利益を侵害されないため領域を定め、軍事と外交でそれを防衛していく共通の価値観を持った政治団体、それを国家とよぶ。(拙者は関裕二氏の神政国家連合というのが適当に思う)

すなわち、分業生産と交易の再配分という共通利益を保持した人びとがつくりあげた共同体、その秩序を堅持していくための権力-内的には国家の成員たる首長層の利害対立時に、外的には朝鮮半島での利益保持に際して、主に武力として発動された-と、自己利益を他者から守っていくための軍事権と外交権とイデオロギー装置をもつ団体を国家とよぶならば、三世紀中ごろに形成されたヤマト政権を中軸に据えた列島首長層の支配共同体は、まさしく国家というべき結合体であった。それは魏王朝や朝鮮半島の政治集団に対して、自らの社会の再生産のために不可欠な「もの・人・情報」の獲得をめぐっての一個の利益共同体に仕上げ、続縄文文化や貝塚後期文化の集団との交易に際しても、統一した政治勢力として対峙し始めたのである。

最大で岩手県南部から鹿児島県までと、国家フロンティアが時期によって多少の出入りがあるファジーな国境概念=近代国家のように国境は線引きされてはいない-をもち、民衆支配のためだけというには膨大すぎる量の鉄製武器を所有し、「倭の五王」に象徴されるような外交権を確立した政治的共同体が「前方後円墳国家」である。

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【丹国の歴史】(38) 丹後国 与謝郡(よさぐん)

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与謝郡(よさぐん)・加佐郡
与謝郡式内大社
与謝郡 籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町
加佐郡 大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です。

野田川の古墳

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加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

2000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

弥生人はウルトラマン?
与謝野・温江遺跡で人面付き土器
京都新聞 2月26日/2009


弥生人の顔を模した人面付き土器(京都府与謝野町)

京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。

土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、つぼやかめの破片とともに出土した。

顔の長さ、幅ともに7・6センチ。切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。

後頭部にくしで結ったまげがあり、その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、同センターは「土器には農耕祭祀で使う特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

土器は3月15日まで、同町立古墳公園はにわ資料館で公開する。(3月13日偶然に公開中で見てきました。)

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話

髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。

古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)  この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

■舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。

■大川神社(おおかわじんじゃ)

京都府舞鶴市
大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)
相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)
大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。

社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。 1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。 五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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丹後の古墳 神明山古墳

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後国旧中郡(大宮町、峰山町)と、旧竹野郡(弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、丹国(古丹波)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。

丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳、大成古墳群、金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。

大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。

丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。

副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。
また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。

赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。

他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群、ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

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【丹国の歴史】(36) 古墳時代

古墳時代とは、一般に3世紀半ばすぎから7世紀末までの約400年間を指します。中でも3世紀中葉過ぎから6世紀末まで前方後円墳が、北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれます。前方後円墳が造られなくなった7世紀には、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられ、終末期と呼ばれています。

日本国家の成立から考察すれば、前期・中期の古代国家の形成期を経て、後期から終末期にかけて日本の中央集権国家が成立したと考えられています。

この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられています。

ヤマト政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。

古墳とは

一般には墳丘を持つ古い墓のこと。古代の東洋では特定のわずかな人たちである位の高い者や権力者の墓として盛んに築造されました。日本史では、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼び、それ以外の時代につくられた墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んで区別しています。

古墳は規模や化粧方法の違いとともにその平面形状によって、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造や形態によって細かく分類編年されています。墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥や奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明しています。

古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、弥生時代の墓制にとって変わったものでなく、非常に変化した墓制としてあらわれました。それは、特定のわずかな人たちの埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と著しく隔絶したもので、地域的にも不均等に出現します。すなわち、古墳の発生は、墓制の単なる変化や葬送観念の変化にととどまらず、社会・政治の全般に関わる問題としてあらわれたのです。そうした変化から古墳時代と呼ばれます。

日本の古墳は、基本的な形の円墳・方墳をはじめ、八角墳(天武・持統天皇陵)・双方中円墳(櫛山古墳・楯築古墳)などの種類があります。日本の主要な古墳は、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳などの山が二つあるタイプの古墳であることが多いです。

多くの古墳は築かれてから長い時間が経過したため、上に木が生えている事が多いですが、建造当時の木のない状態が多くの古墳の本来の姿でした。

日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼります。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となります(平成13年3月末 文化庁調べ)。

