あめのひぼこ 9 越前国一宮 気比神宮

越前国一宮 気比神宮

朝廷は北陸への通路の玄関口である敦賀の気比神宮を重んじるようになります。また、北部九州が朝廷の領域に組み込まれるようになったことで、出雲と北九州との交易もとだえました。
そして、出雲の首長には、大和の文化を一方的に受け入れる道しか残されていませんでした。
大和朝廷の勢力は、丹波を組み入れたことによって朝鮮半島にも伸び、出雲と新羅との直接交渉の機会は滅多になくなりました。出雲は大和朝廷支配下の一地方豪族になっていきました。四世紀半ばから、出雲の勢力は急速に衰えたのです。そして、『記紀』に、大国主命が活躍する神話の大部分を削り、皇室(王家)の支配を正当化する大国主命の国譲りの物語だけを詳しく伝えたのです。

1.気比神宮(けひじんぐう)


重文(旧国宝)大鳥居

福井県敦賀市曙町11-68

式内社(名神大)七座 越前国一宮、旧社格は官幣大社・別表神社

主祭神 伊奢沙別命(イザサワケノミコト・気比大神)
祭神 仲哀天皇(帯中津彦命)
神功皇后(息長帯姫命)
日本武尊
応神天皇(誉田別命)
玉妃(たまひめ)命

武内宿禰命 広い道路が大鳥居までまっすぐに伸びています。
本来は食物の神を祀る神社であったと思われるが、鎮座地前を都と北陸諸国を結ぶ北陸官道が通り、また敦賀が古来有数の津であったため、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として重視し、承和6年(839年)遣唐使帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『続日本後紀』)、弘安4年(1281年)弘安の役に際して奉幣を行うなどの例がある。なお、『日本書紀』において、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かったと記述するのも、当宮の鎮座と三韓征伐を前提としたものである。

大鳥居は、高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹で、正保二年建立した。明治三十四年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。

  

当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。 敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。 伊奢沙別命(イザサワケノミコト)の名義は不明ですが、気比(ケヒ)大神あるいはミケツ神とも呼ばれ、古くから航海の神、農業の神として北陸・敦賀地方の人々に信仰されてきた神様です。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。


本宮

本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する本宮と、周囲の四社之宮(ししゃのみや)からなる。四社之宮と呼ばれる4社は本宮の東に東殿宮(日本武尊)、東北に総社宮(応神天皇)、西北に平殿宮(玉妃命)、西に西殿宮(武内宿禰命)と並んでいる。

車祈祷所と奥が四社之宮

伊奢沙別命の名義は不明であるが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(kefi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafe)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。

その霊威のほどは、大和(奈良県)の龍田神社や広瀬神社の風神と並び称せられました。古代には朝廷から厚く崇拝され、日本の神々のなかでも重要な位置を占めたケヒ神宮には、新羅遠征のあと神功皇后が参拝したという伝承があり、歴史的には遣唐使の盛んな時代に、遣唐船の航海の無事を祈願して、しばしば朝廷が幣帛(ヘイハク)を奉じた記録も残っています。
昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。


社務所

「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、食物神です。『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。


式内社 角鹿神社

境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」、児宮(このみや)、大神下前神社がある。
角鹿神社の祭神は、都怒我阿羅斯等命(天保10年(1839年)に松尾大神を合祀)。なお、『大日本史』や『神祇志料』、大正4年の『敦賀郡誌』は、都怒我阿羅斯等命を非として、『国造本紀』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日(たけいささひ)命を充てている。


拝殿

『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。明治10年、摂社 の筆頭に定められた。
流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築にかかるもので、当宮における昭和の戦災を免れた唯一の建物である。


児宮(このみや)

児宮(このみや) – 伊弉册尊を祀る。江戸時代以来、子育て・小児の守護神として信仰されている


大神下前(おおみわしもさき)神社
末社、祭神大己貴命、武内社、

氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。


本宮の西側に神明両社と九社之宮が鎮座します。

  • 天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社-天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)大神。気比大神の第七王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 天伊弉奈姫(あめのいさなひめ)神社-天比女若御子(あめひめのわかみこ)神。気比大神の第六王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある。縁結びの神とされる
  • 天利劔神社-「あめのとつるぎじんじゃ」と読む。『延喜式神名帳』に小社として記載する。
    祭神 – 天利劔(あめのとつるぎ)大神。気比大神の第五王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 剣神社 – 気比大神の第一王子、姫太神尊を祀る。敦賀市莇生野(あぞの)にあり、気比神宮の西方鎮守の社とされる式内論社劔神社を勧請したものという
  • 金神社 – 同第二王子で、素盞嗚尊を祀る。社伝に金剛峯寺山王院本殿に祀られる気比明神は、弘仁7年(816年)に参詣した空海が、この神社の神鏡を鎮守神として遷したものという
  • 林神社 – 同第三王子の林山姫神を祀る。社伝に日吉大社の末社気比社は、弘仁7年に参詣した最澄が、この神社の神鏡を勧請したものという
  • 鏡神社 – 天鏡尊を祀る。祭神は気比大神の第四王子とされるが、行啓した神功皇后が奉納した宝鏡を祀ったものともされる
  • 擬領(おおみやつこ)神社 – 稚武彦命を祀る。稚武彦命は、『国造本紀』によると吉備臣の祖で、角鹿国造の祖先建功狭日命の祖父である。
  • 神明両社 祭神、天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)。外宮は慶長17年(1612年)に、内宮は元和元年(1615年)に勧請された。


猿田彦神社

末社、祭神猿田彦大神、氣比大神の案内をされる神といふので表参道北側にある。一般に庚申様と唱へて信仰が篤い。


芭蕉の碑

式内社 氣比(ケヒ)神社(豊岡市気比字宮代)

豊岡市気比字宮代
御祭神 「五十狹沙別命」 配祀 「神功皇后」
和銅二年(709)の創祀

(2008.10.13)

敦賀にある氣比神宮と同様に、
伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし、神功皇后を配祀する神社。気比神宮では伊奢沙別命は気比大神とし、『気比宮社記』においても「保食神」(うけもちのかみ)と称されている。一般には女神とされる。

一説には、神功皇后が敦賀から穴門(長門)へ向う途中、若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、
この地から円山川を遡り、粟鹿大神、夜夫大神、伊豆志大神、小田井縣大神を詣でた後
一時、この地で兵食を備へたという。

ある夜、越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が神功皇后に託宣して曰く

「船を以って海を渡らば須く住吉大神を御船に祀るべし」

神功皇后は住吉三神を船に祀り御食を五十狹沙別大神に奉って、
この地を気比浦と称するようになったという。
当社から北へ少しの気比川の畔に、銅鐸出土地の史跡があり銅鐸4個が見つかっています。気比(港)には、気比國があったかも知れない。ここから山を越えると丹後に抜ける道だ。 丹後王国とも関係があったのかも。神社の創建と関係があるのでしょうか。気比から丹後へ抜ける途中に畑上があります。畑上は秦神でしょうか?

