『記紀』には、有名な「イザナギとイザナミ」「スサノオ」「ヤマタノオロチ」「国造り」「国譲り」「因幡の白うさぎ」など、出雲神話が多く占めています。
スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する一柱の神です。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記されています。
2.日本神話のスサノオ
『古事記』では三貴子の末子に当たります。また、日本においてはインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚尊(以下スサノオ)と習合し同一視されることもあります。しかしながら、スサノオの与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらすおおみかみ)、月を神格化した月夜見尊(つくよみのにこと)とは少々異なっており、議論の的となっています。
『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国(よみのくに)から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊(みそぎ)を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。
天照大神は高天原を、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノオには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこでスサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、スサノオは疑いを解くために誓約を行う。誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。
3.スサノオの神社 |
■スサノオ系図 伊邪那美命〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓伊邪那岐命●両神で (いざなみのみこと) ┃ (いざなきのみこと)伊弉諾神宮 ┃ [三貴神] ┃ 多賀神社/白山比咩神社 ┃ ┏━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┓ 綿津見大神 大山津見神 須佐之男命 月読命 天照大御神 (わたつみのおおかみ)(おおやまつみのかみ)(すさのおのみこと)(つくよみのみこと)(あまてらすおおみかみ) 海を支配 月の神、夜を支配 日の神、高天原を支配 ●須佐神社/八重垣神社 ●伊勢神宮(皇大神宮) 氷川神社/八坂神社/日御碕神社など ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 須佐之男命=誓約=天照大御神 ┗━宗像三神(田心姫神・湍津姫神・市杵島姫命)●宗像神社/厳島神社 別名:多紀理毘売命・多岐都比売命・狭依毘売 足名椎=手名椎 『古事記』 須佐之男命===┳==櫛名田比売(クシナダヒメ) ┃ 八島士奴美神 大山津見神 ┃ ===┳==神大市比売命┫ ┣大歳神 ┃ ┗宇迦之御魂神 ┃ ┃ 木花知流比売命===┳=八島士奴美神 ┃ 布波母遅久須奴神==日河比売命 ┃ 深淵之水夜礼花神 大国主命(記)=┳=八上比売命(因幡国) ┃ 木股神 ===沼河比売命(高志国) =┳=多紀理毘売命 ┗━アヂスキタカヒコネ(賀茂大神)・タカヒメ(シタテルヒメ) =┳=カムヤタテヒメ ┗━事代主命●美保神社 =┳=鳥取比売(トトリヒメ) ┗━トリナルミ 『日本書紀』 須佐之男命 [紀三神]●伊太祁曽神社 ┣大屋津姫命(オオヤツヒメ)三神●大屋津媛神社 ┣五十猛神(紀) ┗抓津姫命(ツマツヒメ)(紀) ┣━ ━天之冬衣命━ = 須勢理毘売命(記) ┃ 大己貴命┃●三島神社/長田神社 大物主命 ┃ ┗━大己貴命(紀) ●出雲大社/大神神社/氷川神社 日吉神社/気多大社/伊和神社 大洗磯前神社/低鹿神社 等 [伝承] 大国主命=┳=沼河比売命(高志国) ┗建御名方命●諏訪神社 雲国一の宮熊野大社 熊野大神櫛御気野命の御神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名である。 須佐神社(すさじんじゃ) 通称 須佐大宮 御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)稲田比売命(いなたひめのみこと)、足摩槌命(あしなづちのみこと)、手摩槌命(てなづちのみこと) 須我神社(すがじんじゃ) 通称 日本初宮(にほんはつのみや) 簸の川上に於いて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮った。 天照大神の弟神。簸の川上にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、 日御碕神社(ひのみさきじんじゃ) 神の宮(かみのみや) 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 出雲の国造りをなされた素盞嗚尊は、根の国にわたり熊成の峰に登ると「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられ、柏の葉を投げ、占いをされた。すると柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後の「隠ヶ丘」に止った。これにより素盞嗚尊の五世の孫、天葺根命(あめのふきねのみこと)はここを素盞嗚尊の神魂の鎮まる処として斎き祀ったといわれています。日御碕神社の神紋、三ツ柏もこれに由来し、神域の付近からは柏の葉を印した「神紋石(ごもんせき)」と称される化石も出土しています。 3.イザナギとイザナミ世界の最初に高天原[*1]で、別天津神・神世七代という神々が生まれた。 これにおののいたイザナギは逃げた。イザナギは、黄泉のケガレを嫌って、禊をした。この時も、様々な神々が生まれた。