■3世紀の後半

奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現。
西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れます。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土しています。

■4世紀中頃から末まで

半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王[*1]墓クラスの前方後円墳が築かれる。
4世紀の後葉
河内平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。

■5世紀の半ば
各地に巨大古墳が築造されるようになる。

■6世紀の終わり
日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなり、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられ終末期と呼ばれています。
これは、ヤマト王権が確立し、中央・地方の統治組織をできあがり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されています。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられています。大王の墓は特別に八角墳として築造されました。

時期区分

■古墳時代前期

大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵)写真:ウィキペディア  3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れます。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土しています。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中しました。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られます。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れました。
この時期の主な王墓

・奈良県桜井市 、箸墓(はしはか)古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
・奈良県桜井市 、大和古墳群の西殿塚古墳(219メートル)
・奈良県桜井市 、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵)
・奈良県天理市 、柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(伝景行陵、310メートル)
この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
・奈良県桜井市 、桜井茶臼山古墳(280メートル)
・奈良県桜井市 、メスリ山古墳(240メートル)
主な首長墓
・山梨県甲府市 、甲斐銚子塚古墳(168メートル)
・岡山市 、神宮寺山古墳(約150メートル)
・東広島市 三ツ城古墳

■古墳時代中期

5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。 5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。

一部の地域首長古墳が巨大化
・岡山市 造山古墳(360メートル) 岡山県総社市 作山古墳(270メートル)
畿内の盟主墓
・大阪府堺市 大仙(だいせん)古墳 (伝仁徳天皇陵、486メートル)
・大阪府羽曳野市 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳 (伝応神天皇陵、420メートル)
・大阪府堺市 上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)

■古墳時代後期

6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。

古墳時代後期の大王陵
・大阪府高槻市 今城塚古墳 (真の継体陵、墳丘長190メートル)
・大阪市松原市 河内大塚山古墳 (墳丘長335メートル)
前方後円墳最終段階の大王陵
・奈良県橿原市 見瀬丸山古墳 (みせまるやまこふん、欽明陵と推定される、全長318メートル)
・大阪府南河内郡太子町 敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満、大王陵最後の前方後円墳)
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。

■古墳時代終末期

全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。
終末期古墳の代表的なもの
・大阪府南河内郡太子町 春日向山古墳 (磯長谷古墳群、現用明天皇陵、63×60メートルの方墳)
・大阪府南河内郡太子町 山田高塚古墳 (磯長谷古墳群、現推古天皇陵、63×56メートルの方墳)
・奈良県高市郡明日香村 石舞台古墳 (蘇我馬子の墓と推定、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)
・奈良県北葛城郡広陵町 牧野古墳 (押坂彦人大兄の墓である可能性が高い、径43メートルの円墳
・奈良県桜井市 ムネサカ1号墳 (中臣氏一族、径45メートルの円墳)
・奈良県天理市 峯塚古墳 (物部氏一族、径35メートルの円墳)
・奈良県高市郡明日香村 高松塚古墳
・奈良県高市郡明日香村 キトラ古墳
埋葬施設
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがあります。

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものです。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はありません。竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがあります。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものです。古墳時代前期から中期に盛行する。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされます。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行しました。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので縄文時代以来の埋葬法です。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設をつくらずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法です。

石材は二上山のサヌカイト[*2]が一般的ですが、徳島県の吉野川下流域の結晶片岩[*3]もよく使われています。石室の構築には、相当な量の石が運ばれたと想定できます。 割竹形木棺の内・外の面と石室の壁面とにベンガラ(赤色顔料)[*4]が塗られている。棺の内側には朱(水銀朱)[*5]が塗られている場合もあり、ベンガラと朱の両方が用いられる場合もあります。埴輪を造ることが埋葬祭祀の一部であるととられられているので、石室構築も同様に埋葬祭祀行為であったと考えられます。

■横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、日本においては、古墳時代後期に古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室(げんしつ)へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓室のことをいいます。横穴式石室、横口式石槨などがあります。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片袖式と呼びます。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々です。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれているますが、それを空ければ追葬が可能です。古墳時代後期以降に盛行すしました。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られます。

高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、主に6~7世紀の古墳で盛んに造られました。奈良県の石舞台古墳のような巨石を用いるもの(石舞台の場合は墳丘が喪失している)が典型的ですが、中国の墓を意識したような切石や平石を互目積(ごのめづみ)にした磚槨式石室と呼ばれるものもあります。