2.ケヒ大神とホムタワケ命の名替え

「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命(ほむたわけのみこと)に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えます。仲哀天皇の皇太子となったホムタワケ命(応神天皇)は、武内宿禰(たけうちのすくね)を随行して敦賀国の気比大神に参拝し、禊ぎをするために仮宮を立てて滞在しました。そのとき、イザサワケ命が夢の中に現れて、「私の名を太子の名と交換しよう」と告げました。その言葉に従うと答えると、神は「明日の朝、浜辺に出ると名前を交換した印の贈り物があるだろう」と告げました。
翌朝海辺に行ってみると、そこにはイルカが打ち上げられていました。それでホムタワケ命は「神が御食の魚をくださった」といって、神の名を御食津(ミケツ)神と呼んだといいます。
このとき名前を交換して、ケヒ大神がイザサワケ命に、皇太子がホムタワケ命となったという説もあると、応神の条には記されています。

3.名前を交換した謎

三韓出兵は、『日本書紀』に記述が残る、神功皇后が行ったとされる新羅出兵で、三韓時代であるから三韓出兵といいます。その帰り道に、応神天皇は神功皇后の命令で越前の敦賀を訪問したのです。当時の天皇の名前は伊奢沙別命(イザホワケ・イザサワケ)といい、夢の中で気比(ケヒ)神と出会います。気比神は「自分の名前と交換しよう」といいます。応神は喜び、「ぜひ交換してください」といって受け入れ、応神は元の名イザホワケからホムタワケに、気比神はホムタワケからイザホワケになりました。翌朝に目が覚めた応神が海に走っていくと、海岸線いっぱいに打ち上げられたイルカがいました。名前を交換した御祝いにと、神が御子にプレゼントしたのだ。「神は私に御魚(ミケ)の魚を下さった」と感激しました。

この言い伝えには2つの謎があるといいます。第一に、名前を交換したことは何を意味するのだろうか。神話学の解釈によれば、古代では、名は霊位の籠もる実体と考えられました。このことから、名の交換は支配や服属などを意味します。要するに地方の長である気比神がヤマト王権の応神天皇に服属したことを表しているというのです。プレゼントされたイルカは、気比神から応神への服属の意を表す貢ぎ物ということになります。越前がヤマト王権に屈した歴史を背景にしているとみるものです。

二つ目の謎は、なぜ息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は越前に誉田別命(ホムタワケノミコト=応神天皇)を派遣したのかです。
越前というと、地元の出身で応神から5世代も離れている子孫でありながら、ヤマト王権の大王として迎えられた継体天皇がいます。神功皇后が命じて応神にお参りさせたことは、継体天皇が越前の出身だったことに関連するのではないか。5世代も離れているのだから、およそ応神の時代から百年以上も後の話しなのに、『日本書紀』ではわざわざ「応神の5世孫」とうたっています。継体が越から大和の大王を迎えられたという史実が、この名前の交換神話になったとみてもおかしくありません。

これらは、越前がヤマト王権に服属したのではなく、ヤマト王権が越前から大王をくださいと三顧の礼で迎えに行き、越前側がそれを受け入れたことなります。ここに気比神、神宮皇后、応神天皇が深く絡み合っている様相がみえてきます。
気比神宮は、海上交通の神として有名です。遣唐使の海上の安全もここで祈願されています。気比神官は国家から格別の庇護(ヒゴ)を受け、平安時代には従正一位勲一等という最高位を授けられました。全国の数ある一の宮のなかでも一番の好待遇です。破格の扱いを受けたのは、当時、外国との外交関係が緊張しており、場合によっては戦争になってもおかしくないという一触即発の状況だったことにも関連したのでしょう。アジアの表玄関に位置する気比神宮は、アジア諸国の外圧から日本を守る守護神としての役割を期待されていたのです。

引用:「最新日本古代史」-恵美嘉樹

4.敦賀(つるが)とツヌガアラシトの渡来

敦賀は、古代からの郡名で、越前国の南西端に位置し、敦賀湾をU字形に囲む地域で、おおむね現在の敦賀市の区域です。古くは丹生(ニフ)郡の南部(現在の南条郡を含む)を含む地域であったとされます。『和名抄』は、「都留我(つるが)」と訓じます。古代に漂着した任那の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)にちなむ「角鹿(つぬが)」の転、敦賀半島を角(つの)に見立てたことによる、「ツ(津)・ヌ(助詞ノの転)・ガ(処)」の意、「ツル(ツラの転。砂州の連なったところ)」の意などの説があります。

『今庄の歴史探訪』によると「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・弁韓(任那)人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」とあります。また、敦賀付近には新羅(しらぎ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦神社・白城神社・白鬚神社などがある。

当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、いわゆる古代三王朝の内、二王朝、即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。

継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。

敦賀はもともと角鹿(ツンガ)と呼ばれていましたが、その地名の由来は都怒我阿羅斯等の渡来によるのだという説があるそうです。この渡来伝承は『日本書紀』に書かれ、その簡単な内容は以下の通りです。

「その昔、額に角がある人が船に乗って越前国笥飯浦(敦賀)に着いた。話を聞くと日本に聖皇(崇神天皇)がいると聞き、加羅国(朝鮮半島南部に存在した国)から仕えるために来たとのこと。だが、天皇は崩御したばかりで、次の垂仁天皇に仕え、3年が過ぎて故郷へ帰ることになった。そのときに崇神天皇(名は御間城入彦五十瓊殖尊)の名を貰い、国名(任那)とした。」
という話です。この伝説に登場する都怒我阿羅斯等は実在したかどうかは分かりませんが、この話は朝鮮半島から数多くの渡来人がやって来ていたことを示すもので、敦賀に朝鮮と関係のある神社が多いことと合わせ、当時の頻繁な交流を物語っています。治世2年、任那(ミマナ)から来ていた蘇那曷叱智(ソナカシチ)が帰国したいと申し出てきました。先帝の時代に来訪して、まだ帰国していなかったそうです。天皇は彼を厚くもてなし、赤絹10匹をもたせて任那の王に送りました。ところが新羅人(シラギジン)が途中でこれを奪ってしまいました。両国の争いはこの時始まったというものです。

5.武内宿禰(たけうちのすくね)