左目を洗った時に生まれた神がアマテラス(日の神、高天原を支配)[*3]・右目を洗った時にツクヨミ(月の神、夜を支配)[*4]・鼻を洗った時にスサノオ(海原を支配)が成り、この三柱の神は三貴子(みはしらのうずのみこ)[*5]と呼ばれ、イザナギによって世界の支配を命じられた。 4.アマテラスとスサノオスサノオ[*6]は、イザナミのいる根の国へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。そして、アマテラスの治める高天原へと登っていく。アマテラスは、スサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えて、スサノオを迎えた。スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、各の身につけている物などで子(神)を産みその性別によりスサノオは身の潔白を証明した。これによりアマテラスはスサノオを許したが、スサノオが高天原で乱暴を働いたため、アマテラスは、天岩戸に隠れた。日の神であるアマテラスが隠れてしまったために、太陽が出なくなってしまい、神々は困った。そこで、計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノオは、下界(葦原中国)に追放された。 5.ヤマタノオロチスサノオは、出雲の国の肥河(斐伊川)の上流の鳥髪(とりかみ、現奥出雲町鳥上)に降り立った。川上から箸が流れてきたので、川上に人がいると思って川を上ってみると老夫婦が泣いていた。その夫婦はオオヤマツミの子のアシナヅチとテナヅチであった。夫婦には8人の娘がいたが、毎年古志[*7]からヤマタノオロチ[*8]がやって来て娘を食べてしまった。今年もオロチのやって来る時期が近付き、このままでは最後に残った末娘のクシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)も食べられてしまうので、泣いているのであった。スサノオは、クシナダヒメを妻として貰い受けることを条件に、ヤマタノオロチ退治を請け負った。 オロチは8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。オロチが酔ってその場で寝てしまうと、スサノオは十拳剣(とつかのつるぎ)[*9]を抜いてオロチを切り刻んだ。尾を切り刻んだとき、剣の刃が欠けた。剣で尾を裂いてみると大刀が出てきた。これは不思議なものだと思い、アマテラス(天照大神)にこの大刀を献上した。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]のちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。 スサノオは、八岐大蛇に食われることになっていた国津神の娘クシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)を助け妻とする。宮殿を作る地を探して出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。そこで 「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」[*11]と詠んだ。その地で大国主命(『日本書紀』では大已貴神(おおあなむちのかみ)、『古事記』では大国主命はスサノオの6代後の子孫としている)などを産ませ、その後、根の国へ向かったと言う。 『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った。八岐大蛇を退治した。そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(から、朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。 アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も大国主の為の宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。この宮殿は後の出雲大社である。 6.ヤマタノオロチの解明オロチ[*8]は水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表しているとみられています。すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたことは、治水を表しているとする。また大蛇が毎年娘をさらって行ったということは、神に対して一人の処女が生贄としてささげられていたということであり、その野蛮な風習を廃しえたことも表しています。あるいはこの当時、出雲国は実際に越国(高志・北陸地方)[*7]との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話において「越の八口」を平定したと記されており、これがこの神話の原型ではないかという説もある。高志=越とみる向きには、福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]は、出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされています。してみると天叢雲剣は鉄製であり、十拳剣(とつかのつるぎ)が天叢雲剣に当たって欠けたということは、対する十拳剣は青銅製であったことを類推させる。十束剣は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されます。 様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされます。当時としては最先端の技術であった製鉄、またはその結晶である鉄剣を「アマテラスに献上した」というのは、その頃の出雲と大和の関係を推し量る上で興味深いエピソードであると言える。 また、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表しているとする説もある。また、たたら吹きには大量の木炭を必要とするため、川の上流の木が伐採しつくされた結果洪水が起きたことを象徴しているともされます。 