■棺(かん・ひつぎ)

古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬しました。棺の材料によって、木棺、石棺、陶棺などがあります。

但馬の主要古墳

名称         郡      所在地     時代区分 種類   遺物
トチ三田遺跡   美含郡 香住町下浜栃三田 古墳 散布地
伊津神古墳    美含郡 香住町原     古墳   古墳  型式不明(金銅装)1点
夕垣8号墳    養父郡 八鹿町下網場 古墳   古墳 頭椎大刀または圭頭大刀(銀象眼八窓鍔)1点
長者ヶ平古墳 美含郡 香住町下岡藤谷 古墳   古墳/幅は奥で2.3m、但馬では最大級の石室
山谷墳墓群
(平成20年08月21日) 美含郡 香住町油良 古墳 古墳
文堂古墳 美含郡 村岡町寺河内 古墳 古墳 双龍環頭大刀1点・頭椎大刀1点(金銅製六窓鍔)・方頭大刀1点・型式不明(銀装)
八幡山古墳群  美含郡 村岡町福岡 古墳 古墳
三の谷壁画古墳  美含郡 村岡町高井 古墳 古墳/線刻の壁画
長者ヶ平2号墳  美含郡 村岡町寺河内 古墳 古墳・須恵質 四注式屋根形
以上美方郡香美町
見手山1号墳 城埼郡 豊岡市妙楽寺 古墳   古墳 須恵器蓋杯2個体よりハマグリ各2個
森尾古墳跡 城埼郡 豊岡市森尾 古墳 古墳 「正始元年」(240年)三獣鏡
大師山1号墳 気多郡 豊岡市引野 古墳 古墳
深谷1号墳     気多郡 豊岡市中郷 古墳 古墳
深谷2号墳     気多郡 豊岡市中郷 古墳 古墳
東山1号横穴墓 城埼郡 豊岡市上鉢山 古墳 古墳 太刀型式不明1点(円頭、圭頭、方頭のいずれか)
田多地小谷遺跡 出石郡 出石町田多地 古墳 古墳 山陰型甑形土器
二見谷1号墳 城埼郡 城崎町二見 古墳 古墳 圭頭大刀2点
二見谷4号墳 城埼郡 城崎町二見 古墳 古墳直径18m、円墳 頭椎大刀1点(金銅製六窓鍔)
ケゴヤ古墳 城崎郡   城崎町上山 古墳 古墳 須恵器・タガイ2個
カヤガ谷2号横穴 城埼郡 豊岡市出石町袴狭 古墳   古墳・横穴墓 型式不明(銀装)1点
荒神塚古墳 城埼郡 豊岡市大谷 古墳   古墳 太刀型式不明(銀装)1点
小見塚古墳 城埼郡 城崎町今津 古墳 古墳 但馬海直一族のものと考えられている。北但馬には5,000基以上の古墳があるが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在一番古い埴輪が出土している。
ケゴ谷南1号墳 美含郡 竹野町草飼字毛子谷 古墳 古墳
鬼神谷2号窯 美含郡 竹野町鬼神谷字宮の下 古墳 生活遺跡
阿金谷古墳群 美含郡 竹野町阿金谷 古墳 古墳/鉄剣
楯縫古墳    気多郡 日高町鶴岡 古墳 古墳 円頭大刀1点(銀象眼)
カヤガ谷1号墓 出石郡 出石町袴狭 古墳 その他の墓
茶臼山古墳 出石郡 出石町谷山 古墳 古墳
内町1号窯址 城埼郡 豊岡市内町 古墳 古墳・須恵質 亀甲形
耕地谷古墳群 城埼郡 豊岡市 古墳 古墳/城館跡 鉄器や玉
以上豊岡市
国木とが山1号墳 養父郡 八鹿町国木 古墳 古墳
箕谷2号墳    養父郡 八鹿町小山箕谷 古墳 古墳 戊辰年銘大刀
禁裡塚古墳 養父郡 養父町大薮字中西 古墳 古墳
大藪古墳群(伝 野塚18号墳) 養父郡 養父市大薮字下山 古墳 古墳 単龍環頭大刀
観音塚古墳 養父郡 養父町上野字平野 古墳 古墳
山際古墳
(平成20年01月23日) 養父郡 八鹿町高柳 古墳 古墳
以上養父市
春の木田1号墳 朝来郡 和田山町久田和   古墳 古墳 型式不明大刀(銀象嵌鍔)1点
池田古墳     朝来郡 和田山町平野字イケダ 古墳 古墳
春日古墳     朝来郡 和田山町林垣小字上山 古墳 古墳 頭椎大刀1点
上山5号墳     朝来郡 和田山町林垣小字上山 古墳 古墳・直径12m、円墳 頭椎大刀1点(金銅製八窓鍔)
長塚古墳     朝来郡 和田山町岡田字兜塚 古墳 古墳
城ノ山古墳     朝来郡 和田山町東谷字城山 古墳 古墳 三獣鏡
向山1号墳     朝来郡 和田山町加都字向山 古墳 古墳
筒江中山23号墳 朝来郡 和田山町筒江字中山 古墳 古墳全長60m
小丸山古墳 朝来郡 和田山町岡田字小丸山 古墳 古墳
梅田1号墳 朝来郡 和田山町加都字向山 古墳 古墳
宮内中山古墳群 朝来郡 和田山町宮内 古墳 古墳 方頭大刀1点を含む3点
茶すり山古墳 朝来郡 和田山町筒江字梨ヶ谷 古墳/中世 城館跡/古墳・大型円墳で、円墳としては奈良県富雄丸山古墳と並んで、近畿地方最大規模(直径約86m) 各種玉類・櫛・鏡4面・甲冑・刀剣・鉄鏃・盾・鉄製工具類・家形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪など
若水A11号墳 朝来郡 山東町粟鹿字若水 古墳 古墳
船宮古墳 朝来郡 朝来町桑市字野篠 古墳 古墳
大同寺古墳 朝来郡 山東町早田 古墳 古墳 須恵質 亀甲形、2基
内高山東古墳群 朝来郡 山東町 古墳 古墳 刀、小刀・鉄鏃・須恵器・土師器・鉄斧・石突・刀子・玉類(勾玉、管玉、ガラス小玉)
岩屋谷古墳 朝来郡 和田山町 古墳 古墳 須恵質 亀甲形
長尾古墳(1号墳) 朝来郡 和田山町筒江 古墳 円墳か?(詳細不明) 頭椎大刀1点
秋葉山古墳群 朝来郡 和田山町林垣 古墳 古墳 土師器・直刀・鉄鏃(てつぞく)