景行天皇14年(84年)? – 仁徳天皇55年(367年)4月?)成務天皇と同年同日の生まれという。 景行天皇の時に北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。成務天皇3年(133年)に大臣となる。神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。 応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。また、甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)[*1]を行って濡れ衣を晴らした。仁徳天皇50年(362年)が『書紀』に現われる最後。

『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。また、建内宿禰とも表記される。

『公卿補任』『水鏡』は同55年(367年)、『帝王編年記』所引一書は同78年(390年)に没したといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。

『因幡国風土記』には、360歳のときに因幡国に下降し、そこで双履を残して行方知れずとなったとの記述があり、双履が残されていたとされる鳥取県鳥取市国府町には武内宿禰を祀る宇倍神社がある。他に、福井県敦賀市の気比神宮など多くの神社に祀られている。 久留米市の高良大社には、高良玉垂神として祀られている。先祖孝元天皇の曾孫(『古事記』には孫)、父は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、『古事記』は比古布都押之信命とする
母は木国造(紀伊国造)の女・影媛兄弟異母弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)

  • 羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね) – 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖
  • 巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) – 巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖
  • 蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね) – 蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖
  • 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね) – 平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖
  • 紀角宿禰(きのつぬのすくね) – 紀臣、都奴臣、坂本臣の祖
  • 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
  • 怒能伊呂比売(ののいろひめ)
  • 葛城襲津彦(かずらきのそつびこ) – 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖
  • 若子宿禰(わくごのすくね) – 江野財臣の祖

    6.越(こし)の国

    日本書紀には一つの地域として越(こし)、(越洲(こしのしま)、高志(こし)、古志(こし)とも呼ばれた)が書かれています。ここでは越国と題していますが、そのころは国家の形態を成していたとは必ずしも言えないようです。

    古くから交易や交流などはあったものの、ヤマト王権の勢力はまだ及ばない日本海側の地域であり、越前・敦賀の氣比神宮から船出し日本海を北上して、能登・羽咋の気多大社を経て、さらに越後・弥彦神社がある弥彦山を右手に見るまでを一つの地域として「越」と呼んでいました。

    『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげました。一方の安定した西端と比較し、北端は蝦夷との戦いの辺境でした。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指しますが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明です。
    ちなみに中国の越(えつ、紀元前600年頃 – 紀元前334年)という国がありました。春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国で、首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の諸民族とは異質な、百越に属する民族を主体に建設されたいわれる。南下した越族がベトナムの祖となったとされています。

    まったく想像ですが、九州北部から出雲を中心としたスサノヲ一族とヤマタノオロチで登場する古志は、別の一族だったと思われます。

    6.若狭彦神社

    若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)は、福井県小浜市にある神社である。上社・下社の二社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)という。式内社、若狭国一宮で、旧社格は国幣中社。郡名から遠敷明神ともいう。


    福井県小浜市龍前28-7
    式内社(名神大)・若狭国一宮・国幣中社・別表神社主祭神 彦火火出見尊(山幸彦)創建 和銅7年(714年)本殿の様式 三間社流造


    若狭最古の神社。

    社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社がある。


    狭彦神社は畳・敷物業の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も集める。


    神門前の夫婦杉

7.若狭姫神社

福井県小浜市遠敷65-41
祭神 豊玉姫命

  

下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日に上社より分祀して創建された。延喜式神名帳では「若狭比古神社二座」と書かれており、名神大社に列している。上社が若狭国一宮、下社が二宮とされた。元々は上社が祭祀の中心であったが、室町時代ごろから下社に移った。現在もほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐している。
中世には社家の牟久氏が京の官人や有力御家人と結びつき、広大な社領を有した。

若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある。

  
巨大な千年杉

7.若狭神宮寺と鵜の瀬お水送り

  

当地の伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。ただし、今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。

[*1]…探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。

こうのとりと久々比神社

1.クグイと誉津別命

『日本書紀』』巻六 第六話 伊勢の斎宮[*1]
治世23年秋9月2日、群臣を集めて詔して言った。誉津別皇子(ほむつわけのみこと)[*2]は父の垂仁天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。「誉津別命(ほむつわけのみこと)は三十歳になり、長い顎髭が伸びるほど成長したが赤子のように泣いてばかりいる。それに声を出して物を言うことがないのは何故だろう。皆で考えてくれ。」冬10月8日、天皇は大殿の前に誉津別命と立っていた。そのとき鵠(くぐひ)[*3]が空を飛んでいた。皇子は空を見上げて白鳥を見て「あれは何者ですか。」と言った。天皇は誉津別命は皇子が白鳥を見て口を利いたので驚き、そして喜んでそばの者に詔して言った。天皇 「誰かあの鳥をとらえて献上せよ。」臣下の一人 「手前が必ず捕らえてご覧に入れましょう。」天皇 「よし。もし捕らえることが出来たら褒美をつかわす。」こう申し出た者は鳥取造(ととりのみやつこ)の祖で、天湯河板挙(あめのゆかわたな)という者だった。天湯河板挙は白鳥の飛んで行った方向を追って、出雲まで行って捕らえた。ある人は(但馬)で捕らえたともいう。

11月2日、天湯河板挙が白鳥を献上した。誉津別命はこの白鳥を弄び、ついに物が言えるようになった。これによって天湯河板挙は賞をもらい姓を授けられた。鳥取造(ととりのみやつこ)という。そして鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。

治世25年春2月8日、阿部臣の先祖である武渟川別(たけぬなかわわけ)、和珥(わに)臣の先祖の彦国葦(ひこくにぷく)、中臣連の先祖の大鹿島(おおかしま)、物部連の先祖の十千根(とおちね)、大伴連の先祖の武日(たけひ)らの五大夫達に詔して言った。

天皇 「先帝の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ・崇神)天皇は聖人であられた。慎み深く、聡明闊達(そうめいかったつ)であられた。よく政務を取り仕切り、神祇を祀られた。それで人民は豊かになり、天下は大平であった。私の代でも怠りなく神祇をお祀りしようと思う。」

3月10日、天照大御神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)からはなして、倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。倭姫命は大御神が鎮座あそばす地を探して宇陀(うだ)の篠幡(ささはた)に行った。さらに引き返して近江国に入って美濃をめぐって伊勢国に至った。

そのとき天照大御神は倭姫命に言った。

「伊勢国は波が重ねて打ち寄せる国だ。国の中心というわけではないが美しい国だ。この国に腰を下ろしたいと思う。」

そこで大御神の言葉に従ってその祠(ほこら)を伊勢国に建て、斎宮(いつきのみや)を五十鈴川(いすずのかわ)の畔(ほとり)に建てた。これを磯宮(いそのみや)という。

同様な話が久々比神社等に伝わります。

一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられています。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。

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2.こうのとりの神社-久々比(くくひ)神社

(本当はコウノトリの神社ではないけれど…)


