銅鐸はなぜ消えたのか
[/wc_box]砕かれた銅鐸見つかる!
久田谷銅鐸片 豊岡市立歴史博物館(但馬国府・国分寺館)蔵(許可を得て拙者撮影)
久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5~10センチ前後に砕かれ、復元が困難であるため高さ、幅、重量については明確にすることは困難である。しかし、銅鐸の破片が117片あり、これらの割口は古く、工事中に壊されたものではなく、壊された状態で廃棄、あるいは埋められた。弥生時代末期。遺跡の確認調査で出土した土器は、弥生後期から古墳時代であり、工事中に出土した土器は、弥生前期から古墳時代前期に至ることがわかった。また、銅鐸片の出土が発掘調査により、遺構内から出土したものではない。
-『日高町史』資料編-
兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町大中500)で銅鐸の破壊実験があるというのでめったにない機会に行って来た。兵庫県立考古博物館 館長 石野博信先生らが4つのパターンで金属工場が製作したレプリカ銅鐸を破壊する。
Ⅰ:カケヤで叩く
Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
以下パターンⅢを繰り返す
いろいろ試した結果、ついに割れました。しかし、今の知識をもってしても久田谷銅鐸のようにきれいに細かくは砕けないことが分かった。
大己貴神おおなむちは素盞鳴尊すさのおおのみことの子であるあるとも、数代後の子孫であるとも、また娘婿であるともされており、系譜は不明瞭である。また、別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など複数の別名がある。
天火明命あめのほあかりのみことは大巳貴命おおなむちの子とされる。大巳貴命は大穴牟遅とも書くように、製鉄・青銅器に関わる。その原料の砂鉄のある山を鉄穴山かなやま、働く人々を鉄穴師かなし、穴師という。
『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、“「銅鐸」と「豊葦原」の謎を解く”で、
かつて和辻哲郎は、九州を銅剣・銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼び、弥生時代はこの2つ文化圏が対立してきたように思われてきた。(中略)その後、奈良の唐古・鍵遺跡から銅鐸・銅剣・銅戈の鋳型が同時発掘され、「銅矛圏が銅鐸圏を滅ぼした」や「殺し尽くした」なる推定が「誤り」であることを裏付けた。
荒神谷遺跡 6個の銅鐸と16本の銅矛が同時に発見された場所に複製品が再現展示されている。実物は出雲大社の東横手にある島根県立古代出雲歴史博物館に展示保存されている(拙者撮影)
(中略)昭和60年、島根県の荒神谷遺跡で6個の銅鐸と16本の銅矛が同時に発見された。長野県中野市柳沢遺跡からは、紀元前2世紀頃の銅鐸4個分の破片と7点の銅戈が刃先を千曲川に向けて埋納されていた。
この考古事実は、近畿を中心とする銅鐸文化圏と北部九州を中心とする銅剣
・銅戈文化圏なる見方を否定した。両者が「相容れざる祭祀圏」なら、同時埋納はあり得ないからだ。
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