生野城(古城山=いくのじょう)と生野平城

[catlist categorypage=”yes”] 足利三代将軍義満の時代、幕府最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいた。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(武士のトップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていた。

応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである播磨守護赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である京都東山龍徳寺で行っていた。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡した。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであった。これにはいろいろ原因があるとされるが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられている。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいとたびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかった。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまった。

これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」

ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのだ。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようだ。

生野城

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上(古城山)に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれている。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれている。

一方播磨国に引き上げた赤松満祐は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しなかった。

ところが、翌年に突如持貞と義持側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられている。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。

生野平城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられている。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれている。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていた。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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但馬国分寺 国分尼寺

但馬国分寺

豊岡市日高町国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。

前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。

各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。

さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


自分のサイト「たじまる」のため撮影してきた。 伊能忠敬が測量した時には7個の礎石が確認できたと記してありますが、現在は1個のみが残っています。

但馬国分尼寺

但馬国分尼寺 豊岡市日高町水上、山本

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。

塔跡(画像:但馬国府国分寺館)  昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。

礎石

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)

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