兵庫県豊岡市下宮
祭神:久久遲命(くくのちのみこと)

一説には天湯河板挙命(あめのゆかわぞなのみこと)を祀るともいう。式内小社 コウノトリに縁のある神社とされている。
室町末期の建物と推定され、三間社流造の本殿は、中嶋神社・酒垂神社・日出神社(但東町畑山)とともに 【国指定重要文化財】に指定されている。

ご由緒に、

コウノトリは古くは「くぐひ」と呼び、大きな白鳥を意味する言葉です。霊鳥なのでその棲んでいる土地も久々比(くくひ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(くくちのみこと)をお祀りした。これが久々比神社の始まりでした。ところで、その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(きぬさきのうみ)」といって、このあたり(下宮)はその入り江の汀(なぎさ)でした。また、あたりは樹木繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座す景勝の地でした。私たちの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久々遅命」を奉齋し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことでしょう。和名抄では城崎を「支乃佐木」と訓じています。木の神がきのさきと訛ったとも考えられます。

いつごろからクグヒ=コウノトリという誤った伝承になったのか分からない。おそらく全国からコウノトリが姿を消し豊岡のこの周辺のみ残ったことに結びついたのではないだろうか?
まず辞書で引くと、クグヒは「鵠」と書く。ハクチョウの古称で鳴く鳥の総称。コウノトリは感じで書くと「鸛(こうのとり)」。羽毛は白く翼の大部分は黒色。形はツルに似る。鳴かない鳥。

『国司文書 但馬故事記』によれば、人皇42代文武天皇大宝元年秋10月 物部韓国連久々比命卒す。三江村に葬り、その霊を三江むらに祀り、久久比神社と称しまつる。
もともと御祭神は城崎郡司(首長) 物部久々比命=久久遲命を祀った神社であるが、歳月を経て久久遲命をコウノトリと偶像化したようである。

[城崎郡司] 物部韓国連榛麿ーその子・神津主-その子・物部韓国連久々比
(式内韓国神社) (式内重浪神社)

拝殿

下宮という地名であることから上宮は創建時期が同じ酒垂神社のことをさすと思うのが妥当である。酒垂神社は、郡司・物部韓国連久々比命が創建したとしている。物部韓国連は田結郷を治めた連で、

本殿【国指定重要文化財】鳥取造の祖、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が「私が必ず捕らえて献上します。」と申し出て、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲の国で捕らえたといい、(あるいは但馬国で捕らえたともいわれる)11月2日、コウノトリを捕らえ、献上したのです。

摂社誉津別命神社はこの白鳥を弄び、ついに物が言えるようになった。この日初めて人並みのことばをお話しになられた。これによって天湯河板挙は賞をもらい姓を授けられた。鳥取造(ととりのみやつこ)という。そして鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。 実はこの話は、垂仁天皇が登場する神話として山陰・近畿各地に同様な伝承があるのです。それはいったい何を意味するのでしょう。
コウノトリは兵庫県の県鳥に指定されています。コウノトリの神社は久々比神社が全国で唯一ですが、近くに国特別天然記念物「兵庫県立コウノトリの郷公園」が」あります。こうのとりの神社が建てられた付近が最後の生息地になったのも偶然とはいえ何か不思議に思えます。

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3.波太神社・鳥取神社

式内社 祭神 角凝命、応神天皇大阪府阪南市石田167

摂社 鳥取神社「天忍穂耳命」

鳥取部の本社。古来、鳥取大宮と称し又は波太八幡宮の社等の称号あり、波太神社は鳥取氏の祖角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀り、延喜式内の旧社にして国内神名帳に神階正四位下波太社とあり、鳥取大宮の称は鳥取郷の総社たるを以てなり、御鎮座年代詳かならさるも社伝(妙法院二品尭延親王の撰したるもの)に曰く、
和泉國日根郡鳥取郷者天之湯河板挙居地也、湯河板挙為垂仁天皇子誉津別命捕くぐい献之始皇子乃長無言於是発言天皇大悦、即賜姓曰鳥取造事日本書紀湯河板挙社建於波太むら祭祖神角凝命延喜式神明町所謂波太神社是也、古、紀、其他の史書に曰、垂仁天皇の時角凝命三世の孫天湯河板挙、皇子誉津別の為にくぐいを出雲(或は云但馬)に捕えてこれを献ぜしかば天皇其の功を賞して鳥取連の姓を賜ふ云々。時に天湯河板挙一族の居住地たる大字桑畑の奥の宮に祖神角凝命を奉祀す。 これ波太神社の起源なり。 波太は畑の義にて鎮座地を社名としたるなり。

天湯河板挙命はコウノ鳥に因果を言いふくめ、雄と雌の二羽を大和の都へ連れかえった。さて、誉津別王は大喜びで毎日コウノ鳥と遊んでいたが、そのうち満足に口がきけるようになり、ほぼまともな知恵も付いたようであった。

天皇は胸をなで下ろし、「誉津別もこれまでになれば、やがて安心して朕の位を譲ることも出来よう。これもコウノ鳥のお陰よ。いや、天湯河板挙がおらねば叶いはしなかったことじゃ。彼には十分褒美をとらさねば」と考えた。

それまでは極低い位であった天湯河板挙命に『鳥取造』(とっとりのやっこ)という姓と、あわせて和泉の国の南部の一地方を与えた。

天湯河板挙命にとって、和泉の国のそのような土地にはほとんど馴染みが無いが、初めて我が領地を与えられたのである。そんな訳で大いに感激した。

「天湯河板挙よ、その方に遣わす和泉の地はこの大和の都のごとく開けた土地ではあるまいがあのコウノ鳥を捕らえた根気で、必ず当地に劣らん楽土を築いて貰いたい。いやいつの日にかその大和より発展する地と朕は信じておるのじゃ」
と天皇に励まされ、天湯河板挙命は一族郎党を引き連れて、和泉の国へ向かった。
そして、先ず住み着いたところは、畑村(はたむら)であった。

畑村というのは現在の桑原である。現在でも尚片田舎のイメージの残る土地であるから、天湯河板挙命が入った当時はどのような状態であったものか?……おそらく苦しい開拓の日々であったろう。

その苦しい中でも、深く先祖に感謝し、鳥取造の祖神である角疑命(つのこりのみこと)を祭った。

これが波太神社の起こりであるらしい。波太とは、起源が畑村であるのでそう名付けられたものと思われる。そして畑村はあまりにもへんぴな土地柄なので、段々と村が海岸の方へと広がって行き、東鳥取村(町)となり、そして阪南町(阪南市)へ合併した。
尚、山陰地方の鳥取市付近は、天湯河板挙命がコウノ鳥を捕らえた所と考えられる。-「鳥取り物語」育英社さん-