以上朝来市

*註

[*1]…天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。

[*2]…讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)はカンカン石とも呼ばれ、 名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。石匙(いしさじ)、削器(さっき)などの各種のナイフ類、また、鏃(ヤジリ)などに使われる。固いもので叩くと高く澄んだ音がする。玄関のベルの代わりに使われたりしている。楽器としての演奏者も存在している。

[*3]…変成岩の一種。片岩(へんがん、schist[1])ともいう。
[*4]…赤色顔料のひとつ。酸化第二鉄(赤色酸化鉄、酸化鉄(III)、Fe2O3)を主要発色成分とする。
[*5]…赤色顔料のひとつで硫化水銀。赤、辰砂。丹生を参照

-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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箕谷(みいだに)古墳群


兵庫県養父市八鹿町小山字箕谷

昭和58年(1983)度から59年度にかけて、兵庫県養父市八鹿町小山字箕谷で公園整備のため行われた箕谷古墳群の発掘調査により、須恵器、金環3点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など103点の遺物が出土しました。
八木川下流域左岸の谷奥に立地し、2号墳は東西12m、南北14mの円墳であり、長さ8.6m、幅1.2m、高さ1.7mの横穴式石室。出土した須恵器により、6世紀末から7世紀初旬に築造されたと考えられており、出土状況から2回以上の追葬が行われたとみられています。

  

3号墳は3段の列石を巡らせた円墳で兵庫県下でもこれだけです。2、3、4号墳(直径7mの円墳)、5号墳(直径6mの円墳)の4基の古墳が現地保存され、平成4年(1992)12月18日に「箕谷古墳群」として国の史跡の指定を受けています。石室はすべて谷の入り口方向である南に開口するよう規則的に造られています。そして2・3・4・5号墳と順次標高の低い方から高い方へ築かれています。時期が新しくなるにつれて墳丘・石室が小規模化しているのが特色で、この時期の古墳の変遷過程をよく示しています。

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大薮(おおやぶ)古墳群

兵庫県養父市養父地域の円山川に面した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。


石室

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