古志が越国(北陸地方)であるとする説は、この当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、越国を平定しています。 『出雲風土記』の大原郡神原郷に、「神原郷 郡家正北九里。古老傳云「所造天下大神之 御財 積置給 處」。則、可レ謂「神財郷」。而、今人 猶 誤 云「神原郷」耳」とあります。 これを、「神原の郷は、郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下 造らしし大神(スサノオ)の御財を積置き給いし処なり。即ち神財郷(かむたからのさと)と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷(かむはらのさと)と云う」と。本来は神財郷(かむたからのさと)と呼んでいたことになります。 長男・八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めた(須我神社・雲南市大東町須賀)とみられ、近くの加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)や荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町)から出土した紀元前2世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣・銅矛は、まさにスサノオ祭祀の遺物とも考えられます。荒神谷遺跡の小字名は神庭(カンバ)。荒神谷とは荒ぶる神、すなわちスサノオのことで、字神庭というのもスサノオを祭祀する場所をさしているものではないでしょうか。 天平五(733)年に撰録された出雲風土記は、すでに荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになります。 [註]
2.高句麗(こうくり)と「越」高句麗(こうくり、紀元前37年頃 – 668年)は扶余系民族による国家であり、最盛期は中国大陸東北部(満州南部)から朝鮮半島の大部分を領土としていました。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。唐と新羅の連合軍により滅ぼされました。『三国史記』高句麗本紀・始祖東明王紀には、高句麗の王族の姓を「高」(こう/コ)としています。「高志」と書いたのもつながりが読みとれます。後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられます。起源は中国の古墳壁画に求められますが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されています。百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する高句麗の日本語での古名は「こま」です。 『記紀』には、「越」の中心地である能登半島に、「高句麗国」の使節が、いつも到着するところであったとも記しています。この頃の「高句麗国」は、建国後約70年経過しており、国力も充分で時の勢いもありました。「高句麗」は、「こうくり」と発音されますが、実際には、「コーリ」であり、「やっぱり」が、「やっぱし」になるように、「り」は、簡単に「し」と音韻変化することから、ヤマタノオロチの「オロチ」とは「高句麗」の人・高句麗族のことをさすという説もあります。 もともと、スサノオ族は、牛頭山を聖山として、「高木の神」を崇めていた「伽耶」の製鉄集団の支配階級でした。これに関しては、後述しますが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族の勢力に押され、日本列島に亡命して来たのですが、高句麗族は、既に、日本列島まで達していたのです。 しかも、すでに「越」から「出雲」に至る地方を支配していたのです。 つまり、「越」(新潟県)からきた高句麗族が、「出雲」の斐伊川の水利のよい平野で、稲作に従事していた人々から、毎年、収穫されたばかりの稲を、奪っていく暴挙が、七年もの間続いていたと言うのです。 朴氏は、稲作に従事していた人々を「伽耶」の人であると述べていますが、もしそうであれば、スサノオ族とほとんど同じ時期に朝鮮半島から来た渡来者の別集団であるとも考えられます。 スサノオ族は、南下する高句麗族の迫害から逃れるための日本列島への亡命であったでしょうが、出雲地方にも同民族が、同じ理由で亡命していたと考えることもできます。スサノオの「出雲」進出も、鉄資源の確保とともに増加する「統一奴国」の人口に対応するため、肥沃な耕作地帯を開拓する目的があったと思われます。結局は、戦争をしかけていったのでしょう。 毎年、「越」の高句麗族に悩まされ、支配され続けてきた、「出雲」の人々にとってみれば、「物部」の大軍を率いて九州北部からやってきた若きスサノオの姿に、怖れを抱きながらも、ついには、高句麗族追放のためにともに戦う決心をしたのではないでしょうか。 「出雲」の人々は、航海術に長け「統一奴国」を成し遂げたスサノオの敵にまわることはせず、スサノオと「出雲」は、同化されていったのではないでしょうか。ここで、両者は取引に応じました。スサノオに「出雲」の統治権を約束する代わりに、高句麗族を討つことです。取引に応じたスサノオは、その年の秋、何も知らない高志の高句麗族を迎え撃ち、西出雲を支配下に治めたのです。それがヤマタノオロチ退治で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)こと天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、高句麗族からの戦利品ではないでしょうか。 スサノオの讃え名は「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと) と言い、現在は、島根県八雲村の「熊野神社」に祀られています。「出雲」の神と言えば、出雲大社の「大国主命」(おおくにぬしのみこと、以下、オオクニヌシ)を連想しますが、「出雲国」で、もっとも尊い神と言えば、「大穴持命」(おおなむちのみこと、以下、オオナムチ)と「熊野加武呂乃命」(くまのかむろぎのみこと)なのです。 |