その後、永徳年間(1381~84年)に兵火のために、焼失。南朝方であった鳥取氏は山名氏清に攻められ滅亡した。残された同氏の耆宿は波太村より、当地に移し、貝掛の指出森より八幡宮を勧請し、相殿に合祀した。

1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻め兵火で焼失、1600年(慶弔5年)豊臣秀頼の命により片桐旦元が修復を加えたが、1638年(寛永15年)に本格的に再建された。
波太神社の名は畑村から付けられたとされ、秦氏の関係が伺えます。大きな地図で見る<http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>▲ページTOPへ

4.丹後に似た伝説

由緒

『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。現在の網野神社付近はかって墨江(離湖)とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口でした。当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社でした。現社地の東南800m。当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾(はやお)神社」神として祀っています。

網野地名の起源が語られています。「天湯河板挙命(アマノユカワタナノミコト)」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では“山辺(やまのへ)の大(おおたか)”という名で現れる)「垂仁帝の子誉津別王(ホムツワケノオウ)は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造(トトリノミヤッコ)の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を追ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)

但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を迫った道筋は、但馬八鹿(ようか)町の網場(なんば)和那美(わなみ)神社、豊岡市森尾 阿牟加(あむか)神社、同下宮(しものみや) 久々比(くぐい)神社を経て網野(松原村)に到り、鳥取(現弥栄町)でこれを捕えたというものです。

垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ホムツワケノオウジ)は、なぜか成長しても言葉が話せませんでした。天皇は残念に思い、とても可愛がっていました。ある日、大きな白鳥が鳴きながら群れをなして飛んで行きました。これを見た皇子は初めて何か言いました。それは「あれは何という鳥か」と言われたように聞こえ、天皇は驚き、大変喜びました。そこで、天湯河板挙(あまのゆかわたな)という者にこの白鳥を捕まえる役を命じられました。天湯河板挙は白鳥を追って但馬から松原村(網野町)に来て水之江に綱を張り、日子生命(網野神社の祭神のうち一柱)の御神霊にお祈りし、とうとう白鳥を捕えて天皇に献上しました。皇子は白鳥を友達のようにして遊び、ついに話すことができるようになりました。天皇は大喜びされ、天湯河板挙に厚く賞を与え、鳥取造(とっとりのみやつこ) という姓を賜りました。「網野神社明細帳」に、白鳥を捕らえようと網を張った地を以後「網野」といい、白鳥を捕えた地を「鳥取(弥栄町鳥取)」というようになったと記されています。

垂仁天皇は大和国纏向宮(まきむくのみや)で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。 田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」(丹後木津)に至っています。

[註]

[*1] 斎宮は斎王(今でいう宮司)のこもる宮。

[*2]…誉津別皇子 のちの応神天皇。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(サホヒメノミコト。彦坐王の娘)。
[*3]…鵠(クグイ・クグヒ)は現在の白鳥あるいはコウノトリの古名です。鴻と共に大きな鳥の代表として引用された中国の故事成語で有名。片手刀の一つ。性能は相方の鴻と極めて近く、敏速性は勝る。
鴻(おおとり)はその名が示す通り大型の水鳥で雁の近縁種。菱食い(ひしくい)とも呼ばれる。片手刀の一つ。鴻ノ鳥とは、大きな白い鳥という意味。
京丹後市観光協会

5.鳥取造

 このコウノトリの伝説はお隣の鳥取県にもある。こちらが伝承の本家なのかも。

「鳥取」の語は『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇に「鳥取造」、「鳥取部」がみえる。

『日本書紀』垂仁天皇二十三年九月から十一月の条にかけて「鳥取」の起源説話がみえる。

誉津別王子が成人しても言葉が喋れないことを天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発した。天皇、喜びて、その鳥の捕獲を命じた。天湯河板挙が鳥を追いつづけ各地を巡り、ついに出雲の地で捕獲に成功した。この功績から「鳥取造」の称号(姓:かばね)を拝命した。『記』にも同類の説話が見えるが、結末は違っているが、上記の久々比神社の御由緒と同じです。単なる偶然かも分からないが、同じ気多郡という郡名がそれぞれ存在していた。

鳥取県のHPに鳥取県の名前の由来があった。
「鳥取」とは、大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する人たち「鳥取部(トトリベ)」に由来しています。』…鳥取県の名前の由来は、平安時代に書かれた和名類聚抄に出てくる因幡国の「鳥取郷」まで遡ることができます。そして、その「鳥取郷」という地名は、古代、白鳥を捕らえて朝廷に献上する「鳥
取部」という部民の住んでいた土地に由来するといわれています。ちなみに鳥取県史によると、「鳥取部」は、河内・和泉・伊勢・美濃・上野・越前・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・備前・備中・肥後など広く日本中に分布していたそうです。北海道・福島県・群馬県・千葉県・富山県・愛知県・三重県・京都府・大阪府・兵庫県・鳥取県・岡山県・愛媛県・熊本県・佐賀県に、「鳥取」を含む地名がある(あった)ことが分かりました。なんと、全都道府県の約3分の1にあたる数です。ところで今回、このほかにも古事記中に2か所、「鳥取」という言葉を見つけました。「鳥取」という地名の起源は「鳥取部」にあるはずなのに、「鳥取部」より前に「鳥取」という地名(や神名)が出てくるのは面白いなと思ったので、ちょっと紹介しておきます。

ひとつは上で紹介した話の少し前で、垂仁天皇の御子が「鳥取の河上宮」で太刀を千振つくらせた、という記事が出てきます。「鳥取の河上宮」というのは、和名類聚抄に出てくる和泉国の「鳥取」で現在の大阪府阪南市に当たると考えられています。日本中に数ある「鳥取」の中でも、最も由緒ある地名といえるかもしれません。垂仁天皇の在位は(西暦で)紀元前29年から紀元70年ということですから、阪南市内にある「鳥取」、「和泉鳥取」、「鳥取中」、「鳥取三井」といった地名は2千年の歴史を持っていると言えるかもしれません。また、古事記の中で、大国主命は6柱の女神と結婚していますが、6番目の妃は「鳥取神」という名前です。この「鳥取神」という神は他の古代史料に現れないため、残念ながらその名の由来までは分からないようですが、大国主命の最初の妃が「稲羽之八上比売(因幡の八上姫)」で、最後の妃が「鳥取神」というのも、なんだか不思議な縁を感じませんか。

ただ、これは神話の世界を含んでいますので、本当に2千年の歴史があるかどうかは、残念ながら誰にも分かりませんね。では、古代の史料で裏付けられる最古の「鳥取」はどこになるのでしょうか? 調べてみたところ、どうやら藤原宮跡から出土した木簡に記されている「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」が最古のもののようです。

これは、現在の京都府京丹後市弥栄町鳥取に当たると考えられていますが、藤原京といえば、694年に飛鳥京から遷都され710年に平城京へ遷都されていますから、京丹後市弥栄町の「鳥取」は、正真正銘1300年の歴史を誇る地名と言えるのではないでしょうか。「太田南古墳」の近くです。

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6.出雲大神の祟りを畏れて修理した

それは、七世紀の飛鳥に君臨した女帝・斉明天皇にまつわる話です。
この『日本書紀』の記述には、誉津別皇子の「口が利けない」こととクグヒの伝承と似ています。誉津別皇子の話では、その原因が「出雲神の祟り」であったとは記されていませんが、『日本書紀』編者が、出雲の祟りと知っていたらしいことは、意外な場所からはっきりします。

ある晩、斉明天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占(ふとまに)[*4]で夢に現れたのが何者であるか占わせると、それは出雲大神の祟り(たたり)とわかった。天皇は皇子を曙立王(あけたつのおう)[*5]、菟上王(うなかみのおう)とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売(ひながひめ)と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神(出雲)の宮を造らせた。また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

要するに出雲大社を修理(建立)したという。これに続けて、出雲のキツネが意宇(おう)郡の葛(かずら)を食いちぎって去っていった話し、犬が死人の手首を、ある神社に置いていった話しなどが載っています。不気味な内容ですが、なぜ斉明天皇が出雲大社を修繕したのか、その理由がはっきりと書かれていません。ただ、どうやら垂仁天皇の故事にならったらしいことは分かっています。というのも、斉明天皇には建皇子(たけるのみこ)という孫がいて、生まれて以来口がきけなかったこと、しかも早逝し、斉明天皇は深い悲しみに包まれていたと『日本書紀』は記しています。

要するに、斉明天皇は建御子(たけるのみこ)の不具は、出雲神の祟りに違いないと憶測していたのでしょう。それほど、「出雲は祟る」という伝承は、強いインパクトを以て伝わっていたことを証明しています。

そしてそれは、平安時代に至っても変わることはありませんでした。平安時代中期に記された『口遊(くちずさみ)』には、有名な「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という言葉がありました。当時の建物の大きさを語ったもので、出雲大社が一番、大和の大仏殿が二番、京都の平安京の大極殿が三番目の大きさだったという意味です。出雲大社が京都の天皇がおわします大極殿よりも大きく、日本一の大きさを誇っていたといいます。『日本書紀』では、「天皇と同等の宮を建てろ」と出雲国造に脅していたのが、時代とともに、いつしか、「天皇のものよりも立派な宮」になってしまっていたわけです。「出雲」が「天皇」を抜いてしまったかというと、「出雲」が祟る神という伝承が恐怖を呼び、さらに増幅されていったからでしょう。

近年発掘された柱から、室町時代には、出雲大社の本殿が、約48mもあったとという伝承が証明されたのです。伝承の内容や(出雲)大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神(おおくにぬし)の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。
記紀に出雲について相当あてています。

7.記紀に崇神天皇と垂仁天皇の話が集中したワケは

コウノトリは、鴻の鳥と書きますが、古くは鸛(こうのとり)、鵠(くぐい)はハクチョウの古名です。和名抄にはすでに「白鳥の異名。」と記されているように。鵠(くぐい)はコウノトリではありません。ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないため、クラッタリングと呼ばれるくちばしをたたく行為を行います。

崇神天皇と垂仁天皇の代になって初めて、記紀に日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、このころ全国規模(九州から東日本)の政権になったのではと考える説もあります。また、大漢国(丹波国・越・近江)中心の話が集中的に記されています。

垂仁天皇は、『古事記』では153歳、『日本書紀』では140歳、『大日本史』では139歳で崩御と記されています。これは「春秋年」といい、古代の日本には6ヶ月をもって1年とし、1年を2歳とする数え方があったとするもので、当時の年数は実際は2で割ると、それぞれの年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になるとする説です。

また、記紀が編纂されたのが712年・720年と垂仁天皇在位と数百年ものちのことであり、風土記などの多様な伝承を集めているので、整合性がとれない矛盾点が多くあるのは承知で、天皇は神であり人間の寿命とはかけ離れた絶大な存在であるとしたのか、日本という統一国家がまだ成立していな時代であり、複数の王統を一息に神武・崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后に集合したのか、苦心があります。また、この崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后の代に丹波・但馬の記述が集中していることから、この時代に丹波・但馬がヤマト王権に組み入れられたのではないでしょうか。

9代開化天皇の皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと。物部氏の祖・大綜麻杵の女)で次の后はやはり丹波から大県主由碁理の女 丹波竹野媛(たにわのたかのひめ。)で丹波からです。10代崇神天皇は丹波から后を娶ってはいませんが、四道将軍の一人 丹波道主王を派遣して丹波を平定させたということは、一時期、丹波勢力と不仲になっていた丹波を支配下におくことに成功したことを意味したのだろうか。次の垂仁天皇になって、にわかに実に沢山の皇后・后を娶っていることです。先代の10代崇神天皇が、皇后一人、后二人のみで、しかもまったく丹波に姻戚関係が見られないのに、11代垂仁天皇になるとにわかに最初の皇后と二番目の皇后、3人の后と宮人までが丹波(丹後)から同じ丹波道主王の子の姉妹で同じ日に宮廷に入っている、神功皇后は天日槍の後裔とするなど、どう信じていいものか?それだけ丹波(但馬を含む)との関わり方を誇張したかったのだろうか。籠神社から伊勢神宮に遷宮したことへの(祟りを畏れて)謝意だろうか。

『古事記』では、垂仁天皇は即位すると丹波から狭穂姫命を娶り、但馬の天日槍から始まり、本牟智和気が生まれると河内から出雲・因幡・但馬・丹波に向かわせてクグイを捕らえます。

そして、出雲から野見宿禰を見つけて相撲をとらせる。
狭穂彦と狭穂姫命によって暗殺されかかり、狭穂姫命は焼身自殺したのに、いくら愛していた狭穂姫命が進言したからといって、姫の兄弟の丹波道主王から娘をもらう。それだけで政略的なのに、しかも一人でいいものを、5人も一度に娶るなど信じがたい話ですが、それだけ日本海の要衝・丹波・但馬との政略結婚で姻戚関係を強固なものに築き上げたかったということだろうか。

それは何が何でも丹波を朝鮮諸国との要害かつ鉄資源を手中に収めねばならない理由だったのではないだろうか?

日葉酢媛が丹後与謝宮(籠神社)から伊勢神宮に移す。
それは出雲神祇の力を丹波・但馬から遠ざけたかったのではないだろうか?

出雲神社を建てて、祭神をスサノヲから大国主に替えて国作りを大国主に、出石神社に大和から長尾市を派遣して、祭神を天日槍に代えて?、但馬を切り開いたのは天日槍であるとすり替えているからだ。

その後19年後には山背(山城)から国造であろう大国不遅から二人の娘をもらうという記載は、丹波はそのころ支配下として安定したので、次は丹波と大和を結ぶ山城を臣下に置くねらいとも読める。
それは、こう考えられる。

丹波はようやく制圧できたが、但馬の王はなかなか言うことを聞かない。田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせるが、ようやく田道間守が帰ってきたときには天皇はすでに崩御された後だった。手に入れたら許してやろうと思っていたのに。時すでに遅し。だから神様をオオナムチ(大国主)からヒボコ(天日槍)に替えよう。常世国の非時香菓、それは新羅征伐に向かっていたことを表しているのか?大和傘下にしたことを意味するのでは。

[註]

[*4]太占(ふとまに)…事記や日本書紀に吉凶を占う占法として登場する神道の秘法で、ト骨(ぼっこつ)と呼ばれるものの中でも鹿の骨が多く、鹿ト(かぼく)と呼ばれ、多く使用されている。鹿の肩甲骨を焼き、串で刺したうえ、オキにかざしその亀裂の大きさや方向を持って吉凶を判断する。
[*5]…曙立王(あけたつのおう)は、『古事記』に登場する皇族。大俣王の子で、菟上王と兄弟。開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。三重県多気郡多気町の式内社・佐那神社は天手力男神と曙立王を祀る。

『古事記』によると、唖の誉津別命が出雲国に赴くさい、そのお供をするべき人物として占いに当たったので、曙立王がウケイをすると、一度死んだサギが蘇り、また一度枯れた樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に大和師木登美豊朝倉曙立王という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという。

一説に曙立王が唖の皇子の伝承と関係を持っているのは、伊勢の佐那造がこれを語り伝えたためであるとされる。伊勢の佐那(三重県多気郡)近辺は古来より水銀の産地として知られるが、尾畑喜一郎氏は佐那造が古代の水銀採掘に携わった人々であるとし、気化した水銀を長時間呼吸することによって喉の病を患い、その職業病が誉津別命と曙立王の伝承を結びつけたとしている。

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出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

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日本海に多い気多という地名と気多神社

拙者が生まれた町は古くは気多(ケタ)郡といわれていた。明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含郡・気多郡の区域をもって、改めて城崎郡が発足。(2町24村)。平成17年(2005年)4月1日
城崎町・竹野町・日高町が豊岡市・出石郡出石町・但東町と合併し、改めて豊岡市が発足、郡より離脱。香住町が美方郡村岡町・美方町と合併して美方郡香美町が発足。同日城崎郡消滅。以上によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがあった。

1.気多という地名

「気多」という郡名、郷名は、日本海に意外に多く、鳥取県(因幡国)気多郡(現鳥取市青谷町・鹿野町)、兵庫県(但馬国)気多郡(現豊岡市日高町)、京都府(丹後国)加佐郡に気多保(現舞鶴市喜多?)、石川県羽咋市能登国一宮気多大社(羽咋市寺家町・延喜式は名神大)、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となり、現在は鳥取市。伝説で有名な因幡の白兎は、この気多郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。

気多大社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんある。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。崇神天皇のときに社殿が造営された。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っている。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出てくる。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記している。

2.気多大社と気多苗裔神びょうえいしん

 

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
能登国気多大神宮式内社(名神大社)気多大社大己貴命石川県羽咋市寺家町能登国一宮

六国史や『延喜式』神名帳には、次に示すような気多神の苗裔神(御子神)や分祠が日本海沿いの各地に確認される。(ウィキペディア)

櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』気多神は、越中国府に分祀された。越中国一宮気多神社である。さらに越後国が分離されると、国衙の置かれた直江津の五智に気多の神が分祀され、越後国一宮居多神社が創建された。後になって越後の一宮は、弥彦神社となった。同様に国内最後に立国された加賀国には、江沼郡(小松市額見町)に気多神が分祀され、気多御子神社が創設される。また気多神は飛騨国にも足跡を残した。古川盆地に鎮座する気多若宮神社である。この他に但馬国円山川の中流域を支配する気多郡にも、気多神社は鎮座する。

気多苗裔神の一覧

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
飛騨国吉城郡気多若宮神気多若宮神社大己貴命

御井神

岐阜県飛騨市古川町上気多国史見在社
加賀国江沼郡気多御子神社式内社気多御子神社天照皇大神 大己貴命 菊理媛神石川県小松市額見町
越中国射水郡気多神社式内社(名神大社)気多神社大己貴命
奴奈加波比売命
富山県高岡市伏木一ノ宮越中国一宮
越後国頸城郡居多こた神社式内社居多神社大己貴命
奴奈川姫命
建御名方命
事代主命
新潟県上越市五智越後国一宮
但馬国気多郡惣社気多大明神式内社気多神社[*1]大己貴命兵庫県豊岡市日高町上郷但馬国総社

*1 『国司文書 但馬故事記』には、人皇一代神武天皇九年冬十月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を以って佐々前県主と為す。佐久田彦命は国作大己貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称し祀る(佐々前県はのち気立県となり、さらに気多県)。また。「人皇八代孝元天皇三十二年の条に、当県の西北に気吹戸主命の釜在り。常に物気を噴く。ゆえにその地を名づけて、気立原と云う。その釜は神鍋山なり。よって佐々前県を改めて気立県と云う。」

気多神社は最初は気立神社と云う。気立県は、のちに気多県と字を変え、気多郡と改制される。

これからみると、能登国一宮の気多大社と豊岡市日高町の総社気多神社の関係性以前に、気多は、神鍋山に由来する県名としてすでに存在していたので、気多大社から気多郡になったのではなさそうである。

その神鍋山であるが、すでに何万年も前に死火山となっており、「常に物気を噴く」とは解せない。神が宿っているとされる山を神名備というが、物気とは「もののけ」で、噴火口の痕を見た人々が、「もののけ」が宿っていそうな神名備としたのが、神鍋に訛ったのだろうと筆者は考えている。

気多神社の社伝では、

『播磨国風土記』宍禾郡御方里条では、葦原志許乎命(大己貴命)と天日槍命が黒葛を投げて国占を争ったという伝説が記され、葦原志許乎命の投げた黒葛3本のうち1本は但馬気多郡に落ちたと伝えることから、郡名を冠する当社は早くより鎮座したものと推測される。また社名から、能登国一宮の気多大社(石川県羽咋市)を始め各地の気多神社との関連が指摘される。

同じく『国司文書 但馬故事記』に、「人皇二八代宣化天皇三年夏六月、能登臣気多命を以って、多遅麻国造と為す。能登臣命は、その祖・(垂仁天皇の皇子)大入杵命を気多神社に合わせ祀る。」

多遅麻国造に能登臣の子孫らしき人物が任命されることに不思議に思っていた。能登国造は、成務天皇の御代に垂仁天皇の皇子大入来命(大入杵命)の孫彦狭島命が任じられ、後裔は能登臣である。能登国一宮・気多大社と気多神社の関係性があるとすれば、能登国造ゆかりの能登臣の子孫が多遅麻国造に赴任したのはそうした経緯と思わなくもない。

 

 

気多神社と潟湖

気多という地名・神社の所在地を地図上に確認すると、かつては潟湖であった寄港地に鎮座していることがわかった。ネットでそのことを書いていたことから、櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』という作品をいただいた。

能登と丹波

能登半島が丹後半島との関係を深めたのは、ヤマト大王系譜からみるとタケル(日本武尊)の祖・垂仁天皇を仲立ちとしている。今日の天皇系譜につながる大王(天皇)は、六世紀前半の継体天皇からではないかと考えられている。この継体大王は越前三国湊で育ち、母の振姫は羽咋君に連なっている。

丹波と能登は、共に対馬海流が海岸を洗う日本海に突き出た半島国であった。そして能登半島・羽咋はくいは、丹後半島・竹野たかのと同様に「潟湖」が発達した日本海の良港であった。両半島の付け根に位置した潟湖は、弥生時代から水田が開かれていた。今では干拓が進んで一面の水田となり、潟湖の面影はない。潟湖とは、砂州で出口を狭められて出来た汽水湖である。

この両地域の潟湖には、日本海地域王権を象徴する盟主古墳が築かれている。丹後半島の西の付け根の竹野潟を見下ろす丘に、日本海側最大の前方後円墳、神明山古墳が築かれた。神明山古墳は、全長210m、三段築成葺石で覆われ、象形埴輪が伴っている[*2]。古墳の麓には、代々櫻井氏が奉る丹後竹野神社が鎮座する。一方、能登半島の気多大社の背後には、滝大塚山古墳が築かれた。直径90mの帆立貝形古墳で、やはり葺石で墳丘が覆われ、邑知潟おろちがたを見下ろす眉丈丘陵に築造された。埴輪を伴う帆立貝形古墳としては、日本海側最大級のものであった。

両方の古墳は、ヤマトに「イリヒコ」王権が成立した四世紀末から五世紀初頭に築造され、潟湖を見下ろす地域盟主の古墳である。丹後半島の神明山古墳から出土した象形埴輪には、船首が上がるゴンドラと、かいを持つ人物がヘラ描きされており、埋葬者と海との関わりが深いことを物語っていた。森浩一氏によれば、越のヨオド王(継体大王)は、帆船をトレードマークに使用したと言われる。

*2 日本海側最大の前方後円墳は、網野銚子山古墳(墳丘長201m)で、神明山古墳はこれに次ぐ墳丘長190m。

 

気多神社


平成20年(2008)12月31日建立
新しい鳥居が建てられていました。

気多(氣多)神社[ケタ]

兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
式内社 但馬國総社[*1] 郷社 気多大明神
御祭神 「大己貴命」 境内社には、八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社等が祭られている。

「国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。
国道482号線を出石方面に鶴岡橋を渡るとすぐ、但馬国府が置かれた推定地の対岸にあります。かつては、円山川(蓼川)の畔に船着き場がありそこから参道がつながっていたのでしょうが、円山川堤防の上を通る国道482号線のすぐ下にある道に挟まれています。国道からは神社に通じる広い道がなく、鳥居が道路のすぐ下なのですが神社に行く経路は、に鶴岡橋を渡ると上郷の村に入る市道に降りてから左折し畑の農道で行けることを発見するまで、ずいぶんかかりました。かつては但馬総社の立派なお宮で川が交通路だった時との移り変わりが気の毒なようです。

御由来:創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命(あしはらのしこをのみこと))と天日槍命と国占の争ありし時、命の黒葛此地に落ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し、中世以降総社 気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有したりき 明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。
大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。

現在の社殿は延宝五年(1677)の再建であり、大正十二年に大修理を行い現在に至っている。現存する鰐口(わにぐち)は応永三二年(1425)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多神社と社名を改め、明治五年郷社に列せられた。

惣社気多神社がある現在の豊岡市日高町上郷地区に関係があるのは間違いないが、口伝によると、気多神社は古くからここに鎮座していたのではなく、移転してきたものだというが、元の場所はといえば分明していない。

 「日高町史-気多郡に隣接する養父神社や出石神社には、神戸が伏していた。一定数の封戸が割り当てられ、その戸が納める租税がその神社の収入となっている。気多郡の中心的な神社は、その名前からして気多神社が中心的な地位を持つ神社だったろうが、神戸は寄せられていない。

---それらの神社は但馬の平野部の、どちらかといえば盆地性の比較的まとまった地域の中に存在していて、その土地の有力豪族から祭祀を受けていたものだった。この意味で、気多神社を奉じたと思われる気多氏の勢力は、養父神社や出石神社を奉ずる祭祀集団に及ばなかったものであろう。だから気多神社には、但馬国府の膝元に存在し、全但馬の中心的な場所を占めていた(惣社)にも関わらず、神戸の施入がなかったのである。」

太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命」と称させていた。
新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)
総社(惣社)とは
各所の神社に奉斎する祭神を、一箇所に勧請し合祭した神社の称。惣社とも書く。一般には一国の総社を指していうが、一郡・一郷の総社、寺院の総社、私人宅の総社などの例もある。各国総社の起源については諸説があるが、平安中期から末期にあると推定され、国司が関与した管内諸社の神霊を、国府に近い便宜の場所に勧請し、奉幣・参詣の簡便をはかったものといわれている。『白山之記』によれば、加賀国司の使が毎月朔日に一ノ宮白山社・二ノ宮菅生石部社など国内八社を巡拝していたが、その煩らいを廃するため、国衙に接する一所に合祀し、府南総社と名づけたとある。なお武蔵国総社大国魂神社祠官・猿渡容盛(明治十七年七十四歳歿)の『諸国総社誌料』は、未定稿ではあるが国別に資料を揚げ考証を加えている。 -『神道辞典』-

注連縄(しめなわ)


出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。
しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社


奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)


【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼
延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。
たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は神道に変わり聖徳太子は蘇我氏と仏教によって国をまとめようとしてのです